「らい予防法」違憲国家賠償請求事件判決文/chapter three
第三章 当事者の主張
第一節 請求原因について
(原告らの主張)
第一 総論
原告らは、国家賠償法が施行された昭和二二年一〇月二七曰から新法が廃止された平成八年三月二八日までの厚生大臣によるハンセン病政策 (絶対隔離絶滅政策) の策定・遂行上の国家賠償責任及び国会議員の立法行為 (立法不作為を含む。) についての国家賠償責任を問うものである。なお、両者の責任は、共同不法行為の関係に立つものである。
第二 厚生大臣の責任
一 絶対隔離絶滅政策の本質とその特殊性について
我が国においては、ハンセン病政策として絶対隔離絶滅政策が戦前より新法廃止に至るまで継続されてきた。この絶対隔離絶滅政策とは、患者の人権・人格を無視してその存在そのものを根絶することを目的とし、①家庭内、地域内における分離を超えて、強制的に離島・僻地の療養所に収容して外部との交流を厳しく遮断し、②症状、感染性の有無等を問わずハンセン病患者全員を対象に、③退所を厳しく制限して、終生の隔離を行い、④患者作業及び子孫を絶つための優生手術を強制するという点に特徴を持つ政策であり、世界に例を見ない日本独自のものである。
また、政策策定・遂行過程において、行政が先行し、国会による立法はそれに追随する形を採り、行政が法律をその手段として政策を遂行してきた点にも特徴がある。
さらに、絶対隔離絶滅政策は、ハンセン病患者として把握された個々の国民に療養所への入所を義務付けるものであり、個人あるいはハンセン病患者という集団に対する個別具体的な処分の集合的な実質を有している。
なお、被告は、具体的行為を離れて政策それ自体が個々の原告らの具体的権利、利益を侵害することはあり得ないと主張しているが、原告らは、具体的行為を離れて政策それ自体の責任だけを問うているのではない。絶対隔離絶滅政策は、ハンセン病患者に対する集合処分的性格を有しており、その政策遂行の必然的な因果の流れとして、原告らは療養所に隔離収容され、優生政策の対象となり、患者作業を強いられたのであるから、原告らが具体的権利、利益を侵害されていることは明らかである。また、政策の適用という具体的行為を離れた政策そのものによる被害も厳然として存在しているのである。
二 絶対隔離絶滅政策の歴史的展開とその一体性
1 戦前の状況
我が国の絶対隔離絶滅政策は戦前に確立された。そこでは、公衆衛生という見地からではなく、ファシズムと結び付いた国辱論・民族浄化論を思想的背景として徹底した患者の収容・取締りが行われた。すなわち、強制隔離を定めた旧法を制定し、ハンセン病が恐ろしい伝染病であるとの徹底した恐怖宣伝をしつつ、無らい県運動を推進し、未収容患者を次々と収容し、しかも厳格に患者と社会との交通を絶ったのである。
この政策遂行過程において、一般人には、ハンセン病が恐ろしい伝染病であるという誤った認識を与え、これまでなかった感染の恐怖というハンセン病に対する新たな差別・偏見を作出・増強した。
2 戦後の状況
戦後、日本国憲法により基本的人権が保障されるようになり、また、医学的にも、ハンセン病に対する特効薬であるプロミンが開発されて治癒する疾病となったにもかかわらず、厚生省は、戦前の絶対隔離絶滅政策をそのまま維持し続けたのみならず、さらにこれを強化した。
すなわち、昭和二四年六月の全国療養所長会議において、第二次無らい県運動の実施が決定され、療養所の収容力の増強と患者の一斉検診により、未収容患者の収容徹底が図られることになったのである。そして、旧法の隔離構造をそのまま受け継いだ昭和二八年の新法制定は、絶対隔離絶滅政策の継続を法的に確認するためのものであった。
ハンセン病患者が、無らい県運動により作出・助長されたハンセン病に対する社会の差別・偏見の目を避けるため、あるいは療養所が独占していたプロミン等による治療を受けるために、隔離施設への入所を余儀なくされるという構造がここに確立する。ある時期から実力行使による強制隔離がなくなったことは、この構造が完成したことを示すものであっても、決して絶対隔離絶滅政策が変更されたことを意味するものではない。医療面、社会面、心理面での強制によって、患者に入所を余儀なくさせ、いったん入所してしまうと、時間の経過とともに社会との溝が深まり、社会復帰施策がないこともあいまって、退所できなくなるという絶対隔離絶滅システムが、強制力の発動を待つまでもなく、自動的に機能し続ける域に達したのである。
平成八年に新法が廃止された当時、いわゆる「ハンセン病患者」の九〇パーセントが療養所に在園していたこと、そしてそのほとんどは法廃止後も社会復帰を遂げることなく、療養所の中でその一生を終えようとしていることは、約九〇年間にわたって発展し、継続され、完成した絶対隔離絶滅政策が、いまや最終段階に入ったことを示しているのである。
3 以上のとおり、絶対隔離絶滅政策は、ハンセン病患者の根絶を目標として、戦前、戦後を通じて、一体のものとして遂行・維持されてきた。
三 被告の開放政策論について
1 被告の開放政策論の構造と特徴
被告は、遅くとも昭和四七年には厚生省は実質的に隔離政策を開放政策に転換し、隔離の根拠となっていた条文が現実に適用されることはなく、ただ形式的に右の条文が残存していたことが明らかであると主張する。
その具体的内容として挙げられているのは、①物理的強制力を用いた強制収容は行われていないこと、②入所者の外出は自由であったこと、③軽快退所が認められていたこと、④断種手術等が行われく〔ママ〕なったこと、⑤療養所内での処遇が改善されたこと、⑥外来診療制度が整備されたことなどであり、弾力的運用論 (①ないし④)、処遇改善論 (⑤)、外来診療制度論 (⑥) の三本柱からなる。
しかしながら、被告は、政策の転換と主張しながら、その開放政策が策定された時期が全く明らかではなく、その具体的内容となる前記①ないし⑥についてもその時期に関する主張はそれぞれ全く個々バラバラであり、その間に 一〇年以上の開きすらある。また、厚生省としての政策であるはずでありながら、「開放政策」なる文言が使用された文書はもとより、開放政策全体の内容を説明し得るような厚生省の文書が全く存在していない。厚生省は、本件訴訟以前に自らの政策を「開放政策」と称したことが全くないだけでなく、「隔離政策」を転換したなどと主張・表明したことすらない。昭和五〇年に発行された「国立療養所史らい編 (《証拠略》) <編注・以下証拠の表示は一部を除き省略ないし割愛します> にも、「わが国のらい対策は、治らい剤の効果が確認された一九五〇年代に至るまで絶対隔離がその基本になっていた。もっともこの基本については現在もなお本質的に改められていない」と記載されている。「開放政策」なるものは、本件訴訟において、国の免責を図るために作り出された机上の空論にすぎない。
2 弾力的運用論批判
㈠ 物理的強制力を用いた強制収容の有無とその意義について
被告は、ある時期から物理的強制入所がないと主張している。
しかしながら、物理的な強制力を用いた場合でなければ強制入所と評価されないわけではない。被告が作出・助長したハンセン病に対する差別・偏見による社会的心理的強制や、ハンセン病の治療薬の入手すら療養所以外では極めて困難であるという治療面での事実上の強制による入所もまた、強制入所と評価すべきものである。このことは、昭和五二年当時の厚生省大臣官房であった熊代昭彦氏のジュリストにおける発言や原告一一番の入所に至る経緯、見直し検討会における吉永みち子委員の発言からも明らかである。
物理的強制入所が減少あるいは消滅したとしても、そのことは物理的強制力を用いる必要がなくなったことを意味するにすぎず、隔離政策の変更を意味するものではない。
㈡ 外出制限の緩和について
被告は、外出制限について、遅くとも昭和五三年以前から新法一五条の許可事由は事実上外出許可の要件ではなくなっていたと主張し、外出の際に同条に定める許可を受けるとしても、その要件は緩和され、ないに等しくなっていたのみならず、右許可を受けなかったことを理由に刑罰その他の不利益処分が科せられることは一切なくなったと説明する。
しかしながら、昭和三三年の「脱走者一斉検束」による外出制限違反の処罰例があり、これが、在園者に対するみせしめとなったこと、昭和三五年一月に発生した全生園殺人事件に関する新聞報道において、厚生省担当者が外出制限を厳重にする旨のコメントをしていることなどからすれば、入所者は、無断外出に対しては園当局がその気になればいつでも処罰し得ることを思い知らされ、その結果として、新法廃止まで外出制限が在園者の権利を制限し続けていたのである。
また、帰るべき所が療養所以外にない在園者にとって、療養所周辺への短時間の外出が事実上認められたとしても、隔離からの開放を意味することにはならない。
したがって、開放政策の根拠となるような外出制限の緩和があったとはいえない。
㈢ 軽快退所者の存在について
被告は、軽快退所者が累計で約三〇〇〇人に及ぶ等と主張し、これを開放政策への転換の根拠の一つとしている。
しかしながら、軽快退所者の割合は、在園者数の一ないし一〇パーセントにすぎず、軽快退所がごく一部の例外的な事象なのであるから、これを開放政策の根拠とすることはできない。
㈣ 優生手術の不実施について
被告は、昭和四〇年代の終わり以降は、優生手術は行われていないと主張する。
しかしながら、昭和四〇年には、在園者の平均年齢は四九歳に達しており、しかも、療養所内において、子供を産むことが許されないことは在園者に周知徹底され、だれ一人としてこれに背くことが許されない状況だったのであり、これまた政策の変更を意味するものではない。
㈤ 以上のとおりであって、被告が主張するような弾力的運用は、現実には存在しなかったというべきである。
3 処遇改善批判
被告は、昭和四七年以降、療養所内の処遇改善に努力してきたとし、そのことを理由に新法は死文化したのであり、人権侵害はなかったと主張する。
しかしながら、処遇改善は、隔離政策の転換を意味するどころか、多剤併用療法の確立した時点以降においても隔離政策を継続する役割を果たしたというべきものであって、政策変更を裏付けるものではない。
4 政策転換の評価基準
絶対隔離絶滅政策を策定・推進し、この政策遂行によってほとんどのハンセン病患者が隔離され、そのままの状態で社会に戻れない人達が厚生省の隔離施設内に存在しているという状況下で、それまでの政策が誤りであったとして開放政策に転換したというためには、その過ちを率直に認め、被害者に謝罪した上で、それまでの政策遂行によって生じた事態を原状に回復せしめること、すなわち、社会から居場所を奪われ、さらに社会における生活手段を持たないという隔離政策の被害者が、社会に復帰できるような積極的な政策を展開することが必要である。
しかしながら、少なくとも新法廃止までは、右のような措置は全く取られていないのであるから、政策転換があったと評価することはできない。
四 絶対隔離絶滅政策の違憲性及び国家賠償法上の違法性
1 昭和二八年までの違憲性・違法性について
ハンセン病政策が、患者を隔離するという点において、憲法で保障される人権を制約するものであるところは明らかであるところ、そのような人権を制約する政策が憲法に違反しないというためには、少なくとも①人権制約の目的が合理的であること、②手段が目的達成のための必要最小限度のものであることが必要である。
㈠ 根絶目的自体の合理性
ハンセン病患者に対する絶対隔離絶滅政策は、優生思想を背景とした民族浄化論に基づくものであり、基本的人権の尊重を理念とする日本国憲法の下で、患者の絶滅、社会的抹殺を図るという政策目的に合理性が認められる余地はない。
㈡ 手段の違法性
⑴ 仮に、絶対隔離絶滅政策がハンセン病の伝染予防という公衆衛生目的のものであると解したとしても、これによる人権の制約は目的の達成のための必要最小限のものでなければならない。
一般に、公衆衛生政策を採用する場合は、その患者自身の人権と伝染予防の必要性を衡量しながら進めるべきである。そして、伝染予防の必要性に関しては、伝染力の強さ、蔓延状況、致死率等の重篤さによって大きく左右される。
この点、ハンセン病の伝染力が微弱であることは、戦前から十分認識されていた。また、壮丁らいの年次推移及び大正八年から昭和一〇年までの四回にわたる全国調査の結果からすれば、日本においてハンセン病が蔓延していたという状況はなく、むしろ隔離と無関係に終焉に向かっていた。さらに、重篤性についてみても、ハンセン病は、スルフォン剤登場以前から、死に至るような病ではなかった。
以上からすれば、伝染予防対策を採るとしても、比較的感染のおそれが高いとされる乳幼児に対する家庭内感染を避けるための措置を取る程度で十分であり、絶対隔離絶滅政策がハンセン病予防という目的に照らして極めて過剰な人権侵害であったことは明らかである。
⑵ 絶対隔離絶滅政策は、一体的な性格を有するものであるから、全体として違憲と評価されるべきものであるが、以下、日本国憲法との関係を述べる。
⑷ 強制・終生・絶対隔離
隔離は、憲法二二条一項の保障する居住・移転の自由を侵害するものであり、その隔離が無期限の終生隔離であることにより、いったん隔離政策の対象となった者は家族との絆を断ち切られ、職を奪われ、あるいは教育を受ける機会や一般社会の中で人格形成する機会を奪われる。これらを総合して憲法一三条の幸福追求権の侵害であると解するべきである。
また、ハンセン病と診断されることは、絶対隔離絶滅政策の対象として位置付けられることであり、憲法一四条一項にいう「社会的身分」に当たるというべきであるから、ハンセン病と診断されたことによって隔離政策の対象とすることは、憲法一四条一項にも違反している。
さらに、強制収容されるに当たって、事前の告知、弁解、防御の機会が全く与えられない点は、適正手続を保障した憲法三一条に違反する。
(ロ) 優生政策
断種・堕胎による優生政策は、憲法一三条の幸福追求権に含まれる子供を産み育てる権利を侵害するものであるところ、この権利の侵害は、どのような目的のものであっても許されない。
なお、断種、堕胎を行うに当たり、患者から同意を得ていたとしても、絶対隔離絶滅政策の中で患者は同意せざるを得ない立場に置かれていたのであるから、実質的にはすべて強制されていたものと理解すべきであって、違法性がないとはいえない。
また、右優生政策は、優生手術を受けた者の権利を侵害しただけではなく、すべての入所者を子供を産み育てることをあきらめざるを得ない立場に置いたという点で、すべての入所者に対する侵害行為というべきである。
(ハ) 患者作業
患者作業は、絶対隔離絶滅政策に組み込まれたものであり、すべての入所者は、その身体的条件により不可能でない限り、患者作業をせざるを得ない立場に置かれた。これは、憲法一八条が禁止するところの「意に反する苦役」ないし「奴隸的拘束」と評価すべきものであり、いかなる目的の下でも正当化される余地はない。
(ニ) 恐怖宣伝
無らい県運動は、ハンセン病に対する徹底的な恐怖宣伝となった。また、実際の収容に当たっても、専用列車による患者の輸送、伝染予防目的としては全く無意味な住居の消毒などによって、国民に対してハンセン病の伝染力を誇大に印象付けた。この方法は、戦後の第二次無らい県運動でも採用された。
このようにして、ハンセン病及びハンセン病患者への嫌悪感をあおることは、公衆衛生目的を大きく逸脱するものであり、原告らすべてのハンセン病患者あるいは元患者の幸福追求権を侵害する違憲・違法な行為と評価されるべきである。
2 昭和二八年以降の違憲性・違法性
以下に述べるとおり日本でも昭和二六年段階でスルフォン剤の治療効果が確認されていたこと、占領終了後、入手できるようになった国際的知見などに照らせば、昭和二八年以降の絶対隔離絶滅政策の違憲性・違法性はさらに顕著であるというべきである。
㈠ プロミンなどスルフォン剤の治療効果
日本では、昭和二二年に初めてプロミンの治療効果がらい学会において発表され、昭和二六年の第二四回日本らい学会では、プロミンの治療効果が正式に確認された。このプロミンの登場によって、ハンセン病は治る病気になり、患者の人権を侵害してまで隔離する必要性がないことが一層明らかになった以上、ハンセン病政策は、当然変更されるべきであった。にもかかわらず、被告は、絶対隔離絶滅政策を継続したばかりか、スルフォン剤を療養所に独占することによって、これを強化することに利用したのである。
したがって、昭和二八年以降の政策の違法性は極めて高いというべきである。
㈡ 国際的な知見について
国際的には、スルフォン剤登場以前から、その患者自身の人権と伝染予防の必要性を衡量して公衆衛生政策を進めるというのが一貫して認められてきた考え方であった。また、ハンセン病に関しても、あくまでも公衆衛生的観点から政策が立案されるべきであり、公衆の恐怖や偏見に基づいて政策が行われてはならないとされてきた。
この考え方は、スルフォン剤の登場によって、隔離中心の予防対策から治療中心の予防対策への転換をもたらす。これを極めて象徴的に示しているのが、昭和二七年のWHO第一回らい専門委員会報告である。この報告書は、「らい管理に関して政策を決定するのは、あくまで公衆の保健衛生の立場からであって、決して公衆の恐怖とか偏見から行われるのであってはならない」という原則を確認した上、「現代のらい治療は、患者の伝染性を効果的に減少せしめ、患者を非伝染性に変えてしまう。それ故にこのらい治療というものは、らい管理に現在最も有力な適した武器として好んで利用されているのである。治療は、初期の患者に行なったときに一層効果的である。このことはらい管理にあたって心に銘記しておくべきことである。」としている。
このように、昭和二八年までの国際的知見、特にWHO第一回らい専門委員会報告に照らせば、日本のハンセン病政策が違憲・違法なものであったことは明らかである。
㈢ 結核予防対策との比較
ハンセン病は、感染力、昭和二八年当時の蔓延状況、予後、治療法、予防法等、あらゆる観点からみて、結核よりも厳重な隔離を必要とする感染症ではなかった。しかしながら、昭和二六年に改正された結核予防法には、新法六条三項のような直接強制の規定はなく、入所命令の際には期間を定めることになっていた上、在宅の患者への指導及び外来治療の費用の援助が制度化されていたのであり、我が国においては、ハンセン病が結核よりもはるかに厳重な隔離政策の対象とされてきたのである。このことからも、我が国のハンセン病政策が、過剰な人権侵害をもたらすものであったことが明らかである。
3 平成八年までの違憲性・違法性
日本のハンセン病政策は、昭和二八年時点で既に極めて顕著な違憲性・違法性を帯びていたというべきであるが、同年以降も、この絶対隔離絶滅政策に対して、見直しを迫る国際会議の決議やWHOの報告は数多くなされており、これに従わない合理的な理由は一切見いだせない。にもかかわらず、絶対隔離絶滅政策は、平成八年の新法廃止まで変更されることなく継続されたのであり、この点が違憲・違法であることはいうまでもない。
五 厚生大臣の故意・過失
1 戦前における内務省の認識
㈠ 国際的な知見に関する認識
内務省は、戦前から既に、ハンセン病の伝染力が微弱であり、無差別に終生隔離をすることが望ましくないことを認識していた。
このことは、土肥慶蔵教授が出席した明治三〇年の第一回国際らい会議において、「らい菌の伝染力は極めて微弱であることが報告されていること (なお、第一回国際らい会議の決議は、帝国議会でも引用されて審議されている。)、光田健輔が出席した大正一二年の第三回国際らい会議において、日本のようにハンセン病の蔓延が甚だしくない国では、隔離の方法は、住所内分離をすれば済むことを示唆するのみで、施設を用いた強制隔離は一切推薦されておらず、しかも、住居内分離もなるべく承諾の上で実行するように推薦していること、昭和五年の国際連盟らい委員会では、「治療なくして、信頼しうる予防体系は存在しない」として、治療による予防という考え方を示した上で、隔離については伝染性の患者に限られることを明言し、「伝染性疾患の隔離は、らい予防の唯一無二の方法とみなすことはできない。」としていること、また、右委員会の報告に基づいて作成された「らい予防の原則」でも、隔離は極めて限定的になされるべきであり、感染性がある時期に限られるべきであるとされていることなどから、明らかである。
㈡ 我が国における知見
右のような国際的な知見に対して、日本の医学的な知見が全くかけ離れていたわけではない。
例えば、大正一二年一一月に行われたらい学会懇談会において、太田正雄医師が、「健康な人、栄養の善い人には仲々うつらない。」と発言したのに対し、内務省衛生局の高野六郎は、「隔離だけでは不可ぬという先ほどからの太田氏のご意見、或は将来のらい予防政策を変更しなければならないときが来るかもしれない」と述べている。
また、医学博士青木大勇は、昭和五年の「癩の予防撲滅法に関する改善意見㈠」において、「伝染の難易・病毒の多少を顧慮せず、科学的研究の上に立脚しないで所謂一網打尽的に、苟も癩と診断せられたものは、すべてこれを強制的に隔離し而もこれを監禁本位に取り締まると云うことは全く時代後れの隔離法と云わなくてはならないのであって、悪く云えば非科学的とけなさねばならぬ」と論じている。
また、昭和七年、九州療養所 (現菊池恵楓園) の河村正之は、第五回日本癩学会における講演で、「櫻根博士の実験によれば二五年間も再発せざりし例もあり、療養所内に於いても一〇年位病勢の停止せるは珍らしくない様である。斯く長年月に亘りて何等伝染の危険無きものを療養所内にとどめ置くは極めて無意義にして、我国の全患者の三分の一を収容し得るに過ぎざる現状としては不経済なることと云うべし」と論じている。
また、昭和九年、北部保養院 (現松丘保養園) 院長中條資俊は、「癩伝染の径路について」において、「癩の伝染力が弱いことは医者のみならず世人も認めているところであると思われ、そのために未だに遺伝病と誤解しているものもある」、「家と家とが隣り合う程度では伝染が起こらない」、「癩の隔離は伝染力の微弱なるに鑑み厳格に失せざる様施設すべきである」と論じている。
さらに、昭和一四年、東京大学伝染病研究所の日戸修一は、「癩と遺伝」において、「例えば生長した人間の大部分は、癩といかに密接に接近しやうと大概は未感染に終る。例へば癩療養所に於ける医師、看護婦は未だ曾て癩に罹患したことはなかったし、癩の家族或は夫婦についても癩に結婚後感染したと思はるやうな例は実に稀である。」と論じている。
これに対し、ハンセン病の伝染の危険性を論じたものは、ほとんどが乳幼児に対する家庭内感染についてのものである。
このように、我が国においても、医学の専門家の間では、ハンセン病の伝染性が微弱さ〔ママ〕であり、絶対隔離絶滅政策が不要であることは、十分認識されていた。
㈢ 以上のとおりであって、戦前においても、内務省衛生局及び厚生省は、ハンセン病の伝染力が微弱であり、日本におけるような厳重な隔離政策に医学的な根拠がないことを十分に認識していたというべきである。
2 昭和二二年から昭和二八年までにおける厚生大臣の故意・過失
厚生大臣は、憲法が施行された昭和二二年の時点において、従来の政策が憲法に適合的なものであるか否かを検討しなければならず、憲法に適合しない絶対隔離絶滅政策を変更すべきであった。このころ、厚生省において、既にプロミン、プロミゾールといったスルフォン剤の治療効果が認識されていたことからすれば、このことは一層明らかである。
ところが、厚生省は、前述のとおり戦前の絶対隔離絶滅政策を戦後においても継続したのである。
したがって、厚生大臣は、絶対隔離絶滅政策が違憲・違法な政策であることを十分認識しながら、これを継続して遂行したのであり、故意に原告らハンセン病患者の人権を侵害したというべきである。
3 昭和二八年時点における厚生大臣の故意・過失
㈠ スルフォン剤の効果の認識
厚生省において、昭和二三年一一月の時点において、プロミン及びプロミゾールの治療効果は認識されていた。また、昭和二六年の日本らい学会においてプロミンの治療効果が正式に確認されたが、このことが厚生省にとって認識可能であったことはいうまでもない。
同年一一月八日の参議院厚生委員会における三人の療養所長の発言 (以下「三園長発言」という。) からも、スルフォン剤の著効を認識していたことざ〔ママ〕明らかなのである。例えば、当時の多磨全生園長林芳信は、「これは現在相当有効な薬ができまして (中略)〔ママ〕各療養所におきましても患者の状態が一変したと申してよろしいのでございます。(中略)〔ママ〕治療の問題はもう一歩進みますれば全治させることができるのではないかと思うのであります。只今も極く初期の患者でありますれば殆ど全治にまで導くことができておるような状態でございます。」と述べ、当時の菊池恵楓園長宮崎松記も、同旨の発言をしている。
㈡ 国際的な知見について
当時の国際的な知見として重要な昭和二七年のWHO第一回らい専門委員会報告に照らすと、絶対隔離絶滅政策の違憲性・違法性は明らかであるが、厚生省は、この報告書を遅くとも昭和二八年七月には入手している。
以上からすれば、厚生大臣は、昭和二八年時点において、スルフォン剤の治療効果及びそれを背景とした国際的なハンセン病政策について十分な認識を有していたのであり、違憲・違法の絶対隔離絶滅政策を継続したことにつき、故意があるというべきである。
4 昭和二八年以降における厚生大臣の故意・過失
㈠ 昭和二八年以降も、我が国の絶対隔離絶滅政策に対して、見直しを迫る国際会議の決議やWHOの報告は数多くなされている。
例えば、昭和三一年に開催されたマルタ騎士修道会によるローマ会議 (当時の藤楓協会濱野規矩雄常務理事、林芳信多磨全生園長、野島泰治大島青松園長が出席) においては、「らいの伝染性が低いこと及び医療により左右されうる疾病であること」を踏まえた上で、ハンセン病に対するすべての差別待遇的な法律が撤廃されるべきことが決議されている。ハンセン病に対する特別法が、ハンセン病患者に対する差別・偏見を助長し、ハンセン病患者の社会復帰を困難ならしめているというのが、このローマ決議の根底にある考え方である。
また、昭和三三年に東京で開催された第七回国際らい学会の社会問題専門委員会では、①癩はいくつもある疾病の一つにすぎず、特別なものではなく、むしろ伝染しにくいものだという見地から、癩は常に特別なサービスを必要とする観念は打破されねらない、②政府が強制的収容政策をしいているのならば、それは廃棄されねばならないと決議されている。この決議を真摯に受け止めるならば、新法は廃止する以外になかったはずである。
さらに、昭和三四年のWHO第二回らい専門委員会 (報告書は昭和三五年に発行) は、第七回国際らい学会の決議を踏まえ、WHOの新しい理念に基づいたハンセン病対策として、患者隔離政策に偏って療養所の運営・経営に終始していたハンセン病対策を廃し、一般保健医療活動の中でハンセン病対策を実施すること (Integration) を提唱し、ハンセン病に関する特別法の廃止を強調している。また療養所は、外来治療患者で反応期にある者や、足穿孔症などの合併症で専門的治療を要する者、理学療法や矯正手術の必要な後遺症患者の治療のため、患者が一時入所する場と位置付けられ、入所は短期間で可及的速やかに退所し、外来治療の場に移すこととされている。
㈡ 厚生大臣は、これらの決議や報告を検討してハンセン病政策の再検討を行うべきであったにもかかわらず、昭和二八年以降もハンセン病政策を変更することなく継続したのであり、この点につき、故意があるというべきである。
第三 国会議員の責任
一 国会議員の立法行為の違法性
1 立法行為の国家賠償法上の違法性の判断基準
最高裁第一小法廷昭和六〇年一一月二一日判決 (民集三九巻七号一五一二頁) は、国会議員の立法行為は、当該立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法行為を行うというごとき容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法一条一項の規定の適用上、違法の評価を受けない旨判示している。
しかしながら、右判決は、在宅投票制度に関するものであり、右判決を引用するその後の最高裁判決も、社会権、参政権等に関するものであって、その射程は限定的に考えるべきであり、自由権を侵害する立法が問題となっている本件には妥当しない。
本件においては、立法内容が違憲であれば、立法行為もまた国家賠償法上違法と評価すべきである。仮に、立法行為が国家賠償法上違法となるためには、立法内容そのものの違憲性以外に何らかの要件が必要であるとしても、本件においては、「憲法の一義的文言に違反する」という要件ではなく、「個別の国民に対する職務上の義務違反」という要件によって判断すべきである。
2 昭和二八年まで旧法を廃止しなかった立法不作為について
㈠ 旧法の違憲性
⑴ 旧法の立法目的
旧法の立法目的は、ハンセン病の伝染予防ではなく、ハンセン病患者の根絶という民族浄化論に基づくものであり、基本的人権の尊重を基本理念とする日本国憲法の下で、これが正当化される余地はないから、旧法が違憲であることは明らかである。
⑵ 憲法一八条違反
憲法一八条は、奴隸的拘束を絶対的に禁止しているところ、旧法下における療養所入所者は、療養所からの外出を禁じられ、療養所職員の命令に服従を強いられ、これに違反すると問答無用で旧法四条ノ二 による懲戒処分が科せられるのであるから、これは奴隸的拘束以外の何ものでもない。
したがって、旧法は憲法一八条に違反している。
⑶ 憲法二二条一項違反
旧法は、ハンセン病患者を強制的に療養所に収容し外出を禁ずる点において、憲法二二条一項が保障する居住・移転の自由を制限するものであるが、ハンセン病の感染力・発病力が極めて微弱であること、戦前において既に我が国におけるハンセン病は隔離とは無関係に終焉に向かっていたことなどからすれば、右制限は、ハンセン病予防という目的達成のための手段として必要最低限のものとは到底いえない。
したがって、旧法は憲法二二条一項に違反している。
⑷ 憲法三一条違反
適正手続を保障した憲法三一条は、行政手続に対しても適用があると解すべきところ、旧法三条の強制収容は、期間の定めなく居住、移転の自由を完全に奪うものであり、しかも、これを緊急に行うべき必要性が全くないにもかかわらず、ハンセン病患者に対する事前の告知・弁解・防御の機会を与える規定が設けられていないのであるから、憲法三一条に違反している。
また、旧法四条ノ二の懲戒検束規定についても、不利益処分を科せられる入所者に告知・弁解・防御の機会を全く保障していない点で、憲法三一条に違反しているというべきである。
⑸ 憲法一三条違反
旧法による無期限の強制隔離と外出制限は、ハンセン病患者を家族から切り離し、職業を奪い、教育を受ける機会や一般社会の中で人格を形成する機会を奪うものであり、これらを総合して憲法一三条の保障する幸福追求権の侵害と考えるべきである。そして、右権利の制限の合憲性判断基準は、立法目的が合理的なものであり、かつ、手段が目的達成のために必要最小限のものであるかという厳格な基準によるべきであるが、既に検討したところからも明らかなように、旧法による権利の制限が感染予防という目的達成のための必要最低限のものであるとは到底いえない。
したがって、旧法は憲法一三条にも違反している。
⑹ 憲法一四条一項違反
ハンセン病と診断され療養所に入所したことのある者という立場は、憲法一四条一項にいう「社会的身分」に当たるというべきであり、旧法は、この身分による不合理な差別的取扱いをするものであるから、憲法一四条一項にも違反している。
㈡ 立法不作為の国家賠償法上の違法性
自由権を侵害する法律を放置する立法不作為の場合においては、基本的にはその法律の内容が違憲であれば、立法不作為もまた国家賠償法上の違法と考えるべきであるから、旧法を昭和二二年以降廃止しなかった国会の行為は、それだけでも国家賠償法上違法と評価されねばならない。
しかも、本件においては、以下の点を指摘することができる。
⑴ まず、戦前に栗生楽泉園特別病室において苛烈な人権侵害が行われていたことが、昭和二二年一一月の衆議院厚生委員会で取り上げられており、旧法下における人権侵害の事実が国会において明らかになっていた。
⑵ また、昭和二三年一一月二七日、国立らい療養所の在園者三二七六名が、衆議院に対して、旧法の改廃等を求める請願を行っており、これに対し、東龍太郎厚生省医務局長も、衆議院厚生委員会において、スルフォン剤の登場により、終生の隔離政策の見直しを示唆する答弁をした。
これらからすれば、国会は、旧法を廃止すべきことを認識し得たのであり、にもかかわらず、旧法を昭和二八年まで廃止せずに放置した点には、国会議員としての職務上の義務違反があるというべきである。
3 新法制定について
㈠ 新法の違憲性
新法は、絶対隔離絶滅政策を戦後も継続することを確認するためのものであって、ハンセン病患者に対し療養所への入所を強制していること、退所の規定がないこと等、基本的構造は、旧法と変わっていない。したがって、新法も、旧法と同様、過度に人権を制約するものであり、違憲である。
㈡ 新法制定の国家賠償法上の違法性
自由権を制約する法律を制定する場合においては、基本的にはその法律の内容が違憲であれば、立法行為も国家賠償法上の違法と考えるべきであるが、本件では、さらに次の事情を指摘することができる。
すなわち、新法は、全患協の激烈な反対に抗して制定されたということである。国会議員は、この法律が、療養所入所者らの人権を制約する法律であることを明確に意識しながらあえて立法行為を行ったのである。この行為が、国会議員としての職務上の義務に違反していることは明らかである。
4 新法を昭和二八年以降廃止しなかつた立法不作為について
新法が違憲である以上、新法を昭和二八年以降廃止しなかった立法不作為も国家賠償法上違法というべきである。このことは、新法附帯決議や昭和二八年以降のらい予防法の見直しを迫る国際会議の決議、WHOの報告等からすれば、一層明らかである。
二 国会議員の故意・過失
1 昭和二八年まで旧法を廃止しなかった立法不作為について
そもそもハンセン病の伝染力が極めて微弱であることは、旧法以前から分かっていたことであり、また、ハンセン病患者に対して旧法による絶滅政策をもって臨むのは、伝染予防目的をはるかに超えた民族浄化論に基づくものなのであるから、旧法による人権侵害が憲法上許容される余地はない。また、日本におけるハンセン病が隔離と無関係に終焉に向かっていたことは、データさえ見ればだれにでも明らかなことであり、ハンセン病予防のために旧法が不必要なことも容易に認識できたはずである。
さらに、当時の国会内の議論だけを見ても、①栗生楽泉園特別病室事件、②癩予防法廃止の請願、③右請願に対する東政府委員答弁などがあるのであって、旧法が違憲であることは、国会議員にとって十分に認識可能であった。
したがって、国会議員には過失があるというべきである。
2 新法制定について
㈠ 新法と基本的構造を一にする旧法下において、ハンセン病患者に対する激烈な人権侵害がなされていたことは国会で既に明らかにされていた。したがって、国会議員としては、新法制定に当たって、二度と同じような人権侵害を繰り返さぬよう、新法による人権制約が必要最小限のものであるのかどうか、慎重に審理しなければならなかった。
㈡ 三園長発言について
昭和二六年一一月八日の参議院厚生委員会における三園長発言は、いずれも隔離の強化を訴えるもので、一見、新法制定を正当化する内容に思える。しかし、右発言には新法を制定できるような医学的知見は一切含まれておらず、むしろスルフォン剤の著効が国会において明らかになったと評価し得るものである。新法制定に当たり、この三園長発言の内容が正確に検討されていれば、その人権制約が、伝染予防という目的を達成するために必要最低限度のものとはいえないことは容易に認識できたはずである。
なお、光田健輔は、ハンセン病には虫を媒介とする感染のおそれがあり、あたかもハンセン病の感染力が結核よりも強いかのような発言もしている。しかし、これは、医学的根拠を全く欠く光田独自の見解である。国会議員は、医学の専門家ではないにせよ、このような光田の見解に医学的根拠があるかどうか程度のことは、確認すべきだったのである。
㈢ 結核予防法との対比
新法と結核予防法とを比較すると、新法の違憲性が明白となることは前述したとおりであるが、このことは、国会議員も十分認識し得たはずである。ところが、国会において、新法制定の際、結核との比較が論じられた形跡は一切ない。
㈣ WHO第一回らい専門委員会報告
新法の違憲性は、昭和二七年のWHO第一回らい専門委員会報告に照らした場合、極めて顕著であるところ、厚生省は、遅くとも昭和二八年七月六日の時点ではこの報告書を入手し、その内容を知っていたし、また、国会もその報告書の存在を認識していた。
国会議員としては、グローバル・スタンダードというべき右報告を、新法の審議の最も重要な資料の一つとして、より詳細に検討すべきであった。
この新法の審議過程をたどると、ハンセン病を予防するには患者の隔離以外に方法はないという前提に疑問が呈されていないが、右報告を検討すれば、その前提の誤りが容易に認識できたはずであり、右報告の存在を知りながら、これを検討しなかったことこそが、国会の致命的な誤りであった。
㈤ したがって、新法を制定した国会議員には過失があったというべきである。
3 新法を昭和二八年以降廃止しなかった立法不作為について
新法制定以降、その見直しを促す国際的な決議、勧告、報告が数多くなされていることは既に述べたとおりであり、これらに照らせば、新法が違憲であることは明らかである。これらの決議等が国会で議論された形跡はないが、これらは様々な形で公にされており、国会議員がこれを認識することは容易であり、この法律を廃止すべきことを認識できた。
したがって、昭和二八年以降の立法不作為についても、国会議員には過失があるというべきである。
第四 沖縄・奄美におけるハンセン病政策の責任
一 戦後沖縄の米国統治の概略
昭和二〇年、沖縄本島は、米軍によって上陸・侵攻され、米国海軍軍政府布告第一号 (ニミッツ布告) が発布され (同年一一月二六日、宮古、八重山、奄美の各諸島についても、ニミッツ布告とほぼ同様の米海軍布告第一のA号が発布され)、沖縄・奄美地方は米軍が施政権を行使するに至った。
昭和二五年一二月五日、米国極東軍総司令部「琉球列島米国民政府に関する指示」 (FEC書簡) に基づき、占領の主体が米国軍政府から「琉球列島米国民政府」 (USCAR) に変わった。
昭和二七年四月二八日、サンフランシスコ講和条約発効により、日本は、連合国軍の占領から独立したが、沖縄は、同条約三条により、米国が「行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有する」こととなり、引き続き米国による統治が続けられた。
この間、沖縄住民の政府機構として、昭和二六年四月一日、琉球臨時中央政府が設立され、昭和二七年四月一曰、右講和条約発効を待たずして、琉球政府に発展し、米国民政府は、琉球政府に対して拒否権等を留保したものの、琉球における政治は琉球政府が行うという制度 (間接統治制) が採用された (米国民政府布告第一三号二条、七条)。
二 沖縄・奄美地方におけるハンセン病政策
1 戦前
戦前は、それ以外の地域と同様、癩予防法が適用され、苛烈なハンセン病政策が採られていた。沖縄・奄美地方は、ハンセン病の濃厚発生地として、国家主義的色彩を帯びた無らい県運動が強く推進された。
2 戦後のハンセン病政策
㈠ 米軍によるハンセン病政策
米軍は、昭和二一年二月八日、米国海軍軍政府本部指令第一一五号を、昭和二二年二月一〇日には、米国軍政府特別布告一三号を発布し、ハンセン病患者の完全施設隔離政策を採った。
奄美でも、昭和二二年二月一四日、北部南西諸島軍政府命令第五号を発布し、右同様の政策が採られた。
ニミッツ布告四条が「現行法規の施行を持続す」と規定していること、右米軍指令等は、日本の癩予防法における隔離政策の存続を当然の前提にしていることから、癩予防法は米国統治下においても効力が存続し、同法が適用され、隔離政策が継続されていた。このことは、昭和三六年公布のハンセン氏病予防法附則二条が旧法を廃止する旨規定していることからも明らかである。
なお、奄美地方は、昭和二八年一二月二五日に本土復帰し、この時点で既に施行されていた新法の体制下に入った。
㈡ 沖縄のハンセン氏病予防法によるハンセン病政策
琉球政府は、昭和三六年八月二六日、ハンセン氏病予防法を公布施行したが、同法は、新法と基本的構造をほぼ同じくするものであり、これに退所規定 (七条)、在宅予防措置 (八条) を設けたものにすぎない。のみならず、ハンセン氏病予防法には、新法にもない公衆と接触の機会の多い場所への出入りを禁止する規定が設けられており (一〇条)、より人権制限的色彩が強い。
3 ハンセン氏病予防法の評価
㈠ ハンセン氏病予防法は、退所及び在宅治療の対象を非伝染性患者に限定しているが、これは当時の医学的知見からかけ離れたものである。
沖縄においては、昭和二八年、ダウルが外来治療の実施を勧告し、昭和三三年一二月、琉球列島米国民政府公衆衛生部長であったマーシャルが、ハンセン病だけの特別法が不要である旨述べて社会的反響を呼んでいた。また、昭和三五年のWHO第二回らい専門委員会報告では、特別法の廃止が提唱されていた。
このような経緯があるにもかかわらず、特別法たるハンセン氏病予防法を制定して隔離政策を継続したことの過ちは決定的であり、非伝染性患者の退所及び在宅治療を認める条項を設けたとしても、明らかに当時の医学的知見及び世界のハンセン病政策から程遠い内容のものであった。
また、在宅治療といっても、ハンセン氏病予防協会という特別な診療所において、専門医もほとんどいないなか、投薬治療が行われていたにすぎず、入院が必要な患者には療養所にしか治療の場所がなかった。つまり、沖縄の在宅治療制度は、貧困な人的物的体制での一般保健医療から切り離された特別法に基づく例外的措置にすぎなかった。
㈡ 琉球政府章典 (米国民政府布告六八号) 五条二項は、「総て住民は個人として尊重され、法の下に平等である。生命、自由及び幸福追求に対する住民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の政務の上で最大の尊重を必要とする。」旨規定し、日本国憲法と同様に基本的人権の保障をしているのであるから、隔離政策及び右政策を定めるハンセン氏病予防法が右章典に違反することは明らかである。
4 沖縄の本土復帰後のハンセン病政策
ハンセン氏病予防法は、昭和四七年五月一五日の本土復帰とともに廃止され、新法が適用されることとなったが、沖縄振興開発特別措置法五条二項、同施行令二条二項 (別表第三の一三号) により、従来の退所及び在宅治療制度が例外的に継続されることとなった。
しかし、在宅治療は例外にすぎず、新法廃止まで一般病院での外来治療や退所者の経済的支援等はないに等しかったのであるから、政策の評価としては、沖縄においてもそれ以外の地域と同様の強制絶対隔離政策が続いていたと評価すべきである。
三 被告の責任
沖縄では、琉球政府が、昭和三一年七月二〇日、国家賠償法と同じ内容の政府賠償法を公布施行し、琉球政府が違法行為による賠償責任を負うこととなったが、沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律 (以下「沖縄復帰特別措置法」という。) 三一条は、琉球政府の右賠償責任は、沖縄の本土復帰により、国が承継する旨規定しているのである。
沖縄における隔離政策と日本の隔離政策は、その政策の目的及び性格は基本的に同じであるから、被告が琉球政府の隔離政策に基づく賠償責任を負うことは明らかである。
以上からすれば、沖縄・奄美地方の原告を他の原告と区別する必要はない。
第五 損害論
一 本件被害の特徴
1 被害の共通性
絶対隔離絶滅政策による加害行為は、原告らを含むすべてのハンセン病患者とされた者に一律にかつ均質に加えられたものである。
その現れは、それぞれの被害者によって幾分異なるものの、均一に社会から切り離され、収容所へと隔離され、苛烈な療養所での生活を強いられて今に至っており、その人格、人間としての尊厳を徹底的に破壊されたという点において、被害は共通しており、その深刻さ甚大さにおいて異なるところはない。
2 被害の累積性
原告らに対する加害行為は、単に収容という措置の時点にとどまらない。自宅の消毒、残された家族への検診という形で周囲の差別・偏見を形成し助長するなど、重層的に患者は追い込まれた。
子孫を残すことすら許さず死に絶えることを待つ療養所において、被害は日に日に重さを増し、元の生活に戻ることは一層不可能になっていく。
療養所という器の中にある間、種々の形での制限や烙印付けが日々原告らを攻撃し、累積的な被害を生み出してきたのである。
3 被害の現在性
国家的に組織された加害システムによって作出強化された社会的な差別・偏見は、強力な排除措置がなされない限り温存される。法が存続する限りにおいて、社会的な差別・偏見もそのまま存続し、かつて患者とされた者は少なくとも法廃止の時まで均質な被害を受け続けてきた。
二 スティグマによる被害
1 差別・偏見の作出・助長
被告は、絶対隔離絶滅政策及びそれを合法化した新法で、ハンセン病が強烈な伝染病であり、患者は危険な伝染源だと説いた。被告は、地方自治体、住民を巻き込んで無らい県運動を展開し、患者を社会から隔離すべき未収容患者として、徹底排除を呼び掛けた。被告は、役場の職員、学校教師、医師らも「狩り込み」の手足として使い、地域住民にも、罪人扱いの収容や大々的消毒を目の当たりにさせ、恐怖と不安の感情をあおった。「強烈な伝染力をもつ病気である」という誤った病像観は、地域住民をも巻き込んでの患者狩りに広がった。
このような誤った病像観の社会的集積が、今あるハンセン病者に対する差別・偏見にほかならない。被告が、ハンセン病は強烈な伝染病だという誤った病像観、隔離主義の新法を、全国律々浦々に「啓蒙」していった結果そのものである。被告の「啓蒙」は、患者を一人も漏らさず収容することが目的であった。そのため、ハンセン病の誤った病像観に基づく差別と偏見を作り出し、加重した。そして、その差別・偏見は、根深いところで変わらず存在し続けている。
新法は、ハンセン病を人から人へ強烈にうつっていく伝染病であると規定した上で、その予防法としては強制隔離しかないという法律構成になっている。新法が厳然として存在している事自体、ハンセン病者と家族に対する間違った偏見・固定観念を植え付けていた。新法が国家の名により伝染の危険を説いているのだから、一般社会がらいの伝染による恐怖心や患者排除の差別の心を払拭できないのは当然である。新法の存在そのものが、法と医療の名の下に凄まじい差別を繰り返し、原告らは「烙印」を押され、排除され、隔離された。
この差別・偏見の深さ、甚大さこそ、ハンセン病者との「烙印」を押された者の傷の深さ、甚大さである。
2 苛烈なスティグマ
原告らは、恐ろしい「らい病」の伝染源として、地域社会の差別・偏見の目にさらされ、厳しい迫害を受け、それまで暮らしていた地域のすべての人々から忌み嫌われ社会から排除された。患者は、あぶり出されるように、療養所へと収容されるか、あるいは逃亡者としての生活のいずれかを余儀なくされた。そして、家族も、社会の差別・偏見の目にさらされ、このことが原告らをさらに傷つけ追い込んだ。
スティグマはよみがえり、傷を広げる。原告らは、社会から拒否され続けることにより、これまで受けた屈辱、苦しみ、悲しみが、何度となくよみがえり、追体験され、その上にまた苦しみ悲しみが積もっていく。
退所者は、常に社会の中でその差別・偏見にさらされ、今なお療養所にいたことは、一切隠し通さねばならず、片隅でおびえながら生活をしなければならない。これは家族に対しても同様である。社会での経済的苦労に加え、その惨めさ、苦しさ、悲しさすべてを今でも背負い続けている。
苛烈なスティグマは、原告らを家族と切り離した。原告らは、今なお、入所の際に断ち切られた故郷との絆、家族との絆を再び繫ぎ結ぶことができない。家族が一人一人死んでいく中で、原告らは、次世代に自分の存在を打ち明けられない。時の経過とともに被害は堆積し、そして状況は悪化していく。自分が死ねば終わる、自分が死にさえすればもう迷惑は掛けない、そういう存在だという、苛烈なまでのスティグマは、繰り返し原告らを苦しめ続け、その傷を深くしているのである。
三 隔離収容によって受けた被害
1 収容被害
㈠ 収容
被告は、ハンセン病患者を根こそぎ社会から排除する加害システムを構築し、原告らは、これによって、家庭内・社会内生活基盤から切り離されて生活することを余儀なくされた。原告らのいずれもが、家族・友人・知人、そして故郷との絆を断ち切られ、社会から排除され、他者との自由な人格的交流を阻まれ、結婚や子孫を残す環境を奪われ、適切な治療の機会を奪われた。正に人格全般に及ぶ被害を受け、その被害は、現在まで累積してきている。
㈡ 家庭内基盤の破壊
収容へと追い詰められる過程で家族との結びつき、家庭内基盤は崩されていき、ついには収容により決定的に破壊される。
⑴ 家庭を失う
既に結婚していた者の多くは、「らい患者」であるとの措置を受けることにより、収容により、離婚せざるを得なくなる。信頼していた夫あるいは妻から突然離別を言い渡されるその悲しみ痛みは例えようもない。
また、当人同志は固い絆で結ばれていても、配偶者の親族がハンセン病に対する差別・偏見意識を有している限り、婚姻生活を続けるのは困難であった。
親子も兄弟姉妹も同様である。すべての原告が家庭を失った。
⑵ 家庭を築くことができない
これから結婚しようと考えていた者も、ハンセン病罹患事実の暴露により、結婚相手の両親などの反対にあい、結婚自体あきらめざるを得ない状況に追い込まれていった。また、たとえ相手の理解が得られても、社会に残されることになる相手に与える迷惑を考えて自ら結婚をあきらめて入所する者もいる。社会の中で自由に家庭を築くことができない。このことはすべての原告に共通する。
㈢ 家族の被害及び家庭内基盤自体の崩壊
患者本人だけでなく、家族・親族も多大な被害を受ける。
「らい患者」宅との公示の最たるものは患者宅の消毒であるが、「危険な感染源」の所在地であるとされ、家族は、その場所でもはや人としての生活を送ることができなくなる。そして、社会の偏見に追われて家族が離散したり、家族との連絡が途絶えたりして、帰るべき故郷を失うことになる。
また、家族・親族もまた、結婚、就職、進学など様々な場面において被害を被る。原告らの多くは、家族がこのような被害にあうたびに自らを責め、更なる被害を避けるためいやいやながらも収容に応じるが、収容されてからも、療養所にいる自分の存在ゆえに家族が被害を受け続けることを思い知らされる。原告らは、自分の存在の痕跡が社会に残らないようにすることが家族を守る唯一の方法であるとさえ考えざるを得ない状況に追い詰められる。家族をも巻き込むような加害システムが存続し続ける限り、原告らは家族の元へは帰れないし、連絡を取ることもできない。家庭内基盤を回復することは不可能であった。
㈣ 社会内基盤の破壊
原告らは、各人各様それまで人生を歩み、人間関係を培ってきているので、被害の現れ方に違いがあるが、社会内に生存する基盤を破壊されたという点では共通した被害を被っている。
それまで培ってきた友人・知人、その他地域のコミュニティとの関係は、切断される。誤った病観に基づく差別・偏見の中で、友人・知人との関係を発展させることは困難である。そのような絆の切断は収容により決定的となった。
また、就学していた者は、学業を断念せざるを得なくなる。消毒は、時には学校にまでも及ぶこともあった。ハンセン病罹患事実が暴露されれば、もはや学校に通うことはできなくなり、一度収容されれば社会の中での自由な学業への復帰は絶望的となる。
さらに、仕事を持っていた多くの原告らが職を辞せざるを得ない状況に追い込まれ、現実の収容により職を失っていた。
㈤ 社会全体の全人格の否定・排除
隔離収容の継続により入所者の社会復帰の可能性は次第に低くなっていくが、隔離期間の長短にかかわらず、原告らは療養所に強制的に収容させられたことそれ自体によって社会とのつながりを断ち切られ、普通の人間の社会に戻れない状態に置かれるのであり、これこそが原告らが共通に被っている被害である。
「らい患者」はすべて死に絶えるべき存在と刻印する絶対隔離・絶滅政策において死に絶えるべき場である「療養所」に隔離収容されること、つまり、死に絶えるべき存在としての絶望、それ自体が原告らに精神的打撃を与え、その意識の奥底に深い傷を残すことになり、原告らは、大きく人間性を練外された。原告らは、いずれもあからさまに社会から引き抜かれ療養所への収容を受け、人間としての尊厳性を踏みにじられ、人格全体に立ち直ることのできない精神的打撃を受け、心身を大きく蝕まれたのである。
原告らの多くは、入所する以前から療養所について、ハンセン病にかかった者が島流しにされて罪人のような扱いを受ける「鬼ケ島」みたいなところで、そこに入ったら二度とは故郷に戻ることはできず、そこでは強制的に断種堕胎をさせられ、死ぬのを待つだけの強制収容所というイメージを持っている。原告らは、療養所に入所させられることにより、自分はそのような施設に入れられるような人間で社会では無用の存在であるという強烈な人格否定の意識を植え付けられた。
2 隔離
㈠ 隔絶の療養所へ
海に隔てられ、あるいは高い壁や檜垣、鉄条網に囲まれた療養所に収容された患者は、この隔絶された施設の「患者地帯」に一たび足を踏み入れ、収容患者として扱われることによって、たちまち「らい者」として貶められた自分の立場を思い知らされることになった。
㈡ 収容による心理的ショック
収容により、患者のそれまでの生活は抹殺される。まず裸にされ、下着まで含めてあらゆる所持品を取り上げられ消毒され、裸にして囚人服のような棒縞の服を着せられた。所持金は施設によって管理され、代わりに園内通用券を持たされた。これにより、彼が生きてきた社会、その中での生活をそっくり剝ぎ取られ、以前の生活とつながる社会の絆が断ち切られてしまうのである。
療養所の職員はしばしば患者に横柄な態度をとり、苦しめた。入所時の職員の態度により受けた屈辱を今も怒りをもって語る原告は多い。患者は自己の容量を超えた怒りや悲しみにさらされる。
㈢ 園名による屈辱
療養所在園者の多くは本名とは異なる園名を用いているが、これは、入所手続に当たって職員からそうすべきものと決めつけられ、強要されていたものである。誕生以来自分と共にあり社会との関係を培ってきた名前の剝奪もまた、入所者をして社会内に存在することの許されない者との自己認識を強いるものである。
㈣ 死体解剖承諾書
多くの者は、入所に当たり、死体解剖承諾書に署名押印を求められた。これは、療養所で死すべき者との烙印であった。
㈤ 患者地帯と職員地帯の区別、過剰な予防着、消毒
患者を受け入れる医療施設のはずでありながら、療養所の中は「患者地帯」(不潔地帯、有菌地帯) と「職員地帯」(清潔地帯、無菌地帯) に分けられ、患者は患者地帯の外に出ることが許されなかった。職員は、入所者と接する際、大げさな予防衣を身につけていた。このような予防衣は、医学的には全く不必要であることが早くから明らかであったにもかかわらず、その着用は近年まで続いた。園内学園の教師 (職員) も、予防衣にマスクで授業に臨み、授業が終わるや職員室前に設置されていた消毒液入りの洗面器に手を入れて消毒するなどした。
また、入所者が外に出す郵便物は消毒された。青松園では昭和四七、八年頃まで郵便物の消毒が行われていた。
㈥ 劣悪な住環境
療養所の住環境は極めて劣悪であった。一二畳半の部屋に六ないし八名の入所者を、あるいは二四畳の部屋に 一二名以上の入所者を放り込み、共同生活を強いた。定員をはるかに超えて収容した時代には更に過剰な患者の詰め込みがなされた。
住環境は、人間が一個人として人格を形成・発展させる基盤としてきわめて重要なものである。プライバシーへの配慮が欠如した集団生活は、患者が個として扱われず、畜殺されるべき存在とされていたことを示す。
3 非人道的処置
㈠ 終生隔離の場
療養所は、一たび収容した患者が外に出ることを許さず、そこで命を終えさせることを目的とした収容所であった。
極めて貧しい医療体制、極端に足りない職員、収容した患者によって賄われることを前提とした運営、療養所内に設置された火葬場、納骨堂、各宗教団体の施設の存在が、療養所の閉塞性、自己完結性をあらわにしている。
㈡ 外出制限
入所者は新法一五条により外出を厳しく制限された。現に原告らの多くは、滅多に園の外には出ないと述べている。法律上、外出には施設長の許可が必要とされているが、その許可は極めて恣意的に運用された。外出許可の条件として、菌陰性であることが求められ、菌陽性者は、親の危篤など特別な事情のある場合以外は、施設職員の目を盗んで無断外出を繰り返すほかなかった。
かかる医学的根拠を欠いた外出制限は、青松園のように、一時帰省を願い出る際、別の入所者を保証人として立てるよう求め、本人が約束期間内に戻らなければ保証人を監禁するという、極めて理不尽な制度まで生み出した。
無断外出により、監禁されたり謹慎を命じられたり、何らかの不利益処分を受けた原告も多い。このような処遇は、これを受けた者の人間としての尊厳を深く傷つけるのみならず、その事実を耳にする他のすべての入所者たちに恐怖感を与え、さらに外出を困難にした。
また、昭和三三年三月には「脱走者一斉検束」が行われ、無断外出者の一名が科料に処せられた。昭和三五年一月一一日の読売新聞には、「野放しのライ患者」とのタイトルの記事が掲載された。
原則として外出を禁止する法律の存在と、それを強調するこれらの見せしめ行為や喧伝により、原告らの行動は著しく制限されていた。被告は、昭和四〇年代以降は外出は事実上自由であったとするが、少なくとも法廃止まで、外出禁止規定が在園者の生活を制限していたというべきである。
㈢ 退所規定の欠如
新法には退所に関する規定はなく、新法によれば、いったん収容された「患者」は治癒しても療養所の外に出ることはできない仕組みになっていた。
退所決定準則なるものの存在は、在園者には伝えられておらず、原告らのほとんどはその存在さえ知らなかった。
原告らの多くは、療養所に収容される時には、入所勧奨の際の「二、三年で帰れる」、「半年で帰れる」などいう言葉を信じ、真面目に治療して病気を治し、一刻も早く家族の元に戻ろうと思っていたと述べる。しかし、在園者たちの多くが長年療養所に縛り付けられている現実を目の当たりにし、また、外出制限され、患者作業に従事させられ、現に退所していく者を見ないという生活の積み重ねの中で、退所はかなえられるべくもない願いになっていく。現実に退所を願い、医師やケースワーカーに相談した者も、多くは軽くあしらわれ、退所をあきらめざるを得なかった。
また、入所に至るまでの度重なる入所勧奨や、収容に際しての自宅の消毒などのために、既に帰るべき故郷が失われていることもしばしばである。
㈣ 以上のような隔離の構造の下、原告らの多くは終生療養所に縛り付けられてしまっているのである。
4 人間の性と愛に対する侵害
人間は、愛によって人生を豊かにすることができる。愛は、性を基盤とし、両者は密接に関連している。人間の愛・性への制約は許されない。
らい療養所においては、子供を産むことも育てることも許されない徹底した優生政策が採り続けられた。青松園では一人の子供も生まれ育てられたことはない。母の体内に宿った子供はすべて堕胎された。男たちは、連れ合いの子宮を傷つけないように自ら断種した。
原告らは、実施された個々の優生手術を問題にしているわけではない。優生政策と非人道的な処遇によって、ここに生きたすべての人間のあるべき性が根本から踏みにじられ、それ故に人生で最も重要な価値を有する性と愛が言いようのないほどに侵害されたのである。
㈡ 優生政策の下で
療養所における結婚には、その代償として屈辱的な断種が用意されていた。一方、断種の持つ痛みや屈辱を受け入れることができず結婚を断念した者は、より深い孤独の中で残りの人生を過ごさねばならなかった。断種は、収容者に犬畜生と同じに扱われたという非常に大きな屈辱感を与えるものであった。
また、断種は、夫婦舎への入所条件として余儀なくされた。実際に断種を受けるのは男性であるが、断種の屈辱や悲しみは配偶者たる女性も共に味わう辛酸である。
堕胎による被害は、断種による被害と重なるが、それにとどまらない。子供が持てない療養所内で妊娠した女性にとって、療養所で子供を出産するという選択肢はなかった。女性にとって人生における大いなる喜びであるはずの妊娠が、療養所では、恥であり、屈辱であり、恐怖であった。堕胎によって子を奪われた悲しみは、配偶者たる夫にも共通である。そして、療養所における優生政策が入所者にもたらした喪失感は歳を重ねるごとに深まってゆくのである。
㈢ 雑居の夫婦舎における生活
療養所では、園内結婚が許されたが、夫婦舎といっても独立の部屋を与えられることはなかった。青松園では、未婚既婚を問わず女性が生活する大部屋に、結婚相手である男性が枕を持って通う「室入り」と称する通い婚がなされていた。夫婦舎がある療養所でも、当初は雑居の夫婦舎であり、何の仕切りもなく布団の端が重なるような状況で、新婚生活を強いられるという人道に反する処遇が採られ、何組かの夫婦が部屋を共有するという本当に惨めな生活を強いられた。
㈣ 自由な性と愛の剝奪
絶滅政策をハンセン病患者の子孫にまで及ぼそうとしたのが、療養所内において子供を産むことを禁止する優生政策、断種・堕胎の強制であり、収容者の性と愛を蹂躪し人間としての尊厳を破壊する国家犯罪である。
これによる被害の特徴は、第一に、収容者の自由な性と愛を極度に制限しただけでなく将来への望みや人間としての誇り、社会性までも奪ったということ、第二に、その損害は優生手術を受けなかった収容者も同様に発生したということ、第三に、その被害が 加齢とともに被害が再認され深刻さを増していくということである。
断種を受けた収容者は、断種を受けたその時点で、一生自分の子供を持つことができない人生が決定付けられる。受け継がれてきた命の流れは、断種を限りに終焉を迎えた。しかも、この無念さは、断種された時点のものだけではない。その者の長い一生の間、常に心に去来し、そして自身の命の終末に近づけば近づくほど現実のものとして感じられていくのである。故郷に帰ることもできず孤独に齢を重ねるほかない療養所において、これもまた、老いとともにより深遠な悲しみとして収容者に迫ってくる。
さらに、被告の行った優生政策、断種・堕胎は、新法が廃止された現在に至っても、園外に頼るべき子供がおらず、断種堕胎の際に受けた屈辱感ゆえに社会内で生きていこうという気持ちが奪われているという点で、原告らから社会復帰の途を奪うという被害をももたらしている。
優生政策のねらいは、すべての収容者に子を持つことを許さず、すべての収容者が死に絶えるのを待つことにあった。そのために、直接的に断種や堕胎によって種の保存を不可能とする方策のみならず、制度として収容者たちに結婚という選択を選ばせないように追い込む方法が採られた。その結果、断種や堕胎をしなかった収容者たちは結婚という選択を奪われ、優生政策は完結した。断種して結婚することと、結婚をあきらめ断種を避け、あるいは身ごもった子供は堕胎されるということとは、いずれも子供を持てない悲しみにおいて同じである。
5 人の労働に対する侵害
すべて収容者は、病状いかんに関わらず、奴隸的拘束ないし意に反する苦役というべき作業が義務付けられた。
療養所は、本来、病気を治療し、患者を再び社会に戻すことを目的とするはずである。療養に専念すべき患者に作業を課すことは療養所本来の目的に真っ向から対立する。ところが、被告は、できるだけ配置される職員の数を抑え、本来療養を必要とするはずの収容者に作業を強制した。
強制された患者作業の種類は、医療を始め生活全般にわたり、重労働や火葬作業も含まれ、実に収容者の九割以上が患者作業に従事させられた。収容時から症状が重篤であった少数の収容者を除く全員が、何らかの作業を強制されており、そこから逃れることはできず、時には、重症の患者や体調の悪い患者も作業を強制された。また、これらの作業の対価は極めて低額であった。
患者作業は、収容者たちの障害を重くし、法が廃止された現在においては社会復帰の大きな妨げとなっている。日本の療養所ほど障害の強い患者はいない。収容者が患者作業によって受けた障害の多くが手足の指先の欠損であるが、これは、日常生活を初め何らかの職業に就くことまでを困難にしたばかりでなく、ハンセン病であるとの典型的な烙印としての機能を社会で有している。後遺症を負った収容者は、退所後の差別・偏見を恐れて退所を断念せざるをえなくなるのである。しかも、このような後遺症に対する補償は一切なされていない。
6 低劣な医療
各療養所における医師・看護婦を始めとする医療スタッフの絶対的不足は顕著であった。そのため、療養所は到底まともな医療施設とはいえなかった。そこでは、本来専門的訓練を受けた医療福祉スタッフがなすべき仕事が、在園者の患者作業によって賄われていた。
また、療養所においては、まずハンセン病本体の治療からして貧しかった。
プロミンを始めとするスルフォン剤が登場し、ハンセン病が治癒する感染症となった後も、患者を主体とした治療行為は行われず、当然に留意すべきらい反応を始めとする副作用に対する処置も不十分だった。また、視力障害等の関連障害に対する医療も極めて貧困であった。
これは、療養所が医療の場ではなく、患者を隔離絶滅させる場であることを主眼とする施設であったことを象徴するものである。
7 今も続く被害
新法が廃止されても、原告らの被害は終わらない。
それは、法が廃止された今も、原告らのほとんどが療養所の外の社会に戻れない現実、法廃止時点で入所者の約二五パーセントが社会復帰の希望を持ちながら社会復帰を現実のものとして考える者がほとんどいないことからも明らかである。
収容隔離によって完全に絶たれた社会との絆、重い後遺症、いつの間にか重ねてしまった齢、戻るべき家族の不在、根強く残る社会の差別・偏見のいずれもが、彼らの社会復帰を阻害している。
四 退所者の被害
1 隔離による社会生活基盤、社会性の剝奪
原告らは等しく、療養所に入所させられる際に、社会内に有したすべての生活基盤、社会との絆を奪われる。社会から隔離された療養所に長期間収容された後においては、その期間が長ければ長い程、社会内には退所者を受け入れる基盤は全く存しなくなり、社会内で生活を行なうことに対して極めて大きなハンデを背負わされる。その上、収容中に断種、堕胎を行われた者については、その将来にわたって社会生活の基盤を奪われているのである。
また、隔離措置による非人間的な対応をされた入所者は、社会性を身につける機会を奪われた。刑務所の職業訓練と比較しても、療養所での職業訓練等がないに等しいといわざるを得ないほどに貧困である。特に、在園者の多くが後遺症を負った身体障害者であることを考えると、一般の職業訓練以上に障害者としての職業訓練まで行われるべきであったところ、現状は全くの放置というほかない。入所者は絶対隔離により社会経験の不足を余儀なくされるのみならず、職業技能の修得の機会をも奪われた。そのことが、退所後社会復帰を著しく困難としたのである。
2 社会内の排除システムの存続
㈠ 社会内差別・偏見の継続、累積
退所者は、社会内において、すさまじいばかりの差別と偏見に直接的にさらされることになる。一たび、療養所の入所歴が明らかになれば、社会はこれを全く受け入れることなく、排除する。そのため、退所者は、社会の片隅で療養所に入所していた経歴をひた隠しにし、いつこれが明らかになるのかという恐怖におびえて生活をしなければならない。退所をしたとはいっても、地域住民の偏見は全く除去されておらず、退所者は、自分の実家に戻ったり、家族からの援助を受けたりすることができない。
㈡ 就業と居住の困難性
⑴ 就業の困難性
新法下では、就職禁止規定は生き続けており、退所者は、ハンセン病患者であったことが発覚すれば、その偏見と差別の故に就職の途を固く閉ざされることになる。また、運良く仕事に就くことができた者も、「らい」患者であったことは隠さなければならず、常に「らい」患者であったことが発覚しないかということを恐れ、びくびくしながら生活することを余儀なくされることになる。
ハンセン病患者の多くが、退所後、貧困に悩まされてきたのは、このような隔離絶滅政策によって助長された社会内差別によるものなのである。
⑵ 居住の困難性
また、被告の啓蒙の不足によって、結節の残存や手指の屈曲等が後遺症にすぎず、感染のおそれを示すものではないということを知る者が、社会の中で少なかった。そのため、退所者は、一般の生活面においても、近隣の地域住民に「らい」患者であったことが発覚するのを防ぐために、後遺症を隠すなど、様々な生活上の制約を余儀なくされた。
3 退所は社会復帰か
㈠ 治療機会の喪失
被告の政策により、ハンセン病の治療が療養所以外でなされるということは考慮されず、ハンセン病患者は外来治療を受ける機会を奪われた。
外来治療をする機関は、一部の機関を除いては社会内に存在せず、退所者は、病気が再発した場合、治療のための薬を得ることすら極めて困難な状況に置かれ、再び療養所への道を選択するか、治療を受けずに放置しておくかのいずれかを選択するしかなかった。退所者は、治療を受けられないことによって、病状を悪化させたり、被らなくてもよい後遺症を受けたりしてしまったこともあるのである。
さらに、退所者は、入所歴が判明すると、ハンセン病以外の治療を受けようとしても、新法をたてに医者に診てもらえず、社会内での生活に非常な困難が伴ったのである。
㈡ 社会復帰支援等の不備・不存在
ハンセン病患者は、退所後、社会内で孤立・無縁の状況で生活しなければならなかったが、被告は、ハンセン病患者の社会復帰のための支援策を、積極的に推進してこなかった。
経済的側面に限ってみても、隔離措置により患者は社会との絆を断ち切られ、社会に復帰する際に何ら頼るところのない社会にいわば放り出されるのである。にもかかわらず、被告は退所に当たって、何らの補償を行わないため、患者は経済的に困窮し、かかる困窮に耐えられなくなり再入所をする者もいた。患者給付金も療養所を退所した患者及び在宅患者には支給されておらず、ハンセン病患者の社会復帰のための予算はほとんど使われていなかった。
㈢ 以上のとおり、退所は、隔離施設からの離脱にすぎず、差別・偏見・迫害に直接的にさらされることを意味し、居住や就業の確保すらおぼつかない状況に置かれるだけでなく、何らの独自の経済的な保障も受けられず、ハンセン病についてのフォローすら社会内で受けられないということになる。自らが療養所に在園していたことを家族にすら秘匿し続けながら、強いられるこのような生活は、いかなる意味においても社会復帰ではありえず、正に絶対隔離絶滅政策による被害を新たに受け続けることを意味するものである。
4 隔離による身体的後遺症及び精神的ダメージによる退所者の被害
㈠ 身体的後遺症による困難性
退所者は、後遺症により、就労できる職種が限定されるのみならず、自分の身の回りの世話を含めて様々な社会生活上の不利益を被った。かかる後遺症は、患者作業によるものである。しかも、その後遺症が、療養所在園者歴を察知されることにつながることを恐れて、外出時に手袋を放せないといった形で、毎日の日常生活をも脅かしているのである。
㈡ 隔離による精神的ダメージ
隔離措置を受けた入所者は、隔離後においても強烈な隔離によって引き起こされた心的外傷を負ったまま、これを回復されることなく生活せざるを得なかった。さらに、人間性を阻害する隔離措置により社会生活を営む能力自体にも影響を与える心理的後遺症が、今もなお隔離を受けた者に継続している。
5 退所後再入所者の数に見る退所後の生活の困難性
国立療養所年報によれば、軽快退所者が昭和四五年以降急激に減少し、これに対し、再入所者の数が年とともに増加し、この一〇年間において、軽快退所者の一・五倍を超える再入所者が認められる。これは、退所者の置かれた状況が、その生存それ自体を脅かす程に過酷であることを示すものである。一見、自発的に見える再入所も、絶対隔離絶滅政策の個人に対する適用・実現の一形態にすぎない。絶対隔離絶滅政策が退所者に保障する自由は、社会内での被害に耐え続けるか、被害の源泉たる隔離施設に戻るかを選択する自由にすぎない。
6 したがって、退所者が絶対隔離絶滅政策による甚大且つ深刻な被害を受け続けたというべきことは明らかであり、退所せず在園し続けた原告、退所後再入所した原告、現時点において退所している原告との間に、被害の軽重はないのである。
五 包括一律請求について
1 原告らは、いわゆる包括一律請求をなすものである。
包括請求の正当性については、スモン薬害訴訟、水俣病訴訟及びカネミ油症訴訟等の判決において認められている。
スモン薬害、水俣病及びカネミ油症における被害と同様、原告らの受けた損害は、極めて多様かつ複合的であって、これら被害が複雑多岐にわたり、かつ相互に影響を及ぼして社会の中で平穏に生活する原告らの権利を奪い、全人格的な破壊をもたらしており、原告らの受けた被害を総体として包括しとらえるのでなければこれを正しくとらえることはできない。原告らは、社会の中で平穏に生活する権利を奪われたことによって日常生活、家庭生活、社会生活ひいては人生に極めて深刻な影響を受けた。正にそのすべてが被害であり、その性質上、個別的に財産的損害として構成することになじみにくいものである。また、その被害も長期間にわたっている。本訴訟で原告らが責任追及の対象としている日本国憲法施行以降でも五〇年以上に及んでいる。このような長期にわたる被害について個別的項目ごとに立証を要求していたのでは迅速な救済に資さないのは明らかである。
したがって、本訴訟においても包括請求が認められるべきである。
2 一律請求の正当性
原告らは、原告らの受けた被害の共通する部分についてその賠償を求めるものである。原告らは、被告のハンセン病患者に対する絶対隔離絶滅政策により各人各様の様々な被害を受け続けてきたが、本訴訟においては、それらのうち、原告らに共通し追及の対象としている ている社会内において平穏に生活する権利を奪われたことによって生じた、健康の破壊、家族関係・家族生活の破壊、社会経済的諸活動の不能による損害について賠償を求めるものである。
3 以上のとおり、原告らの損害は、総体として包括的にとらえられるべきであり、かつ、共通性、等質性を持っているので、包括一律請求が許されるべきである。
六 損害額
1 原告らが受けた被害は計り知れないほど大きい。その損害額を判断するに当たっては、本件加害行為の特質が、国家による犯罪ともいうべき人権蹂躙であるとともに、患者排除システムを構成する形で、加担させられた社会全体の加害責任にもあることにかんがみて、その全体としての加害責任の大きさに照応するものでなければならない。
また、本件の損害額は、冤罪事件における刑事補償や公害薬害事件における損害賠償の基準と同等以上のものでなければならない。
以上からすれば、損害額は、一億円を下ることはないというべきである。
2 本件における弁護士費用は、原告一人につき金一五〇〇万円が相当である。
(被告の主張)
第一 請求原因の整理
一 原告らは、本件において共通損害の賠償を求めているが、この共通損害は共通加害による共通被害に基づくものというのであるから、原告らに対して共通する被害を生じさせた加害行為のみが、共通の加害行為として本件の請求原因となるはずである。
そして、原告らが主張する共通損害は、①ハンセン病の患者集団を対象とした強制・絶対・終生隔離政策及び絶滅政策、あるいは、政策の根拠となる法律によって、右集団に属する患者全員に共通して発生した損害、②原告ら各人に対する個別の監禁ないし準監禁行為により、原告ら全員が共通して被った損害である。
二 ①の共通損害について
①の共通損害については、次の点に留意すべきである。すなわち、(イ) 政策の具体的執行としての原告ら各人に対する個別的違法行為 (措置) に基づく損害は、共通損害とはならないこと、(ロ) 原告らの入所時期、入所期間、入所の事情、入所の有無などの個別的事情は一切共通損害とは関係ないこと、(ハ) 共通損害としては平成七年当時の政策による損害を基準としてよいこと、(ニ) 沖縄振興開発特別措置法によって認められていた外来治療及び退所制度の存在を前提とした政策ないし法に基づく損害であること、(ホ) 原告らの病型や伝染のおそれは損害の内容に関係がないことである。
したがって、①の共通損害は、「沖縄地区において、平成七年当時初めてハンセン病と認定された者が、平成八年の新法廃止までに受けた社会の中での被差別感、劣等感等の損害」と等質の損害ということになり、これを生じさせる性質を有する加害行為である「患者集団に対する政策と法の存在」が右損害との関係で意味のある請求原因ということになる。
三 ②の共通損害について
②の共通損害についてみても、入所時期、入所期間、入所の事情は、各原告によって著しく異なっている上、療養所での処遇は年々改善され、外出制限や退所についても弾力的な行政対応がされていたのであるから、入所期間の長さが同じでも入所時期が違えば、療養所内での処遇が異なるのである。そうすると、②の共通損害とは、結局、入所の時期や期間を問わず、たとえ、わずかな期間であっても、療養所に入所したという事実に基づいて等しく発生する損害ということになるはずである。
原告らの中には、療養所を相当以前に退所している者もおり、療養所から退所を許さないという意味での拘束状態がなかったことは明らかであるから、療養所に入所していることを何らかの意味で拘束状態にあったととらえ、その意味での共通損害があったと評価することはできない。
また、原告らは、社会内の差別・偏見に対する恐怖心のために療養所から出ることができなかった者と、その恐怖心を克服して退所し差別・偏見と闘いながら社会内で生活した者とは、施設内であろうと施設外であろうと、隔離状態が継続し、社会の中で平穏に生活する権利を奪われたという意味では同じであるなどと主張しており、これによれば、原告らの主張する共通損害は、理由は様々であるものの、療養所内で生活せざるを得なかった者が、差別・偏見と闘いながら社会内で生活する者と同様に、社会の中で平穏に生活することができなかった損害ということになる。
したがって、療養所に入所していた者がその期間中、同時期に社会内で暮らしていた者と比べ、監禁類似状態に置かれたことによって、より自由を奪われたということではない。
したがって、②の共通損害は、昭和二二年から平成八年までのある特定の時期にわずかの期間でも療養所に入所した者が被る損害のうち最も軽微なものととらえるべきであり、しかも、その内容は、同時期に社会内で暮らしていた患者と変わらない程度のものということになる。そうすると、①の共通損害と別に②の共通損害を論ずる実益はないというべきである。
四 以上によれば、本件において、原告らの主張する共通損害を惹起させる共通加害行為となり得る請求原因事実は、
ア 厚生大臣は、沖縄地区において、平成七年当時、ハンセン病の新規患者集団に対し、強制・絶対・終生隔離政策、絶滅政策を採っていたこと
イ 国会議員が昭和二八年にその旨を定める法律を制定し、平成八年まで廃止しなかったこと
ウ 厚生大臣は、その旨を定める法律案を内閣を通じて国会に提出したこと
エ 原告らが、昭和二二年から平成八 年までのいずれかの時期において、ハンセン病に罹患した事実があること
オ その当時に、ハンセン病の患者集団に対し、右アと同様の強制・絶対・終生隔離、絶滅政策が採られ、あるいは、その旨を定める法が存在したこと
となるはずである。
第二 厚生大臣の責任について
一 強制・絶対・終生隔離政策、絶滅政策の有無
1 およそ行政は法律に従って行われなければならず、行政庁及びその職員は、関係法律が存する限り、これに従って、政策を策定、遂行する義務を負う。その際、行政庁及びその職員が関係法律を違憲と考えたとしても、当該行政庁及びその職員には法律の違憲審査権はないから、行政庁職員が当該法律に従って政策を施すほかなく、このことが、国家賠償法上違法と評価されることはなく、少なくとも同公務員には故意・過失は存しない。
よって、厚生大臣その他の職員が旧法あるいは新法に従って行った行為については、国家賠償法上の責任が生ずる余地はない。
2 強制収容政策
㈠ 原告らが主張する強制収容は、①物理的強制に限らず、②社会での差別・偏見を恐れて自ら入所した場合や、③在宅での治療ができないため治療目的で入所した場合も含んでいるが、②や③の場合が法的に強制収容といえないことはいうまでもない。また、そもそも、原告らが物理的に入所を強制されたのかは証拠上明らかでなく、社会内の差別・偏見の存在が国の責任に結び付くものでもない。③についても、特殊な疾病を専門の施設で治療する制度が強制入所と評価し得ないことは明らかである。なお、沖縄振興開発特別措置法によって在宅治療が認められていた沖縄地区はもちろんのこと、それ以外でも在宅治療は認められていた。
㈡ 物理的強制入所の有無
共通損害の基準となるべき沖縄地区において、新法制定当初から強制入所の実施については慎重で、物理的強制力は用いておらず、少なくとも昭和四六年以降、物理的強制入所はなかった。
また、新法は、条文上患者を強制的に隔離する原則を採っておらず (六条一項)、原告らが昭和二二年以降に物理的に強制入所せ〔ママ〕れられたという証拠もない。全患協会長で、見直し検討会の委員でもあった高瀬重二郎は、同委員会の中で、実力をもって収容された例があるのは昭和三一年か、昭和三二年ころまでであり、もう少し広い意味での強制も昭和四〇年代ころまでである旨述べており、同委員会座長の大谷に至っては戦後物理的強制を伴う入所はなかった旨の発言をしている。
原告らの陳述書や原告本人尋問の結果等によっても、原告らのほとんどは勧奨に応じなければ強制入所の手続を採ることを告げられた上で入所したのではなく、かえって、療養所まで家族が付き添う場合などは、任意の入所であることが強くうかがわれる。
入所者に対する法廃止前のアンケート (甲五) によっても、回答者のうち、昭和二九年までに入所した者が八五パーセントを占めているにもかかわらず、「強制 (拘束) された」と回答している者は二八パーセントにすぎない。これは、古い時代においてすら、強制されて入所させられたと感じている入所者が少ないことを物語っている。なお、健康上の理由や老後の安定した生活のために自ら希望して再入所した原告は多数いるが、これが強制入所でないことはいうまでもない。
㈢ ハンセン病に対する差別・偏見を恐れての入所
ハンセン病に罹患しても、療養所に一度も入所しない者や、社会復帰して再入所しない者が多数いることからも明らかなとおり、社会に存在する差別・偏見によって、ハンセン病患者が必然的に療養所への入所を余儀なくされるわけではない。なお、宮古地方では、差別・偏見は比較的少なく、宮古南静園が昭和五八年に保険医療機関の指定を受けてからは、更に住民の差別意識や偏見が薄れた。
ハンセン病に対する社会の差別や偏見の根元的な理由は、政策や法の存在にあるのではなく、その身体の外貌や変形にある。右の差別や偏見の存在を国の責任と断定することは不当である。なお、重篤な症状を呈する伝染病の場合、これを予防する法律がなくても、人々は感染を恐れる。
抽象的に差別・偏見が存在するといっても、差別意識や偏見を持つ人がどのくらい存し、どのくらいの患者が被差別感を有していたかは定かでない。ハンセン病患者の減少、特に悲惨な症状を呈する者の著しい減少などによって時代と共に社会の意識も変化し、差別意識や偏見も薄れてきた。被告も、ハンセン病の啓発活動に努めてきたところである。
仮に、法や政策が社会における差別・偏見の形成に何らかの影響を及ぼしたとしても、それがどの程度のものかは容易には確定することはできない。
我が国においては、古来、ハンセン病は遺伝病あるいは天刑病、業病であるなどといわれ、患者やその家族は社会から不当な虐待を受けてきた。ハンセンがらい菌を発見して以来、我が国でも、感染症であることを周知させ、感染を防止すると同時に、従来の迷信を払拭させる必要が生じた。感染予防の観点からやむを得ず採られた隔離政策や隔離を中心とする法の制定は、当時の医学的知見に合致したものであって、殊更、悪意をもって、社会に対しハンセン病への差別・偏見を植え付ける目的で行われたものではない。消毒についても、当時の医学的知見としては物を介しての感染もあるとされていたことから行われていたのであり、その方法も、他の感染症と異なるものではなかったのであるから、右方法が不適当であったとか、殊更に差別・偏見を助長する目的で行われたとはいえない。また、当時の我が国の社会経済状況の下では、ナウル島などで起こったような大流行が絶対に起こらないとはだれも考えておらず、医師自身、厳重に予防服を着用し、現実味をもって自己への感染を考えていたのである。プロミンについても、新法制定当時、これによって感染力を確実に失わせることできるとの知見は確立していなかったのである。
したがって、当時の法に基づく政策によって、ハンセン病患者は隔離されるべき存在であるとの社会認識が生まれ、これにより療養所に入所せざるを得なかった者がいたとしても、旧法存在時及び新法制定当時は正当な医学的知見に基づくものであり、違法かつ不当な行為に基づくものとはいえない。
加えて、新法制定後の医学的知見の発達に伴い、入所しないで治療する患者が次弟に増え、在宅治療が定着してからは、ハンセン病患者は隔離されなければならないとの社会認識はなくなるか、極めて希薄になったのであり、差別・偏見を恐れて入所せざるを得なかったという状況はなかった。
㈣ 外来治療について
外来治療については、沖縄地域はもちろん、それ以外でも、京都大学等や療養所で行われ、特に昭和四〇年代以降、定着していった。外来治療が新法の下でも許されていたことは明らかであって、外来治療が認められていないから療養所に入所せざるを得なかったとの原告らの主張は事実と異なる。現に、外来治療を受けていた原告もいる。また、スルフォン剤単剤治療しか行われていなかった時代においては、治療中に起こるらい反応の管理が極めて困難であり、療養所以外の病院で治療を受けるにせよ、医学的に見て入院治療が必要な場合もあった。特殊な疾病に対し、少数の専門の施設でしか治療を受けられない制度があったとしても、それは医療政策上やむを得ないことであって、これをもって強制入所ということはできない。
3 絶対隔離政策
㈠ 原告らは、絶対隔離を、①感染のおそれ、家庭内療養手段の有無にかかわらず、すべての患者を隔離の対象とすること、②孤島や遠隔地に隔離し、地域社会との人的社会的交流を厳格に遮断することと定義している。
㈡ 伝染のおそれについて
伝染性の有無などにかかわらず、すべての患者を入所させたかどうかについては、原告らの共通損害とは関係なく、請求原因としても意味がない。
なお、「伝染のおそれ」については、その時々の医学的知見に基づき、そのおそれがあって予防上必要がある者に入所勧奨をする建前になっていたが、T型の患者であっても感染のおそれは否定されておらず、新法制定当時にスルフォン剤治療によって確実に感染力を失わせることができるとの知見は確立されていなかった。
㈢ 外出制限と懲戒検束について
療養所に入所することなく、あるいは退所して、一般社会で生活していた患者あるいは元患者は、外出制限や懲戒検束を受けることはないから、これは原告らの共通損害ではない。
なお、新法附帯決議の中に「外出制限、秩序の維持に関する規定については適正慎重を期すこと」が盛り込まれ、これを受けて現実には外出制限をしない運用が図られてきた。無断外出を理由にした罰則の適用例は昭和三三年の一件のみである。また、昭和二八年以降に無断外出による懲戒処分がなされたとの証拠はない。
療養所では、昭和四〇年代から自動車での外出が自由となっており、長島愛生園では、フェリーに自動車を積んで外出していたことまで認められる。高度経済成長期の昭和三〇年代、四〇年代には多くの労務外出者も出ている。さらに、少なくとも昭和五〇年ころ以降、外出について、事前の許可制を採っていた園はない。菊池恵楓園においては、既に昭和三九年には菌陰性者の外出は届出のみでよい旨公的にも扱われており、菌陽性者であっても自由に外出していた入所者もいた (原告四三番)。もっとも、外泊を伴う外出の場合には、形式的に書類上の外出許可の決裁が一部残っていたようであるが、その実態は園にとっての所在確認等のための全くの届出であった。また、施設長としても、無許可の外出に対し刑罰を科し得る条項の存在を知らなかったのであり、右事実のみをもってしても外出制限の可能性が全くなかったことが明らかである。
甲五のアンケートによれば、回答者のうち七一パーセントが、昭和四九年までに自由に園外に出られるようになったと答えている。しかも、右アンケートによると、自由に出られない理由としては、「老齢」、「後遺症」、「差別偏見」が多く、罰則をおそれたとの回答はない。右アンケートの結果は、入所者が、外出について実際上、法的にも何の制限もないと認識していたことを如実に物語っているといえる。
入所者の著述などにも、外出が自由であったことを認めたものが多数ある。
なお、警官等に質問される場合などに備えてあらかじめ外出許可証の交付を受けたことのある入所者もいたようであるが、外出許可証がなければ外出できないというわけではなく、入所者の希望により交付されたにすぎず、右の交付を受けない入所者も多数いた。また、新法を知っている警官がどれだけいたかも疑問であって、右が外出に対する制限となっていたとは考えられない。
さらに、遅くとも昭和五〇年ころ以降は、菌陰性かどうかに関係なく、自由に退所することができた。また、園に籍を置きながら生活の本拠を療養所外に置いていた長期外泊者も相当数いた (原告二一番、二八番、四七番、六一番、六三番、一一六番など)。このような状況は、外出が制限されていなかったことを裏付けている。
以上のとおり、療養所における外出許可は、その実態においては、他の一般の国立療養所の入院患者が外出の際に要するとされる病院の承認以上の意味を持たず、他の一般の国立療養所よりもむしろ外出は自由であった。
㈣ 終生隔離政策
⑴ 原告らは、患者を療避所に隔離して終生退所させない政策を「終生隔離政策」と称しているものと思われる。
⑵ しかしながら、療養所では、大正二年から正式に退所者が出ており、沖縄愛楽園では、昭和二八年以前に退所基準を策定しており沖縄では、これまでの全入所者の実に約六割が退所している現実がある。
また、沖縄以外でも、入所者自身の調査によれば約七〇〇〇人が社会復帰したとされている。
新法及び旧法には退所の規定がなかったが、退所規定の不存在は、国が入所者を退所させない政策を採っていたことを意味しない。旧法及び新法に関する国会での政府答弁では、いずれも、治癒の場合の退所を当然のことと説明しているし、また、新法は「治ゆ」について定め (四条)、社会復帰を前提とした更生指導の規定を置いている (一三条)。実際にも、各療養所で、自動車運転免許講習等更生指導の実績があったほか、結核療養所等にはない社会復帰援助事業が行われ、退所者には支援金が給付されてきた。新法附帯決議中にも退所を前提とした事項がある。また、各療養所の管理者も、退所規定がないことが退所の障害となるとは全く考えていなかった。昭和三一年に作成された軽快退所暫定準則案は療養所長を拘束するものではなく、同準則案の希望事項等も、入所者の生活を保護するためのものだった可能性すらある。
入所者の中には、治癒しても後遺症その他の理由から園にとどまりたいと考えている者も多く、それらの者は療養所による強制退所を恐れる状況にあったのであり、療養所としても入所者が望まない退所を強引に押し進めることはしてこなかった。なお、昭和三二年の国立療養所入所規程七条が、退所命令の対象からハンセン病患者を除いているのも、患者の意思に反する退所命令をしないとの趣旨のものである。
原告らは、右準則案の非周知性を理由に、退所ができることを入所者は知らなかった旨主張するが、全患協ニュースにも掲載され、さらに、多くの軽快退所者が出ていた事実によれば、入所者が軽快退所できることを知らなかったなどとは考えられない。また、法的に退所できるかどうかは入所者の大きな関心事であるところ、軽快退所はもちろんいわゆる自己退所においても療養所側がこれを制限しなかったため、実際に多くの退所者がいたのであって、これを目の当たりにした入所者が法的に退所できることを知らなかったなどとは考えられない。
軽快退所の可否は、療養所長が自由に裁量で決め得るものではない。その時々の医学的知見にのっとった治癒の判断が要請されたのであって、客観的知見に照らし治癒していると認められるのに退所させない処分があった場合には、入所者がこれを法的に争うことができるのは当然である。そして、治癒の判定基準に合致しない場合でも、入所者が望めば自らの意思で自由に退所できた。これは療養所も正式に承認する退所であって、逃走などと位置付けられるものではなく、当然ながら遅くとも新法施行後、自己退所者に対し刑罰や懲戒処分が なされた事実は一切ない。
原告らの中には、軽快退所したいとの申出をしたにもかかわらず、療養所がこれを認めなかったために退所できなかったという趣旨の供述をする者がある。しかし、これは、退所の不許可を意味するものではない。療養所側が、当該入所者の病状や退所後の生活の見通し等も考えて、本人のために退所を思いとどまってはどうかとの助言をすることかあり得るが、これは、あくまで助言にすぎず、退所を希望する者を療養所が押しとどめることなどはあり得ない。実際に助言に従わずに自己退所をした例もある。
また、原告らの中には手続上退所はしていないけれども、生活の本拠は療養所外にあるという長期外泊者もいたが、これらの者は、患者給与金や医療等の提供を受けるなど、入所者であるという地位に伴う利益を受けることを自ら選択しているのであるから、これらの者を退所させなかったことによる損害はあり得ない。また、極めて特殊な形態として、結婚して療養所外に生活の本拠を持ちながら、療養所内の自耕地の耕作や食事、患者給与金等の各種給付を得るために、その生活の本拠と療養所を頻回に行き来していた者もいる (原告四七番)。療養所は、このような入所者の極めて変則的な生活形態を知りながら、黙認していたのである。
社会内に差別・偏見が存在することを恐れ、あるいは、いったん療養所に入所したことによる烙印付けによって療養所から離れられなくなってしまうとの原告らの主張は、多くの社会復帰者が存在する事実に照らせば、全く理由がない。
原告らは、入所者の入所期間が長いことを終生隔離政策が採られていたことの根拠とするようであるが、多くの退所者がいるという現実を見ないのは論外である。他方、現在のほとんどの入所者の入所期間が長期に及んでいるのは、後遺症を残したことに起因するところが大きい。顔面、四肢の変形等を含む後遺症が重い等の理由で社会復帰できない人が相当数いることは事実であるが、このことは終生隔離とは関係がない。このような者が後遺症の治療あるいは介護を受けるために退所することができず、安心して暮らすたにめに入所の継続を選択せざるを得なかったとしても、これは事実上退所ができなかったというものであり、国によって強制的に隔離され続けていたわけではなく、法的に自らの意思で入所を継続していたものと評価されるべきものである。入所者が現に受けている給与金や現実の介護などの処遇を失うことを恐れて退所しないのは、隔離政策を採っているのと同じであるとの原告らの主張は、法的には何の理由もない。
原告らは、入所による家族や故郷の喪失が退所できない理由であると主張するが、仮にそのような入所者がいたとしても、右は共通損害ではなく、また、家族との堅い絆を持っている原告も数多くいる。
また、求職の困難性については、後遺症によって自活できるだけの労働ができない入所者が非常に多いことが大きな要因である。しかし、後遺症は、疾病自体によるものであって、国の政策や法律の存在とは関係がない。なお、退所を希望する者に対しては、就労助成金を支給する制度等があったほか、療養所としても、社会復帰を希望する者に対して、ケースワーカーを通じて職業紹介をするなど、可能な援助はしていた。
就業禁止は、接客業など政令に定めた特定の職業について、都道県知事が、伝染のおそれがあると認めた場合に限りされるものであり、実際上、禁止された実例は資料として残っておらず、原告らも就業禁止処分を受けたとの主張をしていない。
㈤ 絶滅政策
⑴ 原告らは、絶滅政策を、患者を隔離して死に絶えるのを待つ政策と主張するようであるが、これが、被告が積極的に適切な医療をしないで患者を死なせようとの政策的意図を有し、また、患者作業で傷害を与えて死なせようとの意図を有していたとの趣旨であれば荒唐無稽である。
被告としては、退所を自由に認めつつ、入所者が望む限り、療養所に居続けることを認め、そこで天寿を全うしてもらうべく福祉的施策を講じてきたのであって、患者の絶滅を期待する政策などでない。
⑵ 断種堕胎
甲五のアンケート結果を見ても、断種や堕胎をした者は、回答者の約四割にすぎない。
原告らの陳述書によれば、結婚する際になされた断種あるいは堕胎の時期は、遅くとも昭和三〇年代後半までであり、少なくとも昭和二三年に優生保護法が制定されて以降は、同法に基づき原告らの同意の下に優生手術が行われていた。
原告らは、自らは断種又は堕胎を受けたわけではないが、療養所では子供は持てない、あるいはハンセン病患者は子供は持てないと考えていた者もおり、これらの者についても、政策として優生政策が採られたことによる被害を受けていると主張している。
しかしながら、一般に国立療養所において入所者同士が結婚し子供を持てないのは当然のことであり、その反面、退所すれば子供を持つことに何らの制限もないし、もとより、在宅患者は断種手術などだれからも要請されることもない。してみると、療養所では子供は持てないとか、ハンセン病患者は子供は持てないと考えていたという問題は、入所者に退所の自由があったのかどうかの問題であって、これを優生政策と結び付けるのは、明らかな論理の飛躍である。まして、原告らの中には退所するしないにかかわらず、子供をもうけた原告が多数存在するところ (原告一〇番、二二番、二三番、二四番、二八番、二九番、三〇番、三一番、三七番、四一番、四二番、四七番、五七番、六二番、六五番、一一五番)、原告らはこれらの者についても自らが断種堕胎を受けたのと等しい共通損害があると主張しているのであり、右のような原告らの主張は理解不能というほかない。なお、奄美和光園のように、入所者が子供を持つこと自体を格別制限していなかった園もあった。
⑶ 医療水準・生活水準
療養所の性質・機能は、時代とともにハンセン病本病の治療から、後遺症の治療や一般の成人病,高齢者医療に移行し、福祉施設ないし介護施設としての側面が強調されるようになっていった。すなわち、化学療法の進歩に伴って、菌の陰性者が年々増加したが、他方で、プロミンやDDS等の治療によって、L型の患者の約六割にらい反応と呼ばれる特殊な免疫反応による急激な炎症性変化 (ENL反応) が生じた。また、DDSの投与によっても症状の改善の見られない難治性患者や再発者も少なからず存在するようになった。その後、B群反応というらい反応が注目され、同様にその管理が困難となった。らい反応は、急激な炎症性変化であるため、患者にとって非常に苦痛を伴うばかりか、高い確率で患者の身体に変形等の深刻な後遺症を残した。患者にらい反応が発症した場合には、DDS等の投与を中止するほかなく、中止によって耐性菌を作り、菌が陰性とならない患者が出たりして、昭和三〇年代以降、多剤併用療法が確立されるまで、らい反応をどのように克服するかということがハンセン病の治療に当たっての極めて深刻かつ重要な課題となった。
これらの状況の中で、後遺症を残さなかった軽症者は次々に社会復帰し、その結果、療養所には、菌は陰性になっても後遺症の重い者、化学療法の恩恵を受ける以前に入所し既に後遺症を有していた高齢者などが残ることになり、一般の成人病に罹患する者も多くなった。このような入所者をめぐる状況の変化 (高齢化、菌陰性者の増加、成人病の増加) に伴い、全患協の医療に関する要求も、これら一般疾患に対する治療体制の充実に重点がおかれることとなり、療養所における医療の課題の中心は、ハンセン病本病に対する治療から、成人病を始めとする一般疾患の治療へと変化を余儀なくされた。
その結果、療養所の予算額は、年々入所者が減少しているにもかかわらず増額しており、特に昭和四〇年代後半以降は顕著な伸びを示している。これは入所者の居住環境の改善や医療内容の向上に対応したものである。特に、高齢者、視覚障害者、身体障害者のためのいわゆる三対策経費については、昭和五九年ころから拡大され、入所者の高齢化及び障害の重篤化に対応する手厚い措置が採られてきた。職員数についても入所者の減少にもかかわらず増員を行い、入所者へのきめ細かな対応を行ってきた。さらに、療養所施設の改築、集会場の設置など、入所者の生活状況や福祉的な措置の改善を推進するとともに、昭和四八年には患者給与金の水準を障害基礎年金一級と同額にするなどして大幅に引き上げ、入所者の経済的条件も改善された。医療面でも、昭和五四年には治療センターが療養所に次々と設置され、人工透析機が設置されるなど、当時としては先進的な医療機器を備えた。また、成人病対策として、保健活動等の予防的医療活動や、長期療養型病棟など、ハンセン病の治療施設というよりは、ハンセン病による後遺症を持ちながら高齢化してきた入所者の生活の場というの にふさわしい医療体制が整備されていった。
なお、療養所における医師看護婦数を評価する場合、これを入所者全体の数と比較すべきではなく、病棟入院者と医師看護婦数の比較を基本として、これに治療棟への外来数を加味して評価すべきである。また、療養所内の医療水準は、自己完結的にとらえるべきではなく、委託治療体制も含めて評価されるべきである。このようにして評価した場合の療養所の医師看護婦数は、少なくとも昭和五〇年代以降、一般医療機関と比べて何ら遜色ないものであった。
以上によれば、遅くとも昭和四〇年代以降、療養所の医療水準や生活水準は決して低劣なものではなく、また、不十分なものでもない。原告らの陳述書や供述の中には、戦前戦後の混乱期における食生活、住環境の不十分さを指摘するものがあるが、当時の状況からして、療養所だけが他に比して劣悪な状況にあつたのではない。
㈣ 患者作業
患者作業は、療養所の人員が不足していた時代においては、同病者が相互扶助するという精神の下、患者ができる範囲で所内の作業をすることになったのは当時の情勢下ではやむを得ないことであった。することのない入所者あるいは若い活力を持て余す軽症者などはこれを歓迎し、また、作業によって、作業賃の給付が受けられるのは入所者にとってもメリットであった。患者自治会が、療養所との間で、どのような作業を入所者側で受け持つかを決定し、かつ、作業管理権を持ち、具体的な作業の差配は自治会がすることになった。もちろん作業は強制ではなく、これを拒否しても何の不利益もなかった。その後、患者給与金の増額や入所者の高齢化などによって、作業返還が順次行われた。
原告らあるいは入所者の中には、全く作業経験のない者が多数存在する以上 (原告二六番、四二、一〇六、一二六番等)、患者作業による何らかの被害が共通損害となるわけではない。
原告らは、患者作業は強制であった旨主張するが、その趣旨は自分たちが働かなければ園が立ち行かなかったという意味であって、懲戒等の強制力をもって作業をさせられたというものではない。また、遅くとも昭和四〇年代後半には、不自由者介護等入所者にとって負担となるような作業はほぼ職員が行うようになっており、患者作業は、入所者の慰安作業という性格のものになっていた。
㈥ まとめ
以上のとおりであって、遅くとも昭和五三年以降において、現実の政策としては、強制・絶対・終生隔離政策、絶滅政策が採られていなかったことは明らかであり、原告らには何らの損害もない。行政としては、新法中の隔離条項を適用しない政策を行う一方、形式的に存在する右条項等を用いて入所者の手厚い福祉的措置を採ってきたものであり、この政策は入所者によって支持されてきた。感染のおそれのなくなった元患者に対しては、本来、新法に基づく福祉的措置は採れないのであって、法廃止は現実的に処遇の打ち切りにつながると考 えるのは当然の論理であり、関係者の当然の認識であった。そこで、法廃止後の処遇の維持の理論的根拠が明確にならない段階において、入所者を含め、関係者が手厚い福祉的措置を講ずる根拠として、形式的にせよ隔離条項を擁する新法を使わざるを得ないと考えたのである。
二 法案提出について
1 昭和二八年に新法の法案を立案し内閣を通じて国会に提出したことの違法性について
後述のとおり、昭和二八年の法律の制定に違法性がない以上、法案提出に国家賠償法上の違法が認められることはない。
2 平成八年まで新法及び優生保護法のらい条項の廃止法案を提出しなかったことについて
内閣法五条は内閣の法律案提出権を認めているが、憲法上は、内閣を法の執行機関として位置付けており (憲法七三条一号、四号)、立法の補助機関としているわけではない。このような点からみると、現行法体系では、内閣に対し、積極的に法律案の提出が義務付けられているものではなく、仮に違憲の法律がある場合であっても、内閣は当然に改正法案提出義務を負うものではなく、その解消はあくまでも国会の役割とされているとうい〔ママ〕べきである。
そして、立法について固有の権限を有する国会の立法不作為が国家賠償法上違法とならない場合には、内閣の法律案提出権の不行使について国家賠償法一条一項の適用上これを違法と評価する余地はない (最高裁昭和六二年六月二六曰第二小法廷判決・訟務月報三四巻一号二五頁参照)。
国会議員の立法不作為が国家賠償法上違法とならないことは後述のとおりであるから、内閣・厚生省についても、これらに関する法律案不提出が国家賠償法一条一項の適用上違法と評価される余地はないというべきである。
三 ハンセン病患者・元患者に対する人権侵害を除去し、人権を回復する措置 (法案策定、提出を含む。) を採らなかったことについて
1 法案不提出に基づく責任
右二で述べたとおり、この責任はない。
2 国家賠償法施行前の公務員の行為についての義務
原告らの主張が、国家賠償法施行前に被告においてハンセン病患者、元患者に対し「社会的烙印」を押すという先行的不法行為を行ったのであるからその結果としての被害を回復すべき義務、差別・偏見を除去すべき義務があるというのであれば、かかる主張は失当である。
なぜならば、右主張を認めることは、国家賠償法施行前の行為に基づく損害について国家責任を認めるに等しく、国家賠償法附則六項の規定するところとは相いれないからである。
なお、ハンセン病に対する社会の差別・偏見は、国家賠償法施行前に既に形成されていたものであり、その後の厚生大臣及び国会の行為によって差別、偏見が増強されたということはない。
3 国家賠償法施行後の公務員の行為についての義務
公務員が、ハンセン病患者・元患者に対して、その人権を侵害し、被害を与えていたとすれば、右被害を除去、回復する措置を採ることは、すなわち、原状を回復し、損害を塡補することにほかならない。そして、右義務があるかどうかは、先の賠償義務があるかどうかに係ることになるので、これを独立して論ずる意味はない。
また、原告らの主張が差別・偏見に基づく人権侵害を回復する義務をいうものだとすれば、右主張は失当である。すなわち国家賠償法一条一項における違法とは、公務員が個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違背することをいうところ、ハンセン病に対する社会の差別・偏見を除去する厚生大臣の責務は、個別の国民に対して負う法的義務ではなく、厚生省設置法に基づき、公衆衛生上の施策の一つとして負担する抽象的一般的なものにすぎない。厚生大臣は、右法律に基づいて、その時々の財政、社会状況、政策課題等に基づいた公衆衛生上の施策を行う権限を有するにすぎず、しかも、その権限行使の際には極めて広範な裁量が認められているものであって、その政策の立案、実施に関連して前記の個別の国民に対する法的義務を負うことはないのである。
第三 国会議員の責任について
一 原告らの請求の根拠は、要するに、国会議員は、旧法の存置、新法、優生保護法の制定あるいは存置により、患者及び国民一般の間に原告を含むハンセン病患者集団に対する差別意識や偏見を形成せしめ、これにより、ハンセン病患者集団に共通損害を発生させたというものである。
しかしながら、まず、社会に存在するハンセン病に対する差別意識や偏見は、国の立法によって形成されたものではない。
ところで、新法廃止までの経過を見ると、時代とともに現実にひどい症状の患者や伝染性のあるハンセン病患者が減少し、存在しなくなっていき、これによりハンセン病患者を見たことも聞いたこともない人々が増加し、さらにはそれがほとんどとなり、人々の差別意識や偏見が少なくなり、なくなっていった。右のような状況は、新法の隔離条項の適用例が少なくなり、さらにはなくなっていつたことを意味し、一般人は、法の具体的適用を見ることもなくなり、これによる差別意識や偏見を抱くことはなくなった。そして、現実に新法の存在及び内容について知っている者は、ごく一部に限られるようになったのである。新法が存続し続けるそのこと自体によって、差別・偏見が形成され、助長され続けたというのは一種の観念論であって、何らの裏付けもない。何らかの理由で、新法の条文を読んだ者が何らかの誤解をしたとしても、極めてまれな例外的事例であり、これも通常はすぐに誤解が解けるものである。これをもって、法が差別や偏見を次々と作り出していったかのように評価をすることはできないことはいうまでもない。
二 仮に、法の存在そのものによって原告らに何らかの被害があったとしても、直ちに、国会議員の行為による国家賠償法上の責任が生ずるわけではない。
国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきであって、国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法一条一項の規定の適用上、違法の評価を受けるものではない (前記最高裁昭和六〇年一一月二一日第一小法廷判決参照)。
三 昭和二二年から昭和二八年まで旧法を廃止しなかった不作為及び昭和二八年新法制定行為の違法性
新法制定当時の日本におけるハンセン病に関する医学的知見、社会的認識からすれば、伝染病予防の見地から、伝染のおそれのあるハンセン病患者に対し一定の自由の制限を課し、その代わり療養費や家族に対する生活費の支給をする等の福祉的措置を講ずることを主な内容とする旧法及び新法は、その内容において合理性を有し、憲法にも適合していた。なお、WHOの勧告等が念頭に置いている地域と日本とではハンセン病患者をとりまく客観的条件が全く異なり、また、当時、プロミン、DDSによって完全に感染性を失わせることができる旨の知見は確立していなかった。少なくとも、旧法及び新法の内容が一義的に憲法の条文に違反していることが当時の国会議員にとって明らかであったとはいえない。
四 昭和二八年以降平成八年まで新法を廃止しなかった不作為の違法性
1 医学専門家からの意見がなかったこと
公衆衛生立法については、医学専門家による医学的知見が極めて重要であり、右専門家から新法に定める予防対策は医学的根拠を欠くに至った旨の知見の表明がない場合には、国会議員にとって当該条文が一義的に憲法に違反しているかどうかを判断することは極めて困難である。日本らい学会等のハンセン病に関する専門家が、予防措置は不要であるとして医学的知見に基づく政策変更の提言をしたのは平成七年のことであるから、それ以前に、国会議員が法廃止の必要性を判断できなかったとしてもやむを得ない。
2 医学的知見の変遷と法律の適用可能
治療薬の改善発達や社会経済状態の発達によって、ハンセン病を伝染させるおそれがあり、らい予防上入所を勧める必要のある患者 (新法六条一項) が減少した。また、社会経済状態の発達に伴い新規患者がほとんど発生しなくなった。
そこで、新法六条一項の要件を具備する患者がほとんどいなくなり、同項は対象者がいないという理由で適用されない状態と伝染のおそれがあり、予防上隔離の必要のあるハンセン病患者がいなくなった状況の下では、新法六条は適用の余地がなくなるわけであるから、適用の余地のない条文がいくら存在したとしても、一義的に憲法の条文に明白に違反するとはいえず、また、そのことがハンセン病患者の人権を侵害しているともいえない。したがって、右のような条文を廃止しなかった国会議員の行為が、国家賠償法上違法となることはな従業禁止 (七条) や汚染場所の消毒 (八条)、物件の消毒 (九条)、物件の移転の制限規定 (一八条) の規定についても、適用する場面がなくなってきたことは同様である。
また、外出制限の対象は、「入所患者」であるが (一五条一項)、新法六条の規定 からすれば、ハンセン病が治癒し他人への感染のおそれのなくなった者は、本来同法一五条にいう「入所患者」ではない。したがって、これらの者は、この規定による外出制限を受けることがなく、同条は理論的には適用の余地がなくなっていた。
しかし、現に療養所に入所している事実があるのに、新法の「入所患者」に全く当たらないというのは、入所者の福祉、介護等の根拠として新法を利用している関係上困難であった。そこで、一応、形式的には入所者を「入所患者」に含めた上、全く法的に外出を制限しない運用をすることにしていた。このことは入所者にとっても周知の事実であった。これらの事実は、法的にみれば、療養所側が、すべての入所者に対し、新法一五条一項一号の外出許可事由があり、かつ、らい予防上重大な支障を来すおそれがないとして、事前に包括的に外出を認める体制を採っていたと評価すべきものである。
したがって、新法一五条は、本来、適用の余地がなくなっており、形式的に適用されても、全く外出を制限しないものとして運用されていたのであるから、国会議員が法廃止をしなかったことにつき、国家賠償法上の違法があるとはいえない。
同様に、懲戒処分を科し得る規定があること自体が、憲法の条文に一義的に違反していることが明白であるとはいえない。
優生保護法のらい条項についても、制定当時の医学的知見に反しておらず、また、被施術者の同意を絶対的条件になっていたのであり、憲法の条文に一義的に違反しているとはいえない。
3 新法の存在意義について
療養所は、菌陰性者の増加等に伴い、専ら福祉施設及びハンセン病本病以外の医療施設、介護施設となり、予防のための隔離施設としての意味合いは著しく後退し、なくなった。右の療養所の実体の変遷を踏まえ、新法を廃止し、福祉施設等としての療養所の根拠法を新たに制定することも理論的には考えられた。しかし、隔離措置を置く法を廃止することあるいは隔離措置のみを削除することは、療養所を生活の場、福祉や介護のよりどころとする入所者にとっての隔離措置の代償としての療養を失いかねない死活問題であり、入所者団体も、新法の廃止後も入所者の処遇の維持をなし得るとの保証がない限り、右厚遇の根拠となっている新法の廃止に消極的であった。入所者には、予防のための隔離をする必要のないハンセン病の元患者が、他の福祉施設の入所者よりも厚遇されることについて国民の理解と支持が得られるかという不安が常にあり、右の保証が得られるまで、新法 (特に隔離条項) を存続させることに積極的意義があった。そして、これは、厚生省を始め、関係者の共通の認識であった。その後も、入所者の減少、新規患者の減少などに伴って、ハンセン病予防対策の施策としての重要度の低下などがあったため、新法に関する議論がされることもなく、右の入所者に対する厚遇の根拠・理論付けや、これを正当化する国民的コンセンサスが調うことはなかった。
他方、遅くとも昭和五三年以降、入所者に対する関係では新法の人権制約的規定は適用の余地がないか、存在しないに等しい運用が政策的に実施されていた。また、法の存在によって、ハンセン病が予防措置の必要な病であるとの誤解を生ずる可能性も観念的には考えられたが、ハンセン病患者が著しく減少し、また、ほとんどの人が法の存在を知らない状況の下では、新法の存続自体による具体的な実害があるとは関係者に認識されていなかった。
ところで、新法廃止とともに、それまでの入所者の処遇の水準を維持することを保障した法律を制定することは、社会福祉立法をすることになる。社会福祉立法は、その時々の財政状況、社会状況、他の疾病に対する施策との均衡等の様々な事項を総合的に考慮しなければならない問題であって、高度の立法裁量の問題と不可分である。なお、新法を存続させながら、隔離条項のみを削除する内容の法改正は、自由の制限という予防法としての本質を失わせ、このような制限規定があるがために特段の各種福祉的措置を採り得るという新法の建前を崩すことになるから、法廃止とともに社会福祉立法をするのと同様の結果をもたらすことになる。
法の存在による利害得失を総合考慮すると、国会議員が、本来、高度の立法裁量事項であり、右の福祉立法の議論を必然的に伴う新法の廃止をしなかつたからといって、国家賠償法上の違法性があるということにはならない。
4 旧法及び新法等による損害を塡補し、差別、偏見を一掃する立法義務違反について
旧法及び新法等による損害が生じていないのは前述のとおりである。仮に、損害が生じていたとしても、国会議員には右損害を立法をもって塡補しなければならない国家賠償法上の義務はない。また、国会議員に、個々の国民に対する国家賠償法上の義務として差別、偏見除去義務がないのは、行政について述べたところと同様である。
第二節 除斥期間について
(被告の主張)
国家賠償請求権については、国家賠償法四条により、民法七二四条が適用されるところ、同条後段は、不法行為をめぐる法律関係を一定期間の経過によって画一的に確定させるため、不法行為によって発生した損害賠償請求権の除斥期間を定めたものと解するのが相当である (最高裁平成元年一二月二一日第一小法廷判決・民集四三巻一二号二二〇九頁)。
そうすると、原告らが本件訴えを提起した時点 (原告一番から一三番については平成一〇年七月三一日、同一四番から三一番については同年九月ニ九日、同三二番から四五番については同年一二月八日、同四六番から一二七番については平成一一年三月二九日) から二〇年前の日 (原告一番から一三番については昭和五三年七月三〇日、同一四番から三一番については同年九月二八日、同三二番から四五番については同年一二月七日、同四六番から一二七番については昭和五四年三月二八日) 以前の行為を理由とした国家賠償請求権が仮に発生していたとしても、民法七二四条後段により消減している。
(原告らの主張)
第一 除斥期間の起算点について
一 本件の加害行為は、国家賠償法施行前から新法廃止まで、被告によって行われた一連一体のハンセン病政策の策定・遂行である。この加害行為は、継続性を有する不法行為であることはもちろんのこと、ハンセン病患者の根絶という一貫した政策目的の下に、新法を統一的な法的根拠として、収容施設への隔離による社会との隔絶という監禁ないし不法抑留類似行為を主たる柱として行われてきたという意味において、一体性を有するということができる。
このような継続的かつ一体的な不法行為における民法七二四条後段の期間の起算点については、加害行為終了時と解すべきである。これまでの裁判例を見ても、例えば、クロム労災訴訟につき東京地裁昭和五六年九月二八日判決が同様に解しているほか、関西水俣病訴訟大阪地裁平成六年七月一一日判決も、加害行為終了時を除斥期間の起算点である「不法行為ノ時」と事実上推定する旨判示している。
本件における加害行為の終了は、新法が廃止された平成八年四月一日以降であるから、この時点が起算点となるのである。
二 また、本件における原告らの損害は、違憲の法律と強制隔離政策によって、 半世紀を超えて不法に施設内に抑留 (隔離) され、あるいは社会内にあって、排除され続けたというものであり、人間生活全般における自由一切を剝奪された包括的損害である。そして、これは、継続的な不法行為によって、継続的に侵害され続けた損害であるとともに、長期間にわたって進行的に発生,拡大する累積性・進行性損害である。
このような継続的・累積・拡大損害がみられる不法行為にあっては、除斥期間の起算点は損害発生時と解すべきであり、本件において少なくとも新法が廃止されるまで損害を確定することが困難であったという特殊性にかんがみれば、起算点は新法廃止時以降とすべきである。これまでの裁判例を見ても、前記クロム労災訴訟判決や宮崎地裁延岡支部昭和五八年三月二三日判決が、鉱業法一一五条を参照した上で、損害の進行が止んだときが全損害についての起算点であるとしている。
なお、被告は、不動産の不法占拠や騒音被害についての短期消滅時効に関する裁判例を挙げるが、これらは、侵害期間に応じて損害が定量的に発生していく事案に関するものであって、本件とは事案を異にするというべきである。
三 したがって、本件の除斥期間の起算点は、新法廃止時以降であり、除斥期間はいまだ経過していないというべきである。
第二 除斥期間の適用排除論について
一 正義・公平の理念による除斥期間の適用排除について
民法七二四条後段が除斥期間を定めたものであるとしても、不法行為における正義・公平の理念により、その適用が排除されるべき場合があるというべきである。最高裁平成一〇年六月一二日第二小法廷判決 (民集五二巻四号一〇八七頁) も、このことを認めている。
この点、原告らは、新法によって終身隔離を余儀なくされ、同法一五条、二八条により著しく外出を制限され、提訴するために弁護士を訪ねたり裁判所に出頭したりすることが法的に許されていなかった。また、原告らは、実際上も、右法律の規定以上に、ハンセン病に対する差別と偏見により社会との交流を事実上全面的に絶たざるを得ない状況に置かれていた。
しかも、原告らは、例外なく、自ら及び家族への差別・迫害を恐れて療養所入所の事実を秘匿して生活し続けることを余儀なくされてきた。そのため、原告らの大半は、療養所への入所に際して偽名 (園名) を使用することを事実上強制されている。そうした原告らにとって、新法を違憲であるとして訴訟を提起することは、自らが入所者あるいは元入所者であることを世間に公表するに等しく、到底実行不可能であった。原告らにとっては、原告番号による匿名裁判が可能であることが明らかになったこと及び新法の廃止によってその誤りが明白となりかつ法的にも外出制限が撤廃されるに至ったことによつて、初めて本件訴訟の提起が可能になったのである。
さらに、原告らは新法存続下においては、療養所に在園する間、生活すべてが療養所長の管理下に置かれていたのであり、隔離の実態を違憲・違法として提訴することは、療養所において報復を受けることを覚悟しなければできなかった。国民健康保険の対象外とされ、療養所以外で医療を受けることが事実上不可能であった原告らにとって、その報復あるいは不利益取扱いの持つ意味の深刻さは計り知れず、帰るべき故郷を奪われている原告らにとって退所命令等がなされることによる生活の破旋は致命的ですらある。このような療養所と在園者との関係からすれば、原告らが提訴するなどということは事実上不可能であった。
結局、廃止法の施行により、絶対隔離政策から解放され、療養所内の処遇の維持継続が立法によって明確に保障されたことにより、初めて原告らの権利行使が可能となったのであり、原告らの権利行使が不可能であった状況が被告の加害行為によって生じたものであることは明らかである。
以上からすれば、民法一五八条の類推適用又は正義・公平の理念によって、除斥期間による権利消滅の効力は生じないというべきである。
二 信義則違反・権利濫用と公序良俗違反
被告は、前記最高裁平成元年一二月二一日第一小法廷判決は、民法七二四条後段の規定を除斥期間とした上で、裁判所は、当事者の主張がなくとも期間の経過により請求権が消滅したものと判断すべきであり、信義則違反又は権利濫用の主張は主張自体失当であるとしている。
しかしながら、信義則違反・権利濫用の法理は、適用の次元のみならず解釈の次元においても用いられるべきものであり、解釈の次元において信義則違反・権利濫用の法理を用いることは、右判決によって妨げられるものではない。むしろ、裁判所が解釈の次元で信義則違反・権利濫用の法理を利用できるのに本件の実情を踏まえないで除斥期間の適用をすることは、公序良俗違反になるというべきである。
この点、原告らの受けた被害は全人格の否定ともいうべき極めて重大なものであり、除斥期間の適用による不利益もまた極めて重大であるところ、原告らには、右不利益を与えてもやむを得ないような事情はない。一方、被告が原告らの権利不行使に対する帰責性を有していること、被告による加害行為の悪質性等からすれば、被告には除斥期間制度によって保護されるべき適格がないというべきである。
したがって、本件において除斥期間により原告らの権利消滅を認めることは信義則違反・権利濫用の法理に照らし、許されないというべきである。
三 なお、原告らは、本来的には、民法七二四条後段は除斥期間ではなく長期消滅時効を定めた規定であると解するものであり、これによれば、被告からの時効の援用がない本件では、本条の適用はないことになり、仮に援用がなされたとしても、以上に述べた法理は一層妥当するというべきである。
(被告の主な反論)
第一 除斥期間の起算点について
原告らが主張する損害賠償請求権は、強制隔離政策の継続並びに旧法及び新法の存続により、その期間に応じて、継続的に発生する性質を有するものであり、騒音被害や土地の不法占拠による損害賠償請求権と同じ性質を有するものであるから、これらの場合と同様に、損害が発生するたびごとに除斥期間が進行すると解すべきである (土地の不法占拠について大審院昭和一五年一二月一四日判決・民集一九巻二三二五頁、嘉手納基地訴訟に関する那覇地裁沖縄支部平成六年二月ニ四日判決、その控訴審である福岡高裁那覇支部平成一〇年五月二二日判決等参照)。
原告らは、クロム労災訴訟判決を挙げるが、右判決は、民法七二四条後段の趣旨を時効と解している点において既に失当である上、右判決の事案は進行性の被害に関するものであって、本件とは事案を異にする。また、原告らは、関西水俣病訴訟大阪地裁判決を挙げるが、右判決は、客観的に不法行為の要件を充足したときが除斥期間の起算点であるとした上、事実認定の問題として、加害行為終了時を「不法行為ノ時」と事実上推定したにすぎず、継続的不法行為の除斥期間につき、一般的に継続する加害行為の終了時が起算点となると判断したものではない。
原告らは、長期間にわたって進行的に発生・拡大する累積性・進行性損害であることを理由として、法の廃止時をもって除斥期間の起算点と解するべきである旨主張しているが、原告らが主張する損害は、日々新たに発生するとともに、その時点における被害内容の把握が可能であって、損害発生の原因となっている継続的行為が終了しなければ、その損害額を確定し得ないものではない。この点で、砒素中毒のように加害行為終了後も損害が相当期間にわたって進行的に発生・拡大しその後に確定するというような事案 (前記宮崎地裁延岡支部判決等) や、クロムによる職業がんが暴露終了後二〇年以上の長い潜伏期間を経て結果が発生する事案 (前記クロム労災訴訟判決参照) とは、明らかにその損害の態様が異なっている。
物理的監禁と除斥期間について触れた裁判例としては、加藤老国家賠償訴訟の控訴審判決 (広島高裁昭和六一年一〇月一六日判決) がある。右判決は、刑の執行を違法行為とする国家賠償請求について、除斥期間が日々別個に進行する旨判示しており、本件もこれと同様に考えるべきである。
なお、民法七二四条後段の趣旨を、不法行為をめぐる法律関係の速やかな確定のため、被害者の認識いかんを問わず一定の時の経過によって請求権を画一的に消滅させる除斥期間と解する前記最高裁平成元年一二月二一日第一小法廷判決の立場によれば、そもそも除斥期間については権利行使の可能性は考慮する必要がなく、また、仮に、権利行使の可能性が除斥期間に何らかの影響を与えるとしても、本件においては権利行使の可能性が十分にあったというべきである。
第二 除斥期間の適用排除論について
一 原告らは、前記最高裁平成一〇年六月一二日第二小法廷判決を挙げて正義・公平の理念から本件においては除斥期間の効力の停止を認めるべきであるとするが、右判決は、除斥期間の停止という概念を一般的に承認したものではない。また、新法廃止前においても、療養所が強制力を伴わない入所者の生活の場となっていて、入所者が強制隔離されている状況にはなく、かえって、新法制定当初から入所者が力を持ち、国に対し様々な要求を繰り返してきたこと、入所者が法律家を招いて国家賠償請求が可能か否かを検討したことさえあることなどからすれば、本件において、除斥期間の適用を排除すべき特段の事情があるともいえない。
二 また、最高裁平成元年一二月二一日第一小法廷判決によれば、原告らの信義則違反・権利濫用に関する主張は、主張自体失当である。
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