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むさし野の記行

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むさし野の記行

北條氏康


天文十五年仲秋の比。むさしのをみんとて。此とし月おもひたちぬる事なれば。人々あまたうちつれて。小鷹がりしてあそばむとて。みなみなかりの裝束して馬にうち乘。まづかまくらにまうでける。あなたこなたの古跡をながめ。八幡山より四方のけしきをながめ。小礒大礒をみわたせば。をしやかもめの波にたちさはぐをみれば。

 をし鴨のたつ白波の磯へよりあまのみるめを袖にうけはや

 大磯の波ちを分て行舟はうき世を渡るたつき成らん

すぎにし庚子のとし。宿願の事ありて。此宮にまうでけるが。やう八とせあまりにや成ぬらむとおぼえはべる。わか宮の御前にまいりて。

 たのみこし身はものゝふの八幡山いのる契りは万代まてに

さてこゝかしこの谷々山々。由比のはま。大鳥居。古寺古跡を詠め。あくれば藤澤の北松井の庄に。三田彈正忠氏宗が宿所に。一夜をあかして行に。これなむこよろぎの磯といふ。

 きのふたちけふこゆろきの磯の波いそいて行む夕暮の道

比は八月上旬。あさ霧ふかくわけ入て行に山あり。いは山といふ。此山のうしろは甲斐の山。北はちゝぶなど申はべる。それよりむさしのくに勝沼と云所につきぬ。齋藤加賀守安元此所の領主なり。つねみちの事申かよはしければ。山海の珍物數をつくし饗應しける。此所に二日逗留して。それよりむさし野をかりゆくに。まことに行どもはてのあらばこそ。はぎすゝき女郞花の露にやどれるむしのこゑ。あはれをもよほすばかりなり。

 むさし野といつくをさして分いらん行も歸るも果しなけれは

いにしへの草のゆかりもなつかしければなり。これもむらさきの一もとゆへなるべし。

 隔つなよ我世のなかの人なれはしるもしらぬも草の一もと

あくれば八月十三日。あさ霧いよふかくして。道もさだかにみえわかず。馬にまかせて行。長井の庄にもつきぬ。まことやわかむらさきの卷に。かゝるあさ霧をわけいらんとあるもこれなるべし。大澤の庄などを行に。やうやうすみ田川にもつきぬ。河づらをみれば。まことにしろき鳥のはしとあしとあかき鳥のむれゐて。魚をくふありさま。むかしをおもひいでて。

 都鳥隅田かはらに船はあれとたゝその人は名のみありはら

むかひは安房上總まのあたりに見わたさる。こゝに葛西の庄淨興寺の長老。とし八十餘にをよべるが迎にいでられ。寺內に立より一宿すべきよし申されければ。河をわたり。かの寺に行て一宿するに。夜に入。風ひやゝかに吹たり。松風入琴といふ事を思ひいでゝ。

 松風の吹聲きけはよもすからしらへことなるねこそかはらね

あくれば。駒をはやめかへらんとて。もとの道にさしかゝり。いつこよろぎの磯づたひ。日數つもりてけふは八月中旬にも成ぬ。小田原にこそつきにけれ。

右武藏野記行以扶桑拾葉集挍合了

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。