「らい予防法」違憲国家賠償請求事件判決文/section two

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第二節 我が国のハンセン病政策変遷等

第一 戦前の状況について

 一 「癩予防ニ関スル件」の制定

 我が国において、ハンセン病は、古くから「業病」とか「天刑病」として差別・偏見・迫害の対象とされてきた。そのため、ハンセン病患者の中には、故郷を離れて浮浪徘徊する者が少なくなく、そのような者は社寺仏閣等で物乞いをするなど、悲惨な状況にあった。これに対し、宗教家が救らい事業に乗り出し、特に、明治二〇年代以降、神山復生病院、慰廃園、回春病院、待労院等の私立療養所が開設されて、ハンセン病患者の療養に当たった。

 ところで、ハンセン病は、明治三〇年に制定された伝染病予防法の対象疾病に含まれていなかったが、伝染説が確立された第一回国際らい会議 (明治三〇年) 以降、ハンセン病予防に対する関心が高まり、明治四〇年に「癩予防ニ関スル件」が制定された。

 この「癩予防ニ関スル件」では、財政上の理由もあって、療養の途がなく救護者のない者のみが隔離の対象とされ、公衆衛生の点からは徹底を欠き、むしろ、ハンセン病が文明国として不名誉であり恥辱であるとする国辱論の影響を強く受けたものともいえるが、同時に、浮浪患者の救済法としての色彩を持つものでもあった。

 二 療養所の設置

 内務省は、「癩予防ニ関スル件」を制定した明治四〇年、まず二〇〇〇人の浮浪患者を収容する方針を決め、「癩予防ニ関スル件」四条一項所定の療養所の設置方針として、市街地への距離が遠くなく交通の便利な土地を選ぶことなどを決めた。

 しかしながら、実際の療養所建設は地元住民の反対運動で難航し、結局、次のとおり、全国五か所に府県連合立療養所 (以下「公立療養所」という。) が設置されたが、これらは必ずしも右方針どおりの立地条件ではなく、特に、大島療養所は、瀬戸内海の孤島に置かれた。

 第一区 全生病院 (東京都東村山市所在。後の多磨全生園)

 第二区 北部保養院 (青森市所在。後の松丘保養園)

 第三区 外島保養院 (大阪市所在。なお、昭和九年九月の室戸台風により壊滅的被害を受け、そのまま復興されなかった。)

 第四区 大島療養所 (香川県木田郡庵治町所在。後の大島青松園)

 第五区 九州療養所 (熊本県菊池郡合志町所在。後の菊池恵楓園)

 なお、大正四年ころ以降、療養所長から、入所患者の逃走防止等のために離島に療養所を設置すべきであるとの意見が度々出された。また、沖縄県の西表島に大療養所を建設するという構想もあったが、これは、地元住民の反対にあって実現しなかった。さらに、昭和一〇年三月一四日、衆議院で、療養所は外部との交通が容易でない離島又は隔絶地を選定して設置すべきであるという建議案が提出され、可決された。

 三 懲戒検束権の付与

 設置当初の療養所内では、風紀が乱れ、秩序維持が困難な状況にあった。そこで、大正三年に全生病院長であった光田が所内の秩序維持のための意見書を提出したことなどをきっかけとして、大正五年法律第二一号による「癩予防ニ関スル件」の一部改正により、「療養所ノ長ハ命令ノ定ムル所ニ依リ被救護者ニ対シ必要ナル懲戒又ハ検束ヲ加フルコトヲ得」 (四条ノ二) とされ、療養所長の懲戒検束権が法文化された。

 また、これに伴い、大正五年内務省令第六号により、「癩予防ニ関スル件」の施行規則 (明治四〇年内務省令第一九号) が一部改正され、懲戒検束権について、次のとおり定められた (なお、右規則五条ノ二第一項三号は、昭和二二年五月二日に厚生省令第一四号により削除された。)。

五条ノ二 療養所ノ長ハ被救護者ニ対シ左ノ懲戒又ハ検束ヲ加フルコトヲ得

 一 譴責

 二 三〇日以内ノ謹慎

 三 七日以内常食量二分ノ一マデノ減食

 四 三〇日以内ノ監禁

 前項第一二号ノ処分ハ第二号又ハ第四号ノ処分ト併科スルコトヲ得。第一項第四号ノ監禁ニ付イテハ、情況ニ依リ管理者タル地方長官又ハ代用療養所所在地地方長官ノ認可ヲ経テ其ノ期間ヲ二個月マデ延長スルコトヲ得

 五条ノ三 前条ノ外懲戒又ハ検束ニ関シ必要ナル細則ハ管理者タル地方長官又ハ代用療養所所在地地方長官ノ認可ヲ経テ療養所ノ長之ヲ定ム

 さらに、大正六年、右規則五条ノ三所定の施行細則が定められたが、右細則における懲戒検束事由の定めは極めて抽象的であり、恣意的な運用の危険をはらむものであった。例えば、風紀を乱したとか、職員の指揮命令に服従しなかったという理由で、減食等の処分の対象とされ、また、逃走し又は逃走しようとしたとか、他人を煽動して所内の安寧秩序を害し又は害そうとしたという理由で、監禁等の処分の対象とされた。

 このような懲戒検束権の法制化により、療養所長の取締りの権限が大幅に強化され、療養所の救護施設としての性格は後退して、強制収容施設としての性格が更に顕著になった。

 四 断種 (ワゼクトミー) の実施

 我が国の公立療養所では、当初、男女間の交渉を厳重に取り締まったが、それでも所内の男女交渉は絶えず、出産に至ることも少なくなかった。そのため、療養所内での出生児の養育を許さない方針であった療養所側は、その扱いに苦慮するようになった。それでも、男女間の交渉を認めることが療養所の秩序維持に役立つと考えた光田 (当時全生病院長) が、大正四年から、結婚を許す条件としてワゼクトミー (精管切除) を実施したことをきっかけとして、全国の療養所でこれが普及するようになり、昭和一四年までに一〇〇〇人以上の患者にワゼクトミーが実施され、妊娠した女性に対しては、人工妊娠中絶が実施された。

 なお、昭和二三年の優生保護法制定前に患者本人及び配偶者の同意を得ないで優生手術が行われることが少なからずあったこと並びに優生保護法制定後も同様のことが皆無ではなかったことは、昭和二四年九月一〇日付け国立癩療養所長あて国立療養所課長通知によって、十分にうかがわれる。

 なお、国民優生法 (昭和一五年法律第一〇七号) には、ハンセン病患者に対する優生手術や人工妊娠中絶の規定が設けられず、ハンセン病患者に対する優生手術や人工妊娠中絶を認める旧法の改正案も不成立に終わったことから、右のような優生手術は、昭和二三年の優生保護法制定まで、法律に明文の根拠なく行われていたものであった。

 五 第一期増床計画

 大正八年に政府が行ったらい患者一斉調查によれば、患者数が約一万六二〇〇人であり、このうち療養の資力がない患者は約一万人とされた。これに対し、療養所の収容能力は十分ではなく、収容患者数はまだ一五〇〇人にも満たなかった (別紙五参照)。

 そこで、内務省は、大正一〇年、大正一九年 (昭和五年) までの一〇年間に、初の国立療養所を新設するとともに既存の五か所の公立療養所を拡張して、病床数を五〇〇〇床とする第一期増床計画を策定した。

 右計画の実現は遅れたが、昭和一一年ころまでにはその目標を達成するに至った。

 六 入所対象の拡張等

 内務省は、大正一四年、衛生局長の地方長官あて通牒により、「癩予防ニ関スル件」三条一項の「療養ノ途ヲ有セズ」の解釈については、「なお未だいずれの患者といえども、ほとんど療養の設備を有せざるものと考うるの外なき状況にこれあり。なお救護者なる字句については、扶養義務者なると否とを問わず、常に患者を扶養するにとどまらず、療病的処遇を与うるものなることのいいと解すべく、かたがた患者の入所資格は相当広きものと解せられ」として、事実上すべての患者を入所の対象とすることとした。

 なお、内務省衛生局予防課長の高野六郎は、大正一五年五月発行の「社会事業」に掲載された「民族浄化のために」という論稿において、次のとおり記述している。すなわち、「癩病は誰しも忌む病気である。見るからに醜悪無残の疾患で、之を蛇蝎以上に嫌い且怖れる。(中略)ママこんな病気を国民から駆逐し去ることは、誰しも希ふ所に相違ない。民族の血液を浄化するために、又此の残虐な病苦から同胞を救ふために、慈善事業、救療事業の第一位に数へられなければならぬ仕事である。(中略)ママ要するに、癩予防の根本は結局癩の絶対隔離である。此の隔離を最も厳粛に実行することが予防の骨子となるべきである。」と記述しているのである。このような「民族浄化」の発想は、過酷な人権侵害を生んだその後の隔離政策に少なからぬ影響を与えたものと考えられる。

 七 旧法の制定

 昭和六年に「癩予防ニ関スル件」がほぼ全面的に改正され、「癩予防法」との題名を附された上、旧法が成立した。主な改正点は、次のとおりである。

 1 入所対象の拡張

 右改正により、療養所の入所対象に「療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノ」(「癩予防ニ関スル件」三条一項) との限定がなくなり、「癩患者ニシテ病毒伝播ノ虞アルモノ」が隔離の対象とされた (旧法三条ー項)。

 2 従業禁止規定等の新設

 右改正により、行政官庁は、らい予防上必要と認めるときは、「癩患者ニ対シ業態上病毒伝播ノ虡アル職業ニ従事スルヲ禁止スルコト」ができ (旧法二条ノ二第一号)、また、「古着、古蒲団 (中略)ママ其ノ他ノ物件ニシテ病毒ニ汚染シ又は其ノ疑アルモノノ売買若ハ授受ヲ制限シ若ハ禁止シ、其ノ物件ノ消毒若ハ廃棄ヲ為サシメ又ハ其ノ物件ノ消毒若ハ廃棄ヲ為スコト」ができる (同条ノ二第二号) とされた。

 八 「癩の根絶策」

 内務省衛生局は、旧法成立前の昭和五年一〇月、「癩の根絶策」を発表した。

 これによれば、ハンセン病は「惨鼻の極」であり、「癩を根絶し得ないやうでは、未だ真の文明国の域に達したとは云へ」ず、「癩を根絶する方策は唯一つである。癩患者を悉く隔離して療養を加へればそれでよい。外に方法はない。欧州に於て、古来の癩国が病毒から浄められたのは、何れも病毒に対する恐怖から、患者の絶対的隔離を励行したからである。(中略)ママ現今も患者の隔離が唯一の手段であり、最も有効なる方法なのである。若し十分なる収容施設があつて、世上の癩患者を全部其の中に収容し、後から発生する患者をも、発生するに従つて収容隔離することが出来るなれば、十年にして廉患者は大部分なくなり、二十年を出でずして痛の絶滅を見るであらう。(中略)ママ然しかくの如き予防方法が講ぜられない場合は、癩はいつまで経っても自然に消滅することはない。過去の癩国は永久に癩国として残る。」とされ、癩根絶計画案として、二〇年根絶計画、三〇年根絶計画、五〇年根絶計画の三つを挙げている。

 これは、ハンセン病に対する恐怖心・嫌悪感をいたずらに煽り立て、国辱論も交えながら、ハンセン病患者をことごとく隔離する絶対隔離政策が唯一の正しい方策でありこれを行わなければハンセン病の恐怖からは永久に逃れられないとの強迫観念を国民に植え付けるものである。

 癩根絶計画は直ちには実施されなかったが、昭和一〇年に二〇年根絶計画の実施が決定され、昭和一一年からの一〇年間に療養所の病床数を一万床とし、さらにその後の一〇年間でハンセン病を根絶することとされた。

 九 療養所の新設

 第一期増床計画、旧法制定、二〇年根絶計画等に伴い、昭和五年三月に初の国立療養所である長島愛生園が岡山県邑久郡邑久町の瀬戸内海の小島に開設されたのを始めとして、次のとおり、国立療養所の開設が続いた。

 昭和七年一一月 栗生楽泉園 (群馬県吾妻郡草津町所在)

 昭和八年一〇月 宮古療養所 (沖縄県平良市所在。後の宮古南静園)

 昭和一〇年一〇月 星塚敬愛園 (鹿児島県鹿屋市所在)

 昭和一三年一一月 国頭愛楽園 (沖縄県名護市所在。後の沖縄愛楽園)

 昭和一四年一〇月 東北新生園 (宮城県登米郡迫町所在)

 昭和一六年七月 松丘保養園、多磨全生園、邑久光明園、大島青松園及び菊池恵楓園が国立療養所

 昭和二〇年一二月 駿河療養所 (静岡県御殿場市所在)

 一〇 無らい県運動

 無らい県運動は、昭和四年における愛知県の民間運動が発端になり、その後、岡山 県、山口県などでも始まった。しかしながら、日中戦争が始まった昭和一一年ころから、この運動の様相が変化し、全国的に強制収容が徹底・強化されるようになった。昭和一五年には、厚生省から都道府県に次の指示が出された。すなわち、「らいの予防は、少なくとも隔離によりて達成し得るものなる以上、患者の収容こそ最大の急務にして、これがためには上述の如く収容、病床の拡充を図るとともに、患者の収容を励行せざるべからず。しかして患者収容の完全を期せんがためには、いわゆる無らい県運動の徹底を必要なりと認む。(中略)ママこれが実施に当たりては、ただに政府より各都道府県に対し一層の督励を加うるを必要とするのみならず、あまねく国民に対し、あらゆる機会に種々の手段を通じてらい予防思想の普及を行ない、本事業の意義を理解協力せしむるとともに、患者に対しても一層その趣旨の徹底を期せざるべからず。」と指示されたのである。

 こうして、戦時体制の下、全国津々浦々で、無らい県運動により、山間へき地の患者をもしらみつぶしに探索するなどの徹底的な強制収容が行われ、これまで手が付けられていなかったハンセン病患者の集落もその対象となった。例えば、昭和一五年七月には、多くのハンセン病患者によって形成されていた熊本県のいわゆる本妙寺部落で強制収容が行われ、一五七名が検挙された。

 このような無らい県運動の徹底的な実施は、多くの国民に対し、ハンセン病が恐ろしい伝染病でありハンセン病患者が地域社会に脅威をもたらす危険な存在であるとの認識を強く根付かせた。

第二 戦後、新法制定までの状況について

 一 栗生楽泉園特別病室事件の発覚

 戦後間もなく、戦時体制下における療養所内での過酷な人権侵害の実態が明らかになったのが栗生楽泉園特別病室事件である。

 この特別病室は、昭和一四年に設置された重監獄で、厳重な施錠がなされ、光も十分に差さず、冬期には気温がマイナス一七度にまで下がるという極めて過酷な環境であり、全国の療養所で不良患者とみなされた入室者の監禁施設として利用された。特別病室に監禁された九二人の監禁期間は、平均約四〇日で、施行規則で定められた二か月の期間 (前記第一の三参照) を超えて監禁されていた者も多く、監禁期間は最長で一年半にも及んでいた。被監禁者は、右のような厳寒の環境において、十分な寝具や食料も与えられず、九二人のうち一四人が監禁中又は出室当日に死亡しており、監禁と死亡との間に密接な関係があると厚生省が認めた者は計一六人に上る。監禁された理由については、書類不備のため明らかでないものが多いが、他の被懲戒者と連座的に監禁された者もいるなど、懲戒検束規定の運用が極めて恣意的に行われていたことがうかがわれる。

 この特別病室事件は、昭和二二年八月に大きく報道され、厚生省や国会による調査団が現地に派遣された。そして、同年一一月六日の衆議院厚生委員会において、厚生大臣及び東龍太郎医務局長 (以下「東局長」という。) がこの問題についての答弁をし、右実態が明らかになったのである。

 なお、東局長は、同日の厚生委員会において、「最近におきましては、癩治療ということに対して、非常に大きな光明を見出しつつありますから、治療を目的とするところの全癩患者の収容ということを、一つの国策としてでも取上げていくようにいたしたい」と述べており、厚生省において既にプロミン治療効果を認識していたことがうかがわれる。

 二 優生保護法の制定

 昭和一五年に制定された国民優生法は戦後間もなく廃止され、これに代わるものとして、昭和二三年に、らい条項を含む優生保護法が制定された。

 戦前の国民優生法にらい条項は設けられず、ハンセン病患者に対する優生手術や人工妊娠中絶を認める旧法改正案も、様々な議論を経て結局可決されなかったが、この優生保護法の審議過程においてらい条項が特に問題視された形跡はない。

 なお、昭和二四年から平成八年までに行われたハンセン病を理由とする優生手術は一四〇〇件以上、人工妊娠中絶の数は三〇〇〇件以上に上る (別紙三参照)。

 三 プロミンの予算化

 我が国においても、昭和二二年以降プロミンの有効性が明らかになっていったが、このことは、国会審議でも取り上げられ、東局長は、昭和二三年一一月二七日の衆議院厚生委員会において次のとおり答弁している。すなわち、「幸いにこの患者が一日千秋の思いでおりますプロミンの製剤は、国内において生産がされるように相なりましたし、またプロミンよりも一歩進みましたプロミゾールも、最近はその生産ができそのサンプルを数日前私どももいたたいております。(中略)ママもし十分な予算を獲得することを得ましたならば、癩患者の全部に対して、この進んだ治療薬による治療を与えることもできる。その日の遠からざることを私は信じておるのでありまして、癩というものは、普通の社会から締め出して、いわゆる隔離をして、結局その隔離をしたままで、癩療養所に一生を送らせるのだというふうな考えではなく、癩療養所は治療をするところである、癩療養所に入って治療を受けて、再び世の中に活動し得る人が、その中に何人か、あるいは何百人かあり得るというようなことを目標としたような、癩に対する根本対策――癩のいわゆる根絶策といいますか、全部死に絶えるのを待つ五〇年対策というのではなく、これを治癒するということを目標としておる癩対策を立てるべきじゃないかと私ども考えております。」と述べているのである。

 また、プロミンの登場は、患者に大きな希望を与えたが、当初、プロミンを広く普及させるだけの予算措置が採られていなかった。これに対し、まず、昭和二三年に多磨全生園でプロミン獲得促進委員会が結成され、これを中心にプロミン獲得運動が全国に波及し、ハンスト等も行われた。その結果、昭和二四年度予算で、患者らのほぼ要求どおりのプロミンの予算化が実現した。

 四 戦後の第二次増床計画と患者収容の強化

 厚生省は、昭和二五年八月に全国らい調査を実施した。これによると、登録患者が一万二六二八人、このうち入所患者が一万〇一〇〇人、未収容患者が二五二六人であり、未登録患者を合わせた患者数は一万五〇〇〇人と推定された。五〇年前の明治三三年の調査で患者総数が三万〇三五九人 (なお、把握漏れも相当あると思われる。) とされたのと比較すると、ハンセン病の患者数が五〇年間で半減あるいはそれ以下に減少したことになる。また、有病率は、人口一万人当たり六・九二人 (明治三三年) から一・三三人 (昭和二五年) と約五分の一になった。

 厚生省は、昭和二五年ころ、すべてのハンセン病患者を入所させる方針を打ち立て、これに基づき、全患者の収容を前提とした増床を行い、患者を次々と入所させていった (後記六の三園長発言のほか、昭和二四年六月の全国所長会議のメモである甲二一〇。なお、右メモについては、《証拠略》ママにおける成田の証言参照)。昭和二四年五月一九日付けの新聞記事によれば、「厚生省は、三〇年計画で日本からライ病を根絶するためその潜在患者を発見すべく全国的にライの一せい検診に乗出した。」、「全国六八九の保健所を動員して潜在患者の発見に努めるわけだが厚生省ではこれと併行して今年度中に国立療養所の病床を二〇〇〇増床して、とりあえず発見患者を入所保養させ、さらに明年度は二六〇〇床を増床する一方近く癩予防法を改正して三〇年計画でライを絶滅させる」、「各市町村の衛生官と警官が協力してライ容疑者名簿を作る」、「結核や乳幼児の集団検診の際保健所係員が現場へ出張して容疑者を発見する一方、保健所では一般住民からの聞込みや投書で容疑者発見につとめる」とされている。

 増床の状況は、別紙四のとおりであり、昭和二四年度から昭和二八年度までに五五〇〇床の増床が実現し、療養所の収容定員が一万三五〇〇人となった。そして、昭和二八年の調査で、未登録患者を含む推定患者数が約一万三八〇〇人とされたので、この時点でほぼ全患者の収容が可能になり、増床が終了した。

 また、昭和二六年度から昭和三〇年度までの新入所者は、次のとおりであり、療養所の増床に合わせて患者収容の強化が図られ、在宅患者が二七六九人 (昭和二五年一二月末) から 一二二人(昭和三〇年一二月末) に減少した。

 昭和二六年度 一一五六人

 昭和二七年度 六五四人

 昭和二八年度 五六三人

 昭和二九年度 五六六人

 昭和三〇年度 六〇八人

 なお、明治三三年から平成六年までの患者数、在所患者数、有病率、新発見患者等の推移は、別紙五のとおりである。

 五 栗生楽泉園殺人事件とその影響

 昭和二五年一月一六日、栗生楽泉園で入所者同士の反目から三人の入所者が殺害されるという事件が発生した。

 このことは、同年二月一五日の衆議院厚生委員会で取り上げられ、光田 (当時長島愛生園長) らが患者の取締りの強化を訴えた。

 また、同年三月一七日の衆議院厚生委員会では、同月七日から同月一〇日まで栗生楽泉園の実地調査を行った丸山直友委員が、楽泉園殺人事件のような不祥事が起こらないようにするためには、園の周囲に柵をめぐらせ患者が自由に外出できないようにすること、現行の懲戒検束規定が憲法違反でないとの明確な解釈を加えることなどが必要である旨述べた。これに対し、佐藤藤佐刑政長官は、「癩患者の特殊性にかんがみまして、療養所の中で脱走を防ぐため、あるいは園内の秩序を維持するために、ある程度の懲戒処分をしなければならぬという必要は、当然認められるのでありまして、癩予防法の法律の委任を受けて、現在は癩予防法施行規則というものを省令で規定されておりますが、この法令の根拠がありますれば、必要なる限度において懲戒処分を行うことは適法である。」として、新憲法下でも旧法の懲戒検束規定に基づき懲戒処分を行うことができる旨の答弁をした。

 六 三園長発言

 1 三園長発言の内容

 参議院では、新たなハンセン病政策を検討するため、厚生委員会に「らい小委員会」が設けられたが、昭和二六年一一月八日、同委員会において、林芳信多磨全生園長 (以下「林」という。)、光田長島愛生園長、宮崎松記菊池恵楓園長 (以下「宫崎」という。) を含む五人の参考人からの意見聴取が行われた。ここでの三園長の発言が、いわゆる三園長発言 (三園長証言) であり、その内容は以下のとおりである。

 まず、林は、患者の収容強化について、「まだ約六千名の患者が療養所以外に未収容のまま散在しておるように思われます。でありますから、これらの患者は周囲に伝染の危険を及ぼしておるのでございますので、速やかにこういう未収容の患者を療養所に収容するように、療養施設を拡張して行かねばならんと、かように考えるのであります。」、「癩予防は現在のところ伝染源であるところの患者を療養所に収容するということが先ず先決問題でございますが (中略)ママ、時勢に適合するように改正されることが妥当であろうと考えます。」と述べている。一方、治療については、「現在相当有効な薬ができまして、各療養所とも盛んにこれを使用して (中略)ママ治療の効果も相当に上りまして、各療養所におきましても患者の状態が一変したと申しママよろしいのでございます。(中略)ママもう一歩進みますれば全治させることができるのではないかと思うのであります。只今も極く初期の患者でありますれば殆ど全治にまで導くことができておるような状態でございます。」と述べている。

 次いで、光田は、患者の収容強化について、「癩は家族伝染でありますから、そういうような家族に対し、又その地方に対してもう少しこれを強制的に入れるような方法を講じなければ、いつまでたっても同じことであると思います。(中略)ママ強権を発動させるということでなければ、何年たっても同じことを繰返すようなことになって家族内伝染は決してやまない」、「手錠でもはめてから捕まえて、強制的に入れればいいのですけれども (中略)ママちよっと知識階級になりますと、何とかかんとか言うて逃がれるのです。そういうようなものはもうどうしても収容しなければならんというふうの強制の、もう少し強い法律にして頂かんと駄目だと思います。」、「神経癩であろうと、癩の名のつくものは私どもはやはり隔離しておかねばこれはうつるものだというふうに考えるのであります。」と述べている。また、断種等については、「予防するにはその家族伝染を防ぎさえすればいいのでございますけれども、これによって防げると思います。又男性、女性を療養所の中に入れて (中略)ママ結婚させて安定させて、そうしてそれにやはりステルザチョン即ち優生手術というようなものを奨励するというようなことが非常に必要があると思います。」と述べている。また、治療については、「ひどく癩菌が増殖して潰瘍をつくる、その潰瘍を治癒せしめるということだけはできるのでありますけれども (中略)ママ神経繊維の再生はできないのであります。それでありますから依然として癩菌が少くママなったから、これを出すことができるものならいいが、依然として、そういうような患者さんは外部において又いろいろの職業に従事いたしまするというと、又ひどく破壊が起るのであります。現在の有力なる治療でも再発を防ぐということはなかなか私は難しいように思うのであります。」と述べている。また、療養所内の秩序維持については、「療養所の中にいろいろ民主主義というものを誤解して患者が相互に自分の党を殖やすというようなことで争いをしているところがございますし、それは非常に遺憾なことで、患者が互に睨み合っているというようなことになっておりますが、これは患者の心得違いなのでありますが (中略)ママこういうような療養所の治安維持ということについて、いろいろ現状を調べましたり、強制収容の所をこしらえたり、各療養所においてしておりますけれども、まだまだこれが十分に今のところ行届きませんので、こういうようなことをもう少し法を改正して闘争の防止というようなことにしなければ、そういうような不心得な分子が院内の治安を紊し、そうして患者相互の闘争を始めるようなことになるのでありますから、この点について十分法の改正すべきところはして頂きたい」、「逃走罪という一つの体刑を科するかですね、そういうようなことができればほかの患者の警戒にもなるのであるし (中略)ママ逃走罪というような罰則が一つ欲しいのであります。これは一人を防いで多数の逃走者を改心させるというようなことになるのですから、それができぬものでしょうか。」と述べている。

 さらに、宮崎も、患者の収容強化について、「癩の数を出しますことは古畳を叩くようなものでありまして、叩けば叩くほど出て来る」、「癩は努力すればするほどそれに比例して効果が挙るものだと思っております。反対に折角やった癩予防対策も中途半端なものでありますれば、いつまでも解決いたしませんで長く禍根を残す。癩問題はやるならば徹底的にやるという方針をとって頂きたい (中略)ママ徹底的にいわゆる完全収容、根本的に解決をして頂くということにして頂きたいのでございます。」、「戦争状態の回復に従いまして癩も又当然減少して来るとは考えますが、この際癩予防対策の度を決して緩めないように、最後の完全収容に向って努力を傾注して頂きたいのであります。」、「現在の法律では私どもはこの徹底した収容はできないと思っております。 (中略)ママいわゆる沈殿患者がいつまでも入らないということになれば、これは癩の予防はいつまでたっても徹底いたしませんので、この際本人の意思に反して収容できるような法の改正ですか、そういうことをして頂きたいと思っております。」と述べている。一方、治療については、「癩の治療医学は最近非常に進歩して参りまして、林園長もお話になりましたように、私ども今までにない画期的な希望を持っております。」としつつ、「如何に特効的な治療薬ができましても、すでに欠損した体の一部分は再生して参りませんし、畸形になった部分は元に復するということは困難であります。(中略)ママ医学的にこれは治癒したと申しましても社会復帰ができない状態になります。(中略)ママ社会的復帰ができないということは、不治と同じであります。(中略)ママ治りましたならば直ちにこれが社会復帰のできるような状態で早期の治療をするような国としての措置をとって頂きたい」と述べている。

 なお、委員長は、冒頭に「我が国癩予防は最近著しく進歩を遂げ、患者も夥しく減少して参りました」、「幸いに治療法も進んで参りましたようであります」として、「癩予防法も時代に即応いたしまして改正、改善等の必要を考えておるのであります」と述べている。

 この三園長発言は、結果として、新法の内容に反映されることになり、また、その後のハンセン病行政にも大きかママ影響を与えた。

 2 三園長発言の評価

 三園長発言は、患者の完全収容の徹底とそのための強制権限の付与、懲戒検束権の維持・強化、無断外出に対する罰則規定の創設等を求めるものであり、その内容もさることながら、ハンセン病患者を「古畳の塵」に例えるなど、表現の端々にも患者の人権への配慮のなさが如実に現れており、当時の療養所運営の在り方をもうかがわせるものである。

 当然のことながら、この三園長発言に対する後の評価も厳しい。例えば、大谷は、「(当時の国際的な知見から見て) 本当に信じられないような発言であります。」、「新しい時代というものを全然認識していなかった発言だと思います。」、「ステレオタィプ以外の何者ママでもない。」と証言し、また、その著書の中でも「新しい時代に全く逆行して患者の解放に歯止めをかけようとする証言」、「当時の日本のらい医学専門家の時代錯誤の見解」と評している。また、犀川は、その著書の中で「三園長が揃いも揃って、なぜ『強制収容』とか『消毒の実施』『外出禁止』などを強調されたのか、その真意のほどは理解に苦しむし、残念なことである。」と記逑している。また、成田は、意見書において、「手錠でもはめてから捕まえて強制的に入れればいい」との光田の発言について、「医師としての認識からするとかけ離れ」たものであり、「患者を罪人扱いして取り締まるという潜在意識が働いたと言われても仕方がない。」とし、その著書の中でも、三園長発言からの印象として、「光田と宫崎は非常識で頑迷」と評している。

 なお、光田の著書によると、三園長は、右発言後、入所者から糾弾を受け、光田以外は発言をあっさりと撤回したとのことである。

 七 予防法闘争

 日本国憲法施行に伴い、療養所入所者の人権意識が高まり、栗生楽泉園特別病室事件、プロミン獲得運動等を契機に入所者が団結して隔離政策からの解放を求める動きが活発になった。そして、昭和二六年二月、患者らの全国組織である全患協が結成され、これを中心として、旧法の改正運動が盛んになった。この運動は、時代に逆行するものというべき三園長発言によって、一層の盛り上がりを見せ、三園長を糾弾する動きに発展した。

 昭和二八年三月に内閣が提出したらい予防法案を入手すると、入所者らは、旧法と比べてほとんど改善されていないとして強く反発し、予防法闘争と呼ばれるハンストや作業スト、国会議事堂前での座り込み等の激しい抗議行動に入った。

 八 衆議院議員長谷川保の質問に対する内閣総理大臣の答弁書

 衆議院議員長谷川保は、「癩予防と治療に関する質問主意書」において、「現行癩予防法は、その精神において人権を無視したきわめて非民主的なものと考えられ、且つ、現下の癩行政に適合しない法律として、多くの疑義がある」として、一五項目の質問をした。

 これに対し、内閣総理大臣吉田茂は、昭和二七年一一月二一日付けで、これに対する答弁をしたが、その内容は、次のとおりである。

 1 癩予防法は、憲法に抵触するとは考えない。

 2 現行法第三条第一項の規定により、患者をその意思に反して療養所に収容することは可能である。癩患者の収容については、あたう限り、勧奨により患者の納得をまって収容するように努め、大部分はこれによって目的を達しているが、この勧奨に対してもがん迷に入所を拒否する少数の患者については、癩病毒の伝播を防止し、公共の福祉を確保するために入所命令書を交付し、入所せしめた例もある。

 3 現行法第四条ノ二の規定により、国立療養所の長が懲戒検束を行うことは可能である。

 癩療養所は、一つの特殊な社会集団であって、この集団の中において秩序を乱すものに対しては、集団からの退去を求めることが、秩序維持のために通常とられる措置であるが、癩及び癩療養所の特殊性から癩患者を癩療養所から退所させることは、公共の福祉の観点から適当でないと認められるので、国立療養所の長に療養所の秩序を維持するための懲戒検束の職権を与えることが必要である。

 この職権の行使については、慎重を期するように特に強く指導しているが、この懲戒検束の方法等については、今後とも充分検討致したい。

 10 患者が治ゆした場合において、退所の措置がとられるのは、当然のこととして規定せられていない。

 11 癩の伝染力については、種々の学説があるが、伝染性の疾病であることについては一致しており、特に小児に対する伝染力は相当強いものと考えられる。

 12 現行法については、新憲法施行後においてもこれに抵触するとは認められなかったので、改正を行わなかった。

 13 現在のところ改正法案を提案する予定はないが、今後とも慎重に検討致したい。

 九 新法の国会審議

 1 らい予防法案の提出と提案理由

 昭和二八年三月一四日、内閣かららい予防法案が提出されたが、同日の衆議院解散により、同法案は廃案となった。

 同法案は、同年六月三〇日、内閣から再び提出された。

 同法案の提出理由は、次のとおりである。すなわち、「癩は慢性の伝染性疾患であり、一度これにかかりますと、根治することがきわめて困難な疾病でありまして、患者はもちろん、その家族がこうむります社会的不幸ははかり知れないものがあるのであります。」、「〔癩予防法は) 今日の実情にそぐわないと認められる点もありますので、これを全面的に改正したらい予防法を新たに制定しようとするものであります。」というものである。また、新法六条については、「癩を予防しますためには、患者の隔離以外にその方法がないのでありまして、(中略)ママ患者の療養所への入所後におきまする長期の療養生活、緩慢な癩の伝染力等を考慮いたし、まず勧奨により本人の納得を得て療養所へ入所させることを原則といたし、これによって目的を達しがたい場合に入所を命じ、あるいは直接入所させる等の措置が特例的にとられることと相なっておるのであります。」と説明された。

 2 衆議院における審議

 衆議院では、まず、昭和二八年七月三日及び同月四日の二日間、厚生委員会において審議が行われた。

 この中で、曾田長宗厚生省医務局長 (以下「曾田局長」という。) は、「癩を伝染させるおそれがあるものについて、癩予防上必要があると認めるときに限ってこの積極的な勧奨をいたすということになっておりますので (中略)ママこの必要以外の者で入所を希望しない者は、入所の義務がないということになるわけでございます。、ママ「(ただ、入所義務がない) にもかかわらず本人が希望して在所いたしますという場合には、将来他にそういういわば回復者の収容施設というもの、これは予防上の見地というよりも、むしろ純粋に社会福祉的な施設というようなものが設けられるようになれば、そういう施設に収容さるべき人たちであると思うのでありますが、また私どももそういう施設が将来においては必要になって来るものと予想いたしておりますが、今曰においてはまだそういう人たちは数がきわめて少うございますので、非常にお気の毒ではありますが、もしも御本人が希望されるならば、一般の患者と同じ規律に従っていただきたいということになっております。その規律に従うことが意に反するならば、さような方々は自由に退所できるということになっております。」と述べている。ただ、伝染のおそれの有無の判断については、「感染の危険性がある者、ない者というふうに、はっきりわけるわけにも行かない」、「ただちに採用し得る基準が求められない」と述べている。また、山ロ正義厚生省公衆衛生局長 (以下「山ロ局長」という。) も、「感染の危険性というものは相対的なもので」とし、伝染の危険性のない患者は「非常に数が少いママ」と述べている。

 他方、山口局長は、治療について、「最近の医学の進歩によりまして、治療が非常に進歩して参りましたので、相当これは――全然菌をなくし得るかどうか、全治ということにつきましては異論もございますが、非常に軽快させ得るものであるという立場に立ってこれを取扱っております。」、「プロミン注射によりますと結節、浸潤などは、効果は治療開始後一箇月前後から現われて参りまして、六箇月前後で非常に軽快いたします。」と述べている。

 衆議院厚生委員会は、以上の審理を経た上、同日、自由党及び改進党の議員が賛成意見を、日本社会党の議員が反対意見を述べ、採決により多数をもって原案どおり可決すべきものと議決した。

 これを受けて、同日、衆議院において、らい予防法案が採決され、賛成多数で可決された。

 3 次いで、衆議院かららい予防法案の送付を受けた参議院では、昭和二八年七月六日から厚生委員会において審議が行われた。

 この中で、山口局長は、同月九日の厚生委員会において、「伝染させるおそれ」の解釈について、「らい菌を証明いたしますか、或いはらい菌を証明いたしませんでも、臨床的にらい菌を保有すると認められる患者 (中略)ママ例えば皮膚及び粘膜にらい症状を呈するもの、神経らいで神経の肥厚を伴うもの、神経らいで肥厚を認めないけれども、萎縮麻痺を認める、それが限局していないというようなものを考える」と述べている。また、曾田局長は、「例えば菌が一回、二回或いは一ヵ月というような程度証明されませんでも、まだその二ヵ月後、三ヵ月後に出る虞れがあるというふうに考えられます限り、病院としては感染の虞れが全くなくなったというふうには断定いたさないような状況であります。」と述べている。

 また、山口局長は、伝染させるおそれがある患者の扱いについて、「やはりどうしてもそれが療養所に入所を肯んじないようなときには無理にでも入所させて治療を受けさせ、そうして公衆衛生上の害を取除かなければならないというふうに考えておるのでございます。」、「伝染させる虞れがあるという患者はやはり収容するという方針をとるわけでございます。」と述べ、伝染させるおそれがある患者がそのまま入所の対象になるとの見解を明らかにしている。また、山縣勝見厚生大臣 (以下「山縣大臣」という。) は、強制入所について、「やはり勧奨によってできるだけやりたい (中略)ママ抜かざる宝刀によりまして空文に帰しましたら結構なことでありまするが」と述べつつも、勧奨にどうしても応じない場合のために強制収容の規定が必要である旨述べている。これに対して、山下義信議員は、「伝家の宝刀ということは極めてあいまいだ。(中略)ママいつでも伝家の宝刀をひらめかし、聞かなければ強制収容するぞと (中略)ママその実態は強制じゃないですか。」などと批判している。

 他方、曾田局長は、治療について、根治させることができると断定することはまだまだ難しい段階にあるとしながらも、「プロミンその他の新らママしいらい治療剤が広く使用されるようになりまして、患者の治療成績は非常に上って参りました。で、恐らく戦前の状況に比べますれば、著るママしい効果を挙げつつあるということが申上げられると思います。殊に病気の進行をとどめまして、病気を抑えるという意味におきましては極めて顕著な効果がある。」と述べ、山口局長も、同旨の答弁をしている。藤原道子議員は、「治療よろしきを得るならばこれは退院することができるのだ。こういう時代になってこれがもう我々の間では常識になっている」と述べている。

 また、廣瀨久忠議員は、「日本のらい患者の数がだんだんに数は減りつつあるという実情もある」と述べている。

 ところで、山口局長は、「先般医務局長が出席されましたWHOの総会におきましてらいに関する特別委員会の報告がございますが」と述べており、厚生省が当時既にWHO第一回らい専門委員会の報告を入手していたことが明らかであるが、その内容については「患者の収容ということについて強制力をどの程度使うかということについては、その国々の状況によって異なるというふうになっている」という程度の極めて不十分な説明に終わっている。

 厚生委員会では、退所規定を設けるなどの修正案が検討されたが、結局、各党派の意見調整ができず、改進党、自由党、緑風会等の議員が賛成意見を、日本社会党の議員が反対意見を述べ、採決により多数をもってらい予防法案を可決すべきものと決定されるとともに、新法附帯決議が全会一致で採択された。

 これを受けて、同年八月六日、参議院において、らい予防法案が採決され、賛成多数で可決された。

 4 衆参両議院での審議を通じて、病型によって伝染の危険性の程度に差があることは議論に上っているが、そもそもハンセン病が伝染し発病に至るおそれの極めて低い病気であるということに着目した議論はほとんどなされていない。

 一〇 「伝染させるおそれがある患者」の解釈

 新法六条一項等の「伝染させるおそれがある患者」についての厚生省の解釈は、前記九3の山口局長の答弁からすれば

  ①らい菌を証明するか、又は

  ②臨床的にらい菌を保有すると認められる者 (例えば、皮膚及び粘膜にらい症状を呈する者、神経らいで神経の肥厚を伴う者、神経らいで神経の肥厚を認めないが知覚麻痺・筋萎縮がありそれが限局していない者)

ということになる。

 この解釈は、昭和二八年八月一九日付け法務省入国管理局長あて厚生省医務局長回答にもそのまま反映されている。すなわち、右回答では、病状の進行が停止している神経らい患者のうち、「菌を証明せず且つ神経の肥厚がなく、知覚麻痺及び筋萎縮が限局性、停止性で少範囲にしか認められない」者を、伝染の危険がない者として隔離を行わないと回答しているのである。

 なお、昭和二九年ころ作成されたとされる「らい患者伝染性有無の判定基準」と題する書面には、次の記載がある。

 1 らいを伝染させる恐れのある患者とは、

 らい菌を証明する者及びらい菌は証明しないが活動性のらい症状を認める者

 2 らいを伝染させる恐れのない患者とは、

 相当の期間にわたってらい菌を証明せず、且つ活動性のらい症状を認めない者

 3 活動性のらい症状とは、

 ㈠ 皮膚及び粘膜にらい症状のあるもの

 ㈡ 神経らいで神経の肥厚の著明なもの

 ㈢ 神経らいで麻痺及び筋萎縮の著明なもの

 右書面の基準によれば、山口局長の答弁や右医務局長回答の基準よりも、「伝染させるおそれがある患者」の範囲がわずかに狭くなるが、右書面の体裁等からみて、この書面の基準が厚生省の正式な解釈基準として各療養所長や都道府県知事、新法五条の指定医師に周知・徹底されていたとは認められない。

 いずれにしても、未治療のハンセン病患者は、病型のいかんを問わず、何らかの皮膚症状や神経症状を呈することによってハンセン病であると診断されることがほとんどなのであるから、曾田局長や山口局長も認めるように (前記九2)、ハンセン病であるとの診断を受けながら、厚生省の基準によって「伝染させるおそれがない」と判断される未治療の患者は、ほとんど存在しないと考えられる。昭和二四年から昭和六一年まで国立らい療養所で勤務していた元松丘保養園長荒川巖 (以下「荒川」という。) は、意見書において、新法は条文上感染のおそれがある者のみを収容することとなっているが、現実の運用は、ハンセン病と診断されれば、感染のおそれがあるかどうかにかかわらず入所させなければならなかったと述べている。

 また、厚生省は、いったん「伝染させるおそれがある患者」と認められた者が、治療を経るなどして一度や二度の菌検査で陰性となっても、直ちに伝染のおそれがない患者になるとは考えておらず、相当長期間の経過観察による厳格な審査を経なければ、伝染のおそれがない患者とは判断されないとしている。この考え方は、参議院厚生委員会における曾田局長の答弁 (前記九3) に端的に現れており、後述する「らい患者の退所決定暫定準則」にも反映されているのである。

 被告は、昭和二八年七月八日の参議院厚生委員会において曾田局長が伝染のおそれの判断を厳格に行う旨言明していると主張する。確かに、曾田局長は、同日に「入所いたします場合には入所を強制しなければならんというに足りる相当確たる根拠がなければならん問題でありまして、この入所を命じますときにはより厳密なと申しますか、確かに感染の虞れがあるということがかなり高い程度に至りませんと必ずしも強制はしないというような立場をとっております。」、「入りますときにはらいの患者で、感染力のあるらいの患者であることが十分確実でなければこれを強いない。」と答弁している。しかしながら、その翌日である同月九日の山ロ局長の答弁が前述のとおりなのであるから、厚生省の伝染のおそれの解釈は限定的なものとは到底評価し得ない。なお、曾田局長は、同月八日において、「患者が十分治りきったというふうに断定するのによほど慎重にかからなければ、逆の意味で慎重に考えなければなりません」とも答弁しているのである。

第三 新法制定後の状況について

 一 新法制定後の通達の定め

 ハンセン病患者に対する隔離政策は、新法制定により継続されることになり、細目的事項が次のとおり通達によって定められた。

 1 「らい予防法の施行について」と題する昭和二八年九月一六日付け国立らい療養所長あて厚生事務次官通知

 この通知は、「患者に対しては、この疾病についての国の施策の趣旨をよく理解させ、外出の制限その他患者として守るべき義務を遵守して療養に専念するよう十分指導すること」としている。また、新法一五条については、「この規定の施行の適否は、公衆衛生に重大な影響を与えるものであるから、外出の許可にあたっては、特に慎重を期するとともに、患者に対しては、この規定の趣旨を徹底せしめ、違反することのないよう指導すること」とし、同条一項一号の「その他特別の事情がある場合」を、「患者の家庭における重大な家事の整理等であって本人の立会がなければ解決できない」ような場合に厳しく限定し、かつ、許可を受けて外出する患者に対して「外出許可証明書を交付し、携行させるよう配意すること」としている。さらに、秩序の維持についても、患者が当然に守るべき事項を「患者療養心得」において定め、飲酒、風紀をみだすような言動等の禁止、物品の持ち込み、持ち出し、文書、図画等の配布、回覧、掲出の制限など、私生活にわたる事項も事細かに規制している。

 2 「らい予防法の運用について」と題する昭和二八年九月一六日付け国立らい療養所長あて厚生省医務局長通知

 この通知は、療養所長が入所患者の外出を許可する場合における新法一五条三項の必要な措置として、「着衣及び所持品の消毒、経由地及び行先地における注意事項の指示等により、個々の患者について適当な措置をとること」、「外出の許可期間は必要なる最短期間とし、経由地についても、目的地への最短経路を標準にして定めること」、「外出目的、外出期間、行先地及び経由地を詳細に記載した台帳をそなえつけ、許可の条件に違反したと認められる患者がある場合には、行先地の本人に連絡をする等必要な措置を講ずること」としている。

 3 「らい予防法の施行について」と題する昭和二八年九月一六日付け各都道府県知事あて厚生事務次官通知

 この通知は、新法六条について、「患者が入所するのについて物心両面からの準備ができるよう、本人の病状及びその生活環境を考慮し、それぞれの実状に応じて懇切に説得を行うこと」、「勧奨に応じない者に対しては、法第六条第二項の規定による命令が出されるわけであるが、これは、患者の基本的人権に関係するところも大きいので、直ちに、この命令を発するという措置にでることはなく、先ずできるだけ患者及びその家族の納得をまって、自発的に入所させるよう勧奨し説得すること」、「法第六条第三項の規定により強制入所の措置がとられるのは、患者が入所命令を受けて正当な理由がなく、その期限内に入所しないとき、及び浮浪らい患者、国立療養所からの無断外出患者、従業禁止の処分を受けて、これに従わない患者等につき、公衆衛生上療養所に入所させることが必要であると認められ、しかも入所勧奨及び入所命令の措置をとるいとまがないとき等であること」としている。また、「法第一五条第一項の規定に違反して無断外出した場合、又は外出の許可を受けた者であっても許可の条件 (目的、期間、行先地、経由地等) に違反している場合、その者については、法第六条の規定により、情況によって、入所勧奨、入所命令等の措置をとり、或は入所の即時強制を行いうるものであること。なお、無断外出患者等については、法第二八条の規定により拘留又は科料の刑が科されることになったことに注意すること」としている。

 二 新法改正運動の経過

 全患協は、昭和二八年の予防法闘争に挫折したが、その後も新法附帯決議を軸に療養所内の処遇改善等の運動を継続した。

 そして、昭和三八年には、大規模な新法の改正運動が行われることとなり、次の一九項目からなるらい予防法改正要請書が作成された。

 1 「らい予防法」を「ハンセン氏予防法」と改められたい。

 2 「目的」(一条) 及び「義務」(二条) の中に治癒者の更生福祉を明確にされたい。

 3 「医師の届出」(四条) は指定医の診断による患者のみにされたい。

 4 「指定医の診察」(五条) は強制診察にならないように改められたい。

 5 「国立療養所への入所」(六条) は、強制入所にならないよう改め入所でき難い者には指定医療機関を設けて管理できるようにされたい。

 6 「従業禁止」(七条) は期間を定め、その範囲を最小限度にとどめ禁止期間の補償をされたい。

 7 「汚染場所の消毒」「物件の消毒、廃棄等」並びに「質問及び調査」(八条ないし一〇条)は廃止されたい。

 8 BCG接種による予防措置を法文化されたい。

 9 医療の確立を期するために、その具体的措置を法文化されたい。

 10 治癒した者には証明書を交付されたい。

 11 「国立療養所」は、医療システムを確立し、医学リハビリテーションを行われたい。

 12 入所者の外出 (一五条) は、予防上重大な支障をきたす恐れがある者を除いては、制限をしないように改められたい。

 13 「秩序の維持」(一六条) に関する特別の規制は廃止されたい。

 14 「物件の移動の制限」(一八条) は廃止されたい。

 15 退所者の保障を法文化されたい。

 16 各都道府県に指定医療機関を設け、在宅患者の医療を行われたい。

 17 「親族の援護」(二一条) に医療扶助を加え、在宅患者並びに退所者にもこれを適用されたい。

 18 現行法「第二七条」二項より七項「第二八条」を廃止されたい。

 19 「優生保護法」の中のらいに関する規定を削除されたい。

 全患協は、新法改正運動の一環として、まず、同年八月、厚生省、衆参両議院の社会労働委員等に対する陳情を行った。この際、若松厚生省公衆衛生局長は、全患協の陳情団に対し、「昔と現在のらいの状態は、学問の進歩によって大きく変ってきている。(中略)ママ学問の進歩に伴って予防法を改正するのは当然であるが、長い伝統があるので一挙に国民の理解を得ることは難かしいし、結核より伝染力が弱いからといっても一ぺんにそこまでかえることは難かしい。」、「昔の政策が誤っていたからと云って、今責任をとれと云われても難かしいし、わたしとしても国の政策が誤っていたと考えていない。尚、予防法は進歩した医学に基づいて改正したい。しかし改正しなければ何事も出来ないということではなく、出来ることはどんどんやって行きたい。」と述べた。

 また、同年一〇月には、厚生省、大蔵省及び参議院社会労働委員に対する陳情が行われ、厚生大臣及び参議院社会労働委員全員に新法の改正要請書を提出された。この際、小西宏厚生省公衆衛生局結核予防課長は、「三九年度にらい予防制度調査会を作るべく予算要求している。その調査会において制度の改正について考えたい。」、「長く続いている制度を替えることは時間がかかる。厚生省としても早く改正したいと思うが、長く療養所に関係している者の頭が変らないから難かしい。」、「偏見除去については、予算をとることがPRになり、法律改正とPRは表裏一体と考えている。」と述べた。

 さらに、昭和三九年三月には、国会議員及び厚生省に対するより大規模な陳情が行われた。この際、長谷川保議員は、「患者さんもこのように治るようになったので、政府も早急に法改正に努力しなければならない。」と述べ、また、田口衆議院社会労働委員長は、同委員会開会中に陳情に訪れた全患協の代表に対し、「このような予防法があることは国として恥かしい。いっぺんにはいかないが長谷川さんとも相談して、一歩一歩よくなるように努力したい。」と述べた。他方、小林厚生大臣は、「公衆衛生局長から種々の学術書を読ませられており、役所の者も進んだ考え方を持っているが、一挙に予防法を改正することは問題がある。世の中の偏見を無くすることは急にはいかない。また法改正だけでは不充分で法律以外にも努力する途があるように思う。」と述べた。また、若松厚生省公衆衛生局長も、「最近の新しい医学の進歩はよく知っているが一挙に改正しては世間の理解が追いつかない点もあるので、小さい改正を何回か積重ねて、その後で大きく改正する方が一般の人に不安なく受け入れられると思う。」と述べた。

 しかしながら、この運動は、新法改正には結び付かず、平成八年に至るまで、新法の改正法案が提出されたり、国会で新法の改廃について審議された形跡はない。そして、二度にわたる運動の挫折や入所者の高齢化もあって、その後の全患協の運動の重点は、新法の改正要請から療養所内での処遇改善に向けられるようになった。

 三 退所について

 1 退所者の現れ

 戦後、プロミンの治療効果によって療養所内の菌陰性者が増え、昭和二三年には二六パーセントであった菌陰性者の割合が、昭和二五年には三七パーセント、昭和三〇年には七四パーセントまでになり、多くの症状固定者、治癒者が現れるようになった。

 これに伴い、昭和二六年に全国で三五人の軽快退所者を出し、以降、次第に軽快退所者が増加していった。昭和二六年以降の軽快退所者数は、別紙六のとおりである。

 2 暫定退所決定準則

 ㈠ 暫定退所決定準則の内定

 厚生省は、昭和三一年に「らい患者の退所決定暫定準則」なる文書を作成し、各療養所長に示した。その記載内容は、次のとおりである。

 らいの治癒又は略治、その再発並びに伝染のおそれの有無の判定は、現段階においてはかなり問題とされる点がある。これがため従来各国立療養所における患者の退所決定にあたってその基準が区々となり、その結果、不測の紛議が生じた例もあるので、次のように暫定的に退所決定準則を定める次第である。

 本症の特質に鑑み、本準則はあくまでもその必要最小限を示すものであって各療養所長が本準則よりも一層高度のものを定め、それに基いて退所の決定を与えることを妨げるものではなく、また本準則を定めたことによって積極的に患者の退所を行わせる意図を含むものでもない。また、本準則の実施によって将来是正すべき諸点を発見する場合も絶無とは云い難いので、本準則は厳秘としてあくまで療養所長単独の資料として活用し、部内外に対して漏示しないよう固く留意されたい。

  ⑴ 斑紋型及び神経型

  (イ) 病状固定を判定するためには、少くとも一年以上の期間について観察すること

  (ロ) 皮疹が消褪してから一年以上当該部位における知覚麻ヒママが拡大しないこと

  (ハ) (ロ)の知覚麻ヒママの拡大がなくなってから二ヶ月に一回ずつ皮疹の消褪した部位のなるべく多数のところからスミヤーを作って検鏡し三回以上ことごとくらい菌陰性であること

  (ニ) 大耳、正中、尺骨、橈骨、後脛骨、各神経及びその他の皮膚神経の腫脹が著明でないこと

  (ホ) 光田氏反応 一〇×一〇ミリメートル以上であること

  ⑵ 結節型

  (イ) 病状固定を判定するためには、少くとも二年以上の期間について観察すること

  (ロ) らい性結節及びらい性浸潤が吸収され消失していること

  (ハ) (ロ)のらい性結節及びらい性浸潤が吸収され、消失してから二ケ月に一回ずつ結節又は浸潤のあった部位のなるべく多数の所からスミヤーを作って検鏡し六回以上ことごとくらい菌陰性であること

  (ニ) (ハ)の検査でらい菌陰性であった場合更に結節又は浸潤のあった部位の一ヶ所以上からバイオプシーを試みてらい菌陰性であること

  (ホ) その他斑紋型及び神経型の検査方法中 (ロ) 及び (ニ) に適合すること

  (ヘ) 光田氏反応 六×六ミリメートル以上であること

  ⑶ その他 (希望事項)

  (イ) 顔面、四肢等に著しい畸形、症状を残さないこと

  (ロ) 退所後家族又は隣人との不調和のおそれがないこと

 ㈡ 暫定退所決定準則の位置付け及び周知性

 この文書の位置付けは、必ずしも明らかでない。大谷は、その著書の中で「この文書が本当に公式文書であったかどうかについて、そうでなかったと解釈している人もあり、存在を知らなかったという人もあり、未だにその間の経緯は謎めいている。」と記述している。また、例えば、宮古南静園長や沖縄愛生園長を歴任している長尾は、この文書の存在を知らなかったと証言している。

 当初療養所長以外に厳秘とされたこの準則は、間もなく全患協の知るところとなった。しかしながら、この準則の退所基準が入所者らに広く周知されたと認めるに足りる証拠はない。被告は、右準則が入所者に周知されていたことの根拠として全患協ニュース(昭和三三年一二月一五日発行。)の記事を挙げるが、これにも右準則の存在・内容についての記載はない (後記3(二)参照)。

 ㈢ 暫定退所決定準則の評価

 この準則の退所基準は、長期間の経過観察や頻回の菌検査を要求する極めて厳しいものである。大谷は、その著書の中で「厳格きわまりないもの」と評しており、証人尋問でも同旨の証言をしている。また、昭和二四年以降星塚敬愛園や松丘保養園で勤務し、昭和五三年以降は同園長であった荒川は、意見書において、「この基準は基準通りに適用すれば、到底基準を満たして退所することなど困難な厳しい規定で」あり、「患者の退所は、基準の適用によってではなく、いわば勝手に出ていったまでのことであり、これを退所基準によって積極的に退所させたかのように言うのはおかし」いと述べている。さらに、瀧澤英夫 (奄美和光園名誉園長。以下「瀧澤」という。) も、陳述書において、右基準が厳しいものだったと述べている。しかも、注意すべきは、この準則が、退所の必要最小限の要件を定めたものにすぎず、各療養所においてより厳しい要件を設けることを妨げないとし、積極的に患者の退所を行わせる意図がないとまで付け加えていることである。

 厚生省が退所基準について厳しい態度を取ったのは、新法六条の「伝染させるおそれがある患者」を極めて広く解釈し (前記第二の10参照)、これに該当するすべてのハンセン病患者を隔離の対象とする厚生省の見解からすれば、当然のことともいえる。もちろん、厚生省は、少なくとも昭和三一年の時点においては、「伝染させるおそれがある患者」を退所の対象とは考えていなかったのであり、その後も、新たな退所基準を定めたことはなく、ましてや、「伝染させるおそれがある患者」に退所を認めると公式に表明したことは、一度もなかった。

 3 昭和三〇年代、昭和四〇年代の退所許可の実情

 ㈠ 昭和三〇年代、昭和四〇年代に暫定退所決定準則にとらわれないで退所を許可することもなかったわけではないであろうが、退所基準が昭和三〇年代あるいは昭和四〇年代に一気に緩和されたことを認めるに足りる証拠はない。むしろ、スルフォン剤単剤治療を受けたL型患者の再発が目立つようになったことなどから、治癒の判定や退所基準が慎重になる傾向もないではなかった。

 厚生省公衆衛生局結核予防課が昭和三九年三月にまとめた「らいの現状に対する考え方」には、暫定退所決定準則の改正案を検討中である旨記載されており、厚生省においても退所基準を見直す必要があると認識していたことがうかがわれるが、結局、厚生省が新たな退所基準を示すことはなかった。

 ㈡ 療養所の中には独自の退所基準あるいは退所手続規定を定めていたところもある。

 例えば、菊池恵楓園では、昭和三三年一一月、療養所と自治会との協議により、「治癒軽快退園希望者取扱い規定」が定められており、このことは同年一二月一五日発行の全患協ニュースにも掲載されている。この右全患協ニュースには、一か月ないし二か月に一ないし二回の菌検査を四ないし五回実施すること、必要箇所の病理組織検査を行うこと等が記載されているが、最終的な退所許否の判断は療養所長にゆだねられていたようであり、ここには具体的な退所基準は記されていない。

 また、長島愛生園でも、同年一〇月に軽快退所基準が明らかにされ、眧和三四年三月二四日にこの基準による最初の退所者を出した。しかしながら、同年八月一日発行の「愛生」によれば、右基準は次のとおりであり、厳格さにおいては暫定退所決定準則とほとんど変わらないものであった。

  ① 病状固定を判定する期間

 結節型    少くとも二年間

 神経斑紋型  少くとも一年間

  ② 癩性皮疹、結節、浸潤が吸収、消褪して後一年以上その部の知覚麻痺が拡がらないこと

  ③ 大耳神経、尺骨神経及びその他の神経の肥厚していないこと

  ④ 皮膚の塗抹標本に於て左の如く連続ことごとく菌陰性であること

 結節型    二力月おきになるべく多くの箇所より採り、連続一〇回以上ことごとく陰性であること

 神経斑紋型  二ヵ月に一回なるべく多くの箇所より採り、ことごとく陰性であること

  ⑤ 前項の検査で菌陰性であった場合、病巣部の皮膚一ヵ所以上から切片標本を作り菌陰性であること

  ⑥ 光田氏反応 (一五日目) が結節型の場合、七ミリ以上、神経斑紋型が一〇ミリ以上であること

 なお、被告は、星塚敬愛園入園者機関誌である「始良野」(昭和三一年一〇月号。)に当時の星塚敬愛園長の「癩の伝染しない人達は勇気をもって社会復帰すべきである」との発言が掲載されたことを指摘するが、伝染させるおそれがない者に退所が許されるのは当然のことであり、どのような場合に「伝染させるおそれ」がないと判断されるのかが重要なのである。

 4 昭和五〇年代以降の退所許可の実情

 昭和四〇年代後半にリファンピシンが数日の服用でらい菌の感染力を失わせることが明らかになり、「伝染させるおそれ」を理由に患者を隔離することはおよそ無意味となった。このような医学の進歩は、昭和五〇年代以降の退所許可の判断にも影響を与えたものと思われる。

 昭和五〇年四月に大島青松園に赴任した長尾は、意見書において、当時既に大島青松園で伝染させるおそれを理由に退所を妨げるようなことはなく、菌検査が陽性である患者や再発の懸念がある場合などに、治療上、療養上の観点から医師として入院の継続が望ましいとアドバイスする程度であったと述べ、証人尋問でも同旨の証言をしている。

 昭和五六年に大島青松園に赴任した今泉正臣 (星塚敬愛園長。以下「今泉」という。) は、陳述書において、退所が自由であると考えてきたと述べている。

 昭和五八年から平成一ニ年まで星塚敬愛園で勤務した後藤正道 (鹿児島大学医学部助教授。以下「後藤」という。) は、陳述書において、入所者の病状から入院治療の必要がある場合には療養所にとどまるよう説得することはあったが、入所者が退所を希望する限り自由に退所させていたと述べ、東京地裁の証人尋問でも同旨の証言をしている。

 昭和五二年四月以降栗生楽泉園副園長、奄美和光園副園長、同園長を歴任した瀧澤は、陳述書において、栗生楽泉園でも奄美和光園でも、軽快退所を希望する者に積極的に勧めはしたが、これを制限したことはなく、退所後の生活を慮って退所を思いとどまるよう助言したことはあるが、退所するかどうかの最終判断は入所者本人の意思を尊重していたと述べ、東京地裁の証人尋問では、活動性区分を基準に軽快退所を認めていたが、これに当てはまらなくても入所者が希望すれば自己退所を認めていた旨の証言をしている。

 このように、昭和五〇年代以降、多くの療養所において、退所を強く希望する入所者に対し是が非でも退所を許可しないということはなくなった。しかしながら、このような療養所の方針が公式に表明されたことを認めるに足りる証拠はなく、入所者にだれもが自由に退所できることが周知されていたと認めるに足りる証拠もない。長尾も、証人尋問において、「私自身がみんなに退所できるんだよというような意味のアナウンスはしたことはございません。(中略)ママもう治ったよとか、退所できるんだよということを今までは言わなかったんじゃないかということを書いております。その意味で、やっぱり知らなかったという方がときどきおられました。」と証言している。また、長尾は、平成八年九月一日発行の「すむいで」において、「(「癩予防ニ関スル件」が制定された明治四〇年以来) 九〇年間、患者さんは、病気の真実とは掛け離れて扱われ、国民としての多くの権利を剝奪され、義務として療養所に隔離をされ続けてきました。」、「予防法が廃止されて 『入園者が自由になり、自らの権利として住む場所を選べる』と言っても、この愛楽園での生活を選ぶことは、ほとんどの人々にとって、苦汁を飲む選択,やむを得ぬ選択であります。」と記述している。かえって、後記四3の昭和五七年の国会答弁でも見られるように、厚生省は、昭和五〇年代以降も、ハンセン病患者に対する人権制限の必要性を公式には否定していない。

 ところで、昭和五〇年代以降、軽快退所者数については、逆に減少の傾向が見られる。その要因としては、入所による生活基盤の喪失のほか、入所期間の長期化、入所者の高齢化、社会に根強く残る差別・偏見の存在、社会復帰支援事業の不十分さが挙げられる。また、社会的差別・偏見とも関係するが、後遺症の存在が退所を妨げる要因となっている場合が多い (後記第四の四1参照)。入所者の中には、退所を積極的には希望しない者も現れてくるが、これも退所をめぐる厳しい現実の現れといえる。

 5 社会復帰支援事業について

 多くの入所者は、療養所への入所により、家族とのつながりが断ち切られたり、職を失ったり、学業を中断せざるを得なくなるなど、社会での生活基盤を著しく損なわれており、ハンセン病に対する社会的差別・偏見が根強く存在する状況にあって、何の公的援助も受けずに療養所を出て社会復帰を果たすことは極めて困難であった。入所期間の長期化、入所者の高齢化、後遺症による身体障害等の要因が加われば、その困難さは一層増した。

 ところで、新法附帯決議の第七項は、「退所者に対する更生福祉制度を確立し、更生資金支給の途を講ずること」としている。そしてその趣旨に沿うものとして昭和三三年に軽快退所者世帯更生資金貸付事業が、昭和三九年にらい回復者に対する就労助成金制度が、昭和四七年に沖縄における技能指導事業が、昭和五〇年に相談事業がそれぞれ創設された。しかしながら、例えば、軽快退所者世帯更生資金貸付事業による貸付限度額は、生業資金五万円、支度資金一万五〇〇〇円、技能修得資金月額一五〇〇円 (六か月間) であり、昭和三五年度の実績でも、一四件計四〇万円 (うち生業資金三七万円、支度資金三万円) の貸付けが行われたにすぎない。また、らい回復者に対する就労助成金制度についても、その支給額は、生業資金が三万円以内、支度資金が一万五〇〇〇円以内にすぎない。なお、昭和四八年度予算では、退所患者支度給与金が総額で九四万五〇〇〇円、退所患者旅費が総額で三一万一〇〇〇円であった。

 このように、退所者のための社会復帰支援事業は、入所者の置かれた状況に照らすと、到底十分なものであったとはいえなかった。

 四 外出制限について

 1 新法一五条による極めて厳しい外出制限は、すべての入所患者に対し法律上当然に課せられているものであり、これに違反した場合の罰則も設けられているのであるから、右規定が存続する以上、外出制限自体が全くなくなるものではない。

 2 外出制限は、運用上徐々に緩やかになっていったが、以下のような事情からもうかがわれるように、まだ昭和三〇年代ころまでは、厳格な取扱いも存した。

 ㈠ 多磨全生園長は、昭和二八年一〇月一六日付けで、厚生省医務局長に対し、昭和二五年より行われていた同園と栗生楽泉園との間の患者親善団の交歓について、「患者の往復は園の事業として職員附添いの下に途中下車を認めず、らい予防上支障のない方法を執れるので親善団派遣を行っても差し支えない様に思われますが、然し新予防法制定後の今日些か疑義ありと存じますので念のためにお伺い致します。」と照会をした。

 これに対し、厚生省医務局長は、同月三〇日付けで、「患者の療養上不適当と認められるから取り止められたい」と回答し、かつ、このことを同日付けで各療養所長に通知した。

 これは、職員付添いの下で行われる療養所間の親善団の派遣についてまで、厚生省が厳しく制限する場合があったことを示すものであって、当時の外出制限の実情をうかがわせるものである。

 ㈡ 全患協ニュース (昭和三〇年一一月一日発行) には、「最近所内高校の開校式に前後して愛生園を訪ねた他園の療友が園の職員によって入園を拒否され追い帰された事件が起こった。訪問した療友らはそれぞれの園が発行した正規の外出証明書を所持していたにもかかわらず、その行先地が愛生園となっていない理由で、また『患者が患者に面会することは許可されない』とかの理由で、目指す園を目の前にして引き返さねばならなかった。」との記事が掲載されている。

 なお、右記事に関連するものと思われるが、厚生省医務局国立療養所課長は、昭和三一年四月九日付けで、各療養所長に対し、「そく聞するところによれば、来る四月一六日の長島愛生園における入所患者の高等学校入学式に、各国立らい療養所の入所患者の一部が参加し、更に同園において会合を催す目的のもとに、入学者の附添又は長島愛生園の患者に面会の名目で同園に赴くやの趣であるが、いうまでもなく、このような目的又は名目による外出は、らい予防法第一五条の規定により認められないものであるから御了知の上処理されたい。なお、右の外出のために、らい予防法第一五条の規定に適合する外出目的によって許可を求めることも予想されるので、この期間の前後において、外出許可の申請があった場合には、外出の目的、行先地及び経由地等について十分に検討を加えることは勿 論更に入学式又は会合に参加するおそれがないことを確認する等その取扱には特に慎重を期されたい。」と通知をした。

 ㈢ 熊本簡易裁判所は、昭和三三年三月二八日、菊池恵楓園のある入所者を無断外出の罪 (新法二八条一号) により科料に処した。これを報じた全患協ニュース (同年五月一日発行) によれば、無断外出の期間は約二か月であり、「昨年秋農繁期に一時帰省し、家事の手伝いをすませて帰園の途中、当時問題になった『脱走患者一斉検束』の網に引っかかった」とのことであるが、この事件だけがなぜ略式起訴にまで至ったのか、その具体的経緯は明らかでない。被告は、無断外出に対する刑罰適用例がこの一件であると主張するが、この事件がもたらした抑止的効果には相当なものがあったと推察される。

 ㈣ 昭和三五年一月一一日の読売新聞には、多磨全生園に入所していた女性の死体が発見された事件に関連して、「野放しのライ患者」との見出しで、「同園の収容患者たちは園の周囲のいけガキにいくつも穴をあけて、無断外出用通用門をつくり、買い物から飲酒、競輪がよいまでしており、地元民の心配顔をよそに野放し状態にあることが分かり、問題となっている。」、「外出は親族の死亡、財産処分、相続など特殊な事情がある者以外は許されない。それも厳密な健康診断を行ない、感染の恐れがないと認められた軽症者にかぎって園長から許可書が発行されている。これ以外はすべて違反外出というわけだ。(中略)ママ同園では係り員五人を昼夜の別なく巡視させており、禁をおかして外出しようとして発見されるものが毎月一〇人ないし二〇人もいる。(中略)ママ周囲には約二メートルの高さでヒイラギのいけガキがあるが、患者はノコギリやナタでカキを破り、係り員は修理するヒマもないほどだ。(中略)ママ地元民のあいだでは早くからこれが問題となっており、こんな野放し状態ではいつわれわれに感染するかも知れぬと内心おののいている」との記事が掲載され、多磨全生園庶務主任は「まったく困っている」、「患者の人権は守らねばならず、といって野放しにして一般社会に迷惑をかけてはならない。それだけに運営がむずかしい。違反外出にはまったく頭を痛め職員一同はつねに気をつかっている。」と述べ、厚生省医務局国立療養所課は「無断外出が多いということが本当なら施設、患者に厳重に注意する」と述べたとしている。

 ㈤ 多磨全生園の自治会長である甲野太郎の著書「人生に絶望はない」(平成九年発行) には、次のようなエピソードが紹介されている。すなわち、「園内のわたしの友人も社会復帰をするので何か技能を身に付けて外に出たいということで、外の学校に通っていました。でも当時の園はそれを許さない。そこでわたしとその友人は園を囲う垣根のところまで行き、友人はそこで服と靴を着替えてこっそりと出て行く。わたしは、そのことがばれないように彼の脱いだものを持って帰る役でした。これに対して園は、職員が犬を連れて巡回して外出を阻止しようとしていました。一度犬に追いかけられて (中略)ママ犬にかみつかれたこともありました。自立して社会に出ようとする人たちに対しても、園はそういう対応をとっていたのです。(中略)ママ六〇年代後半になるとようやくゆるやかになりましたが、それまでは予防法で規定する『無断外出』として処罰されたのです。」というものである。

 なお、無断外出を取り締まるための物理的な障壁は、次第になくなる傾向にあったが、多くの療養所は、交通の便が極めて悪いへき地にあり、実際上外出に相当の困難の伴うところもあった。特に、大島青松園は、療養所の施設以外は何もない瀬戸内海の孤島にあり、療養所が運行する船を利用する以外に島外に出る正規の手段はなかった。また、長島愛生園と邑久光明園も、ほぼ同様の立地条件で、昭和六三年に本州と架橋されるまでは、島外に出るには船を利用するほかなかった。これらの療養所は、正に隔離施設と呼ぶにふさわしい立地条件を備えていた。

 3 これに対し、主に昭和五〇年ころ以降の外出制限の実情をうかがわせる事情として、被告は、次のような点などを挙げる。

 ㈠ 入所者の著書等

  ⑴ まず、被告は、星塚敬愛園の元入所者である原告六番が、昭和五四年四月発行の「火山地帯」において、「現在の癩療養所は外出も自由になり、病友たちはマイカー、単車を乗り廻している。生活処遇も悪くはない。最低拠出制障害年金一級が保障されている。有名無実となっている予防法を下手につついて、一般障害者並みに生活処遇が切り下げられては叶わない。本音はそこにあったのだ。」と記述していることを挙げる。

 しかしながら、右の部分は、当時の入所者の中にあった新法改正慎重論の根拠を、これを批判する立場から推測して述べたものにすぎず、当時の療養所の実情をある程度うかがわせるものではあるが、自己の実感をそのまま表現したものではない。

  ⑵ また、被告は、多磨全生園の自治会長であった乙山春夫の「戦後、特効薬の出現によってハンセン病から解放され、政府はまた、隔離収容所から解放療養へと政策を転換し、外出が自由になった。かくて人間復帰の道がひらかれた時、私は失明し、一切の自由を奪われた。」という文章を挙げる。

 しかしながら、この文章は、甲一の中での紹介部分が余りにも短く、外出の自由というのがどの程度のことをいうのか、その真意はつかみ難い。

  ⑶ さらに、被告は、甲野太郎の前記「人生に絶望はない」の中の「一九六三年には全生園を囲っていた二メートルもの柊の垣根も低く切られ (中略)ママ今まで閉ざされた世界で生きていたのが外に自由に出て行けるという喜びを、そのとき感じました。」、「社会復帰できない人も『労務外出』という形で外に働きに出るようになった。」、「予防法は事実上空洞化している――そういう意見が主流でした。」、「昔のように強制的に収容したり、患者が外出するのを強権で罰したりすることはなくなった。」などの文章を挙げる。

 以上からは、特に昭和五〇年代以降、療養所が外出に対する積極的な規制を行わなくなり、これに伴い少なからぬ入所者がかつてに比べて外出が自由になったと実感していたことがうかがわれるが、外出の制限が全くないと感じていたかどうかは定かではない。入所者らが新法の「死文化」とか「空洞化」というのも、新法六条に定める強制措置、同法一五条、二八条に定める無断外出に対する療養所の積極的な規制や罰則の適用がなくなったことなどを指しているにすぎないと考えられる。

 ㈡ 昭和五〇年代以降に療養所で勤務した医師らの証言等

  ⑴ 長尾は、意見書において、「私の時代には、外出は全く自由であり、外出の制限事例など聞いたことはない。菌検査はしていたが、その結果が陽性かどうかにより外出させるかどうかを判断するというようなこともなかった。外出許可証というものがあり、これを取得して外出していた者もいるが、これは主にバスレクなどの公式行事の場合に用いる形式的なものであり、入所者が園外で何らかのトラブルに巻き込まれた際に園が対応できるように、入所者の所在をつかんでおく必要から発行されたものである」と述べ、証人尋問でも同旨の証言をしている。

  ⑵ 今泉は、陳述書において、「私の経験する限りでは外出は自由である。」、「(外出許可) 申請を拒否した経験はない。」、「無許可での外出に刑罰を科し得る条文があることも念頭になく、懲戒など考えたこともなかった。」と述べ、証人尋問でも同旨の証言をしている。

  ⑶ 後藤は、陳述書において、「昭和五八年当時は自家用車を持っている入園者も多数いて、自由に外出していた。」「園のほうで外出を取り締まるというようなことはなく、園が本来罰するべき無断外出を黙認しているというような状況ではなかった。私自身としては、入園者の話を聞いたりその生活を見たりしていて、入園者が、びくびくしながら外出をしていたとは思わない。」、「菌が陰性であるかどうかは外出許可の基準にはなっておらず、菌が陽性であっても『感染のおそれがほとんどない』に〇をつけて、許可証を出していた」と述べ、東京地裁における証人尋問でも同旨の証言をしている。

  ⑷ 瀧澤は、陳述書において、「私には施設管理者として外出を取り締まるという発想は全くなく (中略)ママ仮に許可を得ないで外出した場合でも、刑罰を科せられるような状況ではなかったし、入所者の意識としても、無断で外出すれば刑罰を科せられるかもしれないことを恐れながら外出していたという状況にはなかったと思う」と述べ、東京地裁における証人尋問でも同旨の証言をしている。

 以上からは、昭和五〇年代ころから、療養所においては、入所者の無断外出を積極的に取り締まることがなくなり、また、外出許可申請があった場合には、伝染させるおそれの有無にかかわらず、また、新法一五条一項各号の許可事由の有無にかかわらず、これを許可する方向で運用していたことが認められ、入所者の拘束感,被害意識もこれに伴い次第に軽減されてきたものと考えられる。

 しかしながら、新法廃止のところまでに、厚生省や療養所が外出制限を事実上撤廃するなどということを公式に表明したことは一度もない。かえって、昭和五七年三月一八日の衆議院社会労働委員会において、三浦大助厚生省公衆衛生局長は、「新患の発生が、しかも若い層にもあるという以上、やはりこれは一つの伝染病として対策をしなければならぬと思っております。」、「対策の手は緩めるわけにはまいらぬというふうに考えております。」と述べ、隔離政策が誤りでなかったのか新法が空洞化し死文化しているのではないかとの質問に対しても、「隔離のお話が大分出ておるのですが、伝染力が弱いとはいえこれは伝染病でございますので、ある程度の一定の制限というのは仕方ないと思うのですけれども、ただ人権につきましては、私ども本当に十分に注意を払っておるわけでございます。」と述べており、この時点においてもなお、厚生省は、ハンセン病患者に対する人権制限の必要性を公式には否定していないのである。

 五 優生政策について

 昭和二三年の優生保護法の制定によって、ハンセン病を理由とする優生手術や人工妊娠中絶は、本人及び配偶者の同意を得て行われることになった。昭和二四年から平成八年までに行われたハンセン病を理由とする優生手術が一四〇〇件以上、人工妊娠中絶の数が三〇〇〇件以上に上ることは前記第二の二のとおりである。

 ところで、我が国の療養所においては、ある時期まで、優生手術を受けることを夫婦舎への入居の条件としていたことから、入所者は、結婚して通常の夫婦生活を営むために優生手術を受けることを甘受するか、あるいは、結婚して通常の夫婦生活を営むことを断念するか、そのどちらかを選択せざるを得ない状況に置かれていた。

 このことは、平成八年三月二五日の衆議院厚生委員会でも取り上げられ、松村明仁厚生省保健医療局長は、「かつて療養所の夫婦寮への入居の条件として優生手術に同意をせざるを得ない状況であったという指摘がされており、そのような意味での半強制的な優生手術につきましては、おおむね昭和三〇年代前半、遅くとも昭和四〇年代以降には行われていないという関係者の共通の認識でございます。(中略)ママ昭和二四年から昭和四〇年までのハンセン病患者またはその配偶者に対する優生手術件数を申し上げますと、男性二九五件、女性一一四四件、合計一四三九件である、こういう数字がございます。」と答弁している。

 なお、星塚敬愛園では、昭和六〇年一〇月発行の「入園者五〇年史」には、昭和二八年三月以降、ワゼクトミーを受けなくても夫婦舍に入居できるようになった旨の記載があるが、これで優生政策を利用した産児コントロールが終わったわけではない。右「入園者五〇年史」には、当時の星塚敬愛園長が、入所者自治会と協議をした際に、「今後は、ワゼクトミーを夫婦寮の入居条件としない。ただし、妻が妊娠した場合は、夫に断種手術を施すことは当然である。また、女性が妊娠したときは、早く申出て、不幸を招かぬよう入園者側も協力してもらいたい」と述べたことが記されているのである。

 六 患者作業について

 戦前、入所者には身体的に可能である限り患者作業と呼ばれる労働が割り当てられ、職員の人員不足が恒常化していた当時の療養所の運営を支えていたが、戦後になっても、このような状況はなかなか改善されず、療養所運営は、患者作業に依存するところが大きかった。

 新法施行当時の患者作業は実に多種多様で、治療・看護部門から、給食、配食、清掃、理髪、火葬など、生活全般に及んでおり、中にはハンセン病患者に行わせることが不適当な重労働も含まれていた。新法施行後、患者作業を拒否すれば懲戒処分をするといったような意味での強制はなくなった。しかしながら、療養所運営のかなりの部分を患者作業に依存していた状況で、患者作業の放棄は、入所者自身の生活・医療に直結する問題であったことから、多くの入所者は好むと好まざるとにかかわらずやらざるを得ないというのが実情であった。

 全患協は、このような患者作業を療養所職員に返上するいわゆる作業返還を運動の大きな柱として、ねばり強く活動を続けた。その結果、特に、昭和四〇年代以降に作業返還が進んだ。例えば、長島愛生園では、昭和三八年に屎尿汲取等七種類の作業が、昭和四七年に看護作業が、昭和四八年に火葬、薬配、雑工等一一種類の作業が、眧和五〇年に残飯回収、焼却、金工、塵芥集、木工、塗工の六種類の作業の返還が完了するなど、昭和三六年から昭和五五年ま でに四一種類の作業返還が行われた。また。ママ星塚敬愛園では、昭和四四年一〇月に 不自由舎付添作業が返還されるなど、昭和四一年から昭和六〇年四月までに四二種類の患者作業が返還され、大島青松園でも、昭和五〇年二月に看護作業の返還が完了した。

 なお、和泉は、証人尋問において、患者作業によって後遺症を残した入所者が多く、「日本の療養所ほど障害の強い患者というのはありません。で、これは、患者さんに聞いてみると、大部分の所で作業によって病気を悪くしたというふうなことを言われておりますので、所内作業というのが、相当日本の患者さんの症状を悪くしたと思っています。」と証言している。また、長尾も、証人尋問において、患者作業によって後遺症を残した患者がいることを認めている。

 七 療養所における生活状況の変遷

 新法施行当時の療養所の生活状況は、極めて厳しいものであった。

 住環境については、一二畳半に八人あるいは夫婦四組が居住するということも珍しくなかった。菊池恵楓園では昭和四〇年に一人四・五畳の個室を備えた居住棟が新設されたが、これは他の療養所よりも早い個室の導入であり、当時、六畳二人制であった長島愛生園などでは、同年以降、一人四・五畳の個室整備を要求する運動が起こった。こうして、少しずつ居室の個室化が進み、夫婦舎も一室から二室になるなど、徐々に改善が行われた。

 医療面では、人員不足が深刻で、十分な整備がなされるまで長い年月を要した。昭和五八年当時の全患協ニュースによれば、同年一月一日現在の医師数は定員の一三六人に対して一一六人で、「全国一三の施設のうち一施設だけが充員され、残る施設は定員を充員できずに四苦八苦しているのが実状」であったとのことであり、高齢化により様々な疾患を抱える入所者の医療充実を願う切実な思いと不安感が伝わってくる。とはいえ、療養所における医療の充実は少しずつではあるが着実に進んでいった。高齢者、視覚障害者、身体障害者のためのいわゆる三対策経費は、年々増額され、昭和五九年から平成八年にかけて約二倍に増額された。国立らい療養所全体の予算も同様で、昭和四八年から平成八年までにかけての予算額は、入所者数が約五分の三に減少する中で、約八七億〇九〇〇万円から約四〇一億五一〇〇万円と約四・六倍に増額された。

 また、昭和四八年には、入所者に給付される患者給与金が障害基礎年金一級と同額に引き上げられ、入所者の経済状態の向上が図られた。

 このような入所者に対する処遇改善は、大谷が国立療養所課長となった昭和四七年以降の厚生省の一貫した政策の流れであった。これは、入所期間の長期化や入所者の高齢化により多くの入所者にとってもはや社会復帰が極めて困難な状況となり、隔離政策を廃止するだけでは到底妥当な解決が図られないという軌道修正の困難な現実を踏まえて、入所者に療養所で少しでも充実した余生を送らせたいという考えの現れでもあった。

 ただ、他方、厚生省は、このような処遇改善に必要な予算を獲得するために、大蔵省に対し、新法の隔離条項の存在を強調し、これを最大限利用してもいた。この点について、大谷は、「多少小役人的ではありますけれども、やはりらい予防法によって強制隔離しているんだから、国としては当然これだけのことをしなければならないのではないかということは、大蔵省のお役人方に対しての説得が非常に楽であったということですが、今日になってみますと、 やはりそれは本質をちょっと誤っていたなという反省はあります」と証言し、その著書「現代のスティグマ」等でも「当時の私はらい予防法をフルに利用して、大蔵省に療養所改善の要求をし」たなどとして、同旨の記述をしているが、これは、公的には隔離政策を掲げつつも、入所者の退所や外出を黙認する形で開放的な取扱いをしていた当時の厚生省の立場を如実に表している。前記四3で述べた昭和五七年三月一八日の衆議院社会労働委員会における厚生大臣や厚生省公衆衛生局長の答弁も、右のような厚生省の立場からは、むしろ当然の内容といえるのである。

 八 療養所以外の医療機関での治療等について

 1 療養所以外の医療期間での治療の実情

 新法は、療養所以外の医療機関によるハンセン病の治療を明文で禁止してはいない。しかしながら、「伝染させるおそれがある患者」を極めて広く解釈して未治療のハンセン病患者のほとんどすべてをこれに該当するものとし、そのすべてを療養所への入所対象としていた厚生省のハンセン病政策からすれば、ハンセン病の治療を行う療養所以外の医療機関がごくわずかであったのは当然である。

 のみならず、抗ハンセン病薬は保険診療で正規に使用できる医薬品に含まれていなかった。この点については、証人和泉がその実情を詳しく述べているが、三浦厚生省公衆衛生局長も、昭和五七年三月一八日の衆議院社会労働委員会において、「どこかの大学病院へ行ったというような場合 (中略)ママらい専門の治療薬は保険の適用になっておりませんので使えないわけでございます。」と答弁している。これもまた、療養所中心主義ともいうべき厚生省のハンセン病政策の現れであって、ハンセン病の治療が受けられる療養所以外の医療機関は極めて限られたものとならざるを得なかった。

 新法の下で、療養所以外の医療機関でハンセン病の治療を行っていたのは、京都大学、大阪大学等の大学病院や愛知県の外来診療所等、数か所であり、しかも、この中で、入院治療が可能であったのは、京都大学だけであった。京都大学では、ハンセン病との病名をあえて付けず、末梢神経炎、皮膚抗酸菌症等の病名で診断していた。また、大阪大学では、すべて自費診療であった。愛知県の外来診療所は、財団法人藤楓協会の事業として昭和三八年に開設されたものであるが、診療の対象は主に元療養所入所者であり、療養所に入らないで治療を受けた患者は、二〇年間で一五人程度であった。これらの医療機関でハンセン病の治療が受けられることも、一般にはほとんど知られていなかった。

 このような状況について、厚生省医務局国立療養所課が昭和五〇年九月に発行した「国立療養所史 (らい編)」(国立療養所史研究会編集) において、石原重徳 (当時駿河療養所長) は、「治療を受けるためにはどうしてもらい療養所へ入らねばならないのである。このことは (中略) らいの強制隔離にほかならないのである。」と記述しているが、これが、当時の少なからぬハンセン病医療関係者の現状認識であったと考えられる。

 2 療養所における外来治療

 療養所における外来治療は、昭和四〇年代から少しずつではあるが、行われていた。

 別紙七は、沖縄愛楽園及び宮古南静園の二園を除く療養所における外来治療患者数と新規入所者数を対比したものであるが、これによれば、昭和四〇年度から昭和四九年度までは、外来治療だけの患者が六八人であったのに対し、新規入所者が五八八人と圧倒的に多いが、昭和五〇年度から昭和五九年度までは、外来治療だけの患者が一一九人で、新規入所者が一五三人となり、昭和六〇年度から平成八年度までは、外来治療だけの患者が三八人で、新規入所者が六八人となっている。

 このように、医学的には在宅治療が可能な症例がほとんどであったろうと思われる昭和五〇年代以降に少なからぬ新規入所者が生じているのは、多くの療養所が交通の便の極めて悪いへき地にあったことが大いに影響していると考えられる。

 九 新法廃止までの経過

 全患協は、昭和三八年以降も新法改正を運動方針の中に掲げ続けていたが、運動の重点は、次第に処遇改善に移っていった。特に、昭和四八年以降、入所者に対する処遇改善が進み、外出制限等も運用上厳格でなくなってくると、新法改正が実現しても現在採られている福祉的措置が後退するのではないかとの懸念から、全患協の中でも、新法改正に消極的な考えが現れるようになっていた。

 大谷は、厚生省医務局国立療養所課長となった昭和四七年当時から、新法が国際的にみてその学問的根拠を失っていることは明らかであると考えていた。しかし、大谷は、昭和四九年ころ、当時の全患協の事務局長であった丙川松夫から、「先生が法律改正をやるといわれるのなら、全患協は全面的に協力して闘う。」旨持ち掛けられた際、新法改正の動きが療養所での入所者の処遇の後退につながることを危惧し、迷った末に、新法の改廃を訴えるよりも事実上の部分的開放化と処遇改善を図る方が実利が大きいと考えて、新法改正に賛同しなかった。この決断について、大谷は、後にその著書の中で、事実上の開放化や処遇改善が「それなりの成果は挙げ得たと思う。」としつつも、「患者さんに対する国の強圧的隔離政策の基本政策は変わることがなかった。私が出来たことといえばせいぜい微温的な政策の改善にとどまって」いたとし、さらに「ハンセン病差別の基本である予防法改正問題に身を挺して取り組むべきであったと悔やまれた。」、「実体を改善していけばそれで前進になるのではないかと考えて努力し、自らを慰めてきたのは、やはり姑息的で小役人的モノの考え方にとらわれていたとしか言いようがなかったと今でも悔やまれる。」と振り返り、証人尋問でも同旨の証言をしている。

 その後、昭和六二年三月に所長連盟の新法改正要請書が、また、平成三年四月に全患協の新法改正要請書がそれぞれ厚生大臣に提出されたが、大きな反響を呼ぶには至らなかった。

 しかし、平成六年に大谷見解が発表されてから事態は一変した。大谷見解は、新法を廃止し、在園者に対しては今までどおりの処遇を保障するというものであり、全患協ニュースにも掲載された。

 これに対して、全患協を始め入所者らは当初とまどいを見せた。しかし、全患協は、平成七年一月、九項目の要求が充たされることを条件に大谷見解を指示ママすることを明らかにした。その後の新法廃止に至る経過の概略は、第二章第二の二6㈡のとおりである。

第四 ハンセン病患者等に対する社会的差別・偏見について

 一 旧来からの差別・偏見について

 我が国において、ハンセン病が、明治時代以前から、差別・偏見・迫害の対象とされてきたことは、前記第二節第一の一で述べたとおりであり、このことは、程度の差こそあれ、ハンセン病の存在する国々に共通するところである。

 しかしながら、伝染説が確立されるまで、我が国では、ハンセン病を遺伝病であると信じている者が多く、ハンセン病が伝染する病気であるとの認識はなかったか、あったとしても極めて希薄であったことから、伝染に対する恐怖心からくる偏見はほとんどなかった。そのような時代における差別・偏見の根源は、ハンセン病患者を穢れた者、劣った者、遺伝的疾患を持つ者と見る考えからのものであった。

 我が国で、医学的知見として伝染説が確立され、伝染説に依拠する「癩予防ニ関スル件」が制定された後も、社会一般には、ハンセン病が伝染病であるとの認識はすぐには広がらず、なお遺伝病であると信じている者も多かったのであり、また、実際にもハンセン病が次々と伝染するような状況ではなかったことから、社会一般の伝染に対する恐怖心はそれほど強いものではなかった。

 二 無らい県運動以降の戦前の差別・偏見について

 ところが、このような状況は、昭和四年ころから終戦にかけて全国各地で大々的に行われた無らい県運動による強制収容の徹底・強化により、大きく変わった。無らい県運動により、山間へき地の患者までもしらみつぶしに探索しての強制収容が繰り返され、また、これに伴い、患者の自宅等が予防着を着用した保健所職員により徹底的に消毒されるなどしたことが、ハンセン病が強烈な伝染力を持つ恐ろしい病気であるとの恐怖心をあおり、ハンセン病患者が地域社会に脅威をもたらす危険な存在でありことごとく隔離しなければならないという新たな偏見を多くの国民に植え付け、これがハンセン病患者及びその家族に対する差別を助長した。このような無らい県運動等のハンセン病政策によって生み出された差別・偏見は、それ以前にあったものとは明らかに性格を異にするもので、ここに、今日まで続くハンセン病患者に対する差別・偏見の原点があるといっても過言ではない。

 三 戦後の差別・偏見について

 1 厚生省は、昭和二五年ころ、すべてのハンセン病患者を入所させる方針を打ち立て、これに基づき、全患者の収容を前提とした増床を行い、患者を次々と入所させていった (前記第二の四参照)。これにより、患者総数のうちの入所患者の割合は、昭和二五年には約七五パーセントだった が、昭和三〇年には約九一パーセントになった (別紙五参照)。このような患者の徹底した収容やこれに伴う患者の自宅の消毒「ライ患者用」などと明記された列車を仕立てての患者の輸送等は、ハンセン病が強烈な伝染力を持つ恐ろしい病気であり患者は隔離されなければならないとの偏見を更に作出・助長した。

 2 昭和二八年に制定された新法には、即時強制を含む伝染させるおそれがある患者の入所措置 (六条)、外出制限 (一五条、二八条)、従業禁止 (七条〉、汚染場所の消毒、物件の消毒・廃棄・移動の制限 (八条、九条、一八条)等の規定がある反面、退所の規定がないが、このような新法の存在は、ハンセン病に対する差別・偏見の作出・助長・維持に大きな役割を果たした。このような法律が存在する以上、人々が、ハンセン病を強烈な伝染病であると誤解し、ハンセン病患者と接触を持ちたくないと考えるのは、無理からぬところであり、法律が存在し続けたことの意味は重大である。この点について、厚生大臣は、平成八年の廃止法の提案理由の説明の中で、「旧来の疾病像を反映したらい予防法が現に存在し続けたことが、結果としてハンセン病患者、その家族の方々の尊厳を傷付け、多くの苦しみを与えてきたこと」等について、「誡に遺憾とするところであり、行政としても陳謝の念と深い反省の意を表する」と述べており、衆参両厚生委員会も、廃止法の審議の際の附帯決議において、「『らい予防法』の見直しが遅れ、放置されてきたこと等により、長年にわたりハンセン病患者・家族の方々の尊厳を傷つけ、多くの痛みと苦しみを与えてきたことについて、本案の議決に際し、深く遺憾の意を表するところである。」としているのである。

 3 瀬戸内海の孤島等のへき地に置かれた療養所の存在も、新法の存在とあいまって、人々にハンセン病が恐ろしい特別な伝染病であることを強く印象付け、差別・偏見の作出・助長・維持に大きな役割を果たした。療養所の近隣の住民その他療養所の存在を知る者が、療養所をハンセン病患者が法律によって隔離されている場所と考え、その療養所の入所者が恐ろしい伝染病の危険な伝染源であるとの偏見を抱くのは、療養所を隔離施設と位置付ける新法の存在からすれば、極めて自然な成り行きである。ハンセン病患者を見たこともなく、ハンセン病のことを全く知らなかった者が、療養所の存在を知ったとき、そこにどのような偏見が生まれるのかを考えれば、新法によって隔離施設として位置付けられている療養所の存在が偏見を生み出す契機となったことの重大性は明らかである。

 4 外出制限規定が徐々に弾力的に運用されるようになり、昭和五〇年代以降はこれによる実際上の制約が著しく減退するなど、療養所の運営は、人権を制約しない方向で改善がされていったが、このことは、ほとんど公にはされず、社会一般のハンセン病に対する認識を大きく変えるものではなかった。厚生省が、隔離の必要性がなくなった昭和三五年以降においては、すべてのハンセン病患者及び入所者が隔離されるべき危険な存在ではないことを積極的に明らかにすべきであったことは後述するが、厚生省は、このような表明をせず、かえって、昭和五七年の国会答弁でも見られるように (前記第三の四3㈡)、隔離政策を掲げ続け、これを療養所の予算獲得のためにも利用した (前記第二節第三の七)。このことは、入所者の処遇改善に役立ったという点で評価すべきことはもちろんあるが、同時に、ハンセン病患者及び元患者に対する根強い差別・偏見を助長し、維持することにもつながった。

 5 昭和四五年以降、新発見患者数が年間数十名程度に激減し (別紙五参照)、しかも、スルフォン剤の登場以降、ハンセン病が治し得る病気になり、かつてのような悲惨な病状の患者がほとんどいなくなっていたのであるから、ハンセン病に対する過度の恐怖心からくる偏見・差別は、自然に任せれば、人々に忘れ去られ、なくなってしかるべきものであった。そして、実際にも、人々は、ハンセン病患者や入所者、元入所者と関係する機会がない限り、ハンセン病患者が危険な伝染源であるとの偏見をもともと抱かないか、あるいは、時の経過とともにそのような偏見が薄れていったであろう。しかし、ハンセン病患者や入所者、元入所者と関係しないところで、いかに偏見が薄れていったところで、これらの者にとっては、何の意味もないのであって、問題は、これらの者が、社会と接する場面において、いかに認識され、扱われていたかということにある。そして、そのような場面においては、なお、厳然として、ハンセン病に対する過度の恐怖心からくる根強い差別・偏見が残ってきたといわざるを得ない。そして、その原因のすべてが新法の存在や厚生省の政策の在り方にあるとまではいえないとしても、重要な役割を果たしたことは否定し難いところである。

 四 後遺症と園名について

 1 後遺症と差別・偏見

 ハンセン病の後遺症は、単に機能障害をもたらし得るだけでなく、ハンセン病患者として差別・偏見を受ける契機となることが多い。これは、機能障害がないか、さほど重大でないちょっとした顔面の変形や手足の曲がりであっても、同様である。

 特に、退所者は、目に見える後遺症があれば、入所歴があることを完全に隠し通すことは困難であり、激しい差別・偏見にさらされることにつながる。

 また、在園者にとっては、これがただでさえ困難な社会復帰の大きな障害となってきたのである。暫定退所決定準則が希望事項として「顔面、四肢等に著しい畸形、症状を残さないこと」を掲げているが (前記第三の三2㈠)。これも、厚生省が、外見にハンセン病の痕跡を残す者の退所に極めて消極的であったことを示すものである。宮崎菊池恵楓園長が、左手の指がかすかに曲がっている入所者の社会復帰の申出に対し、「君、その手では社会的に治癒してないから社会復帰は無理だ。」と述べたというのも、当時の療養所の態度をよく現している。証人長尾によれば、実に約八割もの在園者が、何らかの後遺症を持っているとされ、社会の差別・偏見の存在が後遺症を持つ在園者の社会復帰を妨げてきたことを端的に示している。

 2 園名等についママ

 入所者の中には、入所時に園名と呼ばれる異名を付けられた経験を持つ者が少なくない。平成八年に九州の五つの療養所の在園者を対象に実施したアンケートの結果によれば、約四五・六パーセントが園名の使用経験を持ち、約三一・一パーセントが現在でもこれを使用しているという。そして、本件訴訟においても、本名を明らかにすることをためらう原告が多い。

 園名の由来は、必ずしも明らかではないが、家族に差別・偏見を及ぶのを防ぐことのほか、これまでの人生と決別させるというような心理的な意味合いが含まれていたことも想像される。

 園名は、常に療養所から強制的に付けられたものとまではいえないが、このような園名を多くの者が使わざるを得ないこと自体、ハンセン病患者及びその家族に対する極めて強い差別・偏見の存在をうかがわせる。

 由布雅夫菊池恵楓園長は、平成一〇年四月九日の熊本日日新聞において、「(昭和六一年四月に赴任した) 当時恵楓園には約千百人の元ハンセン病の人がいて、らい予防法があり、入所者は古里にも帰れないという事実を初めて知った。(中略)ママ古里に帰れないのは、社会にハンセン病に対する偏見・差別が根強く残っているためであることも初めて知った。」と記述し、また、同月一六日付けの同新聞において、「多くの人が入所と同時に古里とのきずなが途切れている。子供のころ入所した人の多くは古里で死んだことになっている。中には位牌までつくっているところがある。これは自分の家族からハンセン病が出たことを隠すためである。親兄弟から、家族のために死んでほしいと言われた人もいる。子供の将来を考えた上でのこととはいえ自分から離婚して入所した人、『これは君の家の遺伝病だ』と一方的に子供と共に離婚された人もいる。」と記述している。

 五 差別・偏見の現れ

 ここでは、差別・偏見の存在を示す象徴的な出来事のいくつかを取り上げる。

 1 竜田寮児童通学拒否事件

 竜田寮は、菊池恵楓園の入所患者の扶養児童を養育する同園附属の児童福祉施設 (熊本市所在。新法二二条参照) であり、昭和二八年度までここの児童は一般の小学校 (黒髪小学校) への通学が認められていなかったが、宮崎園長の働き掛けもあって、昭和二九年四月からこれが認められるようになった。

 ところが、同月の入学式当日、PTA会長ら一部の保護者が、竜田寮の新一年生四人の通学に反対して、小学校の校門に立ちふさがり、「らいびょうのこどもといっしょにべんきょうせぬよう、しばらくがっこうをやすみましょう」等と書かれたポスターを貼るなどして、児童らの登校を阻止する挙に出た。

 この問題は、昭和三〇年四月、熊本商科大学長が里親となって児童を引き取り、そこから通学させるという形で決着するまで、通学反対派と療養所・入所者側が激しく対立して紛糾した。

 2 「野放しのライ患者」の新聞記事

 昭和三五年一月一一日付けの「野放しのライ患者」の見出しの新聞記事については、前記第三の四2㈣のとおりであるが、この記事には、ハンセン病の伝染・発病に関する医学的知見からかけ離れた偏見の存在がよく現れており、これを読んだ多くの者が抱いたであろう誤解・偏見を考えると、その影響は計り知れない。ただ、この記事は、あくまでも、新法一五条や同条の運用状況が忠実に記載されているのであり、法の建前からすれば、このような記事が現れるのはむしろ当然である。この記事は、新法の外出制限規定の存在が、ハンセン病の伝染に対する一般公衆の恐怖心をあおる結果となった典型例であるということができる。

 3 バスの運行拒否

 長島愛生園の一団体が、昭和四七年四月、バス会社に配車を依頼したところ、一度は了解したバス会社が、配車の三日前になって、組合が消毒等を問題としていることを理由に、配車を断ってきた。

 同様のことは、昭和四五年五月、大島青松園でも起こっている。入所者の団体旅行のため、貸切バスの配車を申し込んだところ、伝染のおそれ等を理由に断られた。このときには、結局、バスの配車を受けられたが、昭和五三年以降は、貸切観光バスの利用はなくなった。

 4 「せいしょう」の職員席・患者席の区別

 昭和四七年五月、大島青松園が保有する船舶「まつかぜ」が進水されたが、その造船に先立って、同園自治体は、従前の職員席・患者席の区別の廃止を申し入れていた。しかし、右区別が廃止されないまま「まつかぜ」が設計され、この区別は、昭和六〇年まで存続した。

 リファンピシンも登場していた昭和四七年にこのような区別を設けなければならない医学的な理由は見いだせない。療養所の職員ですら容易に偏見を払拭できなかったところに、ハンセン病に対する偏見の根深さが現れている。

 5 名護市ゲートボール協会加盟

 沖縄愛楽園のゲートボール協会は、昭和五八年四月以降、数回にわたって、名護市ゲートボール協会への加盟を申し入れたが、同協会から拒否され続け、新法廃止のころにようやく加盟を認められた。

 6 心中事件

 ㈠ 昭和二五年九月一日、熊本県で、ハンセン病患者の父を抱えた息子が、将来を悲観して、父を銃殺した上で、自殺するという事件が起こった。

 ㈡ 昭和二六年一月二九日、山梨県で、ハンセン病患者を抱える家族九人の心中事件が起こった。この事件は、保健所にハンセン病患者発見との報告があり、消毒の準備をしていた矢先の出来事であった。

 ㈢ 昭和五六年一二月ころ、秋田県で、軽い皮膚病をハンセン病と思い込み、二人の子供を絞殺し、自分も自殺を図ったが未遂に終わったという事件が起こった。

 ㈣ 昭和五八年一月、香川県で、自分と娘がハンセン病にかかっていると思いこんだ女性が、娘をガス中毒で死なせ、自分も自殺を図ったが未遂に終わるという事件が起こった。

 プロミン登場後において、このような痛ましい事件が絶えないのは、いかにハンセン病が医学的な意味を超えて恐れられていたかを示すものである。とりわけ右㈢、㈣は、多剤併用療法が登場していたころの事件であり、ハンセン病に関する誤った認識がいかに根深いものであったかを示すとともに、ハンセン病にかかったと思っても、社会的な差別・偏見を恐れて、あるいは、隔離されることを悲観して、気軽に病院や療養所にも行けない実情があることを示すものである。

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