「らい予防法」違憲国家賠償請求事件判決文/chapter four

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第四章 当裁判所の判断


第一節 ハンセン病の医学的知見及びその変遷


第一 ハンセン病の病型分類と症状の特徴等

 一 リドレーとジョプリングの病型分類

 ハンセン病医学においては、これまで様々な病型分類が用いられてきたが、現在の一般的な病型分類として、昭和四一年に提唱されたリドレーとジョプリングの分類がある。

 右分類による各病型の特徴は以下のとおりである。

 1 I群 (未定型群)

 らい菌の感染が成立した「免疫不全個体」が発病したときの初期症状と考えられているものである。I群から更に成熟した病態に移行する場合には、LL型、TT型 及びB群の三つの方向がある。

 2 LL型 (らい腫型)

 細胞免疫系の抑止力が機能せず、らい菌を多数含有する細胞が全身に播種拡大する傾向を示す病型で、皮疹を始め多彩な症状を呈する。最も重症になりやすい病型である。排菌量も最も多く、塗抹菌検査による菌指数は、五ないし六+程度である。

 3 TT型 (類結核型)

 細胞免疫不全のため病態は進行するが、それでも強い類結核性肉芽腫形成が起こり、皮膚病巣は一か所に限局傾向を示して播種傾向に乏しく、境界鮮明でしばしば中心性治癒所見を見る。排菌量はLL型よりはるかに少なく、菌指数は、〇ないし一+程度である。

 4 B群 (境界群)

 免疫応答がLL型とTT型の中間に位置し、しかも内容・程度が不安定で、病理組織像は両者の特徴が共存しており、皮膚病巣もしばしば播種が見られるが、病巣が部分的には一か所に限局する傾向が認められ、LL型のように全身に左右対称性に散在することはない。菌指数は、〇ないし五+である。

 この境界群は更に三型 (LL型に近いBL型、TT型に近いBT型、中間のBB型) に分けられる。

  (注) 塗抹菌検査と菌指数について

 塗抹菌検査とは、皮疹部位等をメスで切開して採取した組織汁をスライドグラスに塗抹し乾燥させ、染色後に顕微鏡でらい菌の有無、個数等を検查するものである。

 菌指数とは、塗抹検査によって認められる菌の個数を次のような指数で表したものである。

菌指数六+ 毎視野中に平均一〇〇〇個以上

菌指数五+ 毎視野中に平均一〇〇個から一〇〇〇個

菌指数四+ 毎視野中に平均一〇個から一〇〇個

菌指数三+ 毎視野中に平均一個から一〇個

菌指数二+ 一〇視野中の合計が一個から一〇個

菌指数一+ 一〇〇視野中の合計が一個から一〇個

菌指数- (マイナス) 菌を発見できない。

 二 リドレーとジョプリングの分類と他の病型分類との関係

 1 マドリッド分類

 リドレーとジョプリングの分類以前のマドリッド分類 (第六回国際らい会議、昭和二八年) は、L型 (らい腫型)、T型 (類結核型) に加えて、B群 (境界群)、I群 (不定型群)の二型二群とした。なお、我が国では、昭和五三年まで境界群を可能な限り減らしてL型とT型の二種類に分ける方法が採られていたため、L型にもT型にも現在のB群が相当程度含まれていたものと思われる。

 我が国における各分類の比率は、証拠上必ずしも明確ではないが、《証拠略》ママによれば、L型が七〇パーセント程度であると思われる。

 2 我が国の伝統的分類

 我が国で伝統的に用いられてきた病型分類として、結節型、斑紋型、神経型の三分類がある。これをマドリッド分類と対比すると、結節型はL型とB群の一部を、斑紋型はT型とB群の一部を含むものと考えられる。なお、神経型は、斑紋型で斑紋が消失したものである。

 3 WHO提案の病型分類

 WHOは、多剤併用療法による治療方針決定上のより簡便な病型分類として、MB型 (多菌型) とPB型 (少菌型) の二分類を提案した。

 これによると、MB型はおおむねLL型、BL型、BB型及び一部のBT型に相当し、PB型はおおむねI群、TT型及び大部分のBT型に相当する。

 三 症状の特徴

 ハンセン病の症状は、以下のとおり、病型によって大きく異なる。

 1 皮膚等

 ㈠ I群 一個ないし数個の低色素斑 (ときに紅斑) が見られる。

 ㈡ TT型 一個ないし数個の低色素斑あるいは紅斑が見られ、病状が進行すると手掌大あるいはそれ以上の大きさとなる。皮疹に一致して知覚障害、発汗障害、脱毛を伴う。

 ㈢ BT型 TT型に似て、低色素斑か紅斑で始まるが、皮疹は小さめで、数は多めである。皮疹に一致する脱毛、発汗障害は余り顕著ではない。

 ㈣ BB型 多数 (BL型、TT型よりは少ない) の斑か、集簇性丘疹か、あるいはこれらの混在した病巣が見られる。個疹は大きく、拡大傾向を示して板状疹となることもあり、多形性あるいは地図状で、辺縁は不整である。皮疹に一致して軽度の知覚麻痺、脱毛、発汗障害、皮脂分泌障害が認められる。

 ㈤ BL型 初期は斑で始まるが、間もなくこれらは集簇・融合する。境界不明瞭 な紅斑・板状疹・丘疹・結節や、外側の境界が不明瞭な環状斑が多発する。皮疹部分には発汗障害が認められる。

 ㈥ LL型 通常、早期から広範囲・対称性に分布する複数の皮疹が確認できる。 病態が進むと、皮疹の数が増加し、更に進行すると皮膚の肥厚 (浸潤) として確認できるようになる。真皮に塊状の肉芽腫が形成されると、丘疹や結節の皮疹となる。集簇性・散在性に分布する段階から全身に播種状に多数散布するものまで様々である。び慢性に浸潤した肥厚部位に結節が混在したり、結節が腫大・融合して巨大な局面や腫瘤が形成されることもあり、斑、丘疹、板状疹、結節が混在してくる。結節は自潰しやすく、潰瘍や痂皮を形成し、顔面の浸潤、結節が高度になると獅子様顔貌となる。早期から発汗障害を認めることもある。特に進行すると、眉毛・睫毛・頭髪の脱落、爪の変形・破壊が起こる。

 2 末梢神経

 ㈠ I群 皮疹部分の知覚低下以外に特に変化は認められない。

 ㈡ TT型 菌の存在が末梢神経系の一部のみにとどまり、侵されるのは比較的低温の皮膚から浅い部分にある神経幹である。特に、尺骨、総腓骨、顔面神経が侵されやすく、ここから分かれ出る末梢神経はすべてその機能を停止し、運動麻痺と全種類の知覚障害が支配領域に出現する。

 ㈢ BT型 皮疹の出現に先立って、知覚過敏が起こることもある。皮疹に一致して知覚障害が認められるが、TT型より軽度である。神経幹の肥厚は強く、TT型よりも広範囲であるが非対称性である。神経障害による筋萎縮や運動障害を残しやすい。

 ㈣ BB型 非対称性の肥厚を伴った多発神経炎を起こしやすい。

 ㈤ BL型 対称性の神経障害が現れる傾向がある。比較的多くの神経に比較的強い変化が見られ、かなりの機能障害を残すおそれがある。

 ㈥ LL型 全身の皮膚表層の末梢神経を対称性に侵すが、深層の末梢神経は侵されず、皮膚温度の高いところや踵・指先等の角化の強い部分も侵されにくい。このような領域を除いた全身の皮膚表面の知覚低下 (鈍麻) が見られる。さらに、皮膚の浅い部分の神経幹も侵されやすいため顔面筋・小手筋、前頸骨筋等の麻痺が加わる。多くは病期が進行してから現れ、主として知覚鈍麻を呈する。神経の肥厚は顕著ではない。

 3 眼

 TT型やBT型は、顔面に病変がある場合に顔面神経麻痺による片側性の兎眼が見られることがある。BL型やLL型では、らい菌が血行性に眼部に到達して、増殖することがある。特に、眼球の前半部は低温のため浸されやすい。顔面神経や三叉神経の麻痺があると多彩な障害が起こる。らい菌の侵入による変化と末梢神経の障害とがあいまって後遺症を残すことが多い。

 4 耳・鼻・口・咽喉

 TT型やBT型では、顔面に病変がある場合のみに、顔面神経麻痺による変化が見られる。BL型やLL型では、鼻、口腔、咽喉の粘膜にらい菌の浸潤による病変が見られることもある。

 5 臓器

 至適温度が三〇度から三三度であるというらい菌の特性から、ハンセン病では体表に近い低温部が侵されやすく、温度の高い臓器 (肝臓、脾臓、腎臓等) に病変が生じてもこれによる障害はほとんど見られない。

 四 経過、予後、治癒

 1 経過

 ㈠ I群 約四分の三は自然治癒し、四分の一が更に成熟した病態に移行するとされる。

 ㈡ TT型 皮疹出現時期が明確なことが多い。しばしば皮疹部位に知覚過敏が現 れ、早期に運動障害を起こすこともある。病変が激しいときは、前駆症として発熱や悪寒を伴う。皮疹は自然治癒することもある。末梢神経障害により高度の後遺症を残すことが少なくない。

 ㈢ B群

 末梢神経障害を起こしやすく、病型の変動を起こしやすい。

 ㈣ LL型

 未治療のまま放置すると病変が拡大して、重症化する。

 2 予後

 ハンセン病そのものはもともと致死的な病気ではない。例えば、昭和六年から昭和二三年までの長島愛生園の死亡統計によれば、ハンセン病による衰弱死は全体の二・九パーセントにすぎず、喉頭のらい腫性病変による喉頭狭窄を来した死亡例を加えても三・六パーセントであり、スルフォン剤による化学療法の出現前においても、ハンセン病が直接的な死因となったものは極めて少なかった。また、リファンピシンやクロファジミンによる治療が登場する以前の昭和四五年に発行された「らい医学の手引き」においても、「らいによる直接的もしくは間接的な死亡の危険性は、スルフォン剤が出現してから進行性の重症らいが激減し、また抗生物質によって感染症が制圧されたため、ますます遠のいてしまった」とされている。

 3 治癒

 国立らい療養所共同研究班 (平成元年) は、次の状態 (鎮静期) がI群及びTT型で二年以上、B群及びLL型で五年以上続いたときを臨床的治癒としている。

 ㈠ 菌検查 らい菌の消失

 ㈡ 臨床症状 皮疹消失、らい反応なし、知覚障害の拡大や著明な筋力低下なし、眼や鼻に活動性病変なし

 五 らい反応

 1 意義

 ハンセン病の経過は通常緩やかであるが、突然、急激な炎症性変化が起こることがある。これをらい反応という。らい反応には、大きく分けて、境界反応とらい腫反応 (ENL反応) の二つがある。前者はB群の患者に、後者はLL型やBL型の患者に起こる。

 2 境界反応

 境界反応は、抗菌剤の治療中に発生することが多い。DDS単剤療法ではB群患者の約五〇パーセントに、多剤併用療法でも二五パーセントに起こるとされる。

 境界反応が起こると、皮膚と神経で炎症が生じる。皮慮ママでは、既存の境界群病巣の炎症症状の悪化あるいは新しい皮疹の出現が見られる。神経では、炎症性変化により神経内圧が上昇し神経破壊と麻痺を来し得る。兎眼、垂手、垂足を生じることもある。

 境界反応が生じても抗菌剤投与は原則として継続する。治療としては、鎮静剤や非ステロイド系消炎鎮痛剤等で対処することもあるが、反応が重篤で皮膚潰瘍や神経炎が起こると、ステロイド剤の適応となる。

 3 ENL反応

 ENL反応は、らい菌由来の抗原と抗体、補体とが結合してできた免疫複合体が、組織内や血管壁に沈着して起こる全身の炎症であり、抗菌剤治療を開始した数か月後から生じることが多く、LL型患者の半数以上、BL型患者の約四分の一に起こるとされている。

 主症状は皮疹であるが、重症例では末梢神経炎、虹彩毛様体炎、リンパ節炎、さらには睾丸炎、発熱、タンパク尿、開節炎等の全身性変化を起こすことがある。

 ENL反応が生じた場合、以前は抗菌剤投与が一時中止されていたが、現在は中止する必要はないとされている。治療には、サリドマイド (ENL治療の第一選択としてよい薬剤であり、昭和四〇年以降広く使用されるようになつた。)、クロファジミンが著効を示すほか、ステロイドも有用である。軽症患者には、鎮静剤、非ステロイド系消炎鎮痛剤による対症療法で効果が得られることもある。

 予後は通常良好であるが、軽症の炎症が数か月から数年にわたって持続し神経障害が進行したり、眼症状を残すこともある。

第二 ハンセン病の疫学

 一 ハンセン病の疫学的特徴

 ハンセン病の特徴は、感染と発病の間に大きな乖離が見られることであり、発病するのは感染者のごく一部にすぎず、感染者の中の有病率は高い場合でも通常一パーセントを超えることはないとされる。

 この乖離の原因は、らい菌の毒力が極めて弱いため、感染しても発病に至ることが少なく、この菌に対して抗原特異的免疫異常が起きた場合にだけ発病するからであるとされる。すなわち、ハンセン病は、弱毒菌と人集団の微妙なバランスの上に成り立っている疾患であり、人の集団免疫の変化によって流行が大きく左右されるのである。

 ハンセン病の大流行はまれで、二〇世紀に入ってからは、二〇世紀初めのナウル島やパプアニューギニア、一九五〇年代、六〇年代のミクロネシアのピンゲラップ島等の例が知られている。

 二 ハンセン病の感染について

 1 感染源

 ㈠ 患者

 現在、感染源として確立されているのは患者だけである。

 患者は、病型によって排出する菌の量が大きく異なり、TT型やI群の患者の排菌量は少ないが、LL型の患者からは、潰瘍を伴った皮疹、上気道分泌物、母乳等から大量のらい菌が排出される。

 多剤併用療法を始めると、らい菌の感染力が数日で失われるので、感染源になる可能性があるのは未治療の患者である。また、DDS巣剤療法でも、らい菌の排出量は急速に減少するとされている。

 ㈡ 患者以外

 発病前の感染者については、臨床症状が出る前のらい菌の増殖により発病前の一定期間は感染源となる可能性が強いとされている。

 人以外のらい菌の感染源としては、生活環境中のらい菌による感染の可能性が考えられている。証人和泉眞蔵 (以下「和泉」という。) は、感染源は、生活環境中のらい菌と患者の二つであるが、患者が主要な感染源とは考えられない旨証言している。ただ、生活環境中のらい菌による感染の疫学的重要性についてはいまだ不明な点も多い。

 ハンセン病が人獣共通伝染病であることは、一九七〇年代、八〇年代の研究で明らかになり、ココノオビアルマジロから人への感染発症例も報告されているが、これは特殊な例で感染源としての野生動物の疫学的重要性はないとされている。

 なお、体外でのらい菌の生存期間について、乾燥した日蔭では五か月、湿った土の中では四六日、室温の生理食塩水中では六〇日、直射日光で毎日三時間照射した場合でも七日間感染性を保っていたという研究結果がある。

 2 感染経路

 らい菌の感染経路については、現在でも確固たる結論には達していない。かつては上気道粘膜からの感染が重視され、後になって皮膚の傷からの感染を重視する説が有力になったが、近年は再び経上気道粘膜感染の重要性が指摘されるようになった。母乳中のらい菌による乳児への感染の可能性も否定されてはいないが、疫学的重要性はないようである。

 節足動物を媒介とする感染の可能性も否定されてはいないが、疫学的重要性はないとされている。

 3 感染力

 ハンセン病には結核のツベルクリン反応のような感染を知る皮内反応がないため感染の判定には血清学的手法が用いられるが、感染を一〇〇パーセント知る方法はまだ確立されていない。したがって、らい菌の感染力の強弱を知ることは困難であるが、最近の疫学的研究では、らい菌の感染力自体はそれほど弱くないともいわれている。

 三 ハンセン病の発病

 ハンセン病の発病には、種々の疫学的要因が関与していると考えられている。

 1 年齢・性

 ハンセン病の好発年齢については流行状態と関係がある。流行が持続している地域では、一〇歳代と四〇から六〇歳代にピークがあるが、流行が終焉に向かうと、若年の発病が減少するため、高齢発病のみの一峰性分布になる。

 発病者の男女比は一般に二対一といわれるが、年齢や地域差もあり、必ずしも一定ではない。

 2 初発患者の病型及び接触濃度

 家族内接触者の場合、初発患者の病型が発病の危険度に影響する。LL型患者の家族内接触者の発病率は、一〇〇〇分の六・二から五五・八と報告者により大きな違いがある。また、孤発例の発病率を 1 とした場合、LL型患者の家族の相対危険率は九・五、非LL型患者の家族のそれは三・七であったとの報告もある。また、同じ家族内接触でも接触が濃密であるほど発病率が高まることも知られている。

 乳幼児に対する家庭内感染の危険性については、第二回国際らい会議以降、国際会議等でしばしば取り上げられている (後記第四の一2以下参照)。家庭内接触児童の発病率については、多数の報告があるが、これをまとめた犀川一夫 (元日本らい学会会長、沖縄愛楽園名誉園長。以下「犀川」という。) の報告によると、戦前には四〇パーセント前後という極めて高率のものも発散されるが、戦後のものだけを見ると、最も高いもので一四パーセント、最も低いもので 一・四パーセントとなっている (別紙二1参照)。

 これに対し、夫婦間感染は、古くからまれであるといわれている。発病率は、多数の報告があるが、犀川の右報告によれば、最も高いもので七・八パーセント、最も低いもので〇・二六パーセントである (別紙二2参照)。

 3 遺伝素因

 統計によって多少の違いはあるが、ほぼ半数の患者は家族性に発生し、残りの半数は孤発例であるとされ、ハンセン病の発病に遺伝素因が一定の役割を果たしているものと考えられている。

 4 環境要因

 ハンセン病の流行は、社会経済状態と関係していると考えられている。ただ、発病に影響を与える社会経済因子を具体的に特定するには至っていない。

 なお、被告は、社会経済状態の発達がハンセン病の感染や発病を減少させることが認識されたのは、一九六〇年代ないし一九七〇年代ころからであると主張し、その根拠として、証人和泉の証言を挙げる。しかしながら、社会経済状態の発達とハンセン病の感染・発病が関係していることは、既に明治三〇年の第一回国際らい会議において確認されている上 (後記第四の一1)、その後も国内外で繰り返し指摘されている (例えば、後記第五の一3 ㈠、4 ㈢ ⑴、⑶) ところであって、被告の右主張は失当である。

 四 WHOハンセン病制圧基準

 平成三年のWHOの世界保健総会では、「公衆衛生問題としてのハンセン病を平成一二年までに制圧する」との宣言がなされたが、ここでいう「主たる公衆衛生問題としてのハンセン病の制圧」の基準は、有病率を人口一万人当たり一人以下とすることとされた。これは、当時の世界の主なハンセン病蔓延国の平均有病率 (人口一万人当たり一〇人程度) を約一〇分の一に下げることを意味する。

 もちろん、世界には様々な公衆衛生水準の国があって、平成三年当時の右基準が我が国の新法制定当時の公衆衛生水準としてそのまま妥当するものではないが、一応の参考にはなるものである。

 なお、後でも述べるが、我が国の有病率は、明治三三年が人口一万人当たり六・九二人、昭和二五年が一・三三人であり、昭和四五年以降は一人を下回っている。

 第三 ハンセン病治療の推移

 一 スルフォン剤登場前の治療について

 スルフォン剤がハンセン病治療薬として登場するまでは、大風子油による治療がほとんど唯一の治療法であり、ある程度効果があるとの評価もあったことから、我が国の療養所でも使用されていたが、再発率がかなり高く、根治薬というには程遠いものであった。

 二 スルフォン剤の登場

 アメリカのカービル療養所のファジェットは、昭和一八年、二〇世紀初頭に抗結核剤として開発されたスルフォン剤であるプロミンにハンセン病の治療効果があることを発表した。その治療効果は、「カービルの奇跡」とまでいわれた。

 その後、プロミンやその類似化合物であるプロミゾール、ダイアゾンの治療効果は、昭和二一年にリオデジャネイロで開催された第二回汎アメリカらい会議でも取り上げられ、その評価になお慎重な意見もあったが、ファジェットの研究成果が高く評価され、スルフォン剤が、大風子油以来、最も進歩した薬剤とされた。

 我が国でも戦後間もなくプロミン等による治療が開始され、昭和二二年以降、日本らい学会においてプロミンの有効性が次々と報告された。昭和二四年四月には、全患協による運動 (プロミン獲得運動) もあって、プロミンが正式に予算化された。

 そして、昭和二六年四月の第二四回日本らい学会において、「『プロミン』並に類似化合物による癩治療の協同研究」が発表され、再発の可能性を検討するために少なくとも 一〇年の経過を観察する必要があるとしながらも、プロミン等が極めて優秀な治療薬であると認められた。

 スルフォン剤の登場は、これまで確実な治療手段のなかったハンセン病を「治し得る病気」に変える画期的な出来事であった。

 三 DDS

 DDSは、スルフォン剤の基本化合物で、らい菌の葉酸代謝を阻害して静菌作用を示す。DDSは、リファンピシン登場前のハンセン病の代表的治療薬であり、現在でも多剤併用療法で用いられている。

 DDSがハンセン病治療に試されたのは昭和二二年ころからであり、昭和二三年にハバナで開催された第五回国際らい学会においては、DDSの少量投与で副作用を起こさず効果があるとの研究成果が報告され、注目を集めた。さらに、昭和二七年のWHO第一回らい専門委員会においても、DDSに恐れられていたほどの副作用がない上、治療効果も高いこと、安価であること、経口投与が可能で使用方法も簡便であることなどが高く評価された。

 我が国でも、昭和二八年ころからDDS経口投与の治療が開始されたが、広く普及するようになったのは、昭和三〇年代後半であった。

 四 リファンピシン

 リファンピシンは、もともと抗結核剤であったが、らい菌に対して強い殺菌作用を有していることが判明し、我が国でも、昭和四六年ころからハンセン病治療に用いられるようになった。リファンピシンを服用すると、数日で体内のらい菌の感染力を失わせることができるとされており、リファンピシンによって化学療法は更に進歩した。リファンピシンは、現在の多剤併用療法の中心的薬剤である。

 五 クロファジミン (B六六三)

 クロファジミンは、昭和三二年に合成されたフェナジン系誘導体で、当初抗結核作用が注目されたが、らい菌に対する弱い殺菌作用と静菌作用に加え、らい反応を抑える効果を有している (特に、ENL反応に著効を示す。) ことが判明し、我が国でも昭和四六年ころからハンセン病治療に用いられるようになった (なお、昭和四五年発行の甲一二四の一九七頁には、DDSとクロファジミンを併用すれば効果が増大する旨の報告が紹介されている)。

 六 発剤併用療法

 スルフォン剤に始まる化学療法の進歩は、ハンセン病治療に光明をもたらしたが、昭和三〇年代後半にDDSの、次にリファンピシンの耐性菌が発現し、耐性の問題をいかにして克服するかが世界的に重要な課題となっていた。

 昭和五六年にWHOが提唱した多剤併用療法は、リファンピシン、DDS、クロファジミンを同時併用することでこの問題を解決しようとするもので、前記第二章第二の一3で述べたように、卓越した治療効果、再発率の低さ、らい反応の少なさ、治療期間の短縮等の点で画期的であった。

 ただ、我が国では、当時、新規患者が極めて少なく、多剤併用療法の対象者がほとんどいなかったことから、医療関係者の多剤併用療法に対する関心は薄く、画期的であるとの実感はすぐには持たれなかった。

 七 再発、難治らいについて

 1 再発について

 ㈠ 多剤併用療法の場合の再発率は極めて低いとされているが、スルフォン剤による単剤療法の時代には、LL型、BL型患者の再発が少なくなかった。

 なお、治療前の症状発現・増悪を再燃、治癒後の症状発現を再発ということもあるようであるが、ハンセン病では治癒の判定が難しいことから、ここでは両者を特に区別しない。

 ㈡ 再発率

 再発率については、様々なデータがある。

 甲一二四 (らい医学の手引き、昭和四五年発行) は、昭和三五年までの厚生省共同研究班によるらい腫型の再燃に関する研究によると、「スルフォン系治らい剤を用いた場合の再燃の比率は五ないし一三%ほど」であったとしている。

 また、乙八一 (レプラ続刊、平成五年三月発行) は、星塚敬愛園に昭和二〇年から昭和三〇年までに入所した新入所者についての化学療法後の再燃を昭和四一年に調査した報告によれば、調査患者の二〇・三パーセントに再燃が見られたとしている。

 また、長尾榮治 (大島青松園副園長。以下「長尾」という。) は、乙二九 (平成一〇年のハンセン病医学夏期大学講座教本) において、DDS単剤療法の場合の再発率は四ないし二〇人に一人であるとしている。一方、証人長尾は、DDSないしプロミン治療の場合、L型患者の約三〇パーセント前後に再発がある旨証言している。

 甲七 (三二八頁) は、DDSによる治療について「多菌型患者の場合、世界的にみて三〇%以上の再発者を出す結果となった。」としているが、このデー夕が我が国に当てはまるのかどうかは明らかでない。

 このように再発率のデータにばらつきが見られる。その原因としては、調査時期や再発率を累計する期間の長短などが考えられるが、いずれにしても、長い期間を通してみると再発率は低いとはいえない。

 なお、リファンピシンは耐性菌が出現しやすいとされているが (甲七の一一八頁)、乙八一 (六頁) によれば、調査した六四症例 (昭和四七年から平成四年までに再発したもの) のうち、リファンピシンを服用していたものは、不規則服用の一例のみであったとされており、我が国において、リファンピシン治療による再発が多数生じていたことを認めるに足りる証拠はない。

 ㈢ 再発の原因

 再発の原因について、甲一二四 (二〇四頁) によれば、薬剤使用量の不足、使用方法の不適、不規則な服用投与、耐性菌の発現、生活環境等が挙げられており、「治療態度が怠惰になる時期と再発の比率が高まる時期とがおおむね一致する」、「プロミン及びプロミゾールともに、これらを計画的かつ規則的に用いて治療した場合の方が、そうでない場合よりも再燃の比率が低くなる」、「プロミンによる治療を何らかの理由で中止した場合に、再燃の比率が高くなる最も重大な要素は、中止した時点での治療効果が不完全なことである。」とされている。

 また、甲七 (一一四頁) によれば、DDSの耐性発現率は低いとされ、乙八一 (一〇頁) でも、「DDS少量服用でらい腫型再発をきたした数例に、化学療法を変更する前にまずDDSを一〇〇mgに増量して経過を見たことがあるが、ほとんどの場合に皮疹の吸収が起こっている。このことから、DDSの二次耐性も一般に考えられるほどは多くはないと思われる。」とされている。

 他方、犀川は、証人尋問において、我が国で多くの再発者を出した要因として、退所後のフォローアップが不十分であった点を挙げ、そのために多くの再入所者が生じた旨証言しており、我が国の療養所中心主義ともいうべき政策の矛盾の一端がここに現れているということができる。

 以上のとおりであり、スルフォン剤単剤治療において再発が少なくないのは、治療が長期間にわたることや治療を受ける患者個の事情も含む様々な要因によるものであると考えられる。

 ㈣ 再発後の治療

 甲一二四 (一九五頁) は、「治療に悩まされる再燃例もある。もっともそのような症例に対しても、一応はDDS (または他のスルフォン系薬剤) の与薬方法を変更して二か月ほど経過を観察し、もし効果が期待できないようであればストレプトマイシンなどを用いるが、結局はDDSの有効なことが少なくない」としている。また、乙八一も、再発に対して、DDSを増量しただけで効果のあった症例を紹介している。

 再発後の治療については、昭和四六年以降のリファンピシンやクロファジミンの登場により進歩を遂げたことは間違いないであろうが、それ以前においても、DDSを中心にその時々に使用可能な薬剤 (ストレプトマイシン、カナマイシン、CIBA一九〇六、エタンブトール等) をも駆使しながら、それなりの治療成果を上げていたものと考えられる。

 2 難治らいについて

 昭和四〇年ころ以降、スルフォン剤によって治療困難な「難治らい」と呼ばれる症例が現れるようになり、学会でもこのことがしばしば取り上げられた (なお、難治らいの定義は必ずしも一定していないが、甲七の一六二頁参照)。

 難治らいの原因としては、DDS耐性が考えられ (ただし、証人和泉は、人体側の要因が強く関わっている旨証言し、その可能性も否定できない。)、昭和四六年以降のリファンピシンの登場により、この問題はかなり克服されたものと考えられる。

 なお、宮古南静園長であった馬場省二は、甲一四四 (昭和五七年発行) に、同園において「医師不在、短期間の派遣医師の入替えにより診療が支えられた期間が長かった為に、一貫した治療方針が維持できず、所謂難治らいとなってしまった症例が一一名もある。」と記述しており、証人長尾も、これを肯定する証言をしている。

 難治らいの症例数がどの程度あったのかは証拠上明らかではない。難治らいは医学的には重要な問題であったかもしれないが、我が国においてハンセン病政策全体を左右しなければならないほど多数の症例があったとは認められない。

第四 ハンセン病に関する国際会議の経過

 ハンセン病に関する国際会議の経過は、その時々のハンセン病の医学的知見やハンセン病政策の世界的傾向を知る上で参考になるので、以下、これについて見る。

 一 戦前の国際会議について

 1 第一回国際らい会議 (明治三〇年、ベルリン)

 ハンセンが明治七年にハンセン病の伝染説を発表した後も、伝染説はなかなか学会の承認を得られなかったが、この会議でようやく伝染説が国際的に確立された。

 この会議では、「らい菌は真の病原である。」、「生活条件と人体内への侵入経路は不明。恐らく人に対する侵入門戸は口腔及び鼻腔粘膜である。」、「社会的関係が悪ければ悪い程周囲に対する危険性が大である。」、「らいは今日までこれを癒すあらゆる努力に抵抗した。従ってらい患者の隔離は、特に本疾患が地方病的或は流行病的に存在する地方では望ましい。ノルウェーにおいて隔離によって得られた結果はこの方法の徹底を物語るものである。ノルウェーと似た関係の場合にはらい患者の隔離は法律的の強制において遂行すべきである。」とされた。

 なお、りん菌の発見者でありハンセン病の伝染説の確立に貢献した細菌学者であるナイセルは、この会議において、「らいは疑もなく伝染性であるがその伝染性の程度は而し顕著ではないし又各型によって異なって居る。(中略)ママ 総てのらい患者を一つの規格に従って取扱い隔離しようとすることは誤りである。(中略)ママ 総てのらい予防は一つの隔離、家庭からの分離から始まる。らいをその初期に絶滅させる事の出来る場所では規則は極端に厳重でなくてよい。」と述べた。

 また、ハンセンは、隔離がハンセン病患者を減少させることを強調しつつ、隔離の在り方について、「もしらい患者が家庭に居るならば彼らは自分の寝床と出来るだけ自分の室をきめ、更に自分の食器をもつことが要求される。これ等のものと洗濯物は特別に洗われる。清潔に対する教育が主である。ただそこを支配する清潔によってらいは北アメリカでは蔓延しない。規則の守られない所では患者は療養所に来なければならない。」と述べた。

 また、他の参加者からは、「強制的に患者を引き渡し拘留すべき必要があるかどうか疑問である。」とか「隔離が唯一の方法ではない。」との意見も述べられた。

 2 第二回国際らい会議 (明治四二年、ベルゲン)

 この会議では、第一回国際らい会議の決議が確認された。そして、隔離は、患者の自発的施設入所が可能であるような状況 (家族への生活援助等) の下で行うべきこと、隔離には家庭内隔離措置もあり、家庭内隔離の不可能な浮浪患者の施設隔離は、場合によっては法による強制力の行使もやむを得ないこと、らい菌の感染力が弱いこと、子供は伝染しやすいので患者の親から分離することが好ましいことなどが決議された。

 3 第三回国際らい会議 (大正一二年、ストラスブルグ)

 この会議では、①らいの蔓延が甚だしくない国においては、病院又は住居における隔離は、なるべく承諾の上で実行する方法を採ることを推薦する、②らいの流行が著しい場所では、隔離が必要である、この場合、a 隔離は人道的にすること、かつ、十分な治療を受けるのに支障のない限りは、らい患者を、その家庭に近い場所におくこと、b 貧困者、住居不定の者、浮浪者その他習慣上住居において隔離することのできない者は、事情により病院、療養所又は農耕療養地に隔離して十分な治療を施すこと、c らい患者により産まれた子供はその両親より分離し、継続的に観察を行うことなどが決議された。

 また、この会議では、伝染性患者と非伝染性患者とでハンセン病予防対策を区別する考え方が主張された。

 4 国際連盟らい委員会 (昭和五年、バンコク)

 この委員会の報告では、治療なくして信頼し得る予防体系は存在せず、隔離がハンセン病予防の唯一無二の方法ということはできないとして、予防対策としての治療の重要性が強調された。また、右報告では、隔離は伝染のおそれがあると認められた患者にのみ適用すべきであることが明記された。

 なお、同委員会が昭和六年に発行した「ハンセン病予防の原則」は、右報告と共通の考え方を示した上、隔離には患者の隠匿を促進し診断・治療を遅らせる欠点があることを指摘し、感染性がない患者や発病初期の患者に対して、可能な限り、外来の治療施設で治療されるべきであるとしている。

 5 第四回国際らい会議 (昭和一三年、カイロ)

 この会議では、開放性患者の施設隔離について、「強制隔離から徐々に自発的隔離へ推移している国もある。(中略)ママある国家では強制隔離がなお実施され、推奨されるべきものとして認められている。このような所では、患者生活の一般的条件は自発的隔離の場合とできる限り同様でなければならず、合理的退所期も保証されねばならない。(中略)ママ自発的隔離組織の国家では衛生当局が公衆衛生に脅威であると思われるくらい患者の隔離を強いるよう力づけすることを勧告する。」とされた。また、感染のおそれについては、「らい者と共に働く者でも、感染に対し合理的注意を払えば殆ど感染しないという事実を歴史は示している」とされた。

 二 戦後の国際会議について

 1 第二回汎アメリカらい会議 (昭和二一年、リオデジャネイロ)

 この会議において、ファジェットは、スルフォン剤であるプロミン及びダイアゾンの治療効果に関する研究成果を報告した。これによれば、プロミンあるいはダイアゾンの投与を受けた患者は、六か月の治療で 二五パーセント、一年で六〇パーセント、三年で七五パーセント、四年で一〇〇パー セントが軽快し、四年間の治療で五〇パーセント以上が菌陰性となるという極めて画期的なものであった。この会議では、スルフォン剤の評価について最終的見解を出すには更に時間を要し多くの症例を見る必要があるとされたが、ファジェットの研究成果が高く評価されたことは間違いのないところである。

 2 第五回国際らい会議 (昭和二三年、ハバナ)

 この会議でも、スルフォン剤の著効が確認され、「一九四六年リオデジャネイロ会議における意見乃至この国際会議を通じて、一九三八年のカイロ会議以来らいの治療に目覚ましい進歩が見られるに至ったことは明白な事実である。」、「らいの治療薬として選出できるものはスルフォン剤である」とされた。また、この会議でDDSの有用性についての報告がなされたことは、前記第三の三のとおりである。

 また、ハンセン病対策については、「らいの対策としては、⑴らい療養所⑵診療所 —外来の臨床治療、⑶発病予防所等の根本的機関の提携した活動が必要である。(中略)ママ らい療養所とは (a) らい伝染性患者、(b) 社会的、経済的事情により非伝染性患者の両者を隔離するところである。(中略)ママ らい療養所の存在位置は交通の便利な都市間の中央近くがよい。最も近い都市から半径一〇ないし三〇キロメートル内が好ましい。患者を特別な小島に隔離する事は無条件に責められるべきである。」、「施薬所又は外来診療所この両者ともらい管理には欠くべからざる重要性をもっている。これは交通の便利な、しかも人口密度の高い地域に設けるべき」、「伝染性のらい患者は隔離する。隔離の様式及び期間等は患者の臨床的、社会的条件又は特殊な地方的条件等によって異なる。」、「非伝染性の患者は隔離することなく、一定の正規な監視下におく。」、「らい患者及びその家族の社会的援助は対らい政策に基本的必要性を占めるものである。(中略)ママらい療養所を退所できる患者に社会復帰上の援助を与えること。」とされた。

 3 WHO第一回らい専門委員会 (昭和二七年、リオデジャネィロ)

 この委員会には、世界を代表するハンセン病学者が参加し、DDSを始めとするスルフォン剤の治療効果が確認され、これを踏まえてハンセン病対策の在り方が議論さ れた。

 以下、同委員会の報告の重要な部分を抜粋する。

 ㈠ スルフォン剤治療

  ⑴ 総論

 委員会は、スルフォン剤治療が嘗ての如何なるらい治療形式よりも非常に優れていると云う意見については異論がない。(中略)ママほとんど全てのらいはスルフォン剤治療に良く応ずる。(中略)ママスルフォン剤は、細菌に作用するものと信じられており、これは細菌の増殖を阻止する様に思われる。又斯くして、人間の体の感染に対する防護力が細菌の侵入を押える事が出来る様な程度に迄、らい菌の感染力を徐々ではあるが減少せしめるのである。らい菌の伝染力が根絶されてしまうかどうかは、疑わしい事であるので、それ故にらいの再発の可能性は考えられる。スルフォン剤治療を中止した後に起るらい再発に関するデータは少ない。この再発の危険性について正確な評価を下す事はまだ可能でない。(中略)ママスルフォン剤の使用が行われて以来一一年になり、らい治療の成績は非常に進歩した。この治療は全ての病型について、らいの活動性の症例に使用して偉大な価値を示したのである。

  ⑵ スルフオン剤の基礎となるDDSをもってする治療について

 DDSそれ自身が人体に使用されるとき、毒性が強すぎると今迄長い間信じられて来た。らいに対する一〇〇〇例からの、四年以上に亘る数ヵ国における治験の結果によると、若しもその量が適当に整えられて使用されるなら、考えられていた様な危険はない事がわかった。(中略)ママDDSの少量を用いる事は、一般にDDS以外の誘導体を多量に用いる場合に比して治療効果が決して少ない事はないと云うことである。DDSは多くの長所をもっている。即ち、その価額ママの安い事、その使用法の非常に簡単な事、これは普通経口的に投与出来る事、然し若しも希望なら注射でも投与出来る事、毎日の投与は必ずしも必要ではない事、即ち、一週間一回投与か、週二回投与の治療が広く用いられ、それ故、患者が治療センターより遠い所に住んでいる様な所では、その投与は薬の効果を長く保つために油の中にDDSを懸濁液として月二回法で注射も行う事も出来る。この様なわけで、多くの所で、特に大規模に仕事をしたり集団治療をする場合には、DDSは非常に利用価値が大である。

 ㈡ 疫学

 閉鎖型はらいを伝播する事に関して、重要な役割を演じていないと考えている。(中略)ママ開放性型と閉鎖性型との伝染力の著明な相違は、逆に云うならば、開放性型に対して、しっかりした隔離政策を広く行わねばならぬ事を基礎付けている。

 ㈢ らい管理

 らいと云う病気は、それだけ単独で扱う病気ではない。特にその流行地においては、一般の公衆保健に関する問題である。(中略)ママらい管理に関して政策を決定するのはあく迄公衆の保健衛生の立場からであって、決して公衆の恐怖とか偏見から行われるのであってはならない。

  ⑴ 管理方策としてのらい治療

 現代のらい治療は、患者の伝染性を効果的に減少せしめ、患者を非伝染性に変えてしまう。それ故にこのらい治療と云うものはらい管理に最も有力な適した武器として好んで利用されているのである。(中略)ママ

   ⑵ 隔離

 理論的には伝染性のある症例を隔離する事はらい伝染の絆を断つものであって、結局らい根絶の結果をもたらすものではあるが、実際には多くの症例は、らいと診断され、隔離される前の数年間と云うものは他人に対して伝染性をもっていたものである。患者の強制隔離への恐怖は、患者をしてますます出来るだけ長い間一般社会に隠れていようとさせるもので、それが皮肉にも病気の治癒が可能である期間中隠れている様な結果になってしまう。従って、施設に隔離する事のみが、期待する様な結果をもたらすものではなく、厳しく隔離を適当な規模で行った時でさえ、管理方法として失敗する事があるのである。然し適当な症例を撰んで、これを行い、又患者によく話して説得を行い、効果的な治療を併せ行うならば、らい行政において、これはなお重要な意味を残しているのである。隔離に関しては、らい管理の見地からして、病症を二つに分ける事が必要となって来る。(中略)ママ伝染性の症例のみ隔離の形式に従う必要がある。伝染性らいに対する隔離の程度、隔離のよい規準、適用する強制力の度合等は、国や地方によって異って来る。らいが流行地でない様な所や、らいが拡がる傾向のない所では、らい患者に対して何等かの監視が必要であると云う届出制度をとって、治療を行って行けばそれでよい。

  (イ) 強制隔離

 らいが高度に流行しているが、然し、その国の資源が少なくて、施設内の治療を行うに適していない様な国においては、義務的な隔離は不可能である。然し、この様な場合にも、必要な時、可能な時には何でも適用するために強制隔離の法的の力を残して置く事は、保健当局にとって得策である。資源が充分あり、らいが流行している様な国においてさえ、強制力は説得と云う方法が失敗した時にのみ適用すべきである。(中略)ママ伝染病のらいを、或る施設に強制隔離する事は理論的に効果的な事であるが、実際には非常に好ましくない事である。と云うのは、それは、屢々患者の家族を別々に分離させ、家庭をやぶり、不時の生活不能者を作る事になるから。斯る事に対する患者の恐怖と、或る施設に長く止らねばならない事、又嘗つて施設に居たと云う事だけで汚名がつく事を考えると、ますます患者は己れのらいである事を隠し、その結果、治療を何時迄も受けない事になり、接触者に対してかえって危険をもたらす様になる。らいの軽快の機会を以前にまして与えるようになった最近のらい治療の目覚ましい効果を考えると、強制隔離に関する実施については再考慮を必要とする。

  (ロ) 乳幼児に対するらい予防

 らいの流行地においては、らいが一般に乳幼児において、それ以上の年令の者に比べて伝染し易いと云う意見は、すでに一般に認められている事で、それだけに伝染の 恐れがあると思われる乳幼児に対しては特別の注意がはらわれ、彼等をらいと接触させないようにまもる必要がある。このためには、隔離と云う方法で患者を移すとか、 子供の方を患者から離すとかすべきである。

 4 第六回国際らい会議 (昭和二八年一〇月、マドリッド)

 この会議では、第五回国際らい会議以降のスルフォン剤の追試報告が数多くなされ、副作用や再発についての報告も現れているが、基本的にはスルフォン剤の治療効果が高く評価され、「一般的に観て、全ての病型を含むらいの治療においてスルフォン剤の効力は確定的なものとなって来た」、「スルフォン剤は過去一二年間の臨床実験の結果、過去における他の如何なる治療薬より効果的であると云う証明がなされている」とされた。そして、DDSを用いた在宅治療の可能性が再び強調された。

 なお、この会議では、「殆ど凡ての研究家がスルフォン剤を好んで使用し、大風子油を放置している。」とされた。

 5 MTL国際らい会議 (昭和二八年一一月、ラクノー)

 この会議は、ィギリスのMTL (ミッション・ツウ・レパー) とアメリカのALM (レプロシーミッション) 主催の合同国際会議であり、ハンセン病医学の世界的権威が集った。

 この会議では、「らいは個別的疾病ではなく、らい流行地においては一般的公衆衛生上の問題である。恐怖及び偏見のない公衆衛生の原理にもとづいてらい管理政策を樹立せねばならない。」、「開放性らい患者の隔離は必要と考えられるが、かかる隔離は専ら自発性に基くものであらねばならない。然し時には当局の権力を必要とするかも知れない。」、「特殊ならい法令は廃止され、らいも一般の公衆衛生法規における他の伝染病の線に沿って立法されることが望ましい。」、「社会復帰態勢は、患者が施設に入所した当時から、彼の能力、可能性、予後を判断して、開始されなければならない」とされ、①強制収容を廃止し、施設入所は患者の合意の下で行うこと、②施設入所は治療を目的とした一時的なものとし、軽快者を速やかに社会復帰させること、③外来治療の場で引き続き十分な治療を行うこととし、療養所だけでなく、一般病院、保健所や一般医療機関でも外来治療を行えるようにすることが強調された。

 6 WHO編「近代癩法規の展望」 (昭和二九年)

 「近代癩法規の展望」は、WHOが昭和二九年に各国のハンセン病に関する法制度をまとめたものである (なお、新法は検討対象にされていない。)。

 この報告は、「癩隔離の如き、峻烈にして類のない個人の自由の拘束が、医学的、 公衆衛生的の理由によって実施されている処では、この問題は定期的に再検討を要する。(中略)ママ現在われわれの持っている本病に関する知識に照らして、若干の現行施策は、その正当さを証明することがむつかしく見えるばかりでなく、或るばあいには、例えば結核よりも伝染性がずっと少いという伝染性に関する事実とは反対の施策であるようにも思える。更にまた、衛生上の初歩的規則が守られている処では、療養所の職員には伝染の危険は殆んどないし、このことは癩患者の配偶者にも当てはまるということも確かなようである。これに関連して注目に値することは、大多数の他の伝染性疾患と異って、未だ実験的感染に成功していないことである。(中略)ママ過去数一〇年間に或る国々で採られた対策を検討すると、次のような矛盾が見られる。隔離政策がどちらかといえば自由な所では、癩は減少し殆ど全く消失しているのに、一方、峻烈な対策が採られたにも拘わらず癩の発生は余り又は全く変りがない所がある。」として、隔離政策の正当性・有効性に疑問を投げかけている。

 7 らい患者救済及び社会復帰国際会議 (ローマ会議、昭和三一年)

 マルタ騎士修道会によって開催されたこの国際会議では、「らいが伝染性の低い疾 患であり、且つ治療し得るものである」として、次の決議をした。

 ㈠a らいに感染した患者には、どのような、特別法規をも、設けず、結核など他の伝染病の患者と同様に、取り扱われること。従って、すべての差別法は廃止さるべきこと

  b (前略)ママ啓蒙手段を、注意深く講ずること

 ㈡a 病気の早期発見及び治療に対し、種々なる手段を講ずること。患者は、その病気の状況が、家族等に危険を及ぼさない場合には、その家に、留めておくべきこと (以下略)ママ

  b (前略)ママ入院加療は、特殊医療、或は、外科治療を必要とする病状の患者のみに制限し、このような治療が、完了したときには、退院させるべきであること

  c 児童は、あらゆる生物学上の正しい手段により、感染から、保護される可きこと (以下略)ママ

  d 各国政府に対し、高度の身体障害者の為に、厚生省、農林省、文部省等の政府機関を通じ、彼等の保護及び、社会復帰に関し必要な道徳的、社会的且つ医学的援助を与えるよう奨励すること (以下略)ママ

 なお、成田稔 (元日本らい学会会長、多磨全生園各誉園長。以下「成田」という。) は、東京地裁の証人尋問において、差別法の撤廃や社会復帰の援助を提唱したこの会議は極めて重要な意義を有している旨証言している。

 8 第七回国際らい会議 (昭和三三年、東京)

 この会議では、ハンセン病治療におけるスルフォン剤の優位が変わらないとの認識の下、ハンセン病予防には患者の早期発見・早期治療・外来治療の整備が重要であることを指摘し、「外来患者治療に必要な病院は、患者の大部分がくるのに便利な位置に置くべきであり、また適切な病院数が必要である。」とされた。そして、社会問題分科化会においては、「政府がいまだに強制的な隔離政策を採用しているところは、その政策を全面的に破棄するように勧奨する。」、「病気に対する誤った理解に基づいて、特別ならいの法律が強制されているところでは、政府にこの法律を廃止させ、登録を行っているような疾患に対して適用されている公衆衛生の一般手段を使用するようにうながす必要がある」との決議がなされた。

 この会議の報告には、「菌を排泄し、隔離に対して満足な条件が他人に対して保てないような患者では、これを収容所へ隔離する要求を行いうる権力を衛生官はもっているべきである」との部分もあるが、基本的には「強制収容は廃止すべき」との見解に立っていることは明らかである。

 なお、この会議では、子供に対する家庭内感染を防止するために、未感染の子供の方を患者から遠ざける方策を採ることが勧告されている。

 ところで、小沢龍厚生省医務局長は、この会議において、現在の患者数が明治三七年の実態調査時と比較して約二分の一に減少し、入院患者、在宅患者とも高年齢となり、日本におけるハンセン病の流行が極期を過ぎたとしながら、「まだ在宅の未収容患者が相当あり、これらが感染源となっているので早期に収容することが望まれ」ると発表した。この報告について、大谷は、その著書の中で「日本だけが隔離こそ唯一のハンセン病対策であるとして、未だに日本の完全隔離主義を間違って誇っていたのだ。」と指摘する。

 9 WHO第二回らい専門委員会 (昭和三四年、ジュネーブ。なお、報告書は昭和三五年に発行)

 この委員会の報告では、①従来のハンセン病対策が患者隔離に偏っていたため、療養所の運営、経営に終始していたものを廃し、一般保健医療活動の中でハンセン病対策を行うこと (インテグレーション)、②したがって、ハンセン病を特別な疾病として扱わないこと、③ハンセン病療養所はらい反応期にある患者や専門的治療を要する者、理学療法や矯正手術の必要な後遺症患者等の治療のため、患者が一時入所する場であり、入所は短期間とし、可及的速やかに退所し、外来治療の場に移すこと、④家庭において小児に感染のおそれのある重症な特別なケースは治療するために一時施設に入所させることがあるが、この場合も、軽快後は菌陰性を待つことなく、可及的速やかに外来治療の場に移すこと、療養所入所患者は最小限度に止め、らいの治療は外来治療所で実施するのを原則とすることなどが提唱された。そして、「当委員会は、近時の諸会議における次の見解を強く指示する。すなわち、らいは他の伝染病と同じ範疇に位置付けられるべきであり、そうしたものとして公衆衛生当局によって扱われるべきである。こうした原則に適合しない特別の法制度は廃止されるべきである。」とされた。

 10 第八回国際らい会議 (昭和三八年、リオデジャネイロ〉

 この会議では、「この病気に直接向けられた特別な法律は破棄されるべきである。一方、法外な法律が未だ廃されていない所では、現行の法律の適用は現在の知識の線に沿ってなされなければならない。(中略)ママ無差別の強制隔離は時代錯誤であり、廃止されなければならない。」として、昭和三一年のローマ会議以降繰り返されてきたハンセン病特別法の廃止が一層強く提唱された。

第五 新法制定前後のハンセン病の医学的知見

 一 感染・発病のおそれについて

 ハンセン病が感染し発病に至るおそれの極めて低い病気であることは、既に述べたとおりであるが、このことが新法制定前後においてどの程度認識されていたのかについて、以下検討する。

 1 一九世紀までの病因論の状況等

 ハンセン病医学の権威でありハンセンの義父でもあるダニエルセンは、一八四七年に発表した論文において、疫学調査の結果を基にハンセン病の病因について遺伝説を唱え、以降、伝染説が承認されるまで、ヨーロッパでは、遺伝説が支配的であった。ダニエルセンが、遺伝説の正当性を証明するために、自分や看護婦、看護助士、シスター、梅毒患者らに繰り返しらい結節を接種し、その結果がことごとく陰性であったことはよく知られているが、このエピソードは、多数の症例を見ていたであろうダニエルセンがハンセン病が決してうつらないと確信していたことをうかがわせるものである。

 伝染説が国際的に確立されたのは明治三〇年の第一回国際らい会議においてであるが (前記第四の一1)、この会議において、ナイセルは、ハンセン病の伝染性は顕著でない旨述べており、これに反対する見解が示された形跡はない。

 我が国には、奈良時代以前からハンセン病が流入していたようであるが、大流行の記録はなく、古くからハンセン病は「業病」とか「天刑病」であるとして差別・偏見・疎外の対象とされてきたことからみても、もともと、ハンセン病が伝染する病気であるという認識はなかったか、あったとしても極めて希薄であったと考えられる。明治時代以降も、我が国では、少なくとも第一回国際らい会議まで、遺伝説が支配的で、伝染説は容易に受け入れられなかった。

 2 人体接種の試み

 ダニエルセンと同様の人体接種は多数試みられているが、必ずしも成功していない。陽性となったのは二二五例中わずか五例 (約二・二パーセント) といわれており、その陽性例にも疑問視されているものもあって、確実な陽性例はないともいわれている。このことは、「日本皮膚科全書」(昭和二九年発行) や (昭和ママ「らい医学の手引き」(昭和四五年発行) に記載されている。また、日戸修一の「癩と遺伝」(昭和一四年発表)、「細菌学各論I」(昭和三〇年発行) にも人体接種についての同様の記述がある。

 このような人体接種の結果は、それ自体、ハンセン病が感染し発病に至るおそれが極めて低いことをうかがわせるものであり、また、我が国でも新法制定以前からその認識があったことがうかがわれる。

 3 第一回国際らい会議 (明治三〇年) 以降の国際的知見

 ㈠ ウルバノビッチは、明治三五年に発表した論文「メーメル地方におけるこれまでのらい治療経験について」において、「らいが接触伝染をすることは、今日では全く確実とみることができる。少数の例外はあるが、らいは貧困な人たちの病気である。これは伝染が起こりにくいので、その実現には過密居住による密接な接触が必要だからである。」旨記述している。

 また、キルヒナーも、昭和三九年に発表した「らいの蔓延と予防」において、「らい菌は人体外では比較的急速に死滅するので、かなり長期にわたる接触によってのみ感染が成立する。」旨記述している。

 ㈡ ハンセン病が感染し発病に至るおそれの極めて低い病気であることは、以下のとおり、国際らい会議においてもしばしば確認されている。

  ⑴ 第二回国際らい会議 (明治四二年) では、らい菌の感染力が弱いことが確認されている (前記第四の一2参照)。

  ⑵ 第四回国際らい会議 (昭和一三年) では、「らい者と共に働く者でも、感染に対し合理的注意を払えば殆ど感染しないという事実を歴史は示している。」とされている (前記第四の一5参照)。

  ⑶ WHO編「近代癩法規の展望」(昭和二九年) は、「或るばあいには、たとえば結核よりも伝染性がずっと少い」とし、「衛生上の初歩的規則が守られている処では、療養所の職員には伝染の危険は殆どないし、このことは癩患者の配偶者にも当てはまる」としている (前記第四の二6参照)。

  ⑷ ローマ会議 (昭和三一年) でも、決議の冒頭で、「らいが伝染性の低い疾患であり、且つ治療し得るものである」とされている (前記第四の二7参照)。

 4 第一回国際らい会議 (明治三〇年) 以降の国内の知見

 第一回国際らい会議以降の我が国における知見は、次のようなところから伺い知ることができる。

 ㈠ 戦前の文献等

   ⑴ ドルワール・ド・レゼー神父の見解等

 ハンセン病に関わった多くの人々が、経験的に、ハンセン病が伝染し発病に至るおそれの低い病気であることを認識していたことは想像に難くない。例えば、神山復生病院長のドルワール・ド・レゼー神父は、明治四〇年、その著書の中でハンセン病の伝染力が微弱である旨記述している。

   ⑵ 北部保養院長中條資俊の見解

 北部保養院長中條資俊は、昭和九年に発表した論文「癩伝染の徑路に就て」において、「軒並である一方は癩家族他方は非癩家族であった場合に、此両家が血縁でない限り、非癩家族の方に癩の現れた例はないと見られてる様なこと」や「癩と非癩者の夫婦の場合 (中略)ママ判然と伝染を起した実例に乏しい」ことなどを挙げて「癩の伝染力が極めて弱い」、「癩患者と接触しても、感受性即ち素因の有無に依って伝染を受けると否との別があり、それは恰も物体に可燃質と不燃質があると同じ様に考へられる」とし、更に「癩の隔離は伝染力の微弱なるに鑑み厳格に失せざる様施設すべきである」と記述している。

  ⑶ 日戸修一の見解

 日戸修一は、昭和一四年に東京医事新誌に掲載された論文「癩と遺伝」において、「生長した人間の大部分は、癩といかに密接に接近しやうと大概は未感染に終る。例へば癩療養所に於ける医師、看護婦は未だ嘗て癩に罹患したことはなかったし、癩の家族或は夫婦についても癩に結婚後感染したと思はるやうな例は実に稀である。」、「夫婦感染なぞの率の低さは全く話にならない。五百組の夫婦について高々三―四%に過ぎない。」などとして、ハンセン病の感染ないし発病に免疫や体質が影響を与えている可能性を示唆し、さらに、ダニエルセンらによる人体接種の試みに言及して「いかに癩が感染し難いかといふ歴史にとどまっている。」と記述している。

  ⑷ 小笠原登の見解

 京都大学皮膚科特別研究室主任の小笠原登助教授は、昭和九年に発表した論文「癩の極悪性の本質に就て」において、「癩の伝染性が甚だ微弱である事は、我が国の専門家の多くが認めるに至った所である。結核に比すれば比較し得られぬ程に弱いと考へなければならぬ。」と記述している。また、同人の論文「癩に関する三つの迷信」にも、ハンセン病の感染力が微弱である旨の記述がある。さらに、同人は、昭和一〇年の第八回日本癩学会において、「癩の如き微弱な伝染病に於ては、病原体の問題よりも感受性の問題が重大である。予はこの条件の最も主要なものの一として、栄養不良の影響の下に築き上げられた体質を考へて居る。」旨論じた。

 隔離政策をあくまで批判し続けた小笠原登は、昭和一六年の第一五回日本癩学会で徹底的に攻撃されて孤立無援となり、同人のいわゆる佝僂病性体質論も否定された。しかしながら、この学会で小笠原登を攻撃した村田正太も「今頃癩の伝染力をさ程に強いと思っている者はいない」と述べたとされているのであり、感染力が微弱であることまで否定されたとは考えられない。ただ、このころから、隔離を強化する国策の遂行上、感染力の微弱さが強調されなくなったものと考えられる (なお、《証拠略》ママによれば、少なくとも昭和七年の第五回日本癩学会の時点では、ハンセン病にかかりやすい体質が遺伝するという体質遺伝説の支持者が少なくなく、小笠原登を攻撃した野島泰治も、右学会では体質遺伝説を支持していたことがうかがわれる。)。

 ㈡ 戦前の内務省の認識

 戦前の内務省の認識は次のようなところによく現れている。

  ⑴ 窪田静太郎内務省衛生局長の答弁等

 政府委員窪田静太郎 (当時の内務省衛生局長) は、明治四〇年二月二六日、「癩予防ニ関スル件」の貴族院における質疑において、次のとおり答弁している。すなわち、「触接性ノ伝染病ト云フコトニナッテ居リマスガ、乞食ナドガ局部ヲ……患部ヲ暴露シテ居リマス所ヲ通ッタト云フ、其クライノコトデ直グ感染スルト云フモノデハナイ、矢張リ直接若クハ間接ニ其患部ニ触レルト力、或ハ患部ニ触レタ紙キレ……布片テアルト力云フヤウナモノガ、コチラノ体ニ触レルト云フコトニ依ッテ伝染ヲスルコトニナッテ居リマス、唯空気ガ飛ンデ来ルト云フ訳デ無イヤウナ趣ニ承知シテ居リマス、此伝染ノカト云フモノハ直グサウヒドク飛ンデ来テ伝播スルト云フモノデハアリマセヌ、緩慢性ナル趣デアリマスガ、併シ其ハ病気ガ緩慢ダケニ又根柢ガ甚ダ深イ、其点ニ於テハ最モ注意スべキモノデアルト云フヤウニ承知イタシテ居リマス」と述べているのである。

 また、同人は、昭和一一年に発表した論文において、「伝染病には相違ないが、思ふに体質に依って感染する差異を生ずるので、伝染力は強烈なものではない。古来遺伝病と考へられた所以もその辺に存るのであろうと思うた」と記述している。

  ⑵ 赤木朝治内務省衛生局長の答弁

 政府委員赤木朝治 (当時の内務省衛生局長) は、昭和六年二月一四日、貴族院における旧法の質疑において、次のとおり答弁している。すなわち、「此癩菌ト申シマスモノハ非常ニ伝染力カラ申シマスレバ弱イ菌デアルヤウデアリマス、従ッテ癩菌ニ接触シタカラト言ッテ、多クノ場合必ズシモ発病スルト云フ訳デハナイノデアリマス、例へバ夫婦ガアリマシテ、一方ガ癩患者デアルニモ拘ハラズ、其配偶者ハ長イ間一緒ニ居ッテ罹ラナイ、斯ウ云フモノモアルヤウデアリマス、(中略)ママ殆ドソコニナカッタモノガポツント出テ来ル、斯ウ云フコトガアルノデアリマス、ソレ等モ矢張リ癩ニ罹リ易イ体質ヲ持ッテ居ル者ガ、何等カノ機会ニ於テ癩菌ニ接触シタト、斯ウ云フコトデナケレバ理論ガ立タナイヤウデアリマス」と述べているのである。

 右答弁の内容は、感染と発病とを区別していないとはいえ、現在の疫学的知見とかなり近いものであると評価できる。

  ⑶ 癩の根絶策

 内務省衛生局が昭和五年一〇月に発表した「癩の根絶策」については、後記第二節第一の八のとおりであるが、これにも「癩菌の感染力は弱く」と記載されている。

 ㈢ 戦後の医学書等

  ⑴ 日本皮膚科全書 (昭和二九年発行)

 この書籍は、「癩の伝染は他の伝染病に比して遙かに弱く、而も個々の場合で非常に違う。幼児期の長期に亘る密接な接触が感染の最好条件となる。併し比較的短期の一寸した接触で感染することもあり得る。」、「重症者と長期に亘り同居しながら感染しなかった例は数多く知られ」、「接触が最密である夫婦間の感染が存外少いのも衆知の事である。」としている。また、「貧困で不衛生な雑居生活が癩の伝播に好都合なのはハンセン以来指摘された処で」、「宮崎、高島は今次の太平洋戦争と癩発生との関係を論じ、殊に宮崎は潜伏又はそのままの状態で発病迄に至らなかったかも知れない状態の人が戦争と云う困難な状況下に遂に発病に至ったと断じ」ているとしている。さらに、ハンセン病に「何等か罹患し易い素質の存在が考えられる」とし、遺伝的素因の存在を肯定する国内外の見解を多数紹介している。なお、ハワイのナウル島などにおける大流行については、「癩が離島殊に熱帯地方の癩処女地に入った時の急速な流行」例として紹介している。

  ⑵ 細菌学各論I (昭和三〇年発行)

 この書籍は、癩菌の培養、動物実験、人体接種試験がいずれも成功の域に達していないことを指摘し、「本菌は体外にては抵抗力の極めて微弱なものであ」るとしている。ただ、隔離については、「癩は癩者を中心として起る。それ故その撲滅は隔離に惹くはない。それはノルウェーで既に実験済みである。」と簡単に結論付けている。

  ⑶ 内科書中巻 (昭和三一年改訂第二四版発行)

 この書籍は、「昆虫あるいは器具等の媒介によることは極めて少い。(中略)ママ本病の感染には本病患者と永く共棲することが最も必要な条件である。貧窮・不潔、その他の非衛生的生活は、その誘因となる。」、「一般の衛生的規則を厳重に施行すれば、本病の伝染は余り恐るるに足らない。これは医師並びに看護婦の感染例がまれなことから見ても明らかである。本病患者の小児は出産と共に母から隔離しなければならない。本病患者は初期の者でも、直ちに癩病院に隔離して適当に治療することが最も必要である。」としている。

 なお。現代内科学大系感染症Ⅱ (昭和三四年発行) の書籍のハンセン病予防についての記述は、右内科書中巻の「一般の衛生的規則を」以下の記述とほとんど同じである。

  ⑷ らい医学の手引き (昭和四五年発行、当時の長島愛生園長高島重孝監修)

 この書籍は、「現在までに報告されたらい菌の人体接種実験は、その大半が陰性であり、日本の六〇年に及ぶ歴史をもつ各地のらい療養所から、職員が感染して発病したという症例はほとんどないことをみても、らい患者との単なる直接間接の接触による発病はきわめて稀であって、らいの伝染発病力は―少なくとも成人に対しては―一般に考えられているほど強くはない。」としている。

 また、「一九〇〇年から三〇年間に患者総数は約三分の一に減少していた」とし、「曰本のらいに対する絶対隔離政策は、一九三一年のらい予防法改正と共に行われたが (中略)ママ絶対隔離政策はまさにナンセンスであり、らい患者の減少にあずかって力があったのは、文化的生活水準の向上ということになろう。(中略)ママ①らいは不治でなく、②変形は単なる後遺症に過ぎず、③病型によっては伝染の恐れが全くないばかりか、④乳幼児期に感染しないかぎり発病の可能性はきわめて少ないことが明らかな現在では、らい予防法に旧態依然としてうたわれている隔離が、問題視されるのも当然である。」としている。

 いずれも、現在の知見とほとんど遜色のない的確な指摘というべきである。

  ㈤ 厚生大臣山縣勝見の答弁

 厚生大臣山縣勝見は、昭和二八年七月二日、衆議院厚生委員会における新法の質疑において、入所勧奨の説明として、「患者の療養所への入所後におきまする長期の療養生活、緩慢な癩の伝染力等を考慮いたし、まず勧奨により本人に納得を得て療養所へ入所させることを原則といたし」と答弁している。

 5 以上のとおりであって、ハンセン病が感染し発病に至るおそれが極めて低い病気であることは、国内外を問わず、明治三〇年の第一回国際らい会議以降一貫して医学的に認められてきたところであり、戦前の内務省もその認識を有していたことが優に認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

 被告も、この点を積極的に争うものではないと考えられるが、以下、被告が指摘する点について若干の検討を加える。

 ㈠ 被告は、幼児期における濃厚接触による感染の可能性が高いとし、家庭内接触児童の発病率を四〇パーセント前後とするいくつかの報告を指摘する。

 確かに、家庭内接触児童の発病率が夫婦間の場合などと比べて高いとする報告があることは否定できない。しかしながら、家庭内接触児童の発病率の報告には、前記第二の三2 (別紙二1) のとおり、様々なものがあり、その中で被告の指摘するものは他と比べて突出して高いものばかりであって、新法制定までの報告に限定してみても、一〇パーセント代ママあるいはそれ以下のものも少なからず見られる。新法制定当時において、家庭内接触児童の発病率を四〇パーセント前後ととらえる見解が一般的であったかどうかについては、大いに疑問が残るというべきである。

 ㈡ また、被告は、成人への感染や夫婦間の感染も恐れられていたとして、感染例をるる指摘する。

 しかしながら、感染症である以上、感染例があるのは当然である。むしろ、疫学的には、最もらい菌による感染の危険にさらされているはずの患者の配偶者の発病率が極めて低いことや、同様の危険にさらされているはずの療養所の職員の発病例が我が国の療養所の長い歴史の中でもほとんど出ていないことに着目されるのが通常であって、被告の右指摘が反論として特段の意味を持つものと認めることはできない。

 ㈢ さらに、被告は、新法制定当時の我が国の社会経済状況の下では、ナウル島などでの流行が我が国においては絶対に起こらないとはだれも考えていなかったと主張する。

 しかしながら、ナウル島で起こったような流行については、「癩が離島殊に熱帯地方の癩処女地に入った時の急速な流行」であるとか、「我々にはかかる爆発的流行は珍しいのであるが限られた島嶼其他癩処女地にはこれを見る事がある」などと説明されているのであり、ハンセン病が流入して千年以上という歴史を持ち、一定の有病率を保ちながらも一度も大流行が記録されておらず、二〇世紀に入ってからは患者の顕著な減少傾向が見られていた我が国において (後記第二節第二の四参照)、このような大流行が起こる可能性は、絶無とまではいえないとしても、公衆衛生上ほとんど無視して差し支えない程度に低いものであったというべきである。新法制定当時の国会審議においても、我が国でこのような大流行が起こる可能性があることは指摘されておらず、かえって、患者は自然に減少するなどと指摘されているのである (後記第二節第二の六1の宮崎及び参議院厚生委員長の発言部分等)。新法制定当時、我が国でナウル島のような大流行が起こるかもしれないと真剣に考えていた専門家がどれだけいたかは大いに疑問である。

 二 スルフォン剤の医学的評価について

 スルフォン剤 (プロミン、DDS等) の医学的評価については、既に、前記第三の二、三、第四の二で触れているが、ここでは、これらをまとめつつ、更に検討を加える。

 1 スルフォン剤の国際的評価 (前記第四の二参照)

 ㈠ プロミンがハンセン病に著効を示すとのファジェットの報告は、既に第二回汎アメリカらい会議 (昭和二一年) において高く評価されている。しかしながら、この時点では、プ口ミンの試験が世界各地で十分に行われていなかったこともあって、プロミンの評価について最終的見解を出すには時期尚早であるとの慎重論が強かった。

 ㈡ 第五回国際らい会議 (昭和二三年) においては、ハンセン病治療に目覚ましい進歩があったとされ、プロミンの国際的評価はより進んだものとなった。これは、多くの研究者が実際にプロミンを試し、その著効を目の当たりにした結果であろうと思われる。

 また、この会議までには、DDSも、世界各地で試され、懸念されていたほどの副作用もなく、少量でプロミンに劣らぬ著効が認められることが確認されるようになっていた。

 ㈢ スルフォン剤の国際的評価は、WHO第一回らい専門委員会 (昭和二七年) の報告において、更に確実なものとなった。すなわち、この報告では、スルフォン剤治療が他のいかなる治療形式よりも非常に優れており、ほとんどすべての病型に効果的であるとされた。また、この報告では、DDSについても高い評価がなされ、外来治療の可能性を拡げるものとして、非常に利用価値が高いとされたのである。

 この報告においては、スルフォン剤の評価を踏まえたハンセン病予防に対する考え方の大きな転換が見られる。すなわち、この報告では、強制隔離は決して望ましいものではなく、これを認めるとしても、ごく限られた範囲にとどめるべきであるとの考え方か示されているのである。

 しかしながら、この報告が強制隔離の実施について再考慮を必要とするという控え目な表現をするにとどまっているのは、一つには、大風子油治療がハンセン病に有効とされながらも数年後に高い頻度で再発を起こしたという経験があり、スルフォン剤治療についても、再発の頻度がいまだ明らかになっていない時点で確定的評価を下すことができないと考えられたためであろうと思われる。

 MTL国際らい会議 (昭和二八年一一月) においても、世界の医学者の間では、スルフォン剤の真価は一〇年の経過を見ないと分からないとの意見が少なくなかった。

 ㈣ しかしながら、右報告の後の国際会議でも、スルフォン剤の優位は全く動かず、スルフォン剤治療の実績が積み重ねられるにつれ、ますます確実なものとなっていき、強制隔離否定の方向性が次第に顕著になっていった。特に、ローマ会議 (昭和三一年) 以降においては、ハンセン病に関する特別法の廃止が繰り返し提唱され、第八回国際らい会議 (昭和三八年) では、無差別の強制隔離は時代錯誤であるとまでいわれるようになった。

 2 スルフォン剤の我が国における評価 (各箇所で指摘するほか)

 スルフォン剤の我が国における評価が、前記1の国際的評価と大きく異なっていたわけではない。

 ㈠ 昭和二一年、GHQのサムス公衆衛生部長により、ファジェットのプロミン等に関する文献が日本のハンセン病医療関係者に紹介されたことを契機に、我が国でもプロミン等による治療が開始された。そして、早くも昭和二二年一一月の第二〇回日本らい学会において、長島愛生園、栗生楽泉園及び東京大学におけるプロミンの研究報告がなされいずれもプロミンの治療効果を認めた。また、昭和二三年、昭和二四年の日本らい学会においても、プロミンの治療効果を認める報告が続いた。

 このころ、長島愛生園でプロミン治療を行っていた犀川は、皮膚の結節が自潰してできる慢性潰瘍や鼻道の閉鎖、咽喉頭の狭窄等による呼吸困難の症状が日をおって軽快し、皮膚結節の病理組織検査でも病変が見事に吸収され、らい菌が消失していくなどのプロミンの著効を目の当たりにし、いよいよハンセン病が治る時代を迎えたことを実感した旨述べている(《証拠略》ママ。なお、当時のプロミン治療の効果の一端を示すものとして、甲六九の写真①ないし⑥参照)。

 ㈡ さらに、昭和二六年四月の第二四回日本らい学会において、「『プロミン』並に類似化合物による癩治療の協同研究」が発表され、プロミン、プロミゾール及びダイアゾンが極めて優秀な治療薬であると認められた。

 ただ、この時点においては、再発の可能性を検討するために少なくとも一〇年の経過を観察する必要があるとして、スルフォン剤の評価になお慎重な意見が学会内では根強かった。

 ㈢ しかしながら、我が国でプロミンの治療研究が開始されてから一〇年を経過した昭和三一年ころ以降も、我が国におけるスルフォン剤の優位性は揺るがず、スルフォン剤の評価が見直されたとか、見直さなければならない状況にあったことはうかがわれない。

 最も懸念された再発についてみても、前記第三の七1で検討したとおり、昭和三五年までの再発率は、L型のせいぜい一〇パーセント前後であったことがうかがわれる上、再発の原因も、不規則服用等様々なものがあって、スルフォン剤の治療効果に限界があることを示すものばかりとはいえなかったのであり、また、再発後の治療も多くの症例についてそれなりの成果を上げることができたのであるから、昭和三〇年代に再発の問題がスルフォン剤の評価を根本的に見直さなければならないようなものであったとは認められない。

 もちろん、スルフォン剤の登場によって、ハンセン病医療の問題がすべて解決したというわけではない。しかしながら、進行性の重症患者が激減したことも事実であって、スルフォン剤の登場は、不治の悲惨な病気であるという病観を大きく転換させるものであったというべきである。

 3 被告指摘の事情の検討

 被告が指摘する点のうち、スルフォン剤単剤治療における再発や難治らいについては、前記第三の七、第五の二2㈢で検討したので、以下、被告が指摘する新法制定前後に発行された医学書の記述について検討する。

 ㈠ 一般醫の癩病学 (昭和二六年発行)

 被告は、この書籍に「プロミンによつてよく軽快はするが、未だ全治と断定する迄に至つているものはない。」との記述があることを指摘する。

 全治の定義にもよるが、昭和二六年の時点で全治と断定できる症例がなかったことは否定できないとしても、プロミン治療によって、これまで悲惨な病状を呈しなすすべのなかったものが著しく軽快していることは明らかであって、この書籍も、プロミンの効果について「一大進歩を与えている」と評している。

 ㈡ 日本皮膚科全書 (昭和二九年発行)

 被告は、この書籍の執筆者が行ったプロミンによる治療成績 (なお、治療期間は明らかでない。) の中に、神経らいが増悪した例、結節らい及び斑紋らいに対して稍々効にとどまった例、効果が不明とされた例があることを指摘する。

 しかしながら、被告が指摘しているような例は全体の中では多数とはいえず、特に重症化しやすい結節らいや斑紋らいに対するプロミンの有効性は右実験結果からも十分にうかがわれるのであり、この書籍でも「プロミンは結節、斑紋等の皮膚症状に対しては大風子油が遠く及ばないほどの卓効を示す」とされているのであるから、プロミンの評価を大きく揺るがすものとは考えられない。

 ㈢ 内科書中巻 (昭和三一年発行)

 被告は、この書籍に「確実な治療法は未だ無い」と記述されていることを指摘する。

 しかしながら、この書籍には「結節癩に関する限りは多数の症例がこれ等によって明らかに著明な軽快を示し、これまでの各種の薬剤に比較すると格段の優秀性を具えたものの如くに見える。」とされているのであり、これまたプロミンの評価を大きく揺るがすものとは考えられない。

 なお、乙二八の改訂版である乙六四 (昭和五三年発行) にも同様の「確実な治療法は未だ無い」との記載がある。しかしながら、この時点でリファンピシンの記載もなく、いまだに大風子油の有効性をるる述べる医学書の右記載にどれほどの医学的な意義があるのかは疑問というほかない。

 三 「らいの現状に対する考え方」

 厚生省公衆衛生局結核予防課は、昭和三九年三月、「らいの現状に対する考え方」をまとめており、これには、この当時までの医学的知見及び厚生省の認識が端的に現れている。

 これによれば、「従来の医学においては、らいは全治はきわめて困難であり、隔離以外に積極的な予防手段はないとされていたので、患者の隔離収容に重点をおいてきたのであるが、最近におけるらい医学の進歩は目覚ましいものであり、細部においては未だ不明な点は多々あるものの、らいは治ゆするものであること、らいが治ゆした後に遺る変型は、らいの後遺症にすぎないこと、らい患者それ自体にも病型により他にらいを感染させるおそれがあるものと、感染させるおそれがないものとがあること、らいの伝染力は極めて微弱であって、乳幼児期に感染したもの以外には、発病の可能性は極めて少ないことという見解が支配的となりつつあり (中略)ママらい治療薬の発達により、早期治療を行なったものについては、変型に至るものが少く、又菌陰性になるまでの期間も随分短縮されてきた。」、「こうした医学の進歩に即応したらい予防制度の再検討を行なう必要があるが、その検討の方向としては、第一に患者の社会復帰に関する対策であり、第二は他にらいを感染させるおそれのない患者に対する医療体制の問題であり、第三は現行法についての再検討であろう」、「本病についての特性として、社会一般のらいに対する恐怖心は今なお極めて深刻なものであるので、まずこれについて強力な啓蒙活動を先行的に行わなければ、上記各検討結果による措置も実を結ぶことは困難である」とされている。

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