キリスト教とリベラリズム

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献呈[編集]

母上に献ぐ (原著者)

訳者序[編集]

基督教とは何ぞや 角田桂嶽

総項目[編集]

第一章 緒論[編集]

本書の目的は、現代の宗教上の論点を決定するためではない。単にその論点を出来るだけ正確に表出する事に由って、読者自身をして自ら決定せしめんが為である。今日論点を判然と明示する事は決して人気のある仕事ではない。多くの人々は、フランシス・エル・パトン博士が適切に言った様に「視界の朦朧たる状態に於いて」知的論戦をなす事をする。しかし敢然たる言葉を以て宗教的問題を定義づけ、又宗教的思想の論理的関係を敢て直視する事は、多くの人々によって不敬虔な仕事の如く看做されて居る。それが外国伝道会社への献金に対して妨害となりはしないか、それが又教会統一の進展を妨げ、教会の統計欄を貧しくはしないかと。しかし斯の如き人々と、我等は如何にしても一致する事が出来ない。光明は時には不躾な闖入者と見えるかも知れない。けれどもそれは常に結局は恩恵となるものである。その意義には関わりなく、ただ伝統的言葉のもつ敬虔なる響きに随喜して「論戦」より萎縮する類の宗教は、この人生の衝撃のただ中に在っては決して存立し得るものではないであろう。宗教の分野に在っても、それ以外の世界と等しく、人々の一致する事柄は往々にして、支持するに最も価値少きものがある。真に重要なる事柄は人々がそれについて相戦う所の事柄である。

殊に宗教的領域に於いては、現代は戦いの時代である。これまでキリスト教として知られてきた所の偉大なる贖罪的宗教が、これとは類を異にする宗教信仰と戦いつつある。その異なる宗教信仰は、キリスト教のものである所の伝統的言葉を使用する事の故に、それだけ多くキリスト教信仰にとっては破壊的である。この現代の非贖罪的宗教なるものは、モダニズム(現代主義)或いはリベラリズム(自由主義)と呼ばれている。しかしながらこの両者はともに不完全なる名称である。特に後者の如きはいかがわしき名称である。自由主義と名づけられたるこの運動は、それを奉ずる人々によってのみ「自由」とみられ、その反対者たちにとっては、多くの関係ある事実に対する偏狭なる無視を意味するものの如くである。しかしこの運動は、種々なる形態をとって現われているが故に、これらすべてに適用されるべき共通名称を見出すことはむしろ絶望であろう。しかしこの運動の表現形式は多様であるとはいえ、そのよって来る根源は一つである。すなわち現代的自由主義宗教の種々相はその根源を自然主義に発する。すなわちキリスト教の起源に関して、神の創造力(自然の通常過程から区別せらるるものとしての創造力)の如何なる侵入をも拒むところに、その根源を発するのである。余は、ここに「自然主義」なる言葉を、その哲学的用法とは幾分異なれる意味に用いている。この哲学的ならざる意味にい於いては、この言葉はそのいう所の「自由主義」的宗教(それは一つの高貴なる起源の言葉を堕落させる事になるであろうが)の真の根源をかなり明瞭に説明するものである。

この現代の自然主義的自由主義の勃興は、決して偶然なるものではない。それは近時人間の生活状態の中に起こり師重大なる変化によって惹起されしところのものである。最近百年間を通じてわれわれは、人類歴史に新しい時代の始まったことを目撃した。固陋なる保守主義者はこれを見て或いは悲しむかも知れぬ。しかし彼らといえどもこれを無視することは出来ないであろう。この変化は深い底を流れていて、ただ明敏なる眼光にのみ見ることの許さるるが如きものではない。否、それは多くの点に於いて普通人の注意に訴え来るところのものである。近代的発明と、その上に建設せられたる産業組織とは、多くの点に於いてわれわれに住むべき新しき世界を提供した。吾人は、その呼吸する大気より脱せざる限り、最早この世界より脱することは不可能である。

しかし、斯る物質的生活状態の変化は決して孤立しているものではない。それは人類の心中に起こり来たりし偉大なる変化によって産み出されし所のものであって、やがてそれは爾後の精神的変化を惹起するのである。今日の産業世界は盲目的自然力によって齎されたものではなくして、実に人間精神の意識的活動に由来するものである。すなわち科学的業績によって産み出されしところのものである。近代史の著しき特徴は、人智の膨大なる啓発である。この事実は研究手段の完成と相俟って進むものなるが故に、物質界の今後の発展はほとんど予測し能わざる所のものがある。

現代の科学的方法の適用は、今やほとんど吾人の住む世界大に拡大された。その最も顕著なる業績は物理学と化学との分野にあるとはいえ、しかも人間生活の領域は決して自助の分野からも孤立し得るものではない。例えば、他の諸科学と共に、よしそれが受くるに値せずとも、その姉妹諸科学と全く同格の権利主張している。如何なる知的分野も、この現代科学征服感から独立を保つことは不可能である。神聖犯すべからざる不可侵条約も、年久しくあらゆる伝統的裁可を以て神聖化されているにもかかわらず、風のままに無残に吹き漂わされつつあるのである。

斯くの如き時代において、歴史的なすべての遺産が詮索的批評主義に服さねばならぬのは明白な事である。事実、人間の所信のあるものは、この吟味に會うて粉砕された。実に、ある組織が過去に依存して居るということは、今やその組織を肯定する基礎を供給するよりは却ってそれの否定の基礎を供給するものとさえ看做さるることしばしばである。あまりにも多くの所信が放棄されねばならなかったので、人々は往々すべての所信を放棄しなくてはならぬかの如くさえ考えるに至った。

もし此の如き態度が是認さるるならば、然るときは強き敵対理由に直面する組織にして、キリスト教のそれの如きはない。何となれば、如何なる組織も、キリスト教のそれの如く固く過去の権威に依存して居るものはないからである。吾々は今、かかる政策が賢明なるか、あるいは又歴史的に是認さるべきか、否か、を問うているのではない。ともあれ、事実それは自らは明白である。すなわちキリスト教は幾世紀を通して終始一貫その主張の真理性を単に又主としてその時代の経験に求めて来たものではなくして、実にある昔の書に求めて来たものである。その書の中の最も新しき部分といえども1900年の昔に書かれたものである。この訴えが今日批判されることに不思議はない。如何となれば、この書の記者達は、疑いもなく彼等自身の時代人であって物質世界に対するその限界は、今日の標準よりすれば全く粗野にして、幼稚な類のものであったに違いないからである。必然的に起こる問題は、斯かる人々の所説が抑も現代人の規範たり得るであろうか、換言すれば、第一世紀の宗教が抑も二十世紀の科学と共存し得るであろうかという問題である。

この問題が如何に回答されようと、それは現代教会にとって重大問題を提出する。この回答をして一見した所よりもより容易ならしめようとして、しばしば種々なる企てが試みられた。いわく、宗教は全く科学とは異なるものである、それ故にこの二つは夫々正しく定義づけられるならば、恐らく衝突に陥るが如きことはないであろうと。この二つを分離せんとする試みは、後述する如く、最も致命的な反対論を招致する。けれども差あたって注意せねばならぬことは、たとえこの分離が正しいとされても、この分離の仕事はまた努力なしには、なし遂げられ得ないということである。すなわち宗教と科学との問題を除去する事は、既にしてそれ自身一の問題を構成する。というのは、善悪はともあれ、事実宗教は幾世紀にわたって自らを多くの確信、特に歴史の分野に於けるそれと結合して来ているからである。そして歴史的確信それ自らは科学的探究の対象を構成するであろう。

しかるに他方科学的探究者もまたしばしば、これの善悪はともあれ、哲学と宗教の深奥なる領域を衝くところの結論の上に立って来た。たとえば、もし一世紀以前の、あるいは今日の、単純なるキリスト者が、「もし紀元一世紀にイエスと呼ばれる人が生まれたこともなければ死んだこともないという事が、疑いの余地もなく歴史的に証明されたとしたならば、君の宗教は一体どうなるのか」と問われるならば、彼は確かに「私の宗教は崩壊し去るだろう」と答えるであろう。しかし第一世紀のユダヤにおける事件の探求は、イタリヤやギリシャにおけるそれと全くど同様に科学的歴史学の分野に属する事柄である。換言すれば、単純なる我等のキリスト者は、その事の善悪はともあれ、またその事の賢愚はともあれ、事実彼の宗教を、そこでは科学も同じ様に発言権をもつところの確信と不可分離的に結合させて居るのである。もししからば、外見宗教的に見えてしかも実は科学の領域に属する核心が、実際少しも宗教的なものでないとすれば、この事実を明らかにすることは、それ自身決して些細なる仕事ではない。たとえこの科学と宗教との問題は、宗教を似非科学的添加物より分離する仕事に帰せしめるるとはいえ、該問題の重大性はこの事に由って減少するものではない。それ故に如何なる見地よりするも、該問題は教会にとって最も真面目なる関心事である。キリスト教と現代文化との関係如何-キリスト教は科学的時代にもなお存続し得るであろうか。

この問題こそ現代自由主義が解決せんと試むる所のものである。キリスト教の特殊性に抗し-即ちキリストの人格に関する信条、又は彼の死と復活に由る贖罪についての信条のごときキリスト教の特殊性に抗し-科学的反対論の起こることを許容して、自由主義神学者は宗教の一般普遍的原理のあるものを救わんことを求め、これらキリスト教の特殊性については、その普遍的原理の単なる時代的象徴であるに過ぎないと考える。そして彼はこれらの一般普遍的原理を目して、「キリスト教の本質」を構成するものとなすのである。

しかしながらこの擁護の方法が実際有効であるかどうかは問題である。何となれば弁証者は外廓を敵に委ねて内部に退却した後、敵がその内砦にまでも後を追うて侵入するのを見出すであろう。近代唯物主義は、特に心理学の分野に於いてはキリスト者の都の場末を占領することを以って満足せず、人生の凡ての高き領域にまで侵入し来るのである。この唯物主義は、自由主義説教者が事をあらだてぬ為に捨てた所の聖書の教義に反対していると等しく、彼の奉ずる哲学的理想主義にも反対して居るのである。それ故に単なる譲歩は、知的衝突を免れることに於いて決して成功しないであろう。今日の知的争闘にあっては、「勝たざれば平和なき」ものである。勝は彼等のいずれか一方に帰すべきものである。

しかしながら、実際はここに用いた比喩は人を誤るものである。自由主義神学者がその敵にキリスト教信条を順次に明け渡して後に、自己の手に保留している所のものは毫もキリスト教ではなく、キリスト教とは全然異なる、別種の範疇に属する一つの宗教である事が判明するであろう。そうして又現代人がキリスト教について懐く危惧は、全く根拠なきものであって、彼は神の都の武装せる城壁を態々棄てて、周章てふためいて曖昧模糊たる自然宗教の防御なき原野に逃げゆき、獲物あれかしと常に彼所にひそむところの敵の手に陥り、そして易々と餌食にならんとしているのであることが明らかとなるであろう。

扨科学と宗教を調和せしめんとする自由主義の試みに対して、二方面よりの批判が可能である。現代自由主義は、第一に非キリスト教的であり、第二に非科学的である、との二つの根拠より批判される。吾々がこの書に於いて取扱わんとするのは、主として前の批判である。吾々の興味は、現代自由主義はそのキリスト教の伝統的用語の自由なる使用にも関わらず、キリスト教と異なれる一つの宗教であるのみならず、それは全然別種類の宗教であることを示さんとするにある。けれども吾々はキリスト教を救わんとする自由主義の試みが偽りであることを証明して、キリスト教の救われるべき道の絶えて無きことを証明せんとするものではない。これに反して、この小著に於いてすら、付随的に次の事が明白にされるであろう-即ち科学と矛盾するのは、新約聖書のキリスト教ではなくして、それは現代自由主義教会の所謂キリスト教であるということ、および真の神の都、然りこの都のみひとり、この現代的不信の襲撃を受けとめることの出来る防備を有つものであるということが。しかしながら吾々の直接の関心は、この問題の他の一面に関するものである。吾々の現下の主要なる関心は、キリスト教を現代科学と調和せしめんとする自由主義の試みが、実際キリスト教の特性を悉く放棄せしものであり、その結果後に残りし所のものは、その本質に於いてキリスト教が未だ現れざりし以前にすでに世にありし、漠然たる宗教的渇仰そのものであるに過ぎない事を示さんとするにある。キリスト教から、科学の名に於いて反対することの出来そうな凡てのものを取り去らんとし、また敵の切望する譲歩をもって敵に退却を乞わんとして、弁証者は実は彼が初めそれを擁護せんが為に出発したその当のものを捨ててしまっているのである。ここにも、人生の他の諸方面に於けると等しく、吾々は、最も擁護に困難であると考えられる事柄が、しばしば最も擁護の価値のある所のものである事を見るものである。

第二章 教理[編集]

如何なる判断を以てしても、ともかく教会に於ける現代自由主義はもはや単なるアカデミックな問題ではない。それはもはや単なる神学校や大学の問題ではない。これに反して、キリスト教信仰の本質に向かっての自由主義の襲撃は、あるいは日曜学校教材により、あるいは講壇より、また宗教的出版物によって激しくなされつつあある。もしこの如き襲撃が不当であるとするならば、その救済策は、ある敬虔なる人々が我等に暗示するが如き、単なる神学校の閉鎖や、科学的神学の放棄には見出されるべくもない。否それは、むしろいっそう熱心に真理を探究することと、一度真理が発見せられた暁には、それにいっそう忠誠なる献身をなすことに見出されるであろう。

第三章 神と人[編集]

第四章 聖書[編集]

それ故に自由主義はキリスト教とは根本的に異なるものであるということは不可思議ではない、何となればその土台が異なるのであるから。キリスト教は聖書の上に建てられる。それはその思惟と生活とを共に聖書の上に据える。然るに他方自由主義は罪深き人間の移りゆく情緒の上に建てられるのである。

第五章 基督[編集]

第六章 救済[編集]

第七章 教会[編集]

書誌情報[編集]

タイトル    キリスト教とリベラリズム
タイトルよみ  キリストきょうとリベラリズム
責任表示    
西暦年     
出版事項    
形態      p;cm
NDC分類      
著者標目    ジョン・グレッサム・メイチェン
著者標目よみ  じょん・ぐれっさむ・めいちぇん
全国書誌番号  
請求記号    

この図書の著作権情報[編集]

 保護期間満了     -

脚注[編集]

この著作物は、1944年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


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