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シリヤの聖イサアク全書/第五十三説教

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第53説教

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<< 謙遜けんそん如何いかなる尊敬そんけいうくるか、その階級かいきゅう如何いか高尚こうしょうなるか >>

兄弟けいていよ、くちひらきて高尚こうしょうなる目的もくてきすなはち謙遜けんそんのことをはんとほっす、しかれどもおそれにたさるること、なお自己じこ思慮しりょかみのことをせんとするをものごとし。謙遜けんそん神性しんせい衣服いふくなり。ひととなりしことばこのふくふくして、これによりわれらのたいもっわれらと談話だんわせり。さればすべこのふくふくするものじつたかきよりくだりて尊威そんいだいなるをかくし、受造物じゅぞうぶつあおのぞんでかるるをまぬかれんため謙遜けんそんもってその光栄こうえいおほふたるものたるあり。けだしかれ受造物じゅぞうぶつより部分ぶぶんり、かくのごとくして受造物じゅぞうぶつ談話だんわせざりしならば、受造物じゅぞうぶつかれ熟視じゅくしするあたはざりしならん。かれくちづからふをまのあたくをざりしならん、なんとなればかれ雲中うんちゅうよりイズライリ諸子しょしかたりしとき、かれらもそのこえをきくあたはず、モイセイにつけて、かみなんじひ、なんじはそのことばわれらにつたふべし、『かみわれらとひてわれせざらんためなり』〔出埃及記二十の十九〕といひたればなり。

これによりてるに受造物じゅぞうぶつかれ公然こうぜん対面たいめんすを如何いかんしてべきやかみ顕現けんげんおそるべきは、代求だいきゅうしゃごとふにいたれり、いはく『「恐懼きょうく戦慄せんりつせり』と〔エウレイ十二の二十一〕、なんとなれば西乃シナイやまあらわれし光栄こうえいはそのちからもっともだいにして、やまけむりはっし、やまうえよりしめされたる示現じげんおそるべきに揺撼ようかんし、やまろくちかづきし猛獣もうじゅうせり。しかしてイズライリしょモイセイめいしたがおのれきよめて、かみこえかみ示現じげんるにふるものとならんがために、三日みっかあいだ準備じゅんび整装せいそうせり、しかれどもときいたるやそのひかり顕現けんげんとそのとどろこえつよきとをうくあたはざりき。

いましからず、その来臨らいりんもっ世界せかいにその恩寵おんちょうそそたまふや、かれくだるに天変てんぺん地異ちいおいてせず、ちゅうおいてせず、おそるべきつよこえおいてせず、かえりて羊毛ようもうにそそぐあめごとしずかじょうつる点滴てんてきごとくして、方法ほうほうによりわれらと談話だんわしつつあらはれたまへり、なんぞや、かれはその尊威そんい肉体にくたい帷幕ゆまくうちかくすこと、ほうおさめたるごとくして、その指揮しきにより童貞どうてい生神女しょうしんじょマリヤふところおいおのれ建造けんぞうし、われらのあいだにありてわれらと談話だんわたまへり、われ看望かんぼうするときかれは我らが族中ぞくちゅう一人いちにんにしてわれらと談話だんわするをつつおどろかざらんためなり。

ゆえすべ造物主ぞうぶつしゅがそのたいあらはれたまひし衣服いふくふくするものハリストスそのものをるなり、なんとなればハリストスはその受造物じゅぞうぶつあらはれたまひしこの同形どうけいもっ全人間ぜんにんげんともりて、全人間ぜんにんげんもその内部ないぶひとこれんをねがひ、この同形どうけいもってその同僕どうぼくあらはれ尊敬そんけい外部がいぶ光栄こうえいふくするにへてこれもっかざらるればなり。ゆえ有言ゆうげん無言むげん受造物じゅぞうぶつはすべてこの同形どうけいたるひとて、これ伏拝ふくはいすること、主人しゅじんごとくし、もってこの同形どうけい清光せいこうたまひし自己じこ主宰しゅさいえいせんとす、けだし如何いかなる受造物じゅぞうぶつ謙徳けんとくあるもの尊視そんしせざらんや。さりながら謙徳けんとく光栄こうえい衆人しゅうじんあらはるるにいたまで聖徳せいとくみつるのかん軽視けいしせられたりき、しかれどもいまこの謙遜けんとく大徳たいとく目前もくぜんかがやきて、すべてのひといづれのところおいてもるをこの同形どうけいたっとばざるはなし、これりて受造物じゅぞうぶつおのれ創造者そうぞうしゃ造成者ぞうせいしゃ現象げんしょうせっするをたまはりぬ。ゆえこの同形どうけい真理しんりてきためにもかろんぜられざるなり。これたるものはすべての人間にんげんよりまづしといへども、これまなびたるものこれもっかざらるること栄冠えいかん紫紺衣しこんいとをもっかざらるるごとし。

ひとけっして謙徳けんとくあるもの嫉妬しっともっくるしめず、ことばもっきずつけずして、かれかろんぜざるべし。けだしかれ主宰しゅさいかれあいするによりかれ衆人しゅうじんあいせらるるなり。かれ衆人しゅうじんあいして衆人しゅうじんまたかれあいす。人皆ひとみなかれしたふ、ゆえになんところちかづくも、いたところかれることひかり天使てんしごとくして、かれ尊敬そんけいくはふ。もししゃあるい教師きょうしはんとするもかれらは黙止もくしす、なんとなればかれらはふの権利けんり謙徳けんとくあるものゆずればなり。衆人しゅうじんかれくちそそぎて、如何いかなることばのそのくちよりづるをつ。すべてのひとかれことばつことかみことばごとし、かれ簡短かんたんなることばてき想像そうぞう説明せつめいする賢哲けんてつ格言かくげんおなじ。かれことば智者ちしゃみみあまきこと、砂糖さとうみつのんどあまきよりはなはだし。かれ言語げんごならはずして、その状貌じょうぼういやしくかつなりといへども、かれ裁決さいけつ人々ひとびとためかみ裁決さいけつごとし。謙徳けんとくあるもの侮蔑ぶべつしてひ、かれ活発かっぱつひとさざるものは、かみむかつてそのくちひらごとし。しかれども謙遜けんそんなるものかれ眼中がんちゅうかろんぜらるると同時どうじ謙遜けんそんなるもの尊敬そんけいはすべての受造物じゅぞうぶつおいまもらるるなり。謙徳けんとくあるものじゅうちかづかんか。わずかげてかれむかふや、かれらが猛烈もうれつしずまりて、かれちかづくことその主人しゅじんちかづくごとし。そのこうべ慴伏しょうふくして、かれあしねぶる、なんとなればアダムつみおか以前いぜんじゅうあつめ、楽園らくえんおいかれらにめいぜしとき、アダムよりはっしたるこう謙徳けんとくあるものよりかんずればなり。このこうわれらよりうばはれたり、しかれどもイイススきたりてこれあらたにしてふたたこれわれらにたまへり。人間にんげんけいこうこれもっあぶらせられたり。また謙徳けんとくあるものいたすべき爬虫はちゅうちかづくか。わづか接近せっきんしてそのかれらのたいるるや、かれらが腐触ふしょくせいいたすべき毒気どくきはげしきはみ、そのもっかれらをつぶすこといなごごとくせん。かれ人々ひとびとちかづくか。人々ひとびとかれ注目ちゅうもくすること、主人しゅじん注目ちゅうもくするごとし。なん人々ひとびとはんや、魔鬼まきだもそのまった無耻むちなると、煩悶はんもんすると思念しねんまった高慢こうまんなるとにかかはらず、かれきたるときは、ちりごとくなるし、その憎悪ぞうおちからうしなひ、その奸計かんけいやぶれ、その狡猾こうかつくしてそんせん。

いまわれらはかみ謙遜けんそん光栄こうえいだいなると謙遜けんそんかくるるちからとをあらはしたるにより、謙遜けんそん如何いかなるとひと如何いかなる完全かんぜんにより何時いつこれうくるをたまはるとをあらはさん。また外見上がいけんじょう謙遜けんそんなるものしん謙徳けんとくたまはりしものとのあいだ区別くべつさん。

謙遜けんそん奥密おうみつなるちからにして、完全かんぜんなる聖者せいしゃがすべての行為こうい成就じょうじゅしてのちうくところのものなり。このちからにあらず、ひと徳行とくこう完全かんぜんなるもの恩寵おんちょうもっあたへらるるものにして、天性てんせいこれうくるののうありてこれふるによる、なんとなればこの徳行とくこうみづから一切いっさい含有がんゆうすればなり。ゆえ如何いかなるものたりとも、すべてのひと謙徳けんとくあるもの看做みなべきにあらずして、ただわれらがべたる定式ていしき相応そうおうしたるもののみを謙徳けんとくあるものすべし。

天性てんせい謙抑けんよくにして沈黙ちんもくなるものあるい善智ぜんちなるものあるい温柔おんじゅうなるものみなすで謙遜けんとく階段かいだんたっしたるにあらず。かえつてほこるにるべきものを奥密おうみつゆうすれども、ほこらずして、その塵芥じんかいするものしん謙徳けんとくあるものなり。しかれどもたれつみあやまちとを想起そうきし、たかぶらずしてこれ記憶きおくするも、そのこころくだけずして、そのこれらのことを想起そうきするとき驕傲きょうごうなるおもい高処こうしょよりくだまでいたらざるあいだは、たとひこは賞賛しょうさんすべしといへどもそのもの謙徳けんとくあるものとはづけざるなり、なんとなればかれには驕傲きょうごうなるおもいなおそんするありて、かれいま謙遜けんそんかえつて狡獪こうかいこれ自己じこちかづくるによる。ゆえにわれひしごと賞賛しょうさんすべしといへども、謙遜けんそんいまかれぞくせず、かれはただ謙遜けんそんねがふのみにして、謙遜けんそんかれたれおのれ思慮しりょもっ謙徳けんとくため原因げんいんあんいだすのようあらざれども、すべてにまったかつ自然しぜんろうせずして謙遜けんそんたるものは、まった謙徳けんとくあるものなり、かれはすべての人間にんげん天性てんせいとにゆるだいなるたまもの自己じこけたれども、おのれること罪人ざいにんごとくし、なんらの価値かちもあらずして自分じぶんにて自分じぶんかろんずるひとごとくす、しかれどもあらゆる霊性れいせい奥義おうぎ悟入ごにゅうし、全人間ぜんにんげんくしがたことをすべて確実かくじつ成就じょうじゅすると同時どうじみづからおのれみとめてなん価値かちもあらざるものすなり。しかして此事このこと狡獪こうかいもってするにあらず、またふるにあらずしてその心中しんちゅうおいごときなり。

かくごとものとなりて、かくのごとおのれ変化へんかすること天性てんせいごとくなるはひとあたふべきかあるいあたはざるか。

おわりにひとうくところ奥義おうぎちからひと此事このこと成就じょうじゅせしむるにすべての徳行とくこうおいてしてひとろうたざるにうたがひをるるなかれ。すなはちふくなる使徒しとらが形状けいじょうおいけたる能力のうりょくなり。この能力のうりょくため救世主きゅうせいしゅかれらに誡命かいめいしてへり、うえより能力のうりょくうくるにいたまでは、『イエルサリムよりはなるるなかれ』〔行實ぎょうじつ一の四〕と、イエルサリムこれすなはち徳行とくこうにして、能力のうりょくすなはち謙遜けんそんなり、しかしてうえよりの能力のうりょくすなはち撫恤ぶじゅつしゃなり。べつこれ解釈かいしゃくすれば撫恤ぶじゅつしんなり。此事このことにつきてはかみしょ奥義おうぎ謙遜けんそんなるもの啓示けいじせらるとへるもまたこのしめす、謙徳けんとくあるもの奥義おうぎ表現ひょうげんするこの啓示けいししんをその内部ないぶうくるをたまはる。ゆえある聖人せいじんへり、謙遜けんそん神聖しんせいなる直覚ちょっかくもっ霊魂れいこん成全せいぜんすと。

おわりにひと自分じぶんにて謙徳けんとく尺度しゃくどたっせりとそのこころおもふをあえてするなかれ、ときとしてひとおこ痛悔つうかい一念いちねんにより、あるいひとながるる少許しょうきょなみだにより、あるいひと天性てんせいゆうし、また尽力じんりょくもっ占有せんゆうしたるいつある善行ぜんこうによりてすべての奥義おうぎ充満じゅうまんすものとことごとくの徳行とくこう宝蔵ほうぞうとなるべきものとをるあらば、われふ、みなたまものとも少許しょうきょ練習れんしゅうもったりとおもふなかれ。これはんしてひとことごとくの反対はんたいれいち、諸々もろもろ道徳どうとく行為中こういちゅう顕然あらはおこなはざるものといまざるものとをいつのこすあらずして、てきことごとくの城砦じょうさいち、これしたがはしめて、そののちこのたまものけたるをみづから精神せいしんにてかんじ、使徒しとごとく、『しんわれらのしんともしょうす』〔ロマ八の十六〕といひるならば、これすなはち謙遜けんそん完全かんぜんなる。これもとたるものさいわいなり、なんとなればかれイイススふところ毎時まいじ接吻せっぷんしてこれいだけばなり。

しかれどももしひと質問しつもんして、『なにすべきか。如何いかにして謙遜けんそんべきか。如何いかなる方法ほうほうもっ謙遜けんそんくるにふるものとなるべきか。みづからおのれひ、これたりとひそかにおもふや、これ反対はんたいなるおもい心中しんちゅう回転かいてんするをる、これによりていま失望しつぼうおちいる』とふならば、この質問者しつもんしゃこたえあたへらるべし、門徒もんとはそのごとくなり、ぼくはその主人しゅじんごとくなりてれりとこれなり〔マトフェイ十の二十五〕、これ誡命かいめいしてたまものさづくるもの謙遜けんそんたる所以ゆえんかれのっとるべし、しからばこれん。かれへり『けだし此世このよきみきたる、かれわれなにをもゆうするなし』〔イオアン十四の三十〕。ことごとくの徳行とくこう完全かんぜんにより謙遜けんそんくべきをるか。この誡命かいめいあたへたるものならはん。かれへり『きつねにはあなあり、天空てんくうとりにはあり、ただひとにはこうべまくらするところなし』〔マトフェイ八の二十〕。しかれどもこれふはすべて萬姓ばんせい諸族しょぞくうち成全せいぜん成聖せいせいせられて充満じゅうまんたっしたるものらよりえいせらるるものにして、かれかれつかはしたるちちおよ聖神せいしんともいま何時いつ世々よよいたらん。「アミン」。