一、我國修驗道及び本地垂跡の起原と出羽國諸神の影響

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   第二編 開山傳説時代

     一 我國修驗道及び本地垂跡の起原と出羽國諸神の影響

 月山は初め神道の山であつたが、後に至りて佛教が參加し、終には修驗道の山となつた。この經過を述ぶるに先立つて、支那並に我國の山嶽佛教及び修驗道の發達を述ぶる必要がある。
 支那の開國以來の山嶽崇拜については前編に述べた。次に佛教の印度より支那に傳つたのは後漢明帝の代で、我國十一代埀仁天皇(七二七)の朝に當る。我國に佛教渡來は之より四百五十五年後の繼體天皇十六年(一一八二)で支那より傳來した。之より歴代の天皇厚く佛教を信仰せられたからして、我國の佛教は急速なる發展を遂げ、終に聖武天皇の朝に全國に國分寺を建てしめて、神社と共に國守の祈祷所と爲し政教一致の隆盛を見た。佛教傳來後約二百年である。出羽國に佛教の始めて這入つたのは國分寺建立後であらう。出羽國は我國の北端に在りて蝦夷征討中であれば、國府で國分寺を建立しない前に佛教は這入らなかつたと思ふ。此頃は神道と佛教とは截然と區別を爲し混淆しなかつた。之が混淆して神社に佛經を讀ましむることゝなつたのは、矢張り其根源は支那にあるのである。
 支那の佛教以前の神は自然崇拜であつて、五嶽は最も尊崇されたことは、出羽國初の山嶽其他の自然崇拜も著るしく似てゐる。支那で山嶽に佛寺と道教の天尊祠を建てたのは、隋の文帝二十年十二月で、我國推古天皇八年(一二六〇)である。
 (隋書 帝紀第一 高祖下)
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開皇二十年
十二月辛巳詔曰佛法深妙 道教虚融 咸降[#二]大慈[#一]濟[#二]度調羊品[#一] 凡在[#二]含識[#一]皆蒙[#二]覆護[#一] 所[#下]-以雕[#二]鑄靈相[#一]圖[#二]-寫眞形[#一]率土瞻仰用申[#中]中誠敬[#上] 其五嶽四鎭節宣[#二]雲雨[#一] 江河淮海浸[#二]潤區域[#一]並生[#二]養萬物[#一]利[#二]益兆人[#一] 故建[#レ]廟立[#レ]祀 以[#レ]時恭敬 敢有[#三]毀壞※[#「にんべん+愉のつくり」、上p24-5]盜[#二]佛及天尊像嶽-鎭海-涜神-形[#一]者以[#二]不道[#一]論 沙門壞[#二]佛像[#一]道士壞[#二]天尊[#一]者以[#二]惡逆[#一]論
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五嶽   泰山、衡山、華山、恒山、嵩山
四鎭   會稽山、泝山、醫無閭、霍山
海涜   海と大河。四涜は江水、河水、淮水、濟水。
高祖   文皇帝姓楊氏諱堅弘、陳を滅して南北を統一し隋國を立つ。
道教   支那秦漢の後ち南北朝の分裂となり小國の分合戰亂絶ゆることない状態となつた。斯る世態に飽いた世人は厭世的なる思想に傾き、清淡隱逸を好む風潮を生じた。此思想は老子莊子の虚無説と佛教によりて涵養されたもので、其極端なるものは神仙道であつて、遠く人寰を離れて高山靈窟に入り、人慾を去つて天地の靈氣に接して無慾無病不老不死の境に入らんとするのである。
天尊像   不明 泰山々上の碧霞元君一名娘々廟は之れか。
嶽鎭海涜神形   不明 泰山々麓の濟南城内にある岱廟の神像は之か。
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 此詔文の要旨は、五嶽四鎭及び江河淮海は萬物を生養し兆人を利益する靈徳を有するにより、廟を建て祀を立てゝ、之に佛像、道教の天尊像、山河海の神形を雕鑄したるもの又は繪畫像を安置して萬民をして恭敬せしめ、之等の佛像天尊像を毀壞偸盜する者をば嚴罰に處するとのことである。廟祀は佛像山河海の神形、道教の天尊像を安置する寺院廟堂であらう。之等の廟祀は山嶽の麓河海の岸に建てゝ萬民の恭敬に便にしたものらしい。之れが支那の山川の自然崇拜と佛教道教の三教一致融合とは云へないが、山嶽信仰と佛教とが融合し、又山嶽信仰と道教とが融合したと云へるであらう。之れ即ち支那の山嶽佛教の濫觴であつて、之に道教が融合すれば我國の修驗道となるものである。然るに支那河南省嵩山には其西麓に嵩岳寺といふ寺院ありて、十二角十五層※[#「土+專」、第3水準1-15-59]塔あるを以て有名である。此寺の創建は北魏孝明帝正光四年〈(一一八三)繼體天皇十七年〉と傳へられてゐる。隋文帝開皇二十年より七十七年前である。之れは純佛教の寺院であつて山嶽佛教のものでは無いであらう。令ひ山又は山麓に佛寺があつても必ずしも山嶽信仰を加味したものでは無い。山東省泰山には麓及び中腹に多くの佛寺あり、濟南市に岱廟ありて泰山遙拜の處らしく、其本殿内に泰山神として巨大なる孔子のやうな黄金色塑像を安置す。頂上に泰山娘々廟(一名碧霞元君)ありて兒を授げ子孫繁昌又縁結びの神として最も信心されてゐる泰山は萬物生育を司とるより來たであらう。
 隋文帝開皇二十年は我國推古天皇八年で支那佛教盛んに傳來し、佛教の最も盛んな時代である。殊に聖徳太子は厚く佛教に歸依して多くの佛寺を建て、憲法十七條を制定して其二條に篤く三寶を敬すべしとあり、我國と支那との交通は推古大皇が隋に使者を送つたのが始まりであり、又百濟との交通も頻繁であつて佛僧經典佛像の渡來盛んである。此頃我國に役小角が大和國葛城郡より出でゝ修驗道を開いた。修驗道とは支那傳來の佛教と道教と我國の山嶽崇拜とを融合したもので、其根本思想は矢張り支那傳來であつて、隋文帝の山嶽に佛教道教を配祀した所の三教主義を取入れて、更に三教を融合同化したのである。即ち役小角の修驗道の骨子は大和より紀伊に連立する山嶽の葛城山より金峰山に至る山々を道場と定め、人跡未踏の高嶺溪谷を粗衣粗食にて踏破し、苦寒暑雨に堪え、動物の迫害に勝ち、此間常に佛具佛像を念誦し、數十日間の修行を遂るものである。之れ迄我國の山嶽崇拜は遙かに高山を望んで其山靈を尊崇したのであって、山頂に登ることは却て山靈を冐涜するものとして恐怖の念を抱いたものらしい。出羽の山嶽崇拜は全く之れであつた。然るに一度び役小角の三教融合の修驗道を開き、各國の山嶽に登りて修驗道を布いた。之より役行者を慕ふ所の衆徒は各地に生じて、高山名嶽を探踏することゝなつた。之れが即ち修驗道の行者であつて、始めて人跡未踏の山に登ることを山を開くと云ひ、即ち開山である。役小角は舒明天皇六年(一二九四)に生れ、三十二歳で葛城山に籠ること三十餘年、文武天皇三年(一三五九)五月讒訴に遭ひて伊豆大島に流され、大寶九年(一三六一)赦免となる、爾後終る所を知らない。始めて越後國に出羽郡を置いた和銅元年(一三六八)を遡ること八年前に赦免となつた。
 平安朝の初めに至り、最澄・空海の二高僧出て、最澄は延暦七年比叡山に延暦寺を建てた。之れも山嶽佛教の影響と見ることができる。延暦二十三年(一四六四)最澄・空海は共に支那唐に渡り、最澄は浙江省天臺山の道邃、空海は陝西省西安(長安)の青龍寺慧果に學んだ。最澄は翌二十四年歸朝して天臺宗を開き、空海大同元年(一四六六)八月歸朝して眞言宗を傳へ、弘仁七年(一四七六)紀伊高野山に金剛峰寺を建てた。最澄の弟子圓仁(慈覺)承和五年(一四九八)支那に渡り天臺山に學び同十四年歸朝した。之より天臺・眞言兩宗は全國に傳汎し、各地の寺院神社は慈覺(圓仁)か弘法(空海)の開基で無いものが無いのである。斯く多數の社寺が悉く兩高僧の開いたもので無いことは當然であつて、天臺宗又は眞言宗を奉ずる社寺は、遙かに後世の創建でも兩高僧の何れかを開基とする慣例である。
 最澄圓仁及び空海の傳ふる所の天臺・眞言は共に純佛教にして高山の上に寺院を建てたので、此思想は支那の山嶽佛教を傳へたものである。之より先き我國では役行者の山嶽修驗道あるが、純佛教と三教融合の修驗道の違ひである。我國古來の山嶽神は朝野の信仰である。圓仁・空海は自己の奉ずる密教を山嶽神と融合することは、布教上頗る有利であるを看破した。其説く所は即ち神佛同體本地垂跡であつて、本地とは無始無終の絶對なる印度の佛にして、人間界を濟度せんが爲めに我國に跡を垂れて神となつた、獨り山嶽神ばかりで無くて總ての神は佛の垂跡である、之れが古來の我國の信仰を排斥せずに融合一致の好感を以て迎へられたのである。之れが國法となりて文献に見えたのは、續日本紀承和三年(一四九三)十一月丙寅敕して、護[#二]持神道[#一]不[#レ]知[#二]一乘之力[#一] 轉[#レ]禍作[#レ]福 亦憑[#二]修善之功[#一] 宜[#下]遣[#二]五畿七道僧各一口[#一]毎[#二]國内名神社[#一] 令[#レ]讀[#一]法華經一部[#上] 國司檢校務存[#二]潔信[#一]必期[#二]靈驗[#一] とあるを始めとする。出羽國の名神は延喜式によれば大物忌神社と月山神社であつて、兩神に佛僧をして佛典を讀ましめたのは之が始まりで、隨つて他の小神も之に準じて附近の寺僧を請じて佛典を讀ましむることゝなつたであらう。承和十一年(一五〇四)比叡山圓仁(慈覺)の弟子|安慧《アンヱ》出羽の講師となりて派遣された。此時羽州は唯識宗(法相宗)のみであつたのが、安慧によりて國人は天臺宗に歸した。
 (元享釋書)
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安慧事小野寺廣智(下野國都賀郡)廣智俗之號菩薩者也 智異其才器 携附臺嶺傳教々寂 從慈覺 承和十一年爲羽州講師 時管内皆學唯識不知臺教 自慧開講 州人棄相歸徃
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 之によれば出羽の神佛融合本地垂跡は、安慧の赴任開講によりて始めて實現されたであらう。講師は初め國師と唱へ文武天皇大寶二年(一三六二)二月諸國に國師を任じ、大上國に大國師一人小國師一人、中下國に國師一人とした。延暦十四年(一四五五)八月國師を改めて講師とし、毎國一人を置き、六ケ年を以て任期とした。