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「らい予防法」違憲国家賠償請求事件判決文/section three

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第三節 厚生大臣のハンセン病政策遂行上の違法及び故意・過失の有無 (争点一)

第一 厚生省の隔離政策の遂行等について

 一 厚生省は、旧法下の昭和二五年には、ハンセン病患者総数一万一〇九四人のうち八三二五人の患者 (収容率七五・四パーセント) を収容隔離していたが、新法制定後も、これらの患者の隔離を続け、さらに、新患者の収容隔離も続行し、昭和三〇年には最多の一万一〇五七人 (収容率九〇・八六パーセント) のハンセン病患者を隔離し、その後、昭和四五年の九三・六五パーセントをピークに九〇パーセント前後の収容率でハンセン病患者を、全国の療養所に隔離してきたものである。なお、昭和五〇年の在所患者は一万〇一九九人 (収容率八九・八七パーセント) で、平成五年の在所患者は六七二九人 (収容率八九・七九パーセント) である。(別紙五参照)

 ところで、新法六条一項は、勧奨による入所を定めるが、これは同条二項の入所命令、同条三項の直接強制を前提とするものであり、後記第四節第二の一の新法の解釈等からすれば、法的にも任意の入所とは同視し難い面がある。のみならず、新法廃止まで、抗ハンセン病薬が保険診療で正規に使用できる医薬品に含まれていなかったことなどにより、ハンセン病の治療が受けられる療養所以外の医療機関が極めて限られており、特に、入院治療が可能であったのは、京都大学だけという医療体制の下で、入院治療を必要とする患者は、事実上療養所に入所せざるを得ず、また、療養所にとどまらざるを得ない状況に置かれていた (前記第二節第三の八1)。さらに、戦前・戦後にまたがるほぼ全患者を対象とす る収容の徹底・強化により、多くの国民は、ハンセン病が強烈な伝染病であるとの誤った認識に基づく過度の恐怖心を持つようになり、その結果、ハンセン病に対する社会的な差別・偏見が増強され、プロミン登場によりハンセン病が治し得る病気となった後も、新法がハンセン病に対する隔離政策を継続したことによって、ハンセン病に対する差別・偏見が助長、維持され、新法廃止まで根強い差別・偏見が厳然として存在し続けたものであるところ、その中で、ハンセン病患者は、いったんハンセン病であるとの診断を受けると、保健所職員の度重なる勧奨入所により、隣近所の者からハンセン病患者及びその家族が白眼視されるに至るなど、療養所に入所せざるを得ない状況に追い込まれ入所を余儀なくされていったことが認められる。したがって、少なくとも、原告らのうちでも最も入所時期の遅い者 (原告一一番) が入所した昭和四八年ころまでの状況を見る限り、勧奨による入所という形をとっていても、その実態は、患者の任意による入所とは認め難いものであった。(第二節第一の一、同第四)

 また、第二節第二の一〇のとおり、新法六条の「らいを伝染させるおそれがある患者」の解釈についても、ハンセン病と診断されると「伝染させるおそれ」がないと判断される未治療の患者はいないといわれるほど極めて広義に解釈されており、これに対応するように第二節第三の三のとおり、入所者の退所についても、極めて厳格な運用がされており、最も軽快退所者の多かった昭和三五年でも、その年の輊快退所者数二一六人の入所者数一万〇六四五人に対する割合は二パーセントに過ぎず、昭和二六年から平成九年までの各年の退所者の右割合も一パーセント未満の年がほとんどという状況であった (別紙六)。昭和三一年に厚生省が各療養所長に示した唯一の退所基準である「らい患者の退所決定暫定準則」も、その内容は極めて厳格で、しかも入所者にはその当時は周知されておらず、昭和五〇年代以降も、退所の自由について公式に表明されたこともなかった。

 また、新法一五条は、入所患者の外出を厳しく制限し、これに違反すると同法二八条で罰則を課することになっていたが第二節第三の四のとおり、昭和三〇年代までは外出制限について厳格な取扱いもされていた。昭和五〇年代以降は、相当緩やかな運用がされるようになったが、厚生省や療養所が外出制限を事実上撤廃するなどということを公式に表明したこともなかった。

 さらに、優生保護法のらい条項の下で、昭和三〇年代まで優生手術を受けることを夫婦舎への入居の条件としていた療養所があり、入所者が療養所内で結婚するためには優生手術に同意をせざるを得ない状況もあった。

 昭和五〇年前後からは、療養所内の処遇改善が行われ、外出制限も緩やかに運用されるようになり、退所についても、入所者が積極的に希望する限り、あえてこれを制限しない運用になったものの、大部分の入所者は、療養所での生活が長期間となり高齢となっていたこと、また、新法における隔離政策の廃止が明確にされないまま療養所が運営されていたことなどにより、療養所外の社会におけるハンセン病に対する偏見・差別が依然として残り、退所して社会復帰をすることを希望する入所者も漸次減少してくるなかで、厚生省は、平成八年四月まで、ハンセン病患者の人権を著しく侵害する内容を有し、ハンセン病に対する差別・偏見を助長、維持するという弊害をもたらし続けたところの新法の下での隔離政策を廃止しなかったものである。

 二 以上のとおり、厚生省は、新法の下で、ハンセン病患者の隔離政策を遂行してきたものであるが、いうまでもなく、患者の隔離は、患者に対し、継続的で極めて重大な人権の制限を強いるものであるから、すべての個人に対し侵すことのできない永久の権利として基本的人権を保障し、これを公共の福祉に反しない限り国政の上で最大限に尊重することを要求する現憲法の下において、その実施をするに当たっては、最大限の慎重さをもって臨むべきであり、少なくとも、ハンセン病予防という公衆衛生上の見地からの必要性 (以下「隔離の必要性」という。) を認め得る限度で許されるべきものである。新法六条一項が、伝染させるおそれがある患者について、ハンセン病予防上必要があると認められる場合に限って、入所勧奨を行うことができるとしているのも、その趣旨を含むものと解されるところである。また、右の隔離の必要性の判断は、医学的知見やハンセン病の蔓延状況の変化等によって異なり得るものであるから、その時々の最新の医学的知見に基づき、その時点までの蔓延状況、個々の患者の伝染のおそれの強弱等を考慮しつつ、隔離のもたらす人権の制限の重大性に配意して、十分に慎重になされるべきであり、もちろん、患者に伝染のおそれがあることのみによって隔離の必要性が肯定されるものではない。

第二 隔離の必要性の有無について

 一 前記第一の二で述べたところを前提として、隔離の必要性の有無について検討するに、①もともと、ハンセン病は、感染し発病に至るおそれが極めて低い病気であって、このことは、新法制定よりはるか以前から政府やハンセン病医学の専門家において十分に認識されていたところであること (前記第一節第五の一)、②我が国のハンセン病の患者数は、明治三三年から昭和二五年までの五〇年間に半減あるいはそれ以下に減少し、それとともに、有病率もその間に一万人当たり六・九二人から一・三三人と約五分の一に低下し、新法制定当時のハンセン病の蔓延状況は、もはや深刻なものではなくなっていたこと、また、その後も、ハンセン病患者の発生は、戦後の混乱期を脱して社会経済状態が好転していくことで、自然に減少していくと見込まれていたこと (前記第一節第一二の一、三4、四、第二節第二の四、六1の宫崎及び参議院厚生委員長の発言部分、九3の廣瀬久忠議員の発言部分)、③ハンセン病は、慢性の経過をたどって進行するが、もともと、それ自体としては致死的な病気ではない上、すべての症例が重症化するわけではなく、自然治癒するものもあったこと (前記第一節第一の三5、四1、2)、④新法制定当時、既にプロミンがハンセン病に著効を示すことが国内外で明らかとなっており、特に、重症化しやすい結節らいの患者の病状を著しく軽快させることができる状況になっていたこと、また、昭和二四年以降、プロミンが我が国の療養所で広く普及するようになり、かつてのようなハンセン病が不治の悲惨な病気であるとの観念はもはや妥当しなくなっていたこと、さらに、 昭和二三年ころからは、プロミンと同じスルフォン剤であり経ロ投与可能なDDSが、少量でプロミンに劣らぬ治療効果を持っていることが明らかになり、新法制定の前年の昭和二七年のWHO第一回らい専門委員会では、在宅治療の可能性を拡げるものとして高い評価を得ていたこと (前記第1節第三の一ないし三、第五の二)、⑤ハンセン病に関する国際会議等では、戦前から、隔離を限定的に行おうとする考え方が随所に現れていたこと、特に、患者を伝染性患者と非伝染性患者に分け、前者のみを隔離の対象とすべきことは、大正一二年の第三回国際らい会議以降、繰り返し提唱され、昭和二七年のWHOの第一回らい専門委員会の報告にもその旨の指摘がなされていたこと、また、国際連盟らい委員会が昭和六年に発行した「ハンセン病予防の原則」や昭和二七年のWHO第一回らい専門委員会の報告では、強制隔離政策が、隔離を回避しようとする患者を潜伏化させる傾向がありハンセン病予防に十分な効果をもたらさないことがある旨の指摘もなされており、新法制定後のものではあるが、昭和二九年にWHOがまとめた「近代癩法規の展望」でも、隔離政策の正当性・有効性が疑問視されていたことなどが認められる。

 そうすると、他方で、新法制定当時においては、スルフォン剤治療による再発の頻度がいまだ明らかになっておらず、スルフォン剤の評価が完全に確定的になったとまでいえる状況ではなかったこと、昭和二七年のWHO第一回らい専門委員会の報告を始め、国内外のハンセン病医学の専門家の意見としても、隔離政策を完全に否定するところまではいっていなかったことなどを考慮しても、少なくとも、病型による伝染力の強弱のいかんを問わずほとんどすべてのハンセン病患者を対象としなければならないほどの隔離の必要性は見いだし得ないというべきである。

 二 また、以上に加え、新法制定以降の事情として、⑥プロミン治療が我が国で開始されてから 一〇年を経過した昭和三一年ころ以降、スルフォン剤治療による再発の頻度が少しずつ明らかになっていったが、国際的には、スルフォン剤のハンセン病治療上の優位は全く揺るがず、治療実績が積み重ねられるにつれ、ますますスルフォン剤の評価が確実なものとなっていったこと、⑦これに伴い、国際的には、次第に強制隔離否定の方向性が顕著となり、昭和三一年のローマ会議、昭和三三年の第七回国際らい会議 (東京) 及び昭和三四年のWHO第二回らい専門委員会などのハンセン病の国際会議においては、ハンセン病に関する特別法の廃止が繰り返し提唱されるまでに至っていたこと、⑧我が国におけるスル フォン剤の評価も、右の国際的評価と基本的には変わらないものであって、現実にも、スルフォン剤の登場以降、我が国において進行性の重症患者が激減していたこと、⑨戦後の混乱期を脱して社会経済状態が回復していったことにより、昭和三〇年に四一二人であった新発見患者数が、昭和三五年には二五六人となり、新発見患者数に顕著な減少が見られたことなどを総合すると、遅くとも昭和三五年以降においては、もはやハンセン病は、隔離政策を用いなければならないほどの特別の疾患ではなくなっており、病型のいかんを問わず、すべての入所者及びハンセン病患者について、隔離の必要性が失われたものといわざるを得ない。

 三 なお、被告は、スルフォン剤単剤治療によるL型患者の再発についてるる指摘するが、再発の頻度、原因、再発後の治療状況、再発症例の発生によるスルフォン剤の評価への影響については、前記第一節第三の七1、第五の二2㈢で検討したとおりであり、昭和三〇年代の再発の問題がスルフォン剤の評価を根本的に見直さなければならないようなものであったとは認められない。しかも、スルフォン剤単剤治療による再発が隔離の必要性を肯定する理由にならないことは、証人和泉が明確に証言しているほか、再発の問題の深刻さを強調する被告申請証人の長尾も、再発の可能性があったからといって隔離政策を継続すべきであったとは考えていない旨証言しているのである。

 また、被告は、スルフォン剤単剤治療による難治らいの症例の存在を指摘するが、これについては、前記第一節第三の七2で検討したとおりであり、我が国においてハンセン病政策全体を左右するほど多数の難治らいの症例があったとは認められない。

 さらに、被告は、スルフォン剤登場後もらい反応をどのように克服するかがハンセン病の治療に当たっての極めて深刻かつ重要な課題だったのであり、また、らい反応によって医学的に見て入院治療が必要な場合もあったと主張する。ところで、らい反応については、前記第一節第一の五で詳しく検討したが、らい反応によって入院治療が必要な場合があるというのは、専ら医療上の観点からであって、ハンセン病予防という公衆衛生上の必要性と直接結び付くものではなく、隔離の必要性を肯定する理由にはならない。なお、らい反応が起こるのは、スルフォン剤に欠陥があるからではなく、頻度は異なるがリファンピシンによる治療や多剤併用療法でもらい反応の問題は生じること、スルフォン剤単剤治療の時代にも、らい反応に対してそれ相応の対応ができたことは、長尾の証言等から明らかである。

 したがって、被告の右指摘・主張を考慮しても、前記一及び二の隔離の必要性の判断を左右するものではない。

第三 違法性及び過失の検討

 一 以上のとおりであって、遅くとも昭和三五年以降においては、すべての入所者及びハンセン病患者について隔離の必要性が失われたというべきであるから、厚生省としては、その時点において、新法の改廃に向けた諸手続を進めることを含む隔離政策の抜本的な変換をする必要があったというべきである。そして、厚生省としては、少なくとも、すべての入所者に対し、自由に退所できることを明らかにする相当な措置を採るべきであった。のみならず、ハンセン病の治療が受けられる療養所以外の医療機関が極めて限られており、特に、入院治療が可能であったのは京都大学だけという医療体制の下で、入院治療を必要とする患者は、事実上、療養所に入所せざるを得ず、また、療養所にとどまらざるを得ない状況に置かれていたのであるが (前記第二節第三の八1)、これは、抗ハンセン病薬が保険診療で正規に使用できる医薬品に含まれていなかったことなどの制度的欠陥によるところが大きかったのであるから、厚生省としては、このような療養所外でのハンセン病医療を妨げる制度的欠陥を取り除くための相当な措置を採るべきであった。さらに、従前のハンセン病政策が、新法の存在ともあいまって、ハンセン病患者及び元患者に対する差別・偏見の作出・助長に大きな役割を果たしたことは、前記第二節第四のとおりであり、このような先行的な事実関係の下で、社会に存在する差別・偏見がハンセン病患者及び元患者に多大な苦痛を与え続け、入所者の社会復帰を妨げる大きな要因にもなっていること、また、その差別・偏見は、伝染のおそれがある患者を隔離するという政策を標榜し続ける以上、根本的には解消されないものであることにかんがみれば、厚生省としては、入所者を自由に退所させても公衆衛生上問題とならないことを社会一般に認識可能な形で明らかにするなど、社会内の差別・偏見を除去するための相当な措置を採るべきであったというべきである。

 この点、厚生省は、特に、昭和五〇年代以降、非公式的にではあるが、外出制限規定を弾力的に運用するなど、棣々な点で隔離による人権制限を緩和させていったことは一応評価できるが、新法廃止まで、新法の改廃に向けた諸手続を進めることを含む隔離政策の抜本的な変換を行ったものとは評価できない。また、厚生省は、新法廃止まで、すべての入所者に対し、自由に退所できることを明らかにするなどしたことはなく、療養所外でのハンセン病医療を妨げる制度的欠陥を取り除くことなく放置し、さらには、社会一般に認識可能な形でハンセン病患者の隔離を行わないことを明らかにするなどしなかったのであるから前記の相当な措置等を採ったとも評価し得ない。

 伝染病の伝ぱ及び発生の防止等を所管事務とする厚生省を統括管理する地位にある厚生大臣は、厚生省が右のような隔離政策の抜本的な交換やそのために必要となる相当な措置を採ることなく、入所者の入所状態を漫然と放置し、新法六条、一五条の下で隔離を継続させたこと、また、ハンセン病が恐ろしい伝染病でありハンセン病患者は隔離されるべき危険な存在であるとの社会認識を放置したことにつき、法的責任を負うものというべきであり、厚生大臣の公権力の行使たる職務行為に国家賠償法上の違法性があると認めるのが相当である。

 そして、厚生大臣は、昭和三五年当時、前記第二の一及び二で指摘した①ないし⑨の各事情等、隔離の必要性を判断するのに必要な医学的知見・情報を十分に得ていたか、あるいは得ることが容易であったと認められ、また、ハンセン病患者又は元患者に対する差別・偏見の状況についても、容易に把握可能であったというべきであるから、厚生大臣に過失があることを優に認めることができる。

 二 これに対し、被告が反論する点については、既にそれぞれの箇所で検討・言及してきたところであるが、以下では、更に検討を加える。

 1 被告は、たとえ新法が違憲であっても、厚生大臣その他の職員が新法に従って行政を行った以上、国家賠償法上違法と評価されることはなく、少なくとも故意・過失は存しないと主張する。

 確かに、すべての入所者及びハンセン病患者について隔離の必要性が失われた事態を抜本的に解決しようとすれば、国会における新法の廃止が最も端的な方法ではあるが、新法の廃止は、国会のみの責任でのみ行なわれ得るものではなく、今回の平成八年の新法廃止の経過からみれば、厚生省の新法廃止に向けての作業が重要な役割を果たしていることは明らかであるところからみても、ハンセン病医療を所管し、国内外におけるハンセン病の専門的な医学的知見やより詳細な治療の状況に関する情報を入手することが可能である厚生省の新法廃止へ向けての積極的な作業が必要とされるのであって、本件のように隔離政策による患者の人権被害が甚大であり、隔離政策の誤りか明白となっている状況の下では、厚生省がそのような作業をしても国会で新法廃止の立法がなされなかった場合であればともかく、厚生省が右のような新法廃止に向けての積極的な作業を一切することなくこ れを放置しておきながら、厚生省は違憲の法律であってもそれに従って行政を行なう以上国家賠償法上の違法性はなく、少なくとも故意・過失はないというような主張は採用できない。

 また、新法は、必ず隔離政策を維持・継続しなければならないと定めているわけではなく、むしろ、隔離の必要性の判断を、医学的知見の進展やハンセン病の蔓延状況によってその都度変更すべき場合があることを予定しているものとも解されるのであって、新法が存続していたことは厚生大臣の行為の違法性及び過失を認めるに当たって、特に支障となるものではないというべきである。

 2 また、被告は、強制収容と法的に評価し得るのは物理的強制入所のみであるとの前提に立って、新法の下において物理的強制入所がなかったか、ほとんどなかったことをるる指摘する。

 しかしながら、たとえ、新法第六条一項による勧奨による入所であっても,伝染させるおそれがあり、ハンセン病予防上必要があると認められる以上、同条二項の入所命令、同条三項の直接強制を受ける可能性があることを前提とした勧奨であるから、患者に入所を拒む自由は事実上ないというべきであり、また、入所後においては、退所を制限され、新法一五条による外出制限に服する点からみても、入所命令や即時強制による入所と異ならないのであって、物理的強制を伴わない入所を全くの任意入所のようにいうことはできない。原告らの入所形態や入所理由には様々なものがあるが、いずれにしても、外出制限等を伴う隔離状態に置かれていた点では変わらず、厚生大臣の行為を違法と評価することに支障となるものではない。

 3 さらに、被告は、遅くとも、昭和五〇年ころ以降は、菌陰性かどうかに関係なく、 自由に退所することができたと主張する。

 そもそも、退所が可能かどうかの判断は、高度に医学的・専門的な事項であって、入所者自身において判断し得るものではないことに加え、新法に退所基準や退所の手続的規定が定められていないことをも考え合わせると、入所者から具体的な退所の申出がない限り、療養所側が何の対応もしなくてよいとするのでは、退所機会の保障という点で極めて不十分である。そして、前記第二節第三の三で指摘した事情、特に、厚生省が、新法廃止までに、だれでも自由に退所できるなどと公式に表明したことは一度もなく、昭和五七年の国会答弁でも、ハンセン病の対策の手を緩めるわけにはいかず、患者に対する一定の人権制限はやむを得ないと答弁していたこと、厚生省が昭和三一年に策定した唯一の退所基準である暫定退所決定準則は、極めて厳格なものであり、退所機会を適正に保障する内容のものとはいえないこと、しかも、右準則は、当初入所者に厳秘とされていたもので、後にその存在が全患協に知られるようになったが、この準則の退所基準が入所者らに広く周知されていたとは認められないこと、昭和三〇年代にいくつかの療養所で退所基準や退所手続規定が定められているが、これによっても、退所基準が緩やかになったとは評価し得ないこと、昭和五〇年代以降、多くの療養所において、退所を強く希望する入所者に対して是が非でも退所を許可しないということはなくなったが、そのような療養所の方針が公式に表明されたことはなく、入所者にだれでも自由に退所できることが周知されていたとは認められないことなどからすれば、入所者が認識可能な形で退所の自由が認められていたのでないことは明らかである。隔離状態が徐々に緩和されていったことは、損害論では十分斟酌すべき点ではあるが、隔離政策自体は緩やかながら新法廃止まで継続されていたと認めざるを得ず、隔離政策を継続したことについての違法性の判断そのものを左右するとまではいえない。

 三 以上のとおりであって、厚生大臣の公権力の行使たる職務行為には違法があり、厚生大臣の過失も優にこれを認めることができる。

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