<< 沈黙の事 >>
沈黙を殊に愛せよ、何となれば汝を結果に近づかしむればなり、されど舌は此の事を言ひ顕すに無力なり。先づ沈黙に己を強いん、その時は沈黙によりて真の沈黙に至らしむべきものを我らの為に生ぜん。沈黙によりて生ずるものを神は汝に感知せしめん、されど此の生涯を始むるならば、此れより光は幾何汝に輝くべきか、予は之を言ふことも能はざるなり。兄弟よ奇異なるアルセニイの事を記するを視よ、諸父兄弟ら彼を見んが為に来り訪ひけるに、彼は黙然として一言も発せず、彼らと共に座し、沈黙を以て彼らを去らしめたり、汝は之を見て、此すべてを彼は全く意のままに行ひ、最初より己を之に強ひしに非ずと思ふなかれ。此の行為に練習するにより、逐次或る愉快が生じ、強いて身体を沈黙を守るにみちびかん。而して此の生涯に於て我らに多くの涙は生じて、奇異なる直覚により、心は何故か別々に感ぜん、或る時は辛うじて感ずれども、或る時は驚くべく感ぜん、何となれば心は小児の如くなればなり、故に祈祷を始むるや、直ちに涙は流るるなり。その肢体の忍耐により此の奇異なる習慣を己の心中内部に得たる人は大なり。一方には此の生涯の悉くの行為を置き、又一方には沈黙を置く時は、秤量に於て沈黙の愈れるを見ん。人々には多くの教訓あり、然れどももし誰か沈黙と親しむならば、此らの教訓を守るの行為はその者の為に贅物となるべく、是より先の行為も贅視せらるべくして、彼は自から此らの行為より抽んずる者としてあらはるるなり、何となれば完全に近づきしによる。沈黙は黙想に助くるなり。何ぞや。我らは多人共住の院に居らば、何人にも遇はざらんことは能はざるべくして、黙想を大に愛すること天使の如くなりしアルセニイさへも之を逃る能はざりき。けだし我らと共に居る諸父兄弟に遇はざらんことは能はざるべくして、此の遇ふことは期せずして之あるべし。聖堂或はその他の所に行くは、人に免る能はざればなり。彼の福楽を受るに堪へたる人は此のすべてを知れり、即人間の住所の近きに居る間は、彼の為に之を逃るる能はざるを知れり、而してその居る所の位置に依り同所に居る人々又は修道士らに面接するを避くる能はざることの屡々之あるや、彼はその時恩寵によりて此の方法を教へられたり、即不断の沈黙を教へられたりき。ゆえにもし或者らの為に已むを得ず戸を開く時あるや、彼らはただその面会を自から楽むのみにて、言談も要事も彼らは無用視したりき。
多くの神父は此面会により自己を保護するを得、福者の面会は彼らの為に教訓となるを利用して、霊神上の富を増すを得たりき。然るに或神父は人々に行かんと欲する望の起るや、己を石に繋ぎ、或は縄にて縛り、或は飢渇を以て己を疲らしたりき。けだし飢餓は感覚を鎮むるに多く助くればなり。
兄弟よ、予は大にして奇異なる多くの神父らを見るに、彼らは行為よりも、感覚の斉整と身体の習慣とを多く慮れり、けだし思慮の斉整は是より生ずればなり。多くの事故は不意に人と遇会してその自由の界限を脱せしめん。ゆえに人は預め求めたる弱らざる習慣により、その感覚を保護せらるるなくんば、長く自から己を省察せざるべくして、己が原始の平安なる状態を見ざるべければなり。
心の大なる進歩は自己の希望のことを思念するにあり。行為の大なる進歩は一切の解脱にあり。死の記憶は外部の肢体の為に善良なる連鎖となるべし。霊魂の香餌は心中に花咲く希望によりて生ぜらるる喜にあり、知識の成長は不断の実験にありて、之により智は二様の変化の為に内部に於て日々に実験に附せらるるなり。けだし寂寥の為に時として我らに煩悶の起るあらば、〔是れ或は神の照覧によりて遣はさるるならん〕最優越なる希望の慰藉を有す、即我らが心中にある信仰の言を有するなり。捧神者の一人は善く言へり、信ずる者の為に神を愛するは、その生命の亡ぶる時にも、充分の慰めなりと。その意言へらく、未来の幸福の為に現在の快楽とその安寧とを軽んずる者に患難は何の毀損をか被らしむべきと。
兄弟よ、予は汝に左の誡命を與へんとす、汝は世に対して憐憫の心を有するを自己に感ずるに至る迄は、矜恤の重権を常に執るべしといふもの是なり。我らが慈悲心は神の性と神の実体とに存する所の同形とその真実なる状態とを我ら自己の中に見るが為に鏡となるべし。我らは光明なる意願を以て神に於る生涯に進むが為に、此らのものを以て照明せられん。残忍にして無慈悲なる心は決して浄潔ならざらん。憐み深き人は自己の医なり、何となれば彼は慾の暗黒を内部より一掃すること、恰も烈風の如くなればなり。福音的生命の言に依るにこは吾人が神に貸与する善良なる債なり。
臥榻に就く時は告げて言ふべし、曰く『臥榻よ、恐らくは汝は是夜に於て予が為に棺とならん、暫時の眠に代へて永遠なる未来の眠の是夜に於て予に来る無きや否やを知らず』と。故に汝に足のある間に練修を追逐して、最早得べからざる連鎖の為に縛らるるに先だつべし。汝に手のある間に己を祈祷に釘して、死の来るに先だつべし。汝に目のある間に涙をこれに満たして、塵埃に暗まさるるに先だつべし。薔薇は僅に之に向つて風の吹くあらば、凋まん。かくの如く汝の内部に於て汝の組織に入り来る元行の一に向つて風の吹くあらば、汝は死せん。人よ死は臨んで汝の前に在り、汝之をその心に思ひ、不断自己に告げて言ふべし、曰く『視よ、予が為に来れる使者は最早戸の側にあり。如何して予は座すべきか、予の移るは永遠にして、復た帰るあらず』と。
ハリストスと対談するを愛する者は、遁世者となるを愛さん。之に反して衆人と共に居るを愛する者は此世の友なり。もし悔改を愛するならば、黙想をも愛すべし。けだし悔改は黙想以外に完全を遂ぐる能はざればなり。もし誰か之に抗言するならば、彼と争ふなかれ。もし黙想、即悔改の母を愛するならば、黙想の為に汝に傾注する身の小害も、詰責も、侮辱も欣然として之を愛すべし。此予備なくんば、乱されずして自由に黙想を守るあたはざるべし。然れども如上のものを軽んずるならば、神の旨に依り、黙想に分を有するものとなりて、神の意に適する丈黙想を守るを得ん。黙想に固着するは不断に死を待つなり。此の慮りなくして黙想に就く者は悉くの方法を用ひて我らの堪忍忍耐するを要するものを担ふ能はざるべし。
思慮ある者よ、己が霊魂の為に幽静なる居住と、黙想と、篭居とを撰択するは、条規の外に出づる行為の為に非ず、又之を遂げんとにも非ざるを知るべし。けだし衆人と交際するは、身の勉励の為に多く助くる所あるは、人々の知る所なり。されどもし此事が緊要なりしならば、或る神父らは人々と共に居り、之と交はるを棄てざりしなるべく、然して或者は墓畔に生活せざりしなるべく、又或者は幽静の家に篭居するを自から撰択せざりしならん、然るに彼らは彼処に於て肉体を大に弱らし、之をその課せられたる規則を遂行する能はざるに放棄して、すべて出来得る丈の薄弱と、身体の疲労と共に彼らを捕ふる重き病を更に喜んで生涯忍耐し、之が為に彼らは己の足にて立つことも、或は通常の祈祷を為すことも、或はその口にて讃栄することも能はざるのみならず、聖詠或はその他身体にて行ふ所のものを遂行せざりしも、彼らは悉くの規則に換えて、一の身体の薄弱と黙想とを以て己の為に充分となしたりき。かくの如くして彼らはその生命の日をすべて自ら送りぬ。而して此事の全く無益なるものの如く見ゆるに拘はらず、彼らの中一人もその庵を棄つるを願はざりしのみならず、その規則を執行せざるが故に、何れの所にか外に行き、或は聖堂に行きて、他の聲音と奉事とを以て己を楽ましむることをも願はざりき。
己の罪を感じ始めたる者は、人衆稠密の中に居を有し、祈祷を以て死者を復活せしむる者より高し。己が霊魂の為に嘆息して、一時間を送る者は、面会を以て全社会に益を與ふる者より高し。自から己を見るを賜はりし者は、天使を見るを賜はりし者より高し。けだし後者は身体の目を以て接すれども、前者は心霊の目を以て見ればなり。独居的哀泣を以てハリストスに従ふ者は、集会の中に在りて己を頌讃せらるる者より愈れり。何人も左の使徒の言を此間に提出するなかれ、曰く『我はハリストスより絶たれんことをも亦或は願ふなり』と〔ロマ九の三〕。パウェルの力を受けし者には此を為すをも命ぜられん。しかれどもパウェルが世を益する為に、パウェルに居る所の神を以て摂取せられたることは、彼の自から證せし如く、自己の意のままに之を為したるにあらざりき。けだし彼言ふ『我が分の為すべき所を傳へずば我は禍なる哉』〔コリンフ前九の十六〕。さればパウェルを選びしは、彼に悔改の方法を示さんが為に非ずして、人間に福音を傳へしめんためなり、之が為に彼は大に余ある能力を受けたりき。
さりながら兄弟よ、我らの心に世が死する迄は、我らは黙想を愛せん。常に死の事を記憶し、此を思ふてその心は神に近づき、世の虚しきを軽んぜん、さらば世の快楽は我らが眼中に賤んぜらるべく、黙想の不断の寂寥を病体に於て喜んで忍耐せん。巌穴と地窟と〔エウレイ十一の三十三〕に居りて、我らが主の光栄なる黙示の天より来るを待つ者らと共に楽みを享けん為なり。
彼と彼の父と彼の聖神とに光栄、尊敬、権柄及び威厳は世々に帰す。「アミン」。