三、月山神社大物忌神社を飽海郡吹浦に建てたる理由

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    三 月山神社大物忌神社を飽海郡吹浦に建つ

 平形國府は寶龜六年(一四三五)河北に移つた、其位置は飽海郡上田村中吉田字井口である。依て平形に國府の在つた期間は六十三年である。國分寺も間も無く河北に移され、藤嶋川上の祭場も河北に別に設置されたのであらうが明かでない。國府の河北移轉後約三十年を經て井口に永久的の國府廳舍を建て、秋田城を移して秋田郡府としたのは延暦二十三年であって。[#「。」は「、」か]此頃には蝦夷は秋田の北端に至るまで平定した。隨つて出羽國の民治の見るべきものあるは之れからであつて、神佛に關する記事の見へたのも延暦以降である。佛教では天長七年(一四九〇)一月秋田四天王寺地震の爲め大破したのが初見であり。[#「。」は「、」か]神道では承和五年(一四九八)六月大物忌神が正五位下を授けられたのが初見で、月山神は之より二十六年後の貞觀六年(一五二四)二月從三位を授けられたのが初見である。其後は神佛に關する記事が多く見へた。國分寺は城輪の出羽柵跡に遷され圓柱古瓦を出してゐる所は其跡である。其東方一里の一條村八幡神社は其祭禮日記を見るに總社のやうな行事を行つてゐる。同八幡社の末社に六所神社ありて神代六神を祭神としてゐる。
 左に陸奧出羽二國の山嶽神の授位を掲く、
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承和五年六月丁卯奉[#レ]授[#二]出羽國從五位上勳五等大物忌神正五位下[#一]餘如[#レ]故 (續日本後紀)
同 七年七月巳亥奉[#レ]授[#二]出羽國飽海郡正五位下勳五等大物忌神從四位下[#一]餘如[#レ]故兼宛[#二]神封二戸[#一] (同上)
同 十一年八月丁酉奉授陸奧國無位勳九等刈田嶺神無位鼻節神並從五位下縁[#レ]有靈驗也 (同上)
嘉祥元年五月辛未奉[#レ]授[#二]陸奧國從五位下勳九等刈田嶺名神正五位下[#一]餘如[#レ]故 (同上)
貞觀四年十一月乙丑奏詔以[#二]出羽國正四位上勳五等大物忌神[#一]預[#二]之官社[#一] (三代實録)
同 六年二月五日壬戌授[#二]出羽國正四位上勳六等月山神從三位 正四位下勳五等大物忌神正四位上[#一] (同上)
同  年十一月五日壬子授[#二]出羽國正四位上勳五等大物忌神從三位[#一] (同上)
同 十三年五月十六日辛酉先[#レ]是出羽國司言從三位勳五等大物忌神社在[#二]飽海郡山上[#一]巖石壁立人跡稀致夏冬戴雪禿無草木去四月八日山上有火燒土石又有聲如雷自山所出之河泥水溢其色青黒臭氣充滿人不堪聞 (下略)(同上)
同 十五年四月五日巳卯授[#二]出羽國從三位勳五等大物忌神正三位[#一] (同上)
同 十八年八月二日丙午授[#二]出羽國從三位勳六等月山神正三位[#一] (同上)
元慶二年七月十日癸卯出羽國正三位勳五等大物忌神正三位勳六等月山神並益封各二戸與[#レ]本并各四戸毎[#レ]發[#二]軍使[#一]國司祈祷故有[#二]此加増[#一]也 (同上)
元慶二年八月四日丁卯 是日彼國正三位勳五等大物忌神進勳三等正三位勳六等月山神四等從五位下勳九等小物忌神七等
同 四年二月廿七日辛亥出羽國正三位勳四等月山神正三位勳三等大物忌神並授從二位從五位下勳七等小物忌神城輪神並從五位上
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 以上は記紀四十三年間に於ける山嶽神の位階陛進にして、最初の承和五年六月には從五位上勳五等大物忌神を正五位下に陛せ餘は故の如しとあるを見るに、大物忌神は之より先きに授位あつたのであるが、記紀に漏れたものである。次に餘如故は大物忌神以外の山嶽其の他の神は位階元の如くであるといふ義にして、其他の神々も前に位階を授けられたが、記録に漏れた。其他の神々は何んであるかといふに、月山神は其一である。元慶二年七月大物忌神・月山神に二戸の神領を寄進し、前の二戸と合せて四戸となつた。大物忌神の始めて二戸を寄進されたのは承和七年七月にして、月山神の初封は記紀に漏れた。四戸とは百姓四戸と田であるが、大寶令によれば一戸の課田は其家族の數と老幼によりて差あれば、四戸の神領の高は明かで無い。然るに天平十九年五月の太政官奏によれば、一戸は正丁五六人中男一人を以て率と爲し男一人は二段、中男は其半分位であるらしい。仁和元年には正丁四段、中男二段とあり、之によれば一戸の班田は二町半位であつて四戸の神領は約十町位で神領は不輸租である。神戸《かんべ》は年貢を納むる外に社殿の修造其他の雜事に封丁を出した。次に元慶四年二月從五位下勳七等小物忌神・同城輪神を從五位に陛せたのを見るに之より前に授位あつたのである。此地方の夷征は最初に越後より田川郡に行はれたのであれば、月山神は最も早く授位あつたことゝ思ふ。或は國府が田川郡平形に置いた後に數次の授位あつたかも知れぬ。次に月山神の始めて記紀に見えたのは貞觀六年であつて、正四位上勳六等月山神を從三位に、正四位下勳五等大物忌神を正四位上に陛せた。此時には月山神は大物忌神より一級の上位であつた。之れは夷征が南方より行はれて最初に月山神の授位あつた證據であつて、大物忌神の授位は月山神より後ちであることは當然であらう。然るに大物忌神は飽海郡の北邊に聳へ且つ時々噴火鳴動する。この噴火鳴動は山の神が世の變亂を豫め知りて憤りを發するものであると國人は信じた。恰かも蝦夷は北方に於て屡々叛亂を爲すので、國守は屡々大物忌神に祭祀を行つて夷亂の鎭靜を祈願し、又位階の陛進を朝廷に奏請したことは記紀に見える。月山は噴火してゐないが始めて王師が田川郡の平野に進撃した時には、屡々蝦夷平定の祈願を爲して奇驗あつたことは、三代實録元慶二年八月四日の條に明かである。其原文は後に抄録する。依て月山神は出羽國夷征の始めより尊崇授位されたものであるが、記紀に漏れて記事が無いのであらう。
 國府は南より北に移つたのが、其舊新國府の距離は五里以内であつて、國府を挾んで南に月ノ山、北に大物忌の山聳え、月の山は平和の神であり大物忌神は荒らぶる神で、殊に大物忌神は蝦夷地の方向にあれば漸次位階の昇つた所以である。延喜式に出羽國九社の中大物忌神社と月山神社を大社とした理由も自ら分明するであらう。
 元慶仁和の頃に至りて月山神を飽海郡に移した。之れは三代實録並に延喜式に記載されてあるので明かである。其事實は後に述ぶることゝして、先づ何故に何時頃田川郡月山神を飽海郡に移したかを檢討するに、記紀には田川郡月山神とは無くして單に出羽國月山神とあるばかりであるが、月山は田川郡であることは疑ふ餘地の無いことである。元慶二年の秋田蝦夷の叛亂は陸奧出羽に於ける最後の大反亂にして、同年三月秋田城郡衙民家等悉く燒き拂はれ、城司以下は御物川を渡りて辛うじて遁れた。是に於て陸奧出羽の兵を發して討伐せんとしたるも賊勢盛んにして當ることできない。朝廷では小野春風を陸奧鎭守將軍に任して赴援せしめたが、官軍畏懦逃亡した。この報朝廷に達したれば六月二十八日詔して大元帥法阿闍梨傳燈大法師位寵壽を出羽國に遣はし、七僧を率ひて降賊法を修せしめた。この降賊法は保護國家の大修法であつて、國分寺か或は吹浦兩所神宮寺にて盛大に行つたであらう。次に七月十日正三位勳五等大物忌神・正三位勳六等月山神に各封二戸を増加し、各四戸となつたことは前に述べた。そこで大物忌神・月山神は同國内の諸神中の大神であつて、同年三月來の大夷亂には國守は二神に降賊の祈願を屡々行ひ、軍使を發する毎に國司祈祷を行ふが故に此の加増あつたのである。八月四日正三位勳五等大物忌神を勳三等、正二位勳六等月山神を勳四等、從五位下勳九等小物忌神を勳七等に進め、大物忌神月山神は古より征戰に方り奇驗を表はした。
 (三代實録)
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元慶二年八月四日 (中略) 是日彼國正三位勳五等大物忌神進勳三等 正二位勳六等月山神四等 從五位下勳九等小物忌神七等 先是右中辨兼權守藤原朝臣保則奏言此二神自[#二]上古時[#一]方有[#二]征戰[#一]標[#二]奇驗[#一] 去五月賊徒襲來挑[#二]戰官軍[#一] 當[#二]此之時[#一]雲霧晦合對坐不[#二]相見[#一] 營中擾亂官軍敗績 求[#二レ]之耆龜[#一]神氣歸[#レ]賊 我祈無[#レ]感 増[#二]其爵級必有靈應[#一] 國宰齋戒祈請慇懃望請加進位階將[#二]答神聖[#一] 仍増[#二]此等級[#一]
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 之によれば月山神は大物忌神と共に出羽國夷征の初めより降賊を祈願したことを知るに足るものであつて、隨つて之迄屡々授位あつたことも推知される。依て元慶二年の大夷亂には特に此二神に降賊を祈願した所以である。然るに月山神は國府の南方に聳へ、大物忌神の北方は即ち秋田の夷亂強盛であれば、月山神社・大物忌神社を飽海郡吹浦に建立して國守の戰勝祈願に便にした、之が兩神の神社を建てた最初であらう。此兩社は大物忌神即ち鳥海山の西麓には相違ないが、鳥海山を背景としたもので無い、兩社は月山の西麓に正しく南向きに建てられ、鳥海山は兩社の東側方に聳へてゐる。之を見るに兩社は秋田夷狄の方向に建てゝ、國守は之に向つて夷狄降伏を祈つたものである。十月に至りて秋田蝦夷は平定し津輕及び渡嶋蝦夷までも來降した。隨つて兩神社の崇敬は益々盛んとなつたであらう。
 斯くの如く吹浦大物忌神社は秋田夷狄の方向に建てられたものであるが、若しも大物忌神即ち鳥海山を祭神として、之に對して建てられたものとせば、恰かも大和の三輪神社の如く樹木繁れる山を祭神とし其前に拜殿を建てたのと同し形式でなければならぬ。之とは全然形式を異にして月山神社と共に秋田の方向に對して建てられたのである。然る時は兩神社には祭神は何を安置したか、又吹浦に神宮寺を建立したのも此頃にして、延喜式に神宮寺科一千束とあれば國守の祈祷所であつて、主として兩神社と共に秋田夷狄の降伏を祈つたらしい。そこで神宮寺には大物忌・月山兩神社の本地佛を安置して之に向つて祈祷を行つたので、大物忌神の本地佛は藥師、月山神の本地佛は阿彌陀である。依て兩神社でも何かを安置して靈代としたであらう。或は佛寺に傚つて神像を安置したかといふに、天然の山が祭神であれば神像あるべき理けが無い。又後世の如く勸請とか分靈とかいふ名稱は無いと思ふが、兩山の神靈を兩神社に遷したもので無いかと思ふ。或は又本地佛を安置したでは無いかの疑も濃厚に存在することである。
 以上は田川郡の月山神社を飽海郡に建てた年代や其理由について私見を述べたのであるが、記紀には仁和元年(一五四五)十一月の條に飽海郡大物忌神月山神田川郡由豆佐乃賣神とあるのが最初である。
 (三代實録)
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仁和元年十一月廿一日辛丑去六月二十一日出羽國秋田城中及飽海郡神宮寺西濱雨石[#二]鏃[#一] 陰陽寮言當有[#二]凶狄陰謀兵亂之事[#一] 神砥官[#「神祇官」か]言 彼國飽海郡大物忌神月山神田川郡由豆佐乃賣神倶成[#二]此怪[#一] 崇在[#二]不敬[#一] 敕令[#下]國宰恭[#二]祀諸神[#一]兼愼警[#上]
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 この時には既に月山神社は飽海郡に建てられてあれば、その建立した時期は之より前元慶二年の大夷亂の時であらう。石鏃は先住民の使用した利器であつて、先住民の住居跡に發見せらる。その住居した所は多く平野又河川に臨んだ丘陵の上であつて、後世神社は多く此地に建てられた。吹浦の大物忌神月山神の社殿のあつた所にも石鏃を出した。兩社の位置は山上でないことは之れを見ても明かである。次に飽海郡神宮寺の西濱にも石鏃を雨ふらしたとあるは、吹浦村の東部の臺地を神宮寺山と唱へ、その西濱とは飽海郡の海濱であつて、石鏃を後世にも多く出した所である。この神宮寺は神佛習合の結果佛教を以て神に奉仕する爲めにできた寺院であつて、吹浦の神宮寺は同地の大物忌神・月山神の佛寺で、之も元慶二年の大夷亂に建てられたらしいことは前にも述べた。此頃に至つては本地垂跡の盛んな時であれば、神宮寺では大物忌神並に月山神の本地佛を安置して、秋田夷亂の鎭定を最初に祈つたであらう。猶出羽國に於ける兩部習合については後編に述ぶ。
 記紀の月山神に關する記事は、前記の三代實録仁和元年(一五四五)十一月を以て最終とする。次に正史に見えたのは延長五年(一五八七)十二月完成した延喜式である。
 (延喜式)
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  神祗  第三
大物忌神社一座  月山神社一座 己上出羽國
  神名帳下
出羽國九社 〈大二座/小七座〉
飽海郡三座 〈大二座/小一座〉
  大物忌神社 〈名神/大〉  小物忌神社  月山神社 〈名神/大〉
田川郡三座 〈並/小〉
  遠賀神社  由豆佐賣神社  伊弖波神社
平鹿郡一座 〈並/小〉
  鹽湯彦神社  波宇志別神社
 山本郡
   副川神社
主税 上
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出羽國正税 廿萬束  公廨 卅四萬束  月山大物忌神祭料 二千束  文殊會料 二千束  四天王修法僧供養并法服料 二千六百八十束  神宮寺料 一千束  五大尊常燈節供料 五千三百束 (以下略)
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 之を見るに、大物忌神社月山神社は飽海郡に在つて、主税式の祭料二千束は兩社を合併してあるのを見るも、同一地に在ることが明瞭である。九社の中兩社は大社二座であつて、他の神社は小社である。大社には神領四戸づつあつて更に祭料二千束とあれば、主として國守の祈願する所で、同一地で且つ國府に近い所にあるを便とした。吹浦兩所宮は井口國府を距る北方二里に在り、次に神宮寺も吹浦に在つて、延喜式に神宮寺料一千束とあれば、兩神社と同じく國守の兩山神に對する祈祷寺である。神宮寺の位置は吹浦東方臺地上で直に大物忌神山の麓で、南方には月山を望み、寺内に本地佛即ち大物忌神の本地佛は藥師、月山神の本地佛は阿彌陀を安置し、この本地佛に祈祷を行つたもので、兩神社とは別に行はれたと思ふ。
 延喜式の諸社は中世亂れて、延喜の制度は廢頽したれば、後世には其所在位置も不明のもの多い。出羽國の神社を見るに、大物忌神社と月山神社だけは明かであるが、其他七社は皆異論がある。