聚楽物語

朝（あした）に栄（さか）え夕（ゆふべ）に衰（おとろ）ふるは、皆是れ世間（せけん）の習（なら）ひ、国を治め天下（てんか）を保（たも）つも、其身の賢愚（けんぐ）にあらず、天より与へ給ふといひながら、君臣（くんしん）の礼儀（れいぎ）を失（うしな）ひ、父子の慈孝（じかう）なき時は、必ず其家亡（ほろ）ぶ。君臣に礼をなす時は、臣又君に忠（ちう）を尽（つく）し、父は子に愛（あい）をなし、子は父に孝をなす時は、身治（みをさま）り家斉（いへとゝのほ）りて、必ず其国栄（さか）ゆと見えたり。爰（こゝ）に前（さき）の関白（くわんぱく）秀次公（ひでつぐこう）は、伯父（をぢ）太閤（たいかふ）秀吉卿（ひでよしきやう）の重恩を忘れ給ひて、剰（あまつさ）へ逆心を含（ふく）み給ひしかば、天罰（てんばつ）いかで脱（のが）れ給ふべき。御身（おんみ）を亡し給ふのみならず、多くの人を失ひ給ふ、御心の程こそあさましけれ。

太閤秀吉西国発向の事

抑（そも〳〵）此秀吉卿と申すは、君臣の礼儀（れいぎ）を重んじ、民を憐（あはれ）み給ひし故に、天下を治め給ふのみならず、高官【

NDLJP:13】高位に経上（へのぼ）り給ひ、末代（まつだい）迄も御名を清（きよ）め給ふとかや。其かみ羽柴（はしば）筑前守（ちくぜんのかみ）にて、前（さきの）大将軍織田（おだ）の信長（のぶなが）公（こう）に仕へ給ひ、東南西北の合戦（かつせん）に、御名を天下に顕（あらは）し給ひしかば、信長公の御代官（ごだいくわん）として、西国御退治（ごたいぢ）の為に、天正十年三月上旬（じやうじゆん）に都を立つて、備前備中の両国（りやうこく）にて、あまたの城郭（じやうくわく）を攻め破り、夫より高松（たかまつ）の城を取囲（とりかこ）み、大河の末（すゑ）を堰止（せきと）めて、水攻（みづぜめ）にしてこそおはしけれ。

惟任謀叛の事

斯（か）くて城中難儀（なんぎ）に及び、大将軍（たいしやうぐん）五人切腹（せつぷく）仕るべし、残る者共は速に御助け候へとの降参（かうさん）しけれども、始より冑（かぶと）を脱（ぬ）いで罷出（まかりい）でばこそ。此上にては、一人も残さず攻め滅（ほろぼ）し給ふべき旨仰せける所に、都より早打（はやうち）来りて、日向守心変（こゝろがは）り仕り、大将軍信長（のぶなが）信忠（のぶたゞ）御父子共に、三条

本能寺（ほんのうじ）にて御腹（おんはら）召され候由申上げければ、秀吉聞召（きこしめ）し、こは口惜（くちを）しき次第かな、斯様に一命を軽んじ、戦場（せんぢやう）に屍（かばね）を曝（さら）さんと思ふも、此君の御為ぞかし、此上は敵の降参（かうさん）するこそ幸なれ、いかやうにも計へと、杉原（すぎはら）七郎左衛門尉（らうざゑもんのじよう）に仰せける。内々（ない〳〵）毛利家より、城中の大将清水（しみづ）兄弟、又芸州（げいしう）より加勢（かせい）に入りたる三人、以上五人に腹切らせ、諸卒（しよそつ）を助けられ候はゞ、毛利（もうり）分国（ぶんこく）の中、備中、備後、伯耆、出雲、石見五箇国を渡し申すべきの内存（ないぞん）なれば、右の如く扱（あつかひ）を調へ、其上に人質（ひとじち）を出し、御旗下（おんはたした）に附随ふべきとの制旨（せいし）にて、大将五人の首実検（くびじつけん）ありて、先づ毛利家の陣所（ぢんしよ）を引払はせて後、方々の水を切流（きりなが）し、城中の諸卒を出し、杉原七郎左衛門に人数（にんず）あまた差添へ、高松（たかまつ）の城へ入れ置き給ひ、秀吉は髻（もとゞり）を切り給ひて、いかさまにも主君の御讎（おんあだ）なれば、日向守を秀吉が手にかけて打従へ、御孝養（ごけうやう）にせざらんは、二度弓矢（ゆみや）を取るまじきとのたまひて、六月六日に備中を引取（ひきと）り、備前にて一日御逗留（ごとうりう）あつて、同じき九日に、本国播州姫路の城に入り給ふ。未だ諸勢も揃（そろ）はざれども、半時（はんとき）ばかりの御用意にて、夜半（やはん）過に早打立ちて、明石兵庫の宿（しゆく）を過ぎ、尼（あま）が崎（さき）を経て、十二日には津の国高槻（たかつき）の辺（へん）に著き給ふ。

山崎合戦の事

此処（こゝ）に暫く御陣を立てられ、八幡（やはた）山愛宕（あたご）山両所の峯を伏拝み給ひて、願くは此度の合戦（かつせん）に打勝ちて、日向守を秀吉が手にかけ頭を刎（は）ね、主君の御孝養（ごけうやう）に供へんと、一筋（ひとすぢ）に祈り給へば、誠に神慮（しんりよ）にも叶ひけるにや、いづくともなく山鳩（やまばと）二つ飛来り、味方（みかた）の旗頭（はたがしら）に附いてぞ翔（かけ）りける。諸軍勢之を見て、いと頼もしく思ひ、勇み進んで押寄せける。斯くて山崎（やまざき）の峰を打越え給ひて、駒（こま）を駆（か）けすゑ見廻（みまは）し、此処はいかにと仰せければ、御足軽（おんあしがる）の中に、此処案内（あんない）能く存じたる者進み出で、是は馬塚（うまつか）と申し候。又あれなる繁（しげ）みの彼方（あなた）に、敵の馬印（うまじるし）の見え候所は、糠塚（ぬかづか）にて候と申上げければ、秀吉聞召し、糠（ぬか）は馬の食（は）みものな。めでたし〳〵。扨は此合戦は早打（はやうち）勝（か）つてあるぞ。馬の足立（あしだち）能からん所まで、しづ〳〵と押寄せて、一人も残さず討取れや兵共とぞ仰せける。かゝりける所に、不思議（ふしぎ）なる事こそ出来たれ。晴れたる空俄に搔曇（かきくも）り、愛宕（あたご）山の峯より、唐笠（からかさ）程の黒雲（くろくも）一村出来り、次第に巽（たつみ）の方へ行くかと思へば、辻風（つじかぜ）夥（おびたゞ）しく吹き来りて、仇（かたき）の陣へ渦巻（うづま）いて巻（ま）くりけるが、立て並べたる大旗小旗馬印（うまじるし）を、ひし〳〵【

NDLJP:14】とぞ吹倒しける。秀吉之を御覧じて、すはやかゝれと仰せければ、先手の大将中川瀬兵衛尉高山右近大夫、五十騎計にて駆（か）け出し、魚鱗懸（ぎよりんがか）りに懸りければ、日向守が郎等に、明智左馬助（あけちさまのすけ）、斎藤蔵之助（さいとうくらのすけ）、藤田伝吾（ふぢたでんご）を先として、鶴翼（かくよく）に開いて、一人も漏（も）らすな討取れや者共と下知しけれども、寄手（よせて）は驀地（まつしぐら）に攻めかくる。明智の兵共は、後陣（ごぢん）より色めき立つて崩（くづ）れければ、たゞ一支（ひとさゝ）へも取合せず、東を指して敗軍（はいぐん）す。伏見（ふしみ）、深草（ふかくさ）、木幡山（こばたやま）へ、散り〴〵になりて落行きけるを、高山中川真先（まつさき）にかけて、雑兵（ざふひやう）の首取るな、打捨にせよとて、散々（さん〴〵）に切乱しければ、明智が人数（にんず）、残少なに討ちなされ、光秀もから〴〵其処を遁れて、山科（やましな）までは落延（おちの）びけれども、運（うん）の極めのあさましさは、郷人（がうにん）に突落されけるを、郎等（らうどう）共首打落し、深田（ふかだ）の中へ隠しけるとぞ聞えし。家老（からう）のものども、或は討たれ、或は痛手（いたで）負ひ、行方知らず落行きけるを、後日（ごにち）に爰かしこより捜（さが）し出して討ちける、因果（いんぐわ）の程こそうらめしけれ。

秀吉天下を治め給ふ事^附秀次養子になり給ふ事

斯くて秀吉卿の威勢、日々（にち〳〵）夜々（やゝ）に勝りければ、信長に附随（つきしたが）ひし諸侍、皆々秀吉卿の御下知（ごげち）に附き奉りて、自（おのづか）ら天下悉（こと〴〵）く治りけり。されども未だ御手に入らざる国々（くに〴〵）、爰かしこにありけれども、秀吉御馬をだに出されければ、木草（きくさ）の風に靡（なび）くが如くにて、三年が中に、天下一統（とう）の御代となし給ふ。斯くて都にまし〳〵、御門（みかど）を守護（しゆご）し奉り給ひ、御所領（ごしよりやう）を寄せられ、御殿（ごてん）を造立（ざうりふ）し、金銀其外宝を揃へて捧（さゝ）げ給ひ、天子の御心慰（なぐさ）め給ひしかば、御門（みかど）叡感（えいかん）の余りに関白職（くわんぱくしよく）を預け下されける上は、我朝は申すに及ばず、唐土（もろこし）迄も靡（なび）き随ひ奉りける。さる程に御威光（ごゐくわう）いやまさり、天正十六年四月十四日に、聚楽（じゆらく）の御城へ行幸（ぎやうかう）をなし給ふ上は、何事も御心に叶（かな）はずといふ事なし。されども秀吉御代継（みよつぎ）の御子一人もおはせざれば、御甥（おんをひ）三好次兵衛殿（みよしじひやうゑどの）を御養子（ごやうし）にし給ひて、大国あまた遣（つかは）され、家老（からう）には、中村式部少輔（なかむらしきぶせう）、田中兵部少輔（たなかひやうぶせう）を附け給ひ、聚楽（じゆらく）の御城を渡し給ひて、御寵愛（ごちようあい）は中々に、語り尽くさん暇なし。同（おなじく）十九年に関白（くわんぱく）を譲り給へば、天下の諸大名皆此君に恐（おそ）れ随（したが）ひ奉る。されば毎日芸能（げいのう）の勝（すぐ）れたる者を召集（めしあつ）め、其道々（みち〳〵）を正したまひければ、乱舞（らんぶ）延年（えんねん）は、四座（ざ）の猿楽（さるがく）にも越えさせたまふ。御手跡（ごしゆせき）、尊円親王（そんゑんしんわう）の御筆勢（ごひつせい）にも劣（おと）り給はじと申しける。或時は儒学（じゆがく）の達者（たつしや）を召して、聖賢（せいけん）の道を聞召し、或は五山の智識（ちしき）を召されて、禅法（ぜんぼふ）の悟（さとり）を御心にかけ、又公家（くげ）門跡（もんぜき）を請（しやう）じ奉り、詩歌管絃（しいくわくわんげん）の御遊、何事も廃（すた）れたる道を正し給へば、上下共に此公（きみ）の御代、幾久（いくひさ）しかれとぞ祈（いの）りける。

淀殿の御事^附若公御誕生の事

太閤秀吉公卿（たいかふひでよしきやう）は、大阪伏見の両城かけて御座（おは）しけるが、其頃近江の国の住人（ぢうにん）浅井殿（あさゐどの）御息女（むすめ）、世に類（たぐひ）なき美人にてまします由、聞召（きこしめ）し及び、忍びやかに迎へ給ひて、淀（よど）のわたりに、新造（しんざう）の御所（ごしよ）を建てられ、一柳（ひとつやなぎ）越後守守護し奉り、淀（よど）の御所（ごしよ）と申し、いかしづき給ふ所に、いつとなく御心地（みこゝち）例（れい）ならず御座（おは）しければ、名医（めいゝ）典薬（てんやく）を召して、医療（いれう）さま〴〵なりしかども、更に其験（しるし）なし。かゝりける所に陰陽（おんやう）の頭（かみ）考へて申しけるは、全く是は御病気にあらず、御懐妊（ごくわいにん）とぞ申しける。太閤不_㆑斜（なゝめならず）御感（ごかん）まし〳〵て、当座（たうざ）に【

NDLJP:15】黄金千両給はり、御産（ごさん）平ならんには、重ねて御褒美（ごはうび）あるべきとぞ仰せける。夫れより天台山（てんだいさん）園城寺（をんじやうじ）の座主（ざす）僧正（さうじやう）に仰付けられ、御産（ごさん）平安（へいあん）の御祈念（ごきねん）、様々行はれける。斯くて日数（ひかず）積りければ、玉を延（の）べたる若君（わかぎみ）御誕生（ごたんじやう）ある。太閤御年（おんとし）過ぎさせ給ひての御子にて御座（おは）しければ、御寵愛（ごちようあい）浅からず、されば諸国の大名小名より、名物（めいぶつ）の御太刀（おんたち）、刀（かたな）、金銀、珠玉（しゆぎよく）、宝を尽して捧げ給ふ。御代（みよ）長久（ちやうきう）のしるしとて、都鄙（とひ）遠国（をんごく）の賤（しづ）の身まで、勇みさゞめきあひにけり。

関白悪逆の事

かゝりける所に、秀次公（ひでつぐこう）思召しけるは、太閤御実子（ごじつし）なからん時こそ、我に天下をも譲（ゆづ）り給ふべけれ。正しく実子（じつし）をさしおき、いかでか我を許容（きよゝう）し給ふべきと、思召す御心出来けれども、仰出（おほせいだ）す事もなく、御心の底に滞（とゞこほ）りけるにや、いつしか御機嫌（きげん）暴（あら）くならせ給ひて、御前近き人々も、故なく御勘気（ごかんき）を蒙り、或は御手打（おてうち）に遭（あ）ふもあり。さればいつとなく人を切る事を好きいで給ひて、罪なき者をも斬（き）り給ふ間、御前（ごぜん）の人々も、今日迄は人を弔（つふら）ひ、今日より後は、如何なる憂目（うきめ）にか遭（あ）はんと、皆人毎に心を砕かぬはなかりけり。或時御膳（ごぜん）あがりけるに、御歯に砂のさはりければ、御料理人（ごれうにん）を召して、汝が好む物なるらんとて、庭前（ていぜん）の白砂を口中に押入れさせ、一粒（りふ）も残さず嚙砕（かみくだ）けとて責め給へば、さすが捨て難き命なれば、力なく氷を砕（くだ）く如くに、はら〳〵と嚙（か）みければ、口中破れ、歯の根も砕けて、眼も眩（くら）みうつぶしに伏しけるを、又引立てゝ右の腕（うで）を打落させ、此上にても命や惜しき、助けば助からんやと仰せければ、是にても御助（おんたす）けあれかしと申すを、又左の腕（うで）を打落し、是にては如何にと仰せければ、其時彼者（かのもの）眼（め）を見出して、日本一のうつけ者かな、左右の腕なくて、命（いのち）生きても甲斐（かひ）やある。さるにても過去（くわこ）の戒行（かいぎやう）拙（つたな）くて、汝を主と頼みし事の無念（むねん）さよ。常々汝は鮟鱇（あんかう）といふ魚の如くに、口を開けて居る故に、砂はあるぞかし。此後も見よ、風の吹かん時は、必ず砂（すな）はあるべきぞや。此上は如何やうにもせよ、命は限（かぎり）ある物ぞと、散々（さん〴〵）に悪口（あくこう）しければ、それ物ないはせそとて、頓（やが）て首を刎（は）ねられける。其後中村式部少輔、田中兵部少輔参りて様々（さま〴〵）に制し奉れども、人を斬（き）り給はねば、弥（いよ〳〵）御機嫌（ごきげん）あらくぞおはしける。さあらば罪科（ざいくわ）深き籠者共（ろうしやども）を御手にかけ申せとて、毎日一人づつ引出し〳〵斬り給ふ間、京（きやう）、伏見（ふしみ）、大阪（おほさか）、堺（さかひ）の籠者（ろうしや）をも斬尽（きりつく）し、其後は仮初（かりそめ）の訴訟（そしよう）うつたへに出づる者も、助かる者はなかりけり。されば狩場漁（かりばすなどり）の道すがらにても、肥りせめたるをのこ、懐妊（くわいにん）の女抔（など）は見合（みあはせ）次第に捕はれける。又何よりも危かりしは、或時秀次天主（てんしゆ）へ上り給ひて、四方を眺（なが）めておはしけるに、懐妊（くわいにん）の女、如何にも苦しげにて、野辺（のべ）の若菜（わかな）を摘みためて、其日のかてを求めんと、都を指（さ）して歩み出で来るを御覧じて、是なる女の極（きは）めて腹の大なるは、是ぞ二子などいふ物（もの）なるらん。急ぎ連（つ）れて参れ、あけて見ばや

とぞ仰せける。御前の若殿原（わかとのばら）、承り候とて、我先にと走り出で、あへなく引立て参（まゐ）りける所に、益庵法印（えきあんほういん）何となく立伺ひ、持ちたる芹薺（せりなづな）を懐へ押入れさせ、扨御前（ごぜん）に参り、此女は懐妊にては候はず、年老（としお）いたる者にて候が、様々の若菜（わかな）を摘みて懐中（くわいちう）へ入れ、都へ売りに出づる者にて候と、打笑ひ申しけ【 NDLJP:16】れば、それならんはよし〳〵、急ぎ返せと仰せける。此女、鰐（わに）の口を遁れたる心地してこそ帰りけれ。扨も此益庵法印（えきあんほういん）は智恵（ちゑ）深く、又なき慈悲心（じひしん）かなとて、諸人感ぜぬはなかりけり。

当君御即位の事

先帝（せんてい）正親町院（おほぎまちゐん）の御宇には、諸国の兵乱（ひやうらん）未だ鎮（しづ）まらず。王城守護（わうじやうしゆご）の武士共も、一歳が中も在京（ざいきやう）せず。彼方此方へ移り変りければ、国々の貢物（みつぎもの）も滞り、天下の政もかれ〴〵にて、庭前（ていぜん）の花も色香（いろか）衰へ、雲井（くもゐ）の秋の月影（つきかげ）も、微になれる心地して、いと浅（あさ）ましき世の中にて、親王（しんわう）宣下（せんげ）の儀式（ぎしき）もなく、御即位（ごそくゐ）をなし給ふべき便もましまさねば、太子徒（いたづ）らに、三十年四十年の春秋（はるあき）を送り給ふ事を、口惜（くちを）しくや思召（おぼしめ）しけん、いつしか労気（つかれき）を労（いたは）り給ふ。太閤秀吉卿御痛（おんいた）はしく思召し、いかにもして御悩（ごなう）平愈（へいゆ）なし奉り、御位（みくらゐ）に立たせ給ふやうにと、様々（さま〴〵）御心を尽し、典薬大医（てんやくたいゝ）に仰付けられ、医療を尽しけれども、御戒行（ごかいぎやう）や拙くおはしけん、天正十四年七月下旬（げじゆん）に、終にかくれさせ給ふ。太閤本意（ほんい）なく思召し、切（せめ）ての御事に、此君の王子を、急ぎ御位に即け給ふべきとて、同（おなじく）十一月二十五日に、御即位を勧（すゝ）め奉り、諸国（しよこく）の鍛冶（かぢ）番匠（ばんしやう）を召し上せられ、禁中（きんちう）を四方へ開（ひろ）げ、数百の棟数（むねかず）を立列べ、金銀七宝を鏤（ちりば）め、御殿へ移し奉り、御所領（ごしよりやう）を附け、様々の珍宝（ちんぽう）を捧げ奉り、諸卿（しよきやう）の絶えて久しき家々（いへ〳〵）を改め立て給ひ、万（よろづ）廃（すた）れたる道を正し給ふ事こそありがたけれ。此君、常に学窓（がくそう）に御眼を曝（さら）し給ひて、時折々（をり〳〵）の政を怠り給はず、延喜（えんぎ）の聖代（せいだい）を御心に凝（こ）めて行はせ給ふ。大閤は此由聞召し、御学びに御心を尽させ給ふ事を労（いたは）り思召し、いかさまにも叡慮（えいりよ）を慰め給はん為に、春は花見の御遊をなし、芸能（げいのう）勝（すぐ）れたる者を召しあつめ、乱舞（らんぶ）延年（えんねん）を始め、共に興（けう）じさせ給ふ。九夏（か）の天には高楼（かうろう）を組み上げ、空吹く風を招き、庭前（ていぜん）に泉を湛（たゝ）へ、船を浮べ、納涼（なふりやう）専らなり。秋は千草（ちぐさ）の花の種を揃（そろ）へ、夕の露の更け行けば、余多（あまた）の虫の音を選（えら）び、月の前には樽（たる）を抱き、詩歌管絃（しいくわくわんげん）をなし、厳冬（げんとう）の朝は、御焚火（たきび）の御殿を作り、諸木の薬味（やくみ）あるを集め、林間（りんかん）に酒を温（あたゝ）めて、紅葉（もみぢ）を焚（た）き給ふ、誠に有難かりし事共なり。五十代以前（いぜん）は知らず、それより此方は、君臣（くんしん）の礼儀、斯る目出度御代（みよ）はよもあらじ。君君たれば、臣又臣とありて、愈（いよ〳〵）天下泰平（たいへい）なり。されども此君御身の楽みにも誇（ほこ）り給はず、御父陽光院（やうくわうゐん）、十善（じふぜん）の御位に洩（も）れ給ひし事を万々（ばん〳〵）本意なく思召し、折々（をり〳〵）は仰出されて御涙を催（もよほ）し給ふ。または先帝（せんてい）御齢（おんよはひ）の傾き給ひて、玉体（ぎよくたい）衰へ給ふ事を痛（いた）はり思召す、叡慮（えいりよ）の程こそありがたけれ。

先帝崩御の事^附落書の事

文禄（ぶんろく）元年中冬の頃より、先帝（せんてい）正親町院御病気になり給ふ。当君（たうくん）此由聞召し、急ぎ行幸なされ、様々（さま〴〵）痛はり給ひて、今一年なりとも延びさせ給ふやうにとの勅定（ちよくぢやう）なれば、典薬（てんやく）医術（いじゆつ）を尽し、諸寺（しよじ）諸山（しよさん）へ仰付け、祈り加持（かぢ）し給へども、老後（らうご）の御事なれば、次第に御悩（ごなう）重（おも）らせ給ひて、明け行く年の正月（むつき）の初の五日に終に隠（かく）れさせ給ふ。御門（みかど）深く歎（なげ）かせ給へば、諸卿（しよきやう）諸共に憂をなし、御心を詰（つ）めてぞおはしける。誠（まこと）に一天の主（あるじ）万乗（ばんじよう）の君の御物忌（おんものいみ）に、月日の光も薄くなり、神慮も苦び給ふらん。王城守護（わうじやうしゆご）の神々、【

NDLJP:17】門戸（もんこ）を閉ぢて、人の参詣（さんけい）をだに厭ひ給へば、況（ま）して人間に於てをや。貴きも賤しきもともに憂ふる姿（すがた）なう。されば畿内（きない）近国は、浦々の猟漁（れふすなどり）をだになさず、されば洛中（らくちう）にて魚鳥（ぎよてう）売り買ふ事をだに戒（いまし）めける。かやうに心なき者迄も、世を憚（はゞか）るは習ひなるに、当時（たうじ）関白（くわんぱく）秀次公（ひでつぐこう）は、伯父（はくふ）太閤（たいかふ）の御威光にて、下郎（げらう）の身として又なき官位（くわんゐ）を瀆（けが）しながら、天命（てんめい）をも恐れず、人の嘲（あざけり）をも恥ぢ給はず、明暮（あけくれ）酒宴（しゆえん）乱舞（らんぶ）をなし、剰（あまつさ）へ北山西山辺にて、鷹狩（たかゞり）鹿狩（しゝがり）を初め、民の煩（わづらひ）諸人の苦（くるしみ）をも厭はず、我意（がい）に任せて振舞（ふるま）ひ給へば、京童共囁（さゞめ）き寄つて、無道（ぶだう）至極（しごく）の事共かな、行末恐しき事やとて爪弾（つまはじ）きし、唇（くちびる）をぞ反（かへ）しける。又何者かしたりけん、一条の辻（つじ）に札（ふだ）をたてゝ、

　　先帝の手向のための狩なればこれや殺生関白といふ

秀次かやうに、様々悪逆（あくぎやく）を尽し給へども恐（おそ）れ奉り、太閤の御耳（おんみゝ）に立つる者なかりければ、弥（いよ〳〵）我儘（わがまゝ）に振舞ひ給ふを、中村式部少輔（なかむらしきぶのせう）、田中兵部少輔（なかひやうぶのせう）、再三御諫め申上げけれども、更に御承引（ごしよういん）なくて、剰（あまつさ）へ後々は両人御前遠（おんまへどほ）になりて、若輩（じやくはい）の御小姓衆、又は筋（すぢ）なき者共出頭して、直なる道を行ふ者は、孔子（こうし）風（ふう）の男（をとこ）ぞなんどとて、囁（さゝや）きあざ笑ひける間、自（おのづか）ら人の心悪き方へぞ引かれける。

木村常陸御謀叛勧め奉る事

中にも木村常陸（きむらひたちの）守は、御気相（ごきあひ）にて、何事も御内存（ごないぞん）を推量（おしはか）り申しけるが、或時秀次ちと御所労（ごしよらう）にて奥の御殿（ごてん）におはしけるに、常陸守まゐりて、隠密（おんみつ）にて言上申したき事の候。恐れながら御前（ごぜん）の人々を退けられ、それへ召上（めしあ）げられ候へかしと申上ぐる。関白聞召し、御前（ごぜん）の女房達（にようぼうたち）をも退けられ、御側（おそば）近く召されける。常陸（ひたち）守畏（かしこま）りて、かやうの御事申出すに付きても、恐入り候。若し御承引（ごしよういん）ましまさずば、唯今（たゞいま）御手にかけられ候べし。太閤の御恩賞（ごおんしやう）を蒙り給ふ事は、海山（うみやま）にも譬へ難く候。然りとは申せども、先年（せんねん）若君（わかぎみ）出来させ給ひて後は、我等の存じなしにて候か、何とやらん御前（ごぜん）遠（どほ）にならせ給ふやうに見えさせ給ひ候。貴きも賤きも、実子（じつし）のなき時にこそ、養子（やうし）をば寵愛（ちようあい）仕る物にて候へ。此若君五歳になり給はゞ、先づ関白（くわんぱく）を御譲りあれと仰せられ、西国か東国の端（はて）にて御所領（ごしよりやう）を出され、後々（のち〳〵）は流人（るにん）のやうになし給はん事は、目（め）の前（まへ）にて候はん。さあらん時は、何事を思召し立ち給ふとも、道（みち）往（ゆ）き申す事は候はじ。今御威光（ごゐくわう）強き時に、大名共にも内々御情（おなさけ）をかけられ候て、心底（しんてい）を残さず御頼み候はゞ、何者か背（そむ）き奉るべき。夫れ弓取（ゆみとり）は、親を討ち子を害（がい）しても、国を治め天下を保つは習ひにて候。此儀（このぎ）思召し立ち候はゞ、先づ異儀（いぎ）なく御味方（おんみかた）に参り候はん者共を、指図（さしづ）仕り候べし。皆太閤御取立（おとりたて）の侍の中にも、過分（くわぶん）の勲功（くんこう）をなせし者共、少身（せうしん）にて罷在り、又さまでの忠なき輩（ともがら）に、大分（だいぶん）の御所領下されたる者多く候へば、恨（うらみ）を含みける者共多く候へども、其身人数（ひとかず）ならねば力なし。若し君の思召し立つ御事あらば、恨（うらみ）を散（さん）ぜんと存ずる者共、かくといはぬ計にて候と、憚（はゞか）る所なく申上げける。関白御枕（おんまくら）を押除（おしの）け、起直（おきなほ）り給ひて、汝が申す所もさる事なれども、莫大（ばくだい）の御恩賞（ごおんしやう）を蒙り、いかにとしてさる事のあるべきや。其上大阪（おほさか）伏見（ふしみ）の御城は、日本一の名城（めいじやう）ぞかし。又縦（たと）ひ我に与（くみ）するとも、諸大名の中、三分一【

NDLJP:18】はよもあらじ。さあらば、いかでか運（うん）を開くべき。よしなき事な申しそ、壁（かべ）に耳ありといふ事のあるぞとの給ひける。常陸（ひたち）守重ねて申すやう、御諚（ごぢやう）にて候へども、人数（にんず）を揃（そろ）へ、一戦に及び候はんだに、軍は人数（にんず）の多少（たせう）によらぬ物にて候。其上某（それがし）城中（じやうちう）へ忍び入り、大殿の御命（おんいのち）を奪ひ奉らん事は、何か仔細（しさい）の候べきと、事もなげに申しければ、関白聞召し、誠に汝は聞（きこ）ゆる忍びの名を得たると聞けども、それは時により、折（をり）に従ひての事ぞかしとぞ仰せける。木村承（うけたまは）りて、其儀にて候はゞ、三日の御暇（おんいとま）を下され候へ。大阪の御城へ忍び入り、何にても御天主（ごてんしゆ）に御座候御道具（ごだうぐ）を、一種取りて参（まゐ）り候べし。之を証拠（しようこ）に御覧（ごらん）じて、御心を定められ候へとて、御前（ごぜん）を罷立つ。秀次は只（たゞ）覚束（たゞおぼつか）なし、よし〳〵と仰（おほ）せけれども、それより所労（しよらう）とて出仕（しゆつし）をやめ、急ぎ罷下りけるが、其夜太閤は伏見へ御上洛（ごじやうらく）にておはしければ、取分（とりわ）き門々のとのゐ厳（きび）しかりつれども、いと易く忍び入り、事のやうをぞ伺（うかゞ）ひけるに、女房達（にようぼうたち）の声にて、上様（うへさま）ははや牧方（ひらかと）まで御上り候はんかなどいふを聞きて、扨は御運（ごうん）強き大将軍かな、此城に

今夜（こよひ）ましまさば、御命を奪（うば）ひ奉らん物をと悔（く）いながら、此儘（このまゝ）帰りては悪かりなんと思ひ、天主（てんしゆ）に忍び入り、太閤御秘蔵（ごひざう）の御水差（おんみづさし）の蓋（ふた）を取りて、急ぎ罷上り、秀次の御前に参（まゐ）り、件（くだん）のやうを語り奉る。関白之を御覧（ごらん）じければ、先年（せんねん）秀次より御進上（ごしんじやう）の水差（みづさし）の蓋なり。不思議（ふしぎ）なる事かな。異なる物ならば、疑（うたが）はしくも思ふべきが、我手（わがて）馴（な）れたる物なれば、いかで見損（みそん）ずべきとて、斜ならず感じ給ふ。此水差は、昔堺（さかひ）の浜（はま）にて、数寄者（すきしや）の持ちたる道具（だうぐ）なりしを、宗益（そうえき）と申す者求め出して、秀次（ひでつぐ）へ捧げ奉るを、頓（やが）て太閤へ進上とぞ聞えし。其後大阪には、之を尋ねさせ給へども、見えざれば、何者か過（あやま）ちして隠（かく）し捨てたるらんとて、金細工（きんざいく）の者に仰付けられ、黄金（わうごん）を以て打物（うちもの）にさせ給ふ。後に聚楽（じゆらく）の御城欠所（けつしよ）の時、此御道具（ごだうぐ）出でたるにより、此事思ひ合せて、委（くは）しく尋ね給ひてぞ顕（あらは）れける。常陸守（ひたちのかみ）、かやうに様々に計ひ申しければ、秀次も自ら御心を移（うつ）され、内々に御支度（ごしたく）ありて、大名小名によらず、御意に従ふべきと思召す者共には、御手前（おてまへ）にて御茶（おちや）を下され、或は御太刀、刀、御茶湯（おちやたう）の道具（だうぐ）によらず、その程々に従ひ、金銀を遣されける間、何事もあらば一命（めい）を奉らんと存ずる者共あまたなり。されども御家老（ごからう）中村田中をば、御はたへ入れさせ給はで、よろづ木村が差計（さしはから）ひ申しけるが、つひに天罰（てんばつ）遁（のが）れ難（がた）くして、君をも失（うしな）ひ奉り其身も敢（あへ）なく亡（ほろ）びけり。

聚楽へ御成の由仰上げらるゝ事

文禄（ぶんろく）四年二月中頃、聚楽より熊谷大膳（くまがへだいぜん）を遣され、伏見（ふしみ）の里（さと）の秋の月は、古より歌人（かじん）の言の葉に詠み尽したる御事なれども、年毎（としごと）の御遊なり。又広沢（ひろさは）の月も他に異なれば、来らん秋の月をば、北山にて御覧（ごらん）ぜられ候へかし。若君（わかぎみ）御慰めのために、八瀬小原（やせをはら）の奥（おく）にて、狩（かり）くらを初め、御遊をなし奉（たてまつ）るべしとぞ仰上げられける。太閤斜ならず御感にて、兎（と）も角（かく）も関白の心に任（まか）すべしと、心地（こゝち）よげに打咲（ゑ）み給ひて、汝心得て御返事（ごへんじ）申すべしとて、大膳（たいぜん）に御太刀一腰（ひとこし）御呉服（ごふく）余多（あまた）下し給はつて帰し給ふ。大膳（だいぜん）罷帰り此由言上申しければ、夫れより御成（おなり）のために御殿を急ぎ申せとて、鍛冶（かぢ）番匠（ばんしやう）を召（め）し集め、夜を日に継（つ）い【

NDLJP:19】で急がれける。

御謀叛顕るゝ事

同五月二十五日の夜に入つて、石田（いしだ）治部少輔（ぢぶのせう）が宿所（しゆくしよ）へ文箱（ふみばこ）持来り、是は聚楽（じゆらく）より参り候。浅野弾正殿（あさのだんじやうどの）へ急ぎ御状（ごじやう）参り候間、帰りて御返事（へんじ）を給はるべしとて急ぎ帰りける。番所（ばんじよ）の侍（さぶらひ）ども、この状を石田に見せければ、文箱（ふみばこ）の上に、石田治部殿（いしだぢぶどの）まゐると書きて、誰（たれ）とも名を顕（あらは）さず。光成（みつなり）不思議に思ひ披（ひら）き見れば、幼（をさな）き者の筆のやうにて、

近き頃太閤様（たいかふさま）聚楽へ御成（おなり）とて、御用意様々御座候。中にも北山にて鹿狩（しゝがり）のためとて、国々（くに〴〵）より弓鉄砲の者を選（えら）びすぐり、数万に及び召し上（のぼ）せられ候。是は全く狩（かり）くらの御ためならず、御謀叛（ごむほん）とこそ見えて候へ。対面（たいめん）にて申したく候へども、返忠（かへりちう）の者といはれん事口惜（くちを）しく候。又申さぬ時は、重恩（ぢうおん）を蒙り候主君（しゆくん）へ弓を引くべし。此旨（むね）を存じ我が名を隠（かく）して斯（かく）の如し。

と書きたり。石田驚（おどろ）き、急（いそ）ぎ御前に参り、此由（このよし）言上申しければ、太閤聞召（きこしめ）して、関白何の意恨（いこん）にてさる事あるべきぞ。夫れは疎（うと）める者の仕態（しわざ）なるべしと仰せければ、光成（みつなり）承つて、いや〳〵存じ合せたる事ども候へば、先づ田中兵部（たなかひやうぶ）を召し上せ、某いろ〳〵に賺（すか）して見候べしと申しければ、兎（と）も角（かく）も先づ隠密（おんみつ）にて窺（うかゞ）へとのたまふ。

治部少輔田中を賺す事

其頃（そのころ）田中は、津（つ）の国河内の堤普請（つゝみぶしん）の奉行（ぶぎやう）に仰付けられて居（ゐ）たりけるを、夜通（よどほ）しに召し上せ、先づ石田が宿所（しゆくしよ）へ呼寄（よびよ）せ、奥（おく）の亭（ちん）へ請（しやう）じ入れ、あたりに人一人も置かず、二人差寄（さしよ）りて、いかに田中殿、御辺（ごへん）は千年も経させ給ふべきぞや。光成こそ御命を助け奉りて候へと申せば、兵部（ひやうぶ）聞いて大きに驚き、こはいかに、夢（ゆめ）ばかりも存じ審らぬ事を承（うけたまは）り候ものかな。何事なれば事新（あらた）しくは仰せ候ぞといひける。石田、さればとよ、光成ほどの親（したし）みを持（もち）給はずば、今度（こんど）の御大事を、いかで遁れさせ給ふべき。御首（おんくび）を光成が継（つ）ぎ申して候といひければ、田中事の外気色（きしよく）を損じて、何と申すぞ、石田殿、当代（だうだい）日本の侍（さふらひ）の中に、田中が事なんど、御前（ごぜん）にて悪様（あしざま）に申さん人は覚えず。縦（たと）ひ讒言（ざんげん）したりとも、上に用ひさせ給ふまじ。御辺（ごへん）などが今時（いまどき）出頭（しゆつとう）して、御前近く参るとて、首を継（つ）いだるは、命（いのち）助けたるはなんどといふべき事やある。いざや只今（たゞいま）にても、御前（ごぜん）へ参らん。無用（むよう）の事して助（たす）けんよりは、罪あらば我が首（くび）討つて参れとて、膝（ひざ）を直（なほ）し、刀の柄（つか）に手を掛（か）け、思切つたる有様なり。石田小声（こゞゑ）になりて、静（しづ）まり給へ、田中殿、事の仔細（しさい）を申さで、御気（おんき）に当りたるは理（ことわり）にて候。されども御心を静（しづ）めて聞食（きこしめ）せ。関白御謀叛（ごむほん）おぼしめし立ち給ふ御事の顕（あらは）れければ、中村は病気（びやうき）にて出でざれば、知らぬ事もあるべきが、兵部は兼（かね）て知らぬ事よもあらじ。頼（たの）むまじきは人の心ぞや。急ぎ誑（たばか）り寄せて腹切（はらき）らせよと仰せられ、御憤（おんいきどほり）深く仰せ候ひしを、光成罷出（まかりい）で、御諚（ごぢやう）にて候へども、かはどの不覚（ふかく）なる事をおばしめし立つ程の御心様（おこゝろざま）にて、いかで彼等に御心を免（ゆる）し給ふべき。其上此両人（このりやうにん）の者共、度々御異見（いけん）申しけれども、更に御承引（ごしよういん）なくて【

NDLJP:20】常に参（まゐ）れども御機嫌（ごきげん）悪（あし）くし給ひて、御前遠（ごぜんどほ）に罷成りたるとて、常々（つね〴〵）申候と、御身（おんみ）に代りて申上候へば、夫れはさもあるらんが、されども彼程の事を支度（したく）せば、何に付けても不審（ふしん）の立つべきを、兎も角もいはざる事はいかにとの御諚（ごぢやう）にて候を、其儀にて候、内々（ない〳〵）某に申しつる事共候へども、かやうの御野心（ごやしん）あらんとは、努々（ゆめ〳〵）存（ぞん）じも寄らで候ひしが、今（いま）存（ぞん）じ合して候。弥（いよ〳〵）窺（うかゞ）ひ、御振舞（おんふるまひ）を見計ひ候へとこそ申候はめとて罷立（まかりた）つて候。聊（いさゝか）もおぼしめし合せらるゝ事は候はずやと、言葉（ことば）を尽しいひければ、田中聞いて、是は存（ぞん）じの外にて候。一大事を承（うけたまは）り候へば、某が身の上を、何者か讒言（ざんげん）申しつらんとこそ存じて候へ。仰の如く此頃は、某抔（など）は外座間者（とざまもの）のやうに罷成候へば、さやうの大事をば、いかで知らせ給ふべきなれども、上意（じやうい）に、憎（にく）しと思召すは御理（おんことわり）なり。さりながら存ぜざる旨（むね）は、罷出でても申し披（ひら）くべし。此上はいかやうにも心を附けて窺（うかゞ）ひ申さんといふ。光成聞いて、さらば先づ御辺（ごへん）は普請場（ふしんば）へ急ぎ御出で候へ。上意（じやうい）として、是より使者（ししや）にて申すべしとて、田中は河内へぞ帰しける。其後使者を以て、其許（そのもと）堤の御普請（ごふしん）は、誰（たれ）にても仰付（おほせつ）けらるべし。人こそ多く候はんに、御成前（おなりさき）にて候に、急ぎ帰京（ききやう）あつて、聚楽（じゆらく）の御殿抔（など）急がせ給へとの御諚にて候と申しつがひければ、兵部少輔夫れより頓（やが）て聚楽（じゆらく）へ参り、万（よろづ）に心を附けて窺（うかゞ）ひ見けれども、是ぞ定（さだか）なる事とてはあらざれども、いかさま不審（ふしん）なる事共多かりければ、昨日（きのふ）は兎（と）ありて、今日（けふ）は角（かく）ありてと、毎日（まいにち）石田が許（もと）へ知らせける間、光成太閤の御前（ごぜん）に参り、御謀叛（ごむほん）早や疑（うたが）ひなく候。兵部少輔方より、昨日は斯く申して参り候。今は又此儀（このぎ）を申して遣（つかは）し候と、此事急（きふ）に申上げける間、太閤聞召（きこしめ）し、其儀ならば、急ぎ踏潰（ふみつぶ）すべしとの御諚なり。光成申しけるは、先（ま）づいかやうにも誑（たばか）り給ひて、叶はぬ時は御馬を出さるべし。只今（たゞいま）洛中（らくちゆう）へ押寄（おしよ）せ候はゞ悉く発火（はつくわ）仕るべし。さあらば、禁中（きんちう）も火災（くわさい）いかで免（まぬか）れ給ふべき。天子への恐（おそれ）一つ。其上御命（おんいのち）に代り奉らんと存ずる程の大名共は、皆御暇（おいとま）給はり、国々へ罷下（まかりくだ）り候。御馬廻（おんうままは）りの者共、僅に千騎（き）にはよも過ぎ候はじ。軍（いくさ）の習（なら）ひにて、人数（にんず）の多少には依（よ）るべからず候へども、定めて京都には、兼ての御支度（ごしたく）なれば洛中（らくちう）に多勢（たぜい）満（み）ち〳〵てあるべく候。さあらば由々（ゆゝ）しき御大事にて候。先づ徳善院（とくぜんゐん）を遣はされ、いかやうにも賺（すか）し出し奉り候はんこそ、武略（ぶりやく）の一つにてこそ候はんずれと申上げければ、御前（ごぜん）の人々、此儀然るべく存じ候と、一同（どう）にぞ申しける。

徳善院聚楽へ参る事

さあらば先づ法印（ほういん）参り、いかやうにも計（はから）ひ申せとの御諚にて、七月八日に、徳善院（とくぜんゐん）聚楽へ参り、秀次（ひでつぐ）の御前に参り、何とも申し出す事もなく、涙（なみだ）に咽（むせ）びければ、関白怪（あやし）み給ひて、いかに〳〵と仰せける。法印（ほういん）涙を押へて、其御事にて候。愚人（ぐにん）は勝るを嫉（ねた）む習ひにて候へば、君の御事を讒言（ざんげん）申す者の候へばこそ、主なき文に様々（さま〴〵）言上申候を、一度二度は御用ひなくおはせしかども、度重（たびかさ）なりければ、扨（さて）は御野心（ごやしん）もましますか、何の御意恨（ごいこん）ぞや。御齢（おんよわひ）の傾くに付けても、杖柱（つゑはしら）とも頼み思召すに、頼みたる木の下に雨漏（も）るとは是なるならん。かゝる不思議（ふしぎ）こそ出で来れと、御朦気千万（おんおぼろけせんばん）にて、御涙堰（せ）きあへさせ給【

NDLJP:21】はず候と言葉（ことば）を尽し、誠にさるべきやうに申しければ、関白驚（おどろ）き給ひて、こはそも何事ぞや、我まんまんの御恩賞（ごおんしやう）を蒙り、何の不足（ふそく）ありてか野心（やしん）を含（ふく）むべき。汝も能く思うて見よ、我れ幼少（えうせう）より御寵愛ある故に、日本国中の諸侍（しよし）にかしづかれ、七珍万宝（しつちんばんぱう）満ち〳〵て、心の儘（まゝ）にある事、我力にあらず、偏（ひとへ）に太閤の御恩賞（ごおんしやう）ぞかし。夫れに何ぞ我れ逆心（ぎやくしん）あり共、何者か我に組（くみ）する者のあるべきぞ。斯程（かほど）の大事を一人して思ひ立たんは、偏（ひとへ）に狂人（きやうじん）にてあるべし。其上何に付けても、此君に野心を構（かま）へば、日本国中の諸神（しよしん）は申すに及ばず、上は梵天帝釈天（ぼんてんたいしやくてん）、下は四大天王（しだいてんわう）も照覧（せうらん）あるべしと、御誓にて陳（ちん）じ給ふ。法印承（うけたまは）りて、御諚の如く、我等如きの者共存じ奉ればこそ、御前にても推量（おしはか）り申上げ候へ。さりながら常々（つね〴〵）御存じ候如くに、一旦（たん）御腹の立つ時は、矢楯（やたて）もたまらず仰せられ候へども、又いつもの如く、若君達（わかぎみたち）御先に立てられ、あれへ御参りあつて、御心底（ごしんてん）を仰上（おほせあ）げられ候はゞ、頓（やが）て御機嫌（ごきげん）は直らせ給ふべしと申しけれども、さすが御身（おんみ）に危き事やおはしけん、先々（まづ〳〵）汝罷帰りて、我が野心（やしん）なき旨（むね）を心得て申

上げよとて、法印（ほういん）を下し給ふ。徳善院罷帰りて、此由委（くは）しく言上申しければ、いかやうにも計ひて、聚楽（じゆらく）を出し奉れとて、重ねて幸蔵主（かうざうす）を差添（さしそ）へられ遣さる。此幸蔵主と申す尼（あま）は、女なれども、智恵（ちゑ）深く弁舌達（べんぜんたつ）しければ、御前（ごぜん）を去らず、万（よろづ）の事を推量（おしはか）りけれども、一度（ど）も御心に反き奉（たてまつ）らず。常に関白御参（おんまゐ）りの時も、此尼（あま）ならで御挨拶（ごあいさつ）申す者なし。されば此両人重ねて参り、御諚の通（とほ）りさし心得て申上候へば、幸蔵主（かうざうす）も罷出で、様々御取成（おんとりなし）にて、御機嫌（ごきげん）直らせ給ひて、越方（こしかた）行末（ゆくすゑ）の事、誠に有難（ありがた）き御諚共（ども）仰出され、御涙を流し給ひて、初（はじめ）より浮世（うきよ）ぜめと思召せばこそ、先づ法印めをば遣（つかは）されて候へ。されどもさやうに諸人に疎（うと）まれ給ひて、讒言（ざんげん）受けさせ給ふも、御心に私（わたくし）のましませばこそ。天下を保ち給ふ人は、万民（ばんみん）を御子と憐（あはれ）び給ひてこそ、御代は弥（いよ〳〵）長久（ちやうきう）なるべけれ。聊（いさゝか）も御心に私なく、天の道を背（そむ）き給はぬやうに、御計（おんはから）ひあれかしとおぼしめし候。此むね能々（よく〳〵）申上げよとの御諚にて、重（かさ）ねて幸蔵主を遣され候。急（いそ）ぎあれへ御参りなされ、御対面（ごたいめん）にて、何事も仰上げられ候はゞ、事の序（ついで）に内々の御訴訟（ごそしよう）も叶ひ候べしと、徳善院（とくぜんゐん）は富婁那（ふるな）の弁舌（べんぜつ）を仮（か）りて申上げ、幸蔵主は舎利仏（しやりぶつ）の智恵（ちゑ）を取つて、さもありげに申上げければ、さらば汝等（なんぢら）は御先（おさき）へ参れ、頓（やが）て御出あるべき由仰せられ、御輿（おんこし）を出せと仰せける。両人さあらば御先（おんさき）へ参り候べし。相構（あひかま）へていつもの如く君達（きんだち）をも具（ぐ）し給ひて、御参（おんまゐ）り候へと申してこそは帰（かへ）りけれ。

木村常陸参り御諫め奉る事

かくて関白（くわんぱく）御装束（おんしやうぞく）を更（あらた）め出御（しゆつぎよ）なる所へ、木村罷出（まかりい）でて、君は斯程（かほど）まで、言甲斐（いひがひ）なき御所存（ごしよぞん）にておはしける事こそ口惜（くちを）しけれ。唯今（たゞいま）伏見（ふしみ）へ御参り候とも、御対面（ごたいめん）は思ひも寄らず、再（ふたゝ）び都へは返し給ふべからず。道にて雑兵（ざふひやう）の手にかゝり給ふか、さらずば遠国（をんごく）へ流され給ひて、遂には御介錯（ごかいしやく）申す者もなき御腹（おんはら）召され候はん。迚も遁（のが）れ給ふまじき御命を、いつまで惜み給ふぞや。急（いそ）ぎ伏見（ふしみ）へ押寄せ、戦場（せんぢやう）に御名を残（のこ）し給ふか、さらずば此城に楯籠（たてこも）り、京中を焼払（やきはら）ひ、御門を是へ行幸（ぎやうかう）なし奉り給ひて、一支（さゝ）へ支【

NDLJP:22】へ給はゞ、いかで太閤も、天子へ御弓を彎（ひ）き給ふべき。さあらば御扱（おんあつかひ）と仰せ候はん時は、十分の利を得させ給ふべし。先づ京中（きやうちう）の兵粮（ひやうらう）を悉（こと〴〵）く召寄（めしよ）せられ候へと、威丈高（ゐだけだか）になつてぞ申しける。

阿波の木工御異見の事

かゝりける所に、阿波（あは）の木工（もく）の助（すけ）進み出で申しけるは、常陸（ひたち）の守（かみ）申す所もさる事にて候へども、又退き愚案（ぐあん）を廻（めぐ）らし候に、伏見の大殿（おほとの）は、御心早き大将軍（たいしやうぐん）にてましませば、君の御謀叛（ごむほん）必定と思召し候はば、やはか斯様（かやう）に事延（の）び候まじ。即時に押寄（おしよ）せ給ふべし。唯筋（たゞすぢ）なき事を取持つて、石田が様々讒言（ざんげん）申すとも、太閤御底意（おんそこい）には御承引（ごしよういん）なきとこそ存じ候へ。さあらん時は、何心（なにごころ）なく御参り候はば、弥（いよ〳〵）御心解（と）けさせ給ふべし。又只今伏見殿（ふしみどの）へ寄せられ候とも、甲斐々々（かひ〴〵）しく利を得させ給ふ事は候はじ。あなたは譜第（ふだい）重恩（ぢうおん）の侍共なれば、十騎（き）が百騎（き）にも向ひ候べし。こなたは大勢（たいぜい）なりとも、諸国のかり武者（むしや）にて、伏見に親を持ち子を置きたる者、或は最愛（さいあい）に心牽（ひ）かれ、何の御用（ごよう）にも立ち難し。又此城廓（じやうくわく）に籠（こも）り給ふとも、寄手（よせて）厳（きび）しく候はゞ、頓（やが）て実否（じつぷ）も極まり候べきか。遠攻（とほぜめ）にして兵粮（ひやうらう）を尽し候はゞ、皆親類（しんるゐ）縁者（えんじや）に附いて降参（かうさん）し、敵には力を附くるとも、甲斐々々（かひ〴〵）しく御用に立つ者は候はじ。斯様（かやう）に申す者共こそ、御内存（ごないぞん）は存じて候へ。何者（なにもの）か白状（はくじやう）申すべきぞや。危（あやふ）き事は候はじ。唯（たゞ）此度は急ぎ御参（おんまゐ）りあつて然るべく候と、理（り）を責（せ）めて申しければ、いづれも此儀然るべし。さあらばいかにも穏便（をんびん）に如（し）くべからずとて、御輿（おんこし）一挺（ちやう）にて、御道具をも差置（さしお）き、徒立（かちだち）にて御供（おんとも）二三十人召連れられ、文禄（ぶんろく）四年七月八日に、聚楽の城を出で給ふは、御運（ごうん）の末（すゑ）とぞ覚えける。

【

NDLJP:23】

巻之中

関白伏見へ出御の事

関白（くわんぱく）御輿（おんこし）を早め給へば、程なく五条（ごでう）の橋を打渡り、大仏殿（だいぶつでん）の前を過ぎさせ給ふに、何とやらん前後（ぜんご）も騒（さわが）しく犇（ひし）めきて、往（ゆ）き来（か）ふ人も、こゝかしこに立迷（たちまよ）ひければ、御供の人々、これは早や御討手（おんうつて）の向ひたると覚え候。賤（いや）しき者共の手にかゝり給はん事、余（あま）りに口惜（くちを）しく候へば、東福寺（とうふくじ）へ御輿を入れられ、あれにて御心静に、御腹（おんはら）召され候へかしと申しければ、秀次聞召し、扨（さて）は法印めに誑（たばか）られつる事の無念さよ。さらば是より引返（ひきかへ）し、聚楽にて腹（はら）切らめと仰せける。かゝりける所に、後（あと）より参りたる若党（わかたう）共（ども）、早や五条わたりの体（てい）を見候へば、敵まん〳〵と入廻（いりまは）りて候と覚え候。還御（くわんぎよ）は思ひもよらず候と申しければ、関白聞召（きこしめ）し、さるにても弓矢取る者の、仮初（かりそめ）にも乗るまじき物は輿車（こしくるま）ぞかし。馬上（ばじやう）ならば何者なりとも、頓（やが）て蹴散（けち）らして通るべき物を、犬死（いぬじに）すべき事こそ口惜（くちを）しけれ。思ふ仔細（しさい）のある間、先づ藤の森まで御輿（おんこし）を急（いそ）げとて、さらぬ体（てい）にて過ぎさせ給ふ所へ、増田右衛門尉（ますだうゑもんのじよう）参り迎へ、馬より飛んで下（お）り、御輿の前にかしこまり、以の外の御機嫌（ごきげん）にて御座候。一先づ高野山（かうやさん）へ忍ばせ給ひて、連々（れん〳〵）以て御野心（ごやしん）なき通りを、仰（おほ）せ開かれ候へと申しければ、関白御輿（おんこし）を立てゝ、是れ迄出づるよりして其覚悟（かくご）なれば、今更（いまさら）驚くべきにあらず。聚楽にありながら御理（ことわり）を申せば、おほそれ多く思ひ、是れ迄出でたるなり。唯今（たゞいま）兎（と）も角（かく）もならんずる命は、露塵（つゆちり）も惜しからねども、無実（むじつ）にて果てん事こそ、何より口惜（くちを）しけれ。相構へて秀次程のものに、最後（さいご）を知らせざる事あるべからず、尋常（じんじやう）に腹切るべしと宣へば、右衛門尉（うゑもんのじよう）承つて、いかで御腹（おんはら）めさるゝまでは候べき。一旦（たん）かやうに仰（おほ）せられ候とも、連々（れん〳〵）に御自筆（ごじひつ）の御書を捧げられ、御心底（ごしんてい）を仰（おほせ）上げられ候はゞ、頓（やが）て御和睦（おんわぼく）あつて、讒言の輩（ともがら）を、御心のまゝに仰付けらるべしと、やう〳〵に申し勧（すゝ）め奉り、夫れよりものゝふども、前後（ぜんご）を囲（かこ）み、大和路（やまとぢ）にかゝり伏見（ふしみ）の城を外（よそ）に見て、急がせ給ふ御心の中、思ひやられて痛（いた）はしさよ。仮初（かりそめ）の出御（しゆつぎよ）にも、馬上（ばじやう）の御供（おんとも）数百人召連（めしつ）れられつるに、此度（このたび）は僅に侍四五人ならでは御許しなければ、只夢路（ゆめぢ）を辿（たど）る御心地にて、

南を指（さ）して赴き給ふ事こそ憐（あはれ）なれ。聚楽（じゆらく）に残（のこ）りたる人々は、伏見との御対面（ごたいめん）も叶はせ給はで、我君は高野（かうや）へ上らせ給ふ由聞（きこ）えければ、皆呆（あき）れ果てゝ、こはそも何と成行（なりゆ）く世の中ぞや。かくあるべきと思ひなば、などかいづく迄も御供（おんとも）申さであるべきぞ。たゞ天（てん）人の五衰（ごすゐ）、目の前に覚（さ）めぬる事こそあさましけれと、上下（しやうか）諸共（もろとも）に泣き悲む声、暫（しば）しも止むことなし。中にも御恩深き人々は、順礼修行者（じゆんれいしゆぎやうじや）の姿に身を窶（やつ）し、いづく迄も御跡（おんあと）を慕（した）ひ参らんと志しぬれども、こゝかしこにて厳（きび）しくあらためければ叶（かな）はずして、夫れより諸国（しよこく）七道（だう）廻（まは）るもあり、或は己々（おのれ〳〵）が住（す）み馴（な）れたる国々（くに〴〵）へ帰るも多かりけり。

関白高野へ入御の事

関白（くわんぱく）其夜（よ）は、いぶせき藁屋（わらや）の軒端（のきば）も荒れたるに御輿を留（とゞ）め、いとをかしき御膳（ごぜん）捧（さゝ）げ奉りけれども、【

NDLJP:24】御箸（おんはし）をだに取り給はで、いざよふ月を御枕（おんまくら）にて、暫し傾（かたふ）き給へども、まどろみたまはねば、御夢をも結びあへず、たゞ移（うつ）り変（かは）れる御身の上を観（くわん）じ給ひてかく、

　　思ひきや雲井（くもゐ）の秋（あき）の空ならで竹あむ窓（まど）の月を見んとは

かやうに口ずさみ、いとゞ長き夜をあかし兼ねておはしけるに、漸（やう〳〵）八声（やこゑ）を告ぐる鳥（とり）の音（ね）も、まだ東雲（しののめ）の空暗きに、御輿（おんこし）舁（か）き出し、疾（と）く〳〵と勧め奉れば、急（いそ）がぬ旅の道（みち）ながら、御心ならずうかれつゝ、井出（ゐで）の玉水（たまみづ）行過ぎて、佐保（さほ）の川隈（かはくま）うちけぶり、奈良坂（ならざか）や、春日（かすが）の森（もり）も程近くなる。日頃（ひごろ）の御参詣（ごさんけい）には御輿車数を知らず、金銀を鏤（ちりば）め、御末々（おんすゑ〴〵）迄も花やかにて、南都（なんと）の衆徒達（しゆとだち）は出迎へ、道（みち）を清め沙を敷（し）き、こゝかしこにひれ伏（ふ）して、御目にかゝらん事を願（ねが）ひつるに、今ひきかへたる御有様（おんありさま）の痛（いた）はしさよ。往（ゆ）き来（か）ふものも恐れ奉らず、賤山（しづやま）がつに打交（うちまじ）はり給ふ事こそ哀（あはれ）なれ。かくて般若寺（はんにやじ）のあたりに、しばし御輿を立てゝ、春日（かすが）の大明神（だいみやうじん）を伏拝（ふしをが）み給ひて、

　　三笠山（みかさやま）雲井（くもゐ）の月はすみながら変（かは）り行く身の果（はて）ぞ悲（かな）しき

かやうにうち詠（なが）め、御涙を流（なが）させ給へば、御供（おんとも）の人々、守護（しゆご）の輩まで、皆々袖を濡（ぬら）さぬはなかりけり。それより行末（ゆくすゑ）を見渡せば、柴屋の里のしば〳〵も、止（と）め参（まゐ）らする人もなく、分（わ）け行く露（つゆ）の草村の、虫（むし）の声だに衰（おとろ）ふる、身の行末（ゆくすゑ）や歎くらん。岡野（をかの）の宿を過ぎ行けば、当摩（たいま）の寺の鐘（かね）の声も、煩悩（ぼんなう）の眠や覚（さま）すらんと思召（おぼしめ）し続けて、

　　転寝（うたゝね）の夢の浮世（うきよ）を出でて行く身の入相（いりあひ）の鐘（かね）をこそ聞け

かくてよもすがら、高野山へ攀（よ）ぢ登（のぼ）り給ひ、木食上人（もくじきしやうにん）の方へ御案内ありければ、上人（しやうにん）驚き給ひ、急（いそ）ぎ請（しやう）じ入れ奉り、扨（さて）唯今（たゞいま）の御登山、おぼしめし寄（よ）らざる御事かなとて、墨染（すみぞめ）の袖（そで）を濡（ぬら）し給へば、関白（くわんぱく）何と仰せ出す事もなく、御袖（おんそで）を顔に押当（おしあ）て、御涙に咽（むせ）び給ひ、やゝありて、我（わ）れかゝる事のあるべきとは思ひも寄（よ）らで、世にありし時（とき）、心を附（つ）くる事もなくて、今更（いまさら）あさましうこそ候へ。みづからが露（つゆ）の命（いのち）、早や極（きは）まり候へば、唯今（たゞいま）にも伏見（ふしみ）より検使（けんし）あらば、自害（じがい）すべし。亡（な）からん跡（あと）は、誰（たれ）か頼み申すべきと仰（おほせ）もあへず、又御涙を流（なが）し給へば、木食上人承（うけたまは）り、御諚（ごぢやう）にて候へども、此山（このやま）へ御登りなされ候上は、いかで御命（おんいのち）に障（さは）り候べき。縦（たと）ひ太閤（たいかふ）御憤（おんいきどほ）り深くましますとも、当山の衆徒（しゆと）一同に申上げ候はば、よも聞食（きこしめ）し分けざらんと、頼（たの）もしげにぞ申されける。

秀次入道し給ふ事^附御最後の事

関白（くわんぱく）やがて御（み）ぐし下（おろ）し給ひて、御戒名は道意禅門（だういぜんもん）とぞ申しける。御供の人々も、皆（みな）髻（もとゞり）切（き）つて、偏（ひとへ）に御世菩提（ぼだい）の祈にて、上意（じやうい）の御使を、

今や〳〵と待（ま）ち給ふ所に、福島左衛門大夫（ふくしまさゑもんのだいぶ）、福原右馬助（ふくはらうまのすけ）、池田伊予守（いけだいよのかみ）、此人々を大将として、都合（つがふ）其勢五千余騎、文禄（ぶんろく）四年七月十三日の申（さる）の刻（こく）に、伏見（ふしみ）を立ち、十四日の暮程（くれほど）に、高野山にぞ著きにける。木食上人（もくじきしやうにん）の御庵室に参（まゐ）りければ、折節（をりふし）秀次入道殿、大師の御廟所へ御参詣（ごさんけい）にて、奥（おく）の院（ゐん）におはしけるを、上人より此由申上（まうしあ）げられければ、頓（やが）て御下向あつて、三人【

NDLJP:25】の御使に御対面（ごたいめん）ある。左衛門大夫落縁（おちえん）に畏（かしこま）り、御さま変（かは）りたるを見奉り、涙（なみだ）を流しければ、入道殿御覧（ごらん）じて、いかに汝等は、入道（にふだう）が討手（うつて）に来りたるとな。此法師（ほうし）一人討たんとて、余（あま）りにこと〴〵しき振舞（ふるまい）かなと仰せければ、福原右馬助畏（かしこま）つて、さん候。御腹（おんはら）召（め）され候はゞ、御介錯（ごかいしやく）申せとの御諚（ごぢやう）にて候と申せば、扨（さて）は汝等、我首討つべきと思ふか。いかなる劔をや持（も）ちたる。いで入道も腹切（はらき）らば、首討たせんために、かたの如くの太刀を持（も）ちたるに、汝等に見せんとて、三尺五寸黄金（こがね）作（づく）りの御佩刀（はかせ）、するりと抜（ぬ）き給ひて、是れ見よと仰せける。これは右馬助若輩（じやくはい）にて、推参（すいさん）申すと思召し、重（かさ）ねて物申さば御手にかけられんと思召（おぼしめ）す御所存（ごしよぞん）とぞ見えける。三人の御小性衆は、御気色（みけしき）を見奉り、少しも働（はたら）くならば、中々（なか〳〵）御手にはかくまじき物をと思ひ、目（め）と目（め）を見合（みあは）せて、刀（かたな）の柄（つか）に手をかけ居たる有様、いかなる天魔鬼神（てんまきじん）も退くべきとぞ思はれける。入道殿は如何（いかゞ）思召しけん、御佩刀（おんはかせ）を鞘（さや）に納め給ひて、いかに汝等、入道が今まで命（いのち）ながらへたるを、さこそ臆（おく）したりと思ふべし。伏見（ふしみ）を出でし時、其夜如何にもなるべきと思ひつるが、上意（じやうい）をも待たで腹を切るならば、すはや身に誤（あやまり）あればこそ、自害（じがい）をば急ぎつれと思召さば、故（ゆゑ）なき者共（ものども）の、多く失（うしな）はれん事も不便（ふびん）なる事と思（おも）ひ、今迄（いまゝで）ながらへしぞ。今は最後（さいご）の用意すべし。相構（あひかま）へて面々頼（たの）むぞ。我に仕（つか）へし者共を、能（よ）きやうに申上げ、如何（いか）にもして申助けて入道が孝養（けうやう）にせよ。よしなき讒言にて、我（われ）こそかく成行（なりゆ）くとも、一人も罪（つみ）ある者はあるまじきぞと宣（のたま）ひしは、いとはかなき御志とぞ思はれける。頓（やが）て御座を立たせ給ひて、御ゆびかせ給ひて、御最後（ごさいご）の御用意なり。かゝりける所に、木食上人（もくじきしやうにん）を始め、一山の老僧出合ひ給ひて、三人の御使に向ひ、当山（たうざん）七百余年此方、此山へ上り給ふ人の命（いのち）を、害（がい）し給ふ事其（その）ためしなし。いかに天下の武将（ぶしやう）にてましませばとて、此由（このよし）一旦言上申さでは候はじと、老若（らうにやく）一同に申されける。御使の人々、仰（おほせ）はさる事にて候へども、兎ても角ても叶ふまじき御訴訟（ごそしよう）にて候と、再三申しけれども、此山の名を下すにて候へば、如何様（いかやう）にも言上申すべきとの詮議（せんぎ）なり。福島進み出でて、衆徒（しゆと）の仰せ尤さもあるべく候。さりながら此者共参りて、若し時刻（じこく）遷り候はゞ、迚（とて）も勘気（かんき）を蒙り、腹切れと仰せらるべし。さ思召し候はゞ、先（ま）づかく申す者を、衆徒達（しゆとたち）の御手にかけられ候て後、いかやうにも言上（ごんじやう）申され候へと、威丈高（ゐたけだか）になりて申しければ、さすがに長袖（ちやうしう）の事なれば、木食上人を始（はじ）め、一山の衆徒達力（ちから）及ばず立ち給ふ。かやうの隙（ひま）に少し時（とき）遷（うつ）り、其の夜は漸明（あ）けて、巳（み）の刻（こく）に御腹召されける。御最後（ごさいご）の有様は、さも由々（ゆゝ）しくぞ見え給ふ。御名残（おんなごり）の御盃取交（とりかは）し給ひて後、是迄（これまで）附随ひ参りたる人々を召して、いかに汝等、是（こ）れ迄（まで）の志こそ、返々（かへす〳〵）も神妙（しんべう）なれ。多くの者の其中に、五人三人最後（さいご）の供するも、前世（ぜんせ）の宿縁なるべし。一度所領（しよりやう）をも与へ、人となさんと

思ひつるに、いつとなく打過（うちす）ぎて、一旦の楽（たのし）みもなく、今かゝるめをさする事（こと）のあさましさよとて、御涙を流し給（たま）ひつゝ、いかに面々（めん〳〵）を後（あと）にこそ具すべきに、若き者共なれば、最後（さいご）の有様（ありさま）心元（こゝろもと）なし。其上みづから腹切（はらき）ると聞かば、雑兵共（ざふひやうども）がみだれ入り、事騒（ことさわが）しく見苦（みぐる）しがるべし。是れにて腹切れとて、山本主殿に、国吉（くによし）の御脇指（おんわきざし）を下されける。主殿（とのも）承りて、某は御介錯（ごかいしやく）仕り、御後（あと）【

NDLJP:26】にこそと存じ候へ共、御先（おさき）へ参り、死出（しで）三途（さんづ）して苛責（かしやく）其に中付け、道（みち）清（きよ）めさせ用すべしと、につこと笑つて戯れしは、さも由々（ゆゝ）しく見えたれ。誠に閻魔倶生神（えんまぐしやうじん）も、恐れぬべき振舞なり。彼御脇指を戴（いたゞ）き、西に向ひ十念（ねん）して、腹十文字に搔破（かいやぶ）り、五臓（ざう）を繰出しけるを、御手（おんて）にかけて打ち給ふ。今年十九歳、初花の稍（やゝ）綻（ほころ）ぶる風情（ふぜい）なるを、時ならぬ嵐（あらし）の吹き落したる如くなり。其次に山本三十郎を召して、汝もこれにて切れとて、安川藤四郎の九寸八分ありけるを下（くだ）さるゝ。承（うけたまは）りて候とて、これも十九にて神妙（しんべう）に腹切り、御手にかゝる。三番に不破（ふは）の満作（まんさく）には、しのぎ藤四郎を下され、思（おも）ふ仔細（しさい）のあれば、汝も我手（わがて）にかゝれと仰せければ、いかにも御諚（ごぢやう）に従ひ奉るべしとて、御脇指を頂戴（ちやうだい）して、生年十七歳、雪（ゆき）より白（しろ）く清（きよ）げなる肌（はだ）を押開き、左手（ゆんで）の乳（ち）の上に突立て、右手（めて）の細腰（ほそこし）まで引下げたるを御覧（ごらん）じて、いしくも仕たりとて、御太刀を振上（ふりあ）げ給ふかと思へば、首（くび）は先へぞ飛（と）んだりける。彼等（かれら）は常に御情深き者共なれば、人手にかけじと思召（おぼしめ）す、御契（おんちぎり）の程こそ浅からね。かくて入道殿は、御手水（おんてうづ）嗽ひしたまひて後（のち）、りう西堂を召して、其身は出家の事なれば誰か咎（とが）むべき。急（いそ）ぎ都へ上り、我が後世（ごせ）弔ひ候へと仰せければ、口惜（くちを）しき御諚（ごぢやう）にて候。是れ迄御供申し、唯今御暇給はり、都（みやこ）へ上り候とも、何の楽（たのし）み候べき。其上恩深（ふか）き者共は、出家とて、いかで許され候はん。僅（わづか）の命ながらへて、都まで上り、人手（ひとで）にかかり候はん事、思ひも寄らず候と申し切つて、これも御供（おんとも）に極まりける。此僧（このそう）は内典外典（ないてんげてん）暗からず弁舌人に勝れければ、御前を去らず仕へしが、いかなる事にや出家の身として、御最後（ごさいご）の御供申さるゝこそ不思議（ふしぎ）なれ。かくて入道殿は、両眠（りやうがん）を塞ぎ観念して、本来無東西何所有南北と観じて後、篠部淡路守を召されて、汝此度跡（あと）を慕ひこれ迄参りたる志、生々（しやう〳〵）世々（せゝ）迄報じ難き忠ぞかし。とてもの事に我れ介錯（かいしやく）して供せよと仰せける。淡路承つて、此度御跡（おんあと）を慕ひ参らんと志し候者共、いかばかりあるべき中に、某（それがし）武運に叶ひ、御最後（ごさいご）の御供申すのみならず、御介錯まで仰付けらるゝこと、今生（こんじやう）の望み、何事か是れに過ぎ候べきと申せば、御心地よげに打笑み給ひて、さらば御腰（おんこし）の物と仰せける時、四方様の供饗に、一尺三寸の正宗（まさむね）の御脇指の中巻（なかまき）したるを進（まゐ）らせ上ぐるを、右の御手に取り給ひて、左の御手にて、御心元を揉（も）み下（さ）げて、ゆんでの脇（わき）に突立て、めてへきつと引廻し給へは、御腰骨（おんこしぼね）少しかゝると見えしを、淡路御後へ廻（まは）りければ、暫く待てと宣（のたま）ひて、又取直し、胸先より押下げ給ふ所を、頓て御首討ち奉る。惜（をし）むべき御年かな、三十一を一期（ご）として、嵐に脆（もろ）き露の如く消え給ふ。りう西堂参（まゐ）りて御死骸納（をさ）め奉り、これも御供（おんとも）申しける。淡路守、我郎等（らうどう）を近づけて、手水嗽ひして、秀次の御首を拝し奉りて後、検使（けんし）の人々に向ひ、某身不肖（ふせう）に候へども、此度御

跡を慕ひ参りたる御恩に、御介錯仰付けらるゝは弓矢取つての面目と存候。あはれ見給ふ方々は、念仏（ねんぶつ）申してたび候へといひもあへず、一尺三寸平作（ひらづくり）の脇指を、太腹（ふとばら）に二刀さしけるが、切先五寸計後へ突通して、又取直し、首に押当て、左右（さう）の手を掛けて、前へふつと押落しければ、首を膝（ひざ）に抱きて、軀（むくろ）は上に重なりけり。見る人目を驚かし、あはれ大剛の（たいがう）者かな。腹切る者は世に多かるべきが、かゝるためしは伝へても聞かずとて、諸人【

NDLJP:27】一度にあつとぞ感じける。

秀次君達の御事

さる程に、此関白殿は、御思（おのも）ひ人（びと）多き中にも、若君（わかぎみ）三人おはします。御嫡子（ちやくし）は仙千代丸と申して、五歳になり給ふ。次をば御百丸とて四歳、三男は御十丸。何れも玉（たま）を研（みが）きたる如くにて、父御の御寵愛（ごちようあい）浅（あさ）からず、片時（へんし）も離れ給はでおはしける。常には伏見殿へ御参りの時も、同じ御車にて座しける。此度は、何とて我々をば召連れ給はぬぞ。父はいづくへ御渡り候ぞや。急ぎ父のおはします方へ、我を具して参れ。我先（われさき）に行かん、我も行かんと、声々（こゑ〴〵）に泣き叫び給へば、母上達は落つる涙を押へつゝ、大殿（おほとの）は、西方浄土と申して、めでたき所へ渡らせ給ひ候。若君達をも、頓て御迎へ参り候べし。暫（しばら）く御待ちあれといひもあへず、涙に搔暮（かきく）れ給へば、中居（なかゐ）末々（すゑ〴〵）の女房童に至る迄、伏転（ふしまろ）びてぞ泣き叫びける。若君達は此由聞召（きこしめ）して、さらば御迎へ参らずとも、急（いそ）ぎ其西方浄土とやらんへ、我を具して行き給へ。唯今行かん。御車こしらへよ、御馬に鞍置（くらお）けよとて責（せ）め給へば、いとゞ遣（や）る方なき御身どもの、置き所なくて、たゞ伏沈（ふしゝづ）み泣沈み給ふ有様、哀（あは）れとも中々に、たとへていはん方もなし。昔（むかし）平治年中に、待賢門（たいけんもん）の軍に打負け給ふ義朝の思ひ人常磐御前（ときはごぜん）は、三人の若君を引具（ひきぐ）して、大和路（やまとぢ）指して落ち給ふもかくやと思ひ知られたり。されども夫れは敵の（かたき）の手をも脱れつれば、少しは頼（たの）みもありぬべし。此人々は籠（かご）の中の鳥の如くにて、如何程（いかほど）あこがれ給ふとも、露（つゆ）の頼（たの）みもあらばこそと、見る人聞く人、袖（そで）を湿らさぬはなかりけり。

秀次入道殿御首実検の事

同じき七月十七日に、入道殿御首（おんくび）并に御供申せし輩（ともがら）の首共を、伏見へさしのぼせ、太閤（たいかふ）の御目に懸け奉れば、さしも御いとほしみ深く思召しつる御養君（おんやしなひぎみ）にておはしけるに、今引換（ひきか）へて、御憤（おにきどほ）り深く思召し、さるにても天罰（てんばつ）を受けたる者の、なれる果のあさましさよ。後代（こうだい）のためしなれば、急ぎ都へ上せ、三条の橋（はし）にて、七日晒（さら）すべしとの御諚にて、三条川原にかけ奉る。京中の貴賤（きせん）群集（ぐんじゆ）して、御有様を見奉り、哀（あは）れ人の身（み）の上（うへ）程（ほど）定めなきものはなし。今日此頃迄、諸国（しよこく）の大名（だいみやう）にいつきかしづかれ給（たま）ひて、何事（なにごと）も御心の儘に振舞（ふるま）ひ給ひつるに、かやうに浅猿（あさま）しく成行き給はんとは、誰か思ひ寄るべきぞ。知（し）らぬは人の行末（ゆくすゑ）の空と、詠（よ）み置きしこそ誠なれといひ語らひ、諸人涙（なみだ）を流しける所に、年の程八十に及びたるらんと見えて、色黒（いろくろ）く脊高く荒々（あら〳〵）しき禅門（ぜんもん）、歪（ゆが）みたる杖を曳きずり、汗水（あせみづ）になりて足早に歩（あゆ）みより、余多の人を押分けてはゞり出でて、大の声にてから〳〵と打笑（うちわら）ひ、さても〳〵、人は現在のありさまにて、過去（くわこ）未来（みらい）を知るといへば、前生の戒力にて、一旦は栄華（えいぐわ）に誇（ほこ）るといへども、かやうに目の前にて、あさましき体に成り果てゝ、さこそ

来世（らいせ）は修羅道（しゆらだう）に落ちて、長く浮むまじき人のなれる果や。われ八十になり、杖柱（つゑはしら）共頼みつる子を、故もなく失はれ、兎にも角にも成（な）るべきと思ひつれども、孫共の幼くて、世になしものとならんを不愍（ふびん）さに、つれなく命ながらへて、今又かゝる【

NDLJP:28】不思議（ふしぎ）を見る事よ。あら面憎やと思ふ心地（こゝち）にて、歯切（はぎしり）してぞ罵りける。諸人（しよにん）、こは如何なる物狂ひぞやと怪みけるに、此禅門（ぜんもん）は、都の方辺土にて、田畠多く持（も）ちて富める民なるが、一とせ訴訟（そしよう）ありて、彼が嫡子（ちやくし）奉行所へ参りける。世に勝れて肥りせめて、大の男なるを、何者（なにもの）か申上げたりけん、故（ゆゑ）なく搦（から）め取り、訴訟うつたへの沙汰（さた）もなく、頓（やが）て其夜に切られけるとなり。これは如何なる事ぞといへば、其頃関東（くわんとう）より、鍛冶の上手を召上せられ、あまたの太刀を打たせ給ふ中にも、三尺五寸の太刀を打ちたてゝ参らせければ、此太刀（たち）のかねを験（ため）し試（こゝろ）み給はんとて、大の男の肥りたる者もがな、いづくにても見出（みいだ）したらば、窃（ひそか）に召し連れ参れと、内々仰せけるを、若殿原（わかとのばら）承り、折に幸と申上げけるとぞ聞えける。

木村常陸父子最後の事

木村常陸の守定光は、関白殿（くわんぱくどの）伏見へ御参りの時も、色々（いろ〳〵）申留め奉れども、阿波（あは）の木工之助が申すに附き給ひて出御なる。常陸力及ばで居たりけるが、猶御心許（おんこゝろもと）なく存じければ、御跡を慕ひ、五条の橋迄見（み）え隠（がく）れに参りけるが、先々の様を見ばやと思ひ、夫れより道をかへて、竹田へ直（すぐ）に打つて出でけるに、竹田の宿外れには、鞍置（くらお）きたる馬共、爰（こゝ）かしこに引立てゝ、物具（もののぐ）したる兵並みゐたり。すはや危し。我君（わがきみ）をはや道にて討ち奉ると覚（おぼ）ゆるなり。いつまで命を長（なが）らふべきぞ。いかに汝等、皆徒立（かちだち）にて叶ふまじけれども、我に命惜しからぬものは、向（むか）ふかたきを一さゝへ支へよ。我は其隙に駆（か）け通りて、石田（いしだ）めが駆（か）け廻らんに、踏（ふ）み落（おと）し、首取つて後腹切るべしとて、既に駆（か）け出でんとしける所に、野中清六とて、十九になるわつぱ、馬の口に取付（とりつ）き、暫く待ち給へ。縦ひ鬼神の働（はたらき）を致し候とも、此分にて、いかで駆抜け給ふべき。先々に人数を伏せて、待つ体とこそ見えて候へ。さあらば雑兵（ざふひやう）の手にかかり、犬死し給ふべし。先づ是より山崎（やまざき）に打越え給ひて、夜に入り忍び入り、いかさまにも計ひ給へかし。さらずば一度北国へ下り給ひて、城に楯籠（たてこも）り給はゞ、国々へ下りたる味方共（みかたども）、馳せ集まり候べし。其時一合戦（かつせん）して、主君の為に命を棄（す）てさせ給はゞ、御名を残し給ふべしと、おとなしくいひければ、残（のこ）る者共、此儀然るべきとて、夫れより東寺を西へ、向（むか）うの明神へかゝりあゆませ、山崎たから寺に、日頃好（よしみ）ある僧（そう）の許へ忍び入り、伏見のやうを聞き居たりしに、関白殿は高野（かうや）へ渡り給ふと聞きて、さては未だ御命にさかいなし。いかにもして御跡（おんあと）を慕（した）ひ参らんと思ふ中に、下人共皆落失（おちう）せければ、唯羽抜鳥（はぬけどり）の如くにて、呆（あき）れ果てゝぞゐたりける。されば宿の者共此由を聞き、此人々（ひと〴〵）を隠し置きたりなどと聞食（きこしめ）しては一大事とて、頓（やが）て伏見へ申上げければ、それより検使立つて、七月十五日に腹を切りける。子息木村志摩の助は、北山に忍びゐたるが、父の最後（さいご）の由聞きて、頓（やが）て其日寺町正行寺にて、自害してこそ果てたりけれ。

熊谷最後の事^附下人追腹切る事

熊谷大膳は、嵯峨（さが）二尊院に居たりけるを、徳善院（とくぜんゐん）承りて、同七月十五日に、同七月十五日に、松田勝右衛門といふ家老（からう）【

NDLJP:29】の者を遣しける。松田は先づ釈迦堂迄来り、それより人を遣し、秀次今日高野にて御腹召され候。急（いそ）ぎ御供あるべきとの上意（じやうい）を、徳善院承りて、松田これ迄参（まゐ）りて候。日頃御懇志（ごこんし）に預り候へば、何事も思召し置かるゝ事の候はゞ、承り候へと申しつがひければ、大膳（だいぜん）使に出で合ひて、上意の御使にて候へば、夫（そ）れ迄罷出で対面申度候へども、御気遣ひもあるべければ、これへ御入り候へかし。最後（さいご）の御暇乞をも申し、又頼（たの）み申度事の候由返事しければ、松田頓て内へ入る。大膳出で合ひ、これ迄御越し満足（まんぞく）申候。左候へば、我等召遣（めしつか）ひ候者共、最後の供（とも）仕るべき由申候を、色々申留め候。若し某果て申候後にて、一人なりとも此旨（このむね）背きたる者は、来世（らいせ）まで勘当たるべく候。其上其者の一類を、五畿内近国を御払ひ候うてたび候へ。返々を、重海の勘当（かんだう）たるべして、様々の誓（ちかひ）にて、其後最後（さいご）の御盃持つて参れとて、松田と最後の盃（さかづき）取交しける隙に、大膳が郎等共、御最後の御供申さばこそ、勘当（かんだう）をも蒙り候はめ。御先へ参り候上はとて、三人一所にて腹切つてぞ死んだりける。残（のこ）る者共之を見て、尤是は理（ことわり）とて、我も〳〵と心ざしけるを、松田が郎等（らうどう）は寺中の僧達出合ひて、一人には五人三人づつ取付きて先づ太刀刀を奪ひ取る。大膳之を見て不覚なる者共哉。誠の志あらば、命長らへて、熊谷後世を弔（とぶら）ひてくれよかし。却てよみぢの障（さはり）とならんと思ふかや。此世にてこそ、主のために命を捨つべけれ。御助あらば、此大膳は、唯今にても出家して、主君の御菩提（おんぼだい）を弔ひ奉るべけれども、御許なければ、力なしとて、涙に咽（むせ）びければ、此上は力なしとて、皆髪を剃（そ）り、主（あるじ）の御房の御弟子になり、後をば念頃（ねんごろ）に弔ひ奉るべし。御心安く思召（おぼしめ）して、御最後の御用意候へと申す。熊谷斜に喜び、頓て行水（ぎやうずゐ）して、仏前（ぶつぜん）に向ひ礼し、客殿の前に畳裏返して重ね、其上にて水盃取交し、供饗に載せたる脇指（わきざし）を取り、西に向ひ、立ちながら腹十文字に切つて、首を延（の）べてぞ討たせける。松田も日頃深き契（ちぎり）なれば、涙に咽（むせ）びつゝ、主（あるじ）の御房（ごぼう）に申合せ、百箇日迄の弔ひかたの如くに勤めける。さるにても熊谷は小身なれども、日頃の情や深かりけん。又は其身（そのみ）大功（たいこう）の者なれば、下々迄も心勝りつらん。誠に栴檀（せんだん）の林に生ふる木なりとて諸人感じける。

白井備後阿波の木工最後の事

白井備後（しらゐびんご）阿波の木工は、鞍馬の奥迄立退（たちの）き、上意いかゞと待つ所に、徳善院の方より、小池清左衛門を遣（つかは）して、関白殿の御事、北の政所より仰せられ、御命（おんいのち）ばかり申助け奉らんとて、様々（さま〳〵）に仰せ上げられけれども、いかにも叶（かな）ふまじき由御返事（ごへんじ）にて、検使の為に福島左衛門大輔、福原右馬助、池田伊予の守、此三人を遣され候。急ぎ最後（さいご）の御用意候べし。又思召し置く事候はゞ、此者に仰聞けられ候へ。後（あと）の御孝養（ごけうやう）は、懇に沙汰（さた）し申すべしといひ遣されける。両人清左衛門に対面（たいめん）して、法印（ほういん）の御心付過分（くわぶん）に候。迚（とて）もの御事に、日頃頼みつる上人の方へ召連（めしつ）れくれ候事は、御辺（ごへん）の心得として、なるまじきかと頼（たの）まれければ、清左衛門聞いて、いと易き御事にて候。法印（ほういん）も其趣申付け候とて、旧（ふる）き釣輿（つりかご）に載せ、白井は大雲院の御寺にて腹切る。木工の助は粟田口（あはたぐち）の鳥の小路（こうぢ）といふ者の方にて、時をも変（か）へ【

NDLJP:30】ず果てたりけり。

備後が女房最後の事^附幽霊の事

白井が女房は、北山（きたやま）辺に忍びてありけるが、妻の最後（さいご）の有様を聞いて、少しも騒（さわ）がず。夫れ弓取（ゆみとり）の妻は、昔（むかし）よりかゝるためしのあるぞかし。みづから十二歳にて見（まみ）え初めてより此方（このかた）、一日（いしにち）片時（へんし）も離（はな）れずして、此度後に残（のこ）るとも、幾程（いくほど）の齢を保ち、如何なる栄華に誇るべきぞや。其上此人々の妻や子は、如何（いか）に忍ぶとも、終には捜し出されて、失はれん事は疑（うたが）ひなしと、思ひ定めければ、召遣ひつる女童（めのわらは）にも、夫々にかたみを遣し、縁（ゆかり）共の方へ返し遣し、二歳になる姫をめのとに抱（いだ）かせ、大雲院貞庵上人の御寺へ参り、是は備後が妻（つま）や子（こ）にて候。頼（たの）む方なき身となり候へば、夫（つま）の後を慕ひ参り候べし。なからん跡を御弔（おんとぶら）ひ候てたび候へと申しければ、上人は聞召し、貞女両夫（りやうふ）に見（まみ）えずとは、かやうの人を申すらめ。隠（かく）れなき人の妻なれば、言上（ごんじやう）申さでは叶ふまじ。先づ是（これ）へ入らせ給へとて請じ入れ、頓て徳善院へ申されける。法印（ほういん）此由言上申されければ、太閤憐（あは）れにや思召しけん、男（をのこ）の子あらば害すべし。女は法印が計ひにて助けよとの御諚（ごぢやう）なり。法印方より、此由貞庵へ申されければ、上人（しやうにん）喜び、御命は申請（まうしう）けて候へば、御心易（やす）く思召せと仰せけり。女房聞いて、有難（ありがた）き上人の御慈悲にて候へども、命長らへ候共、誰（たれ）を頼（たの）み、いづくに身を隠（かく）し候はん。たゞ〳〵夫（つま）の跡を慕ひ申すべし。又これに候姫（ひめ）、二歳にて候。上人の御慈悲には、いかなる者にも預（あづ）けたまひて、若（も）し人となり候はゞ、自らが跡弔（とぶら）はせてたび候へとて、正宗の守刀に、黄金三百両添へ、上人に渡し給ふ。貞庵聞召（きこしめ）し、仰（おほせ）はさる事にて候へども、先（ま）づ御命を長らへ給ひて、夫（つま）の後世（ごせ）菩提をもとひ給はんこそ、誠の道にて候はめと、いろ〳〵に留め給へば、さらばさま変（か）へてたび候へとて、緑の髪（かみ）を剃（そ）りこぼし、墨染（すみぞめ）の衣著て、よもすがら念仏（ねんぶつ）申しておはしけるが、暁方（あけがた）にめのとは姫を抱（いだ）き、少し睡（まどろ）みける隙に、守刀を取出し、心元にさし当て、うつぶしになりて空（むな）しくなる。めのと驚き、上人へ此由申せば、貞庵も涙と共に、孝養（けうやう）念頃にし給ひて、彼姫をば五条あたりに、人あまた附けて育（そだ）てさせ、十五の年能き幸ありて富（と）み栄（さか）えけり。

備後夫婦夢に見ゆる事

又何よりも哀（あは）れ深き事こそあれ。此姫（このひめ）幼なき時より、読み書く事に心を染（そ）め、あまたの双紙（さうし）を集め見るにも、是は誰人の御子、父はその某（それがし）、母は誰人のむすめとあるに、我はいかなる身なれば、父とも母ともいふ人のなきこそ不思議（ふしぎ）なれと、思ひ暮しけるが、或時めのとに向ひ、あの鳥類畜類（てうるゐちくるゐ）も、親子の道はあると聞く。況して我は人間にて、父とも母とも知らざる事こそ浅（あさ）ましけれと、搔口説きければ、めのと涙に咽（むせ）びけるが、やゝありて、疾くにも斯くと申度は候ひつれども、幼き御心一つにて、歎（なげ）き給はん事を痛はしく思ひ、打過（うちす）ぐしつるぞや。此上は力なし。父御は白井備後の守殿と申して、天が下の大名（だいみやう）小名（せうみやう）に知られさせ給ひしが、前関白秀次御謀叛（ごむほん）思召し立ちし事顕（あら）はれ、高野山にて御腹めされ候。其御内にて人にも知られ〔〈此間三行不明〉〕れて人手にはかゝらじと思召し、此間三貞庵上人を頼（たの）み給ひ、御【

NDLJP:31】ぐし下し、頓て御自害し給ひしぞかし。御身をば自（みづか）らに預け給ひしを、上人の御慈悲にて、年月を明（あか）し暮（くら）し候ぞや。しかも今年は十三年にも当（あた）り候へば、猶々上人を頼（たの）み給ひて、父母の菩提（ぼだい）をとひ給へといひもあへず、泣き沈みけり。姫は此由聞召し、あらつれなの人の心やな、問（と）はずばいつまで包むべきぞ。縦（たと）ひ父こそ主君のために、果敢なくなり給ふとも、などか母上は我を捨（す）て置き給ひて、今かかる憂目（うきめ）を見せ給ふぞや。二歳の時、いかにも成るならば、今かゝる思ひはよもあらじ。うらめしの浮身（うきみ）やとて、人目（ひとめ）も恥ぢず泣き給ふ。めのとは涙を押へて、歎き給ふは、御ことわりにて候へども、夫（そ）れ女は五障（しやう）三従とて、罪業（ざいごふ）深き事海山（うみやま）にも譬へ難し。其上劔の先にかゝり果て給へば、猶しも罪深（つみふか）く思召し、後の世弔（とぶら）はれ給はんとて、御身を浮世に残し給へば、いかやうにも父母の御孝養（ごけうやう）し給ひ、御身の後の世をも仏に祈（いの）り給はんこそは、孝行の道にておはしませ。斯く申す事を用ひ給はずば、今より後は、自らも捨て参（まゐ）らせて、何方（いづかた）へも参り候はんと、搔口説（かきくど）きければ、姫君聞きもあへず、恨（うら）めしのいひ事や、二歳にて父母に後（おく）れ、今又めのとに捨てられば、何を便（たよ）りに浮草（うきくさ）の、波に漂（たゞよ）ふ有様にて、寄辺（よるべ）をいづくと定むべき。兎も角も計（はから）ひのなどあしかるべき。殊更（ことさら）親の菩提を弔はんに、いかで愚のあるべきぞとて、それより明暮（あけくれ）念仏申し経を読み、偏（ひとへ）に後世菩提の外は、心にかくる事もなし。斯くて春も暮れ夏長けて、五月の末つ方より、大雲院にて四十八夜の別時念仏を初め、結願（けちぐわん）を命日に当（あた）るやうに志して、様々に弔（とぶら）ひけるが、七月十四日の夜明（あけ）、結願（けちぐわん）の日なれば、いと名残惜（なごりを）しく思ひ、仏の御前に通夜申し、殊更孟蘭盆（うらぼん）の事なれば、万（よろづ）の亡者も、娑婆世界（しやばせかい）に来るなれば、三界平等利益（がいびやうどうりやく）と廻回（ゑかう）して、少し睡（まどろ）みける夢に、其年四十余りと見えし人の、唐綾（からあや）の装束に、冠を著し、笏（しやく）取直し仏壇におはします。又三十路余（あま）りと見えたるに、濃紫（こいむらさき）の薄衣（うすぎぬ）に、墨染の衣著て、右の座（ざ）に直り給ふ。夢心（ゆめごゝろ）にも不思議に思ひ、あたりなる人に問ひければ、あれこそ白井備後守殿夫婦にて候へと語る。扨は我父母にてましますぞや、是れこそ姫（ひめ）にて候へと、いはんと思ふ所に、俄に千万の雷鳴（な）り渡（わた）り、天地も覆（くつがへ）すかと恐しく思ふに、丈二丈計にて、眼は日月（じつげつ）の光の如くなる鬼（おに）の、五体に朱（しゆ）を塗（ぬ）りたるやうにて、口には炎（ほのほ）を吹き出して、いかに罪人、片時（へんし）の暇と申しつるに、何とて遅きぞ、急（いそ）ぎ帰れと怒（いかり）をなしければ、こはそも斯る憂目（うきめ）に会ひ給ふぞやと、心憂（う）く思ひ居たるに、八旬に余り給ふと覚しき老僧、いづくともなく来り給ひて、仏の御前なる百味の飲食（おんじき）を取りて、此呵責（かしやく）に与へ給へば、其時鬼共怒（いかり）を止め、却て恐れをなして立去りければ、俄に紫雲（しうん）たなびき、空より音楽（おんがく）響きて、異香（いきやう）薫（くん）じ、二人の親と聞きし人は、忽ち金色（こんじき）の仏と顕れ、金の蓮に乗りて天生し給ふ。其時彼姫夢心に、有難き事なれども、余り名残惜しき事と思ひて、しばらくとて、裳裾（もすそ）に縋（すが）ると思へば、夢は覚めて、仏前（ぶつぜん）にかゝりたる旗の脚に取附きてぞ居たりける。余りに有難く不思議に思ひ、あたりを見れば、めのとも障子（しやうじ）に寄添ひ眠り居たるを驚かしければ、有難（ありがた）き夢を見つるに、驚かし給ふ物かなといふ。いとゞ不審（ふしん）に思ひ、いかなる夢ぞや、みづからも恐しく、又有難き夢の告ありとて、互に語（かた）りけるに少しも違はず。夜明（よあ）け【

NDLJP:32】て後も、暫し紫雲（しうん）たなびき、虚空（こくう）に異香（いきやう）薫（くん）じける。末世（まつせ）とはいへども、誠の志あれば、かゝる奇特（きどく）もありけるとて、貴賤の輩皆歓喜（くわんぎ）してこそ帰りけれ。

木村常陸が妻子の事

又何よりも痛（いた）はしきは、常陸（ひたち）の守（かみ）が妻や子の最後（さいご）の有様なり。十三になる娘のありしが、並びなき美人なれば、関白聞食し及び、度々召しけれども、常陸いかゞ思ひけん、ちと痛（いた）はる事候とて、母に附けて越前に下し置きしが、最後（さいご）の時に、野中清六といふ童（わらは）を近付け、汝最後（さいご）に供せんと思ふ志は浅（あさ）からねども、暫（しばら）く命長らへて、北国へ下り、我が老母妻子のあらんを、兎（と）も角（かく）も計へかしといひ含（ふく）めければ、野中、いかさまにも御諚（ごぢやう）に従ひ候べしとて、急ぎ越前に下り、木村が母女房に向ひ、殿（との）は都にて御腹召され候。急ぎ何方へも忍ばせ給へと申しければ、女房聞いて、さりとも今（いま）一度（ど）見（み）もし見（み）えもして、兎も角もならばやとこそ願ひつるに、早や先立ち給ふ事の悲しさよ。心に任（まか）せぬ憂世（うきよ）とはいひながら、あさましき我身（わがみ）かな。今は少しも命（いのち）長らへても詮（せん）なし。急ぎ害せよ。死出の山にて待ち給ふらんと歎（かこ）ちける。野中思ひけるやうは、三人の人々を害（がい）せんとせば、愚（おろか）なる女童共、取付き縋（すが）り付き悲むならば、思ふやうにはなくて、わびしくあさましき事のあるべし。たゞ某腹切（はらき）つて見（み）せばやと思ひ、早や唯今（たゞいま）都より御迎ひ参り候べし。さあらば賤（いや）しき者の手にかゝり給ひて、一門の御名を下し給ふべし。急（いそ）がせ給へ。某は殿（との）の御待ち候はんに、先づ御供に参り候といひも果てず、腹（はら）十文字（もんじ）に搔切（かきき）つてぞ死にける。女房此由を見て、扨（さて）は童（わらは）が最後を急げと、常陸の守いひ含めつらん。いざや父の跡を慕（した）へとて、十三になる姫（ひめ）を害せんとしければ、めのとの女房縋（すが）りつきて引退くる。ありあふ者は、皆女童（めのわらは）なれば、当座の憂目を見（み）じと思ふ計にて、我も〳〵と抱（いだ）き付き、縋り付きて引退くる。木村が女房は、力及ばで立退（たちの）き、浅猿（あさま）しのめのとが心や、縦ひみづからが手にかけずとも、遁（のが）れ果つべき命かや。尊（たか）きも卑（いや）しきも、わりなく命を惜（をし）めば、必す恥（はぢ）を晒（さら）すものぞやとて、木村が老母に向ひ、急（いそ）ぎ最後の御用意候へかし。みづからは御先へ参り候とて、守刀取出し、甲斐々々（かひ〴〵）しく自害して果（は）てられたり。老母は日頃（ひごろ）頼みつる智識（ちしき）を請（しやう）じ奉り、身に触（ふ）れたる小袖共に金を取添へ参らせ、一門の後世（ごせ）弔ひてたび候へと、委（くは）しくいひ置き、是も自害して果（は）てられける。其後（のち）めのとは姫を抱（いだ）き出でけれども、女心の果敢（はか）なさは、いづくを指（さ）し、誰を頼（たの）むともなくうかれ出で、峯に上り谷へ下り、足に任（まか）せて迷（まよ）ひけれども、いつならはしの事ならねば、足より流（なが）るゝ血は、裳裾（もすそ）も草木も染（そ）め渡す。たどり〳〵行き廻りて、嶮（さか）しき巌石に踏（ふ）み迷ひ、一足行きてはたゝずみ、二足行きては休らひつゝ、夜（よ）もすがら涙（なみだ）と露（つゆ）にしをれつゝ、詮方（せんかた）なさの余りに、いかなる獣も出でて、我命を取りて行けよかし。あら恨（うら）めしのめのとや、母諸共（もろとも）に行くならば、死出（しで）の山を越え、三途（さんづ）の河を渡るとも、かほど憂目（うきめ）はよもあらじ。いづくにも深（ふか）き淵河のあらん方へ出でて、身を沈（しづ）めんと思（おも）ひ、谷について下りければ、やう〳〵

東雲（しのゝめ）の空も明（あ）け渡り、山田守る賤（しづ）が家路に帰るに行逢ひて、道に踏（ふ）み迷（まよ）ひたるぞ、道（みち）しるべせよとい【 NDLJP:33】へば、某参り候方へ出でさせ給へとて、先（さき）に立ちて歩みける。いと嬉（うれ）しくて、此者を見離さじと転（まろ）び倒（たふ）れて、慕（した）ひ出でられければ、本の在所（ざいしよ）へ出来り、都より尋ね来りたる者共（ものども）に行きあひ都に上り、三条河原にて害（がい）せられて、後迄（のちまで）死骸を晒（さら）されける、因果（いんぐわ）の程こそあさましけれ。

秀次老母の御事

関白（くわんぱく）の御母上は、太閤（たいかふ）御姉（おんあね）御前（ごぜん）にておはしければ、諸国の大名に仰（あふ）ぎかしづかれてまし〳〵けるに、此度不思議（ふしぎ）の出（い）で来（き）、御心を砕（くだ）き給ふ所に、早（は）や高野にて御腹（おんはら）召（め）されたる由聞食し、是（これ）は夢か現（うつゝ）か、夢ならば、覚（さ）めての後はいかならんといひもあへず、御心地取失（とりうしな）ひ給ふを、あまたの女房達（にようぼうたち）、御薬参（まゐ）らせ様々して呼（よ）び活（い）け奉れば、少（すこ）し心づき給ひて、扨（さて）も世には、神も仏もましまさぬかや。我れ此程祈（いの）りつるは、いかにもして此度の難（なん）を転じ給はゞ、伊勢太神宮を始（はじ）め奉り、日本国中の大社を、造立（ざうりふ）し奉るべし。其外の神々へも、奉幣（ほうへい）を捧（さゝ）げ、御神楽を奏（そう）し、神慮（しんりよ）を鎮（しづ）め奉らん。神も仏も昔は凡夫（ぼんぷ）にておはしませば、恩愛（おんあい）の哀れは知食（しろしめ）さるべし。若し此願叶（かな）はずば、我命を取（と）り給へと祈（いの）りつるに、切（せめ）て一方はなど叶へ給はぬぞと、搔口説（かきくど）き歎（なげ）き給ふは理（ことわり）なり。誠に人の親の習ひにて、賤（いや）しき者のあまたある子の中に、独り欠けたるをだに歎くぞかし。況（ま）してや類なき一人の御子にて、天が下を御心（みこゝろ）の儀に計（はから）ひ給ふ御身の、御心に任（まか）せぬ世の習（ならひ）こそ悲しけれ。見るもの聞くもの涙を流（なが）さぬはなかりけり。斯くては命長（なが）らへじとおぼしめし、自害（じがい）を心がけ給へども、附随（つきしたが）ふ人々守（まも）り居（ゐ）ければ、それも叶はずして、いつしか御心（みこゝろ）狂乱（きやうらん）し給ふ。太閤此由（このよし）聞食し、さすが連枝（れんし）の御事なれば、痛（いた）はしく思召し、幸蔵主（かうざうす）を遣はされ、御歎（おんなげ）きはさる事にて侍れども、それは先世（せんぜ）の業因（ごふいん）を知食されざる故にて候。たゞ何事も夢（ゆめ）の中と思召し、後世（ごせ）を弔（とぶら）ひ給はんこそ、誠（まこと）の道にて候はんずれ。悪（あ）しく心得給はゞ、共に又来世（らいせ）迄も、あさましくこそ覚え候へと、様々慰（なぐさ）め給ひ、頓（やが）て都の中に、村雲（むらくも）の御所（ごしよ）と申して、新造を立てられ、明暮（あけくれ）法華妙典を読誦（どくじゆ）し、釈迦多宝の両尊に、秀次の御影（みえい）を据（す）ゑ、御供（おんとも）申せし人々の位牌（ゐはい）を並（なら）べ給ひて、臨終正念南無妙法蓮華経と、一心（しん）に行（おこな）ひ済（す）まし、七十三にて、成仏（じやうぶつ）の素懐（そくわい）を遂（と）げ給ふ。されば今（いま）の世（よ）迄（まで）も其跡（そのあと）を垂（た）れ、憂（うれひ）深き方々は、此寺に入り給ひ、行住坐臥（ぎやうぢうざぐわ）に、只妙法蓮華を含（ふく）み、臨終（りんじう）の夕（ゆふべ）を待（ま）ち給ふこそ有難（ありがた）けれ。

【

NDLJP:34】

巻之下

若君^并三十余人の女房達洛中渡され^附最後の事

秀次公（ひでつぐこう）は隠（かく）れなき色好（いろごの）みにて、あまたの御思（おのも）ひ人（びと）おはしける。其頃遠国（ゑんごく）遠離（ゑんり）の果（はて）迄も、尋ね給ひて、みめ容（かたち）すぐれたるをば、大名（だいみやう）小名（せうみやう）の娘によらず召聚（めしあつ）められ、百千（もゝち）の人の中（なか）よりも、選（えら）び勝（すぐ）りし事なれば、三十余人の内は、何（いづ）れを如何（いか）にといはん方なき美人達にてぞおはしける。玉（たま）の簾錦（すだれにしき）の帳（とばり）の中に金銀（きん〴〵）を鏤（ちりば）め、色を尽（つく）したる襲（かさ）ねの衣（ころも）を身に纏（まと）ひ、常は源氏伊勢物語の辞を弄（もてあそ）び、古今万葉の歌を学び、或時は琵琶（びわ）を弾（たん）じ、或時は琴（こと）を調（しら）べ、明暮（あけくれ）栄華（えいぐわ）に誇（ほこ）り、日の影（かげ）をだに見給はねば、況（ま）して人の見奉る事もなかりつるに、情（なさけ）なくもいぶせき雑車（ざふぐるま）に、取載（とりの）せ参らする事の痛（いた）はしさよとて、卑（いや）しき賤（しづ）の女（をんな）猛（たけ）き武士（ものゝふ）も、涙を流さぬはなかりけり。されば秀次公、五人の御子を儲（まう）け給ひし。姫君は、摂津（せつつ）の国（くに）小浜（をはま）の寺の御坊の娘、中納言の局（つぼね）の御腹に出来給ひし。仙千代丸は、尾張の国住人日比野下野守（ひゞのしもつけのかみ）が娘の腹、御百丸は、山口雲松（やまぐちうんしよう）が娘の腹、御土丸と申せしは、お茶々（ちや〳〵）の御方（おんかた）産み給ふ。御十丸の母上は、北野の別当松梅院（しようばいゐん）の娘なり。此人々は取分（とりわ）き御寵愛にておはしければ、御髪（ぐし）下し給ふ。其外も皆髻（もとゞり）より切（きり）払（はら）ひ、日頃頼み給ひし寺々へ遣（つかは）し、或は高野（かうや）の山へ上げらるゝもあり。思ひ〳〵の最後（さいご）の出立にて、上下京を引廻（ひきまは）り、一条二条を引下げて、羊（ひつじ）の歩（あゆ）み近づき、三条の橋へ引渡す事の痛（いた）はしさよ。検使（けんし）には石田（いしだ）治部少輔増田（ますだ）右衛門尉抔を先として、橋より西の土手の傍に、敷皮（しきがは）敷（し）きて並（な）みゐたりけるが、車の前後に立向ひ、先づ若君達を害し奉れと下知（げぢ）しければ、承り候とて、若殿原（わかとのばら）雑色（ざふしき）抔走り寄り、玉を延（の）べたるやうに見えさせ給ふ若君達を、御車より抱き下（おろ）し奉り、御様の変（かは）りたる父の御首を見せ参らすれば、仙千代丸はおとなしくて、しばらく御覧じて、こは何とならせ給ふ御事ぞやとて、わつと泣かせ給ひつゝ、走り寄らんとし給へば、母上達は申すに及ばず、貴賤（きせん）の見物（けんぶつ）、守護（しゆご）の武士（ぶし）、太刀取（たちとり）に至る迄、皆涙に暮（く）れて、前後を弁（わきま）へざるが、心弱（よわ）くては叶（かな）ふまじきと思ひ、眼（まなこ）を塞（ふさ）き、御心元（おんむなもと）を一刀づつに返し奉れば、母上達は、人目（ひとめ）をも恥（はぢ）も忘れ果てゝ、我をば何しに早く害せぬぞ、死出（しで）の山（やま）三途（さんづ）の川（かは）を誰（たれ）かは御介錯（ごかいしやく）申すべきぞ。急ぎ我を殺せ、我を害せよとて、空（むな）しき御死骸を抱きつゝ、伏転（ふしまろ）び給ふ御有様は、焼野（やけの）の雉（きゞす）の身を棄てゝ、煙（けぶり）に咽（むせ）ぶに異（こと）ならず。しばしも怯（おく）れ給はぬ御最後共（ごさいごども）を、急がれけるこそあはれなれ。夫れより御目録にて次第々々に害し奉る。

一番には、上臈（じやうらふ）の御方一の台の御局、前の大納言殿御娘、御年は三十路（みそぢ）に余り給へ共（ども）、御かたち勝（すぐ）れ優（いう）にやさしくおはしければ、未だ二十（はたち）ばかりにを見え給ふ。父大納言殿御いとしみ深くおぼしめし、いかにもして御命計（おんいのちばかり）を申助け給はんとて、北（きた）の政所（まんどころ）について、様々に申させ給へども、世の怨（うらみ）もありと思召（おぼしめ）しければ、つひに叶はずして、失はれ給ふ。又御めのとの式部（しきぶ）といふ女房、御最後（ごさいご）の御供（おんとも）申さんとて、是迄附慕（つきした）ひ参りけるを召して、是迄の志こそ返々（かへす〳〵）もたのもしう嬉（うれ）しけれ。我が身斯く成行【 NDLJP:35】く事も、先の世の宿緑（しゆくえん）ぞかし、今更歎（なげ）くべき事にあらず。只父御の御歎きと聞くこそ心苦しけれ。誠の志あらば急ぎ帰り、我が成行くやうを申すべし。親子（おやこ）は一世の契（ちぎり）とは申せども、頼み奉りし仏の御慈悲（おんじひ）にて、後の世は同じ蓮（はちす）の縁となるべければ、たのもしくこそ思ひはんべれ。此世は仮（かり）の宿（やどり）なれば、何事も前世（ぜんせ）の報（むくい）ぞと思召し捨てさせ給ひて、御心を慰め給へと、能々（よく〳〵）申すべしとて、最後（さいご）の御文（おんふみ）の端（はし）に斯く詠（えい）じて書き付け給ふ。

　　長（なが）らへてありふる程を浮世（うきよ）ぞと思へば残（のこ）る言（こと）の葉（は）もなし

と打詠（うちなが）めて討たれ給ふ。めのとは是迄慕ひ参り候も、死出（しで）の山路（やまぢ）の道すがら、御手をも引き参らせんためにてこそ候へ。我をも害してたび候へとて、太刀取（たちとり）に手を擦（す）りて申せども、御目録の外は、いかで叶ふべきとて、荒（あら）けなくいひて返しけれども、たゞ平伏（ひれふ）して泣き口説（くど）きければ、猛（たけ）き武士も泣く泣く手を取り引立てゝ、輿（こし）に助け載（の）せて、送り返しければ、心ならず帰り参り、御最後のありさま、細細（こまごま）と申上げ、夫れより物をも食はずして、七日に当る日空（むな）しくなる。父大納言殿北の御方、此由を聞きもあへず、暫し絶（た）え入り給ひしを、御顔（おんかほ）に水打注（みづうちそゝ）ぎ抔して、呼び活け奉り、公達（きんだち）御手に取付き給ひて、こはいかにならせ給ふぞや。此度の歎きに、誰か劣（おと）り優（まさ）りのあるべき。されども叶（かな）はぬ道は力なし。残る者共は、御子とは思召し候はずやとて、掻（か）き口説（くど）き悲み給へば、少し御心地（おんこゝち）取直（とりなほ）し給ひて、さしも頼みをかけつる人々は、いかにいひなされけるぞや。兎（と）ても角（かど）ても叶はぬ道と知るならば、最後（さいご）の際（きは）に今一度、見もし見えもせば、其面影（そのおもかげ）を忘れ形見（がたみ）とも慰むべきに、扨も言甲斐（いひがひ）なき頼みをかけつる口惜（くちを）しさよと、伏沈み泣沈み、あこがれ給ふぞ憐（あは）れなる。夫れより御飾（おんかざり）下（おろ）し、偏（ひとへ）に後世菩提（ごせぼだい）を祈り給ひけるが、遣（や）る方（かた）なき思ひ積りて、程なく隠（かく）れさせ給ひけり。

二番には、小上臈の御方御妻御前、是も三位中将にて、時めき給ふ人の御娘なり。御年は十六になり給ふ。何れも劣りはあらねども、殊（こと）に勝（すぐ）れてやさしき御容（かたち）なり。冬木（ふゆき）の梅（うめ）の匂（にほひ）深き心地（こゝち）にて、さこそ御盛りには、如何計たをやかに生ひ立ち給はんと、思ひ遣（や）られていたはしさよ。緑（みどり）の黒髪（くどがみ）を半切り棄て、肩（かた）の廻りにゆらゆらとかゝり、芙蓉（ふよう）の眼尻（まなじり）にこぼるゝ涙は、珠（たま）を貫（つらぬ）くに異ならず。誠に絵（ゑ）に書くとも、いかで筆にも及ぶべき。紫（むらさき）に柳色（やなぎいろ）の薄衣重（うすぎぬかさ）ね、白き袴（はかま）引締め、練貫（ねりぬき）の一重衣（ひとへぎぬ）打掛け、秀次入道の御首を、三度礼して斯く詠じ給ふ。

　　朝顔（あさがほ）の日蔭（ひかげ）待（ま）つ間の花に置（お）く露より脆（もろ）き身をば惜（をし）まじ

かやうに詠み給ひて、西に向ひ十念し給ふを、太刀取御後（おんうしろ）へ廻るかと思へば、御首は前に転（まろ）びける。

三番には、中納言の局御亀御前と申せし。姫君の母上、津（つ）の国小浜（をはま）の御坊（ごぼう）の娘とぞ聞えし。御年は盛り過ぎけれども、心ざま優（やさ）しくおはしければ、取分き御寵愛浅からずおはしければ、ゆかりの末々（すゑ〴〵）迄も富（と）み栄（さか）えしに、昨日の楽み今日の悲みとなる、天人（てんにん）の五衰（すゐ）目の前に見えて、あさましかりし事共なり。御辞世（ごじせい）に、

【 NDLJP:36】　　頼みつる弥陀（みだ）の教（をしえ）の違（たが）はずば導（みちび）き給へ愚（おろか）なる身を

と打連ね、西に向ひ、南無西方極楽世界（なむさいはうごくらくせかい）の教主（けうしゆ）阿弥陀仏（あみだぶつ）と一心に念じ、三十三にて、露と等しく消え給ふ。

四番には、仙千代丸の母上日比野下野（ひゞのしもつけ）の守（かみ）が娘おわこの前、十八歳になり給ふ。練貫（ねりぬき）に経帷子（きやうかたびら）重ね、白綾（しろあや）の袴著て、若君の御死骸を抱き、水晶の珠数（じゆず）を持ちて出で給ふ。此程の御歎きの積（つも）りに、又若君の御最後（ごさいご）の有様、一方ならぬ御事なれば、村雨（むらさめ）に打乱れたる糸萩（いとはぎ）の、露置き余る風情（ふぜい）にて、中々目もあてられぬ有様なり。貞庵上人参り十念授け給ふ。心静に回向（ゑかう）して後、斯くぞ詠み給ふ。

　　後（のち）の世をかけし縁（ゆかり）のさかりなく跡（あと）慕（した）ひゆく死出（しで）の山道（やまみち）

五番には、御百丸の母上十九歳、尾張の国の住人山口松雲（やまぐちしようゝん）が娘、白き装束（しやうぞく）に墨染（すみぞめ）の衣（ころも）打掛け、若君の御死骸を懐に抱き、紅（くれなゐ）の房（ふさ）つけたる珠数持ちて、是も貞庵の御前にて十念うけ、心静に囘向して、

　　夫（つま）や子に誘（さそ）はれて行く道なれば何（なに）をか後に思ひ残きん

と詠（よ）みて西に向ひ、掌（たなごゝろ）を合せ、両眼を塞（ふさ）ぎ、観念（くわんねん）しておはしけるを、水もたまらず御首を打落す。

六番には、御土丸と申せし若君の母上なり。是も白き装束に、墨染（すみぞめ）の衣著て、物軽々（かろ〴〵）しく出で給ふ。此御方は禅（ぜん）の智識（ちしき）に御縁（おんゆかり）ありて、常々参学（さんがく）に心をかけて、散る花落つる木の葉につけても、憂世（うきよ）の徒（あだ）に果敢（はか）なき事を観じ給ひしが、此時も聊（いさゝか）騒（さわ）ぎ給ふ気色（けしき）もなくて、

　　うつゝとは更（さら）に思はぬ世の中（なか）を一夜の夢や今覚（さ）めぬらん

七番には、御十丸の母上、北野の松梅院の娘、おさこの前、是も御子の親なれば、御髪（おぐし）下（おろ）し給ひて、白綾（しろあや）に練貫（ねりぬき）の一重衣（ひとへぎぬ）重（かさ）ね、白き袴引締め、綟子（もぢ）の衣（ころも）打掛け、左には畳紙（たゝうがみ）に御経を持添へ、右には、思の玉（たま）の緒（を）繰返（くりかへ）して、足たゆく歩（あゆ）みいで、西に向ひ御経の紐（ひも）を解き、法華経の普門品（ふもんぼん）を読誦（どくじゆ）して、入道殿并に若君我身の後生善所（ごしやうぜんしよ）と、心静に回向し給ひて後、

　　一筋（すぢ）に大悲大慈（だいひだいじ）の影（かげ）たのむこゝろの月のいかでくもらん

八番には、近江の国の住人信楽（しがらき）の多羅尾（たらを）彦七娘、おまん御ぜんとて、二十三になり給ふ。丈（たけ）と等しき黒髪を、髻より切払ひ、練貫に同じく白き袴引締め、紫に秋の花尽し摺（す）りたる小袖（こそで）打掛け出で給ふ。此頃童病（わらはやみ）を労（いたは）り、折しも起り日なれば、たゞ芙蓉（ふよう）の花の、夜（よる）の間の雨に痛（いた）く打たれたるやうにて、見る目もいと悲しく、心も消（き）え入るやうに覚えけるが、是も上人の十念うけて、

　　いづくとも知らぬ闇路（やみぢ）に迷ふ身を導（みちび）き給へ南無阿弥陀仏（なむあみだぶつ）

かやうに詠みて、掌（たなごゝろ）を合せ給へば、劔（つるぎ）の光輝くと見えて、首を抱きて伏し給ふ。

九番には、およめの御方とて、尾張の国の住人堀田（ほつた）次郎右衛門娘二十六、是も白き装束にて、白房（しろぶさ）の珠数に、扇持添へ、めのとに手を牽（ひ）かれ出でて、西に向ひ十念回向して後、

　　ときおける法（のり）の教の道なれば独り行くとも迷（まよ）ふべきかは

【 NDLJP:37】かやうに詠じて、又念仏申して、首を延べて討たれ給ふ。

十番に、おあこの御方と申せしは、美目容貌（みめかたち）に猶勝りたる心ばへにて、慈悲深く柔和（にうわ）におはせしが、毎日法華経読誦し給ふ。況（ま）して此程は、少しも怠（おこた）り給ふ事なし。されば最後（さいご）の歌にも、妙法蓮華の心を詠（よ）める。

　　妙（たへ）なれや法（のり）の蓮（はちす）の花のえんにひかれ行く身は頼（たの）もしき哉

十一番に、おいま御前、出羽（では）の国最上殿（もがみどの）の御娘、十五歳なり。未（いま）だ蕾（つぼ）める花の如し。此御方は、両国一の美人たる由聞召（きこしめし）し及び、様々に仰せ、去んぬる七月初（はじめ）つ方（かた）、召上（めしのぼ）せられけるが、遥々（はる〴〵）の旅疲（たびづか）れとて、未だ御見参（ごけんざん）もなかりつる中に、此事出来（いでき）ければ、いかにもして申受け参らせんとて、様々に心を砕（くだ）き申させ給へども、更に御免なかりけるを、淀（よど）の御方様（おんかたさま）より、去り難く仰（おほ）せられ、度々御文を参らせられければ、太閤黙（もだ）し難くや思召しけん、さらば命計を助くべし、鎌倉へ遣し、尼になせと仰出されける。夫れより早馬（はやうま）にて伏見より、揉（も）みに揉（も）うでうたせけれども、死の縁にてやおはしける。今一町計著かざる中に害しけるこそ、憐（あは）れも深く痛（いた）はしけれ。未だ幼かりつれども、最後（さいご）の際（きは）も、さすがにおとなしやかにて、辞世の歌に、

　　罪をきる弥陀（みだ）の劔にかゝる身の何（なに）か五つの障あるべき

此歌を聞召して、太閤相国も痛はしく思召し、御涙を流させ給ふとぞ。

十二番は、あぜちの御方、これは上京の住人に秋羽（あきは）といふものゝ娘なり。年三十に余りければ、長月（ながつき）末（すゑ）の白菊の、籬（まがき）に余る迄咲き乱れたる如くにて、さすがに京童の子なれば物慣（ものな）れて、時折々の御心に随ひ宮仕ける。月の前花の下の御酒宴の折柄（をりから）も、此人参らざれば、御盃も数添はず。されば冥土（めいど）にて思召し出すらん。此程打続き、あぜち参れ〳〵と宣（のたま）ふと、夢に見奉るとて、

　　冥土にて君や待つらんうつゝ共夢ともわかす面影（おもかげ）にたつ

かやうに詠みけるとぞ。されば最後の時も、前を争ひけれども、御目録にて十二番目なり。又の歌に、

　　弥陀（みだ）頼む心の月をしるべにて行かば何地（いづち）に迷ひあるべき

十三番は、少将殿とて、備前の国本郷主膳（ほんがうしゆぜん）娘なり。此人は秀次御装束を受給はりし人なれば、取分（とりわ）き御恩深く蒙りし人なり。これも辞世の歌に、

　　ながらへば猶も憂目（うきめ）を三津瀬川（みつせがは）渡りを急げ君やまつらん

十四番には、左衛門の督殿、三十になり給ふ。岡本（をかもと）といふ人の後室なり。父は河内の国高安（たかやす）の桜井といふ人なるが、世の常ならず優（やさ）しき心ざまなり。月の夕（ゆふべ）雪の朝（あした）などは、琵琶を弾じ琴を調べ、又は源氏物語など読みて、幼き人々に教へし人なり。最後の時も思設（もおもひまう）けたる気色（けしき）にて、

　　屢（しば〳〵）の憂世（うきよ）のゆめの覚（さ）め果（は）てゝこれぞうつゝの仏とはなる

十五番は、右衛門の督殿とて、三十五になり給ふ。村井（むらゐ）善右衛門といふものゝ娘なるが、二十一にて【 NDLJP:38】村瀬の某といひし夫に離れて、宮仕へ申せしが、容顔勝（すぐ）れければ、御寵愛にておはしける。此御方は、法華経一部読み覚えて、常に読誦して心を澄（す）まし給ふが、最後の歌にも、

　　火の家に何か心の留（とま）るべき涼（すゞ）しき道にいざやいそがん

かやうに詠みて後、一乗妙伝の功力（くりき）にて、女人成仏（によにんじやうぶつ）疑ひあるべからず。一切経王最位（いつさいきやうわうさいゐ）第一、南無妙法蓮華経と唱（とな）へ、掌（たなごころ）を合せて討たれ給ふ。

十六番は、めうしんといふ老女（らうぢよ）なり。秀次の御内に、いしん、ふしん、えきあんとて、三人の同朋（どうほう）なりしが、此乳母（うぼ）ふしんに離れし時も、自害せんとしたりつるを、様々仰せ留め給ひて、御前を去らず召仕はれける。男にも勝りて智慧（ちゑ）深きものとて、何事の御内談をも、此乳母に知らせ給はぬ事はなかりけり。されば最後の御供申す事を喜びて、

　　先立（さきだ）ちし人をしるべにゆく道の迷（まよ）ひをてらせ山の端（は）の月

と打詠めて、是も貞庵上人（ぢやうあんしやうにん）の十念（ねん）をうけ、心静に念仏を申し、奉行（ぶぎやう）の人々にも最後の暇乞（いとまごひ）をして討たれける。

十七番は、おみや御前（ごぜん）、十三になり給ふ。是は一の台殿（だいどの）の御娘なりしを聞召し及び、わりなく仰せられて、召迎（めしむか）へ給ひしとなり。されば此由太閤相国聞食（きこしめ）し、あるまじき事の振舞（ふるまひ）かな、世に又人もなげに親子の人を召上げられたる事、たゞ畜類（ちくるゐ）に異ならずとて、愈御憤り深く思召しければ、様々に頼みて、御様変へ、命計りをと申させ給へども、御許なきとぞ聞えし。此姫君の御辞世に、

　　秋（あき）といへばまだ色（いろ）ならぬうらば迄（まで）誘（さそ）の行（ゆく）らんしでの山風（やまかぜ）

かく詠（よ）み給ひて、おとなしやかに念仏（ねんぶつ）申し給ふ最後（さいご）の有様（ありさま）、哀れを尽（つく）せし事共なり。

十八番に、お菊御前（きくごぜん）、是は津（つ）の国（くに）伊丹（いたみ）の某といふ人の娘（むすめ）、十四歳にておはしける。先立（せんだ）ち給（たま）ふ人々のあへなき最後（さいご）の有様を見て、自ら消（き）え入（い）るやうに見え給ふを、貞庵上人寄（よ）り近付（ちかづ）きて、御（ご）十念（ねん）を勧（すゝ）め給へば、其時（そのとき）心を取直（とりなほ）し、静（しづか）に十念授かりて後（のち）、かく詠（よ）み給ふ。

　　秋風（あきかぜ）に誘（さそ）はれて散（ち）る露（つゆ）よりも脆（もろ）きいのちを惜（をし）みやはせん

十九番に、喝食（かつしき）とて、尾張（をはり）の国の住人（ぢうにん）坪内市右衛門娘（むすめ）、十五歳、此御方は心（こゝろ）ざまさえ〴〵しくて男姿（をのこすがた）ありて、さながらたをやかにして、いふばかりなく優（やさ）しき様（さま）なればとて、名（な）をも喝食（かつしき）と呼（よ）ばせ給ふ。萌黄（もえぎ）に練貫（ねりぬき）の一重（ひとへ）衣重ね、白（しろ）き袴（はかま）引締め、静々（しづ〳〵）と歩（あゆ）み出でて、入道殿（にふだうどの）御首の前（まへ）に向ひて、

　　暗路（やみぢ）をも迷（まよ）はでゆかんしでの山（やま）澄（す）める心（こゝろ）の月（つき）をしるべに

かやうに詠（よ）みて、残（のこ）り給ふ人々に向ひ、御先へこそ参（まゐ）り候へ、急（いそ）がせ給へ。三瀬川（みつせがは）にて待ちつれ参（まゐ）らせんとて、西（にし）に向（むか）ひ手を合せ給ふありさま、誠（まこと）に正（たゞ）しき最後（さいご）かなと、見（み）る人（ひと）暫（しば）し涙を留（とゞ）めて感じける。

二十番には、お松御前（まつごぜん）とて十二歳、右衛門（うゑもん）の督殿（かみどの）の娘、是は未（いま）だ幼（をさな）くおはしければ、肌には唐紅（からくれなゐ）に【 NDLJP:39】秋（あき）の花尽（はなづく）し縫（ぬ）うたる薄衣（うすぎぬ）に、練貫（ねりぬき）を打掛（うちか）け、袴（はかま）の裾（すそ）をかいとりて、母上の死骸を礼（れい）してかく詠める。

　　残るとも長らへ果てん憂世（うきよ）かは遂（つひ）には越（こ）ゆるしでの山道（やまみち）

二十一番は、おさいとて、別所豊後（べつしよぶんご）の守（かみ）内（うち）に、きやくじんといふものゝ娘なりしが、十五の夏の頃、初めて参（まゐ）り仕へしに、あだし情（なさけ）の手枕（たまくら）の、睡（まどろ）む程（ほど）も夏（なつ）の夜（よ）の、明けてくやしき玉手箱（たまてばこ）、再びかくともの給はざれば、たゞ拙（つたな）き身を怨（うら）みて、明（あか）し暮（くら）しけるに、或時雨夜（あきよ）の御つれ〴〵とて、御酒宴ありしに、御酌（おんしやく）に参られしを、それそれ何にても御肴（おんさかな）にと仰（おほ）せければ、とりあへず、

　　君やこし我やゆきけん思（おも）ほえず夢（ゆめ）か現（うつゝ）か寐（ね）てか覚（さ）めてか

といと細くたをやかなる声にて、今様（いまやう）にうたひければ、関白聞食（きこしめ）して、彼在五中将（かのざいごちうじやう）がりの使（つかひ）にて、伊勢の国に在（いま）せし時の様思召（おぼしめ）しやらせ給ひて、痛（いた）はしく哀（あは）れにや覚（さ）しけん、御盃二たびほし給ひて、此女房に下されければ、おもはゆげに顔打赧（かほうちあか）めて、うちそばみければ、側なる人々、それ〳〵急ぎ御盃取り給へと責められて、給はりければ、関白御覧（ごらん）じて、自（みづか）らも御肴申さんと戯（たはふ）れ給ひて、

　　搔暮（かきくら）す心の暗（やみ）に迷ひにきゆめうつゝとはこよひ定めよ

と伽陵賓（かりようびん）の御声にて、歌はせ給へば、御前の女房達も、皆涙をぞ催（もよほ）されける。かくて其夜は御寝所（ごしんじよ）へ召して、様々（さま〴〵）御情（おんなさけ）深く仰せられ、後々（のち〳〵）も度々（たび〳〵）召しけれども、いかゞは思ひけん、痛（いた）はる事候とて、其後は参らざりしが、御最後（ごさいご）の御跡（おんあと）を慕（した）ひ参るこそ不思議（ふしぎ）なれ。

　　末（すゑ）の露元（つゆもと）の雫（しづく）も消えかへり同じながれの波のうたかた

車に乗りし時、此歌を短冊に書きて袂に入れ、最後の時は、妙法華経（めうほけきやう）読誦（どくじゆ）の外は、物をもいはず果（は）てられけり。

二十二番には、おこぼの御方十九歳、近江の国の住人鯰江権之介（なまづえごんのすけ）といふ人の娘なり。十五の年召出（めしいだ）され、夫（そ）れより此方御恩（ごおん）深く蒙（かうぶ）り、親類の末々（すえ〴〵）迄（まで）も人となし、其身はさながら宮女の如くにて、四五年が程は、月に向ひ花に戯れて明（あか）し暮（くら）し、後の世の営（いとな）み抔（など）は、思ひも寄らでありつるが、此期（このご）に臨みて、大雲院貞庵上人の御教をうけ、十念囘向（ゑかう）してかくぞ。

　　さとれるも迷ひある身も隔（へだて）なき弥陀（みだ）の教を深（ふか）く頼（たの）まん

二十三番、おかな御前十七歳、越前の国より、木村常陸の守が上げたりし女房なり。此人は勝（すぐ）れて心（こゝろ）賢（さか）しく、世の常の女房には変りたりければ、殊に御寵愛とぞ聞えし。辞世（じせい）の歌（うた）にも、仇（あだ）なりし世の中仇なりし世の中（なか）を観（くわん）じて詠（よ）める。

　　夢とのみ思ふが中（なか）に幻（まぼろし）の身は消（き）えて行くあはれ世（よ）の中（なか）

二十四番にはおすて御前、是は一条のあたりにて、さる者の拾ひたる子なりしが、類（たぐひ）なき貌（かたち）に生立（おひた）ちければ、召上（めしあ）げられて、いつきかしづき給ひけるが、三年余りが程楽み栄（さか）え、今又かゝる憂目（うきめ）に遭ふ事、皆先の世の報（むくい）とはいひながら、浅（あさ）ましかりし事共なり。

【 NDLJP:40】　　来りつるかたもなければ行末（ゆくすゑ）も知らぬ心の仏（ほとけ）とぞなる

二十五番はおあい御前、二十三歳、古川主膳（ふるかはしゆぜん）といふ人の娘なり。此人は法華（ほつけ）の信者にて八巻の御経を転読（てんどく）して、常々に人をも示し勧（すゝ）められしが、最後（さいご）の歌にも、草木成仏（さうもくじやうぶつ）の心を詠（よ）める。

　　草も木も皆（みな）仏ぞと聞く時は愚（おろ）かなる身もたのもしき哉（かな）

二十六番は、大屋三河守が娘、生年二十五歳、是も大雲院（だいうんゐん）の御坊（ごぼう）の仏前（ぶつぜん）にて十念をうけ、暫（しばら）く観念して、

　　尋ね行く仏の御名（みな）をしるべなる道（みち）の迷ひの晴れ渡る空（そら）

二十七番は、おまきの御方、十六になり給ふ。斎藤（さいとう）平兵衛娘なり。是も貞庵上人を頼み奉り、御十念給はりて後、西に向ひ手を合せ、観念して、

　　急げ只（たゞ）御法（みのり）の船の出でゐ間（ま）に乗り遅（おく）れなば誰（たれ）か頼（たの）まん

二十八番には、おくま御前（ごぜん）、大島（おほしま）次郎左衛門娘、二十二歳、肌（はだへ）には白き帷子（かたびら）に、山吹色（やまぶきいろ）の薄衣（うすぎぬ）を重（かさ）ね、練貫（ねりぬき）に阿字（あじ）の梵字（ぼんじ）すゑたるを打掛けて、裾（すそ）を取り足たゆく歩みより、入道殿御首若君達の御死骸を礼して、

　　名ばかりを暫（しば）しこの世に残（のこ）しつゝ身は帰（かへ）り行く元（もと）の雲水（くもみづ）

かやうに詠（よ）みて、秀次御首に向ひて直（なほ）り給ふを、太刀（たち）取（と）り参りて、西に向はせ給へといへば、本来無東西（ほんらいむとうざい）ぞかし、急ぎ討てとて、其儘切られ給ふ。

二十九番は、おすぎ御前、十九歳になり給ふ。此方は取分（とりわ）き御寵愛おはせしが、去んぬる年労気（らうき）を労（いたは）り給へば、夫れより御前遠ざかりければ、若（わか）くましませども、偏（ひとへ）に後（のち）の世を祈り、いかにもして御暇（おんいとま）給（たま）はり、浮世（うきよ）を厭（いと）はゞやと願ひ給ひつるが、叶（かな）はずして、今最後（さいご）の御（おん）供し給ふこそ不思議なれ。

　　すてられし身にも縁（ゆかり）や残るらん跡（あと）慕（した）ひ行くしでの山越（やまご）え

三十番はおあやとて、御すゑの人。

　　一声（ひとこゑ）にこゝろの月の雲はるゝ仏（ほとけ）の御名（みな）をとなへてぞ行く

三十一番は東（ひがし）とて、六十一歳、中ゐ御すゑ女房を預（あづか）りければ、人にかしづかれ、富み栄えつるに、老（おい）の浪（なみ）の立返（たちか）り、寄辺（よるべ）なき身となりて、夫は七十五にて、三日先に相国寺にて、自害し果てけるこそ哀れなれ。

三十二番におさん、是も御すゑの女房。

三十三番はつぼみ。

三十四番ちぼ。

かやうに心々の様を詠（よ）み連（つら）ね給へば、見る人聞く人涙に咽（むせ）び、さても優（やさ）しの人々（ひと〴〵）かな、賤（いや）しき身ならば、命（いのち）の惜しき事をこそ、歎（なげ）き悲むべけれ。此期（このご）に臨（のぞ）みて歌詠ずべきとはよもおもはじ。哀れ上臈達（じやうらふたち）【

NDLJP:41】やとて、知るも知らぬも、袖を湿（ぬ）らして感（かん）じける。文禄四年八月二日午の刻（こく）計（ばかり）より、申（さる）の終まで、草（くさ）の葉（は）を薙（な）ぐやうに引出し引出し、御首ふつ〳〵と打落し〳〵、大なる穴を掘りて、其中へ四つの手足を取り、投入（なげい）れ〳〵したる有様、誠（まこと）に冥土（めいど）にて閻魔王（えんまわう）の御前にて、倶生神阿放羅刹共（ぐしやうじんあはうらせつども）が、罪人集めて呵責（かしやく）するらんも、中々（なか〳〵）是にはよも勝（まさ）るべきとて、見る人胆（きも）を消（け）し、魂（たましひ）を失ふ計（ばかり）なり。誠に罪ある者を害するは常の事なれども、かくまで情なく、痛（いた）はしき事のあるべきか。秀次入道殿こそ大悪逆の人なれば、悪しと思召すは御理（ことわり）なれども、此人々のいかで夢計（ゆめばかり）も知召（しろしめ）さるべき。罪ある者は縁（ゆかり）を改め、生害するも習ひなれども、男の外（ほか）は助かる習ひぞかし。縦（たと）ひ命をこそ助け給はずとも、切（せめ）ては此人々の死骸をば、日頃（ひごろ）頼（たの）み給ふ僧聖（そうひじり）をも召出（めしいだ）して、いかさまにも弔（とぶら）はせ給ふか、さらずば此人々の親類縁（しんるゐゆかり）にも取らせ給はらで、かほど迄（まで）あさましげに、賤（いや）しき者の手にかけさせ、死骸の耻（はぢ）まで晒（さら）し給ふ事の痛（いた）はしさよとて、心あるものは、あら行末（ゆくすゑ）恐（おそろ）しとて小声（こゞゑ）になり、舌（した）を振（ふ）りてぞ帰（かへ）りける。

慶長16年（1611年）、京都の豪商角倉了以は高瀬川を開く工事中に洪水で所在不明となっていた「秀次悪逆塚」の石櫃を発見し塚の跡地に慈舟山瑞泉寺を建立した。写真は境内にある豊臣秀次と連座者の墓所。

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後（団体著作物にあっては公表後又は創作後）100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。