聚楽物語

 
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緒言
 
聚楽物語は、豊臣秀次の事蹟を伝へたるものにして、太閤秀吉西国発向の事より、秀次老母の御事に至るまですべて十二項、なかに女房三十余人の最期を叙すること詳なり。其の文章の素樸なる、案ふに徳川初期のものなるべし。年代著者ともに詳ならず。
 

  大正元年八月一日

   古谷知新識

 
 

目次

 
 
 
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聚楽物語
 
 
巻之上
 
あしたさかゆふべおとろふるは、皆是れ世間せけんならひ、国を治め天下てんかたもつも、其身の賢愚けんぐにあらず、天より与へ給ふといひながら、君臣くんしん礼儀れいぎうしなひ、父子の慈孝じかうなき時は、必ず其家ほろぶ。君臣に礼をなす時は、臣又君にちうつくし、父は子にあいをなし、子は父に孝をなす時は、身治みをさま家斉いへとゝのほりて、必ず其国さかゆと見えたり。こゝさき関白くわんぱく秀次公ひでつぐこうは、伯父をぢ太閤たいかふ秀吉卿ひでよしきやうの重恩を忘れ給ひて、あまつさへ逆心をふくみ給ひしかば、天罰てんばついかでのがれ給ふべき。御身おんみを亡し給ふのみならず、多くの人を失ひ給ふ、御心の程こそあさましけれ。
 
 
そも此秀吉卿と申すは、君臣の礼儀れいぎを重んじ、民をあはれみ給ひし故に、天下を治め給ふのみならず、高官オープンアクセス NDLJP:13高位に経上へのぼり給ひ、末代まつだい迄も御名をきよめ給ふとかや。其かみ羽柴はしば筑前守ちくぜんのかみにて、さきの大将軍織田おだ信長のぶながこうに仕へ給ひ、東南西北の合戦かつせんに、御名を天下にあらはし給ひしかば、信長公の御代官ごだいくわんとして、西国御退治ごたいぢの為に、天正十年三月上旬じやうじゆんに都を立つて、備前備中の両国りやうこくにて、あまたの城郭じやうくわくを攻め破り、夫より高松たかまつの城を取囲とりかこみ、大河のすゑ堰止せきとめて、水攻みづぜめにしてこそおはしけれ。
 
 
くて城中難儀なんぎに及び、大将軍たいしやうぐん五人切腹せつぷく仕るべし、残る者共は速に御助け候へとの降参かうさんしけれども、始よりかぶといで罷出まかりいでばこそ。此上にては、一人も残さず攻めほろぼし給ふべき旨仰せける所に、都より早打はやうち来りて、日向守心変こゝろがはり仕り、大将軍信長のぶなが信忠のぶたゞ御父子共に、三条
本能寺ほんのうじにて御腹おんはら召され候由申上げければ、秀吉聞召きこしめし、こは口惜くちをしき次第かな、斯様に一命を軽んじ、戦場せんぢやうかばねさらさんと思ふも、此君の御為ぞかし、此上は敵の降参かうさんするこそ幸なれ、いかやうにも計へと、杉原すぎはら郎左衛門尉らうざゑもんのじように仰せける。内々ない毛利家より、城中の大将清水しみづ兄弟、又芸州げいしうより加勢かせいに入りたる三人、以上五人に腹切らせ、諸卒しよそつを助けられ候はゞ、毛利もうり分国ぶんこくの中、備中、備後、伯耆、出雲、石見五箇国を渡し申すべきの内存ないぞんなれば、右の如くあつかひを調へ、其上に人質ひとじちを出し、御旗下おんはたしたに附随ふべきとの制旨せいしにて、大将五人の首実検くびじつけんありて、先づ毛利家の陣所ぢんしよを引払はせて後、方々の水を切流きりながし、城中の諸卒を出し、杉原七郎左衛門に人数にんずあまた差添へ、高松たかまつの城へ入れ置き給ひ、秀吉はもとゞりを切り給ひて、いかさまにも主君の御讎おんあだなれば、日向守を秀吉が手にかけて打従へ、御孝養ごけうやうにせざらんは、二度弓矢ゆみやを取るまじきとのたまひて、六月六日に備中を引取ひきとり、備前にて一日御逗留ごとうりうあつて、同じき九日に、本国播州姫路の城に入り給ふ。未だ諸勢もそろはざれども、半時はんときばかりの御用意にて、夜半やはん過に早打立ちて、明石兵庫の宿しゆくを過ぎ、あまさきを経て、十二日には津の国高槻たかつきへんに著き給ふ。
 
 
此処こゝに暫く御陣を立てられ、八幡やはた愛宕あたご山両所の峯を伏拝み給ひて、願くは此度の合戦かつせんに打勝ちて、日向守を秀吉が手にかけ頭をね、主君の御孝養ごけうやうに供へんと、一筋ひとすぢに祈り給へば、誠に神慮しんりよにも叶ひけるにや、いづくともなく山鳩やまばと二つ飛来り、味方みかた旗頭はたがしらに附いてぞかけりける。諸軍勢之を見て、いと頼もしく思ひ、勇み進んで押寄せける。斯くて山崎やまざきの峰を打越え給ひて、こまけすゑ見廻みまはし、此処はいかにと仰せければ、御足軽おんあしがるの中に、此処案内あんない能く存じたる者進み出で、是は馬塚うまつかと申し候。又あれなるしげみの彼方あなたに、敵の馬印うまじるしの見え候所は、糠塚ぬかづかにて候と申上げければ、秀吉聞召し、ぬかは馬のみものな。めでたし。扨は此合戦は早打はやうちつてあるぞ。馬の足立あしだち能からん所まで、しづと押寄せて、一人も残さず討取れや兵共とぞ仰せける。かゝりける所に、不思議ふしぎなる事こそ出来たれ。晴れたる空俄に搔曇かきくもり、愛宕あたご山の峯より、唐笠からかさ程の黒雲くろくも一村出来り、次第にたつみの方へ行くかと思へば、辻風つじかぜおびたゞしく吹き来りて、かたきの陣へ渦巻うづまいてくりけるが、立て並べたる大旗小旗馬印うまじるしを、ひしオープンアクセス NDLJP:14とぞ吹倒しける。秀吉之を御覧じて、すはやかゝれと仰せければ、先手の大将中川瀬兵衛尉高山右近大夫、五十騎計にてけ出し、魚鱗懸ぎよりんがかりに懸りければ、日向守が郎等に、明智左馬助あけちさまのすけ斎藤蔵之助さいとうくらのすけ藤田伝吾ふぢたでんごを先として、鶴翼かくよくに開いて、一人もらすな討取れや者共と下知しけれども、寄手よせて驀地まつしぐらに攻めかくる。明智の兵共は、後陣ごぢんより色めき立つてくづれければ、たゞ一支ひとさゝへも取合せず、東を指して敗軍はいぐんす。伏見ふしみ深草ふかくさ木幡山こばたやまへ、散りになりて落行きけるを、高山中川真先まつさきにかけて、雑兵ざふひやうの首取るな、打捨にせよとて、散々さんに切乱しければ、明智が人数にんず、残少なに討ちなされ、光秀もから其処を遁れて、山科やましなまでは落延おちのびけれども、うんの極めのあさましさは、郷人がうにんに突落されけるを、郎等らうどう共首打落し、深田ふかだの中へ隠しけるとぞ聞えし。家老からうのものども、或は討たれ、或は痛手いたで負ひ、行方知らず落行きけるを、後日ごにちに爰かしこよりさがし出して討ちける、因果いんぐわの程こそうらめしけれ。
 
 
斯くて秀吉卿の威勢、日々にち夜々やゝに勝りければ、信長に附随つきしたがひし諸侍、皆々秀吉卿の御下知ごげちに附き奉りて、おのづから天下ことく治りけり。されども未だ御手に入らざる国々くに、爰かしこにありけれども、秀吉御馬をだに出されければ、木草きくさの風になびくが如くにて、三年が中に、天下一とうの御代となし給ふ。斯くて都にまし御門みかど守護しゆごし奉り給ひ、御所領ごしよりやうを寄せられ、御殿ごてん造立ざうりふし、金銀其外宝を揃へてさゝげ給ひ、天子の御心なぐさめ給ひしかば、御門みかど叡感えいかんの余りに関白職くわんぱくしよくを預け下されける上は、我朝は申すに及ばず、唐土もろこし迄もなびき随ひ奉りける。さる程に御威光ごゐくわういやまさり、天正十六年四月十四日に、聚楽じゆらくの御城へ行幸ぎやうかうをなし給ふ上は、何事も御心にかなはずといふ事なし。されども秀吉御代継みよつぎの御子一人もおはせざれば、御甥おんをひ三好次兵衛殿みよしじひやうゑどの御養子ごやうしにし給ひて、大国あまたつかはされ、家老からうには、中村式部少輔なかむらしきぶせう田中兵部少輔たなかひやうぶせうを附け給ひ、聚楽じゆらくの御城を渡し給ひて、御寵愛ごちようあいは中々に、語り尽くさん暇なし。おなじく十九年に関白くわんぱくを譲り給へば、天下の諸大名皆此君におそしたがひ奉る。されば毎日芸能げいのうすぐれたる者を召集めしあつめ、其道々みちを正したまひければ、乱舞らんぶ延年えんねんは、四猿楽さるがくにも越えさせたまふ。御手跡ごしゆせき尊円親王そんゑんしんわう御筆勢ごひつせいにもおとり給はじと申しける。或時は儒学じゆがく達者たつしやを召して、聖賢せいけんの道を聞召し、或は五山の智識ちしきを召されて、禅法ぜんぼふさとりを御心にかけ、又公家くげ門跡もんぜきしやうじ奉り、詩歌管絃しいくわくわんげんの御遊、何事もすたれたる道を正し給へば、上下共に此きみの御代、幾久いくひさしかれとぞいのりける。
 
 
太閤秀吉公卿たいかふひでよしきやうは、大阪伏見の両城かけて御座おはしけるが、其頃近江の国の住人ぢうにん浅井殿あさゐどの息女むすめ、世にたぐひなき美人にてまします由、聞召きこしめし及び、忍びやかに迎へ給ひて、よどのわたりに、新造しんざう御所ごしよを建てられ、一柳ひとつやなぎ越後守守護し奉り、よど御所ごしよと申し、いかしづき給ふ所に、いつとなく御心地みこゝちれいならず御座おはしければ、名医めいゝ典薬てんやくを召して、医療いれうさまなりしかども、更に其しるしなし。かゝりける所に陰陽おんやうかみ考へて申しけるは、全く是は御病気にあらず、御懐妊ごくわいにんとぞ申しける。太閤なゝめならず御感ごかんまして、当座たうざオープンアクセス NDLJP:15黄金千両給はり、御産ごさん平ならんには、重ねて御褒美ごはうびあるべきとぞ仰せける。夫れより天台山てんだいさん園城寺をんじやうじ座主ざす僧正さうじやうに仰付けられ、御産ごさん平安へいあん御祈念ごきねん、様々行はれける。斯くて日数ひかず積りければ、玉をべたる若君わかぎみ御誕生ごたんじやうある。太閤御年おんとし過ぎさせ給ひての御子にて御座おはしければ、御寵愛ごちようあい浅からず、されば諸国の大名小名より、名物めいぶつ御太刀おんたちかたな、金銀、珠玉しゆぎよく、宝を尽して捧げ給ふ。御代みよ長久ちやうきうのしるしとて、都鄙とひ遠国をんごくしづの身まで、勇みさゞめきあひにけり。
 
 
かゝりける所に、秀次公ひでつぐこう思召しけるは、太閤御実子ごじつしなからん時こそ、我に天下をもゆづり給ふべけれ。正しく実子じつしをさしおき、いかでか我を許容きよゝうし給ふべきと、思召す御心出来けれども、仰出おほせいだす事もなく、御心の底にとゞこほりけるにや、いつしか御機嫌きげんあらくならせ給ひて、御前近き人々も、故なく御勘気ごかんきを蒙り、或は御手打おてうちふもあり。さればいつとなく人を切る事を好きいで給ひて、罪なき者をもり給ふ間、御前ごぜんの人々も、今日迄は人をつふらひ、今日より後は、如何なる憂目うきめにかはんと、皆人毎に心を砕かぬはなかりけり。或時御膳ごぜんあがりけるに、御歯に砂のさはりければ、御料理人ごれうにんを召して、汝が好む物なるらんとて、庭前ていぜんの白砂を口中に押入れさせ、一りふも残さず嚙砕かみくだけとて責め給へば、さすが捨て難き命なれば、力なく氷をくだく如くに、はらみければ、口中破れ、歯の根も砕けて、眼もくらみうつぶしに伏しけるを、又引立てゝ右のうでを打落させ、此上にても命や惜しき、助けば助からんやと仰せければ、是にても御助おんたすけあれかしと申すを、又左のうでを打落し、是にては如何にと仰せければ、其時彼者かのものを見出して、日本一のうつけ者かな、左右の腕なくて、いのち生きても甲斐かひやある。さるにても過去くわこ戒行かいぎやうつたなくて、汝を主と頼みし事の無念むねんさよ。常々汝は鮟鱇あんかうといふ魚の如くに、口を開けて居る故に、砂はあるぞかし。此後も見よ、風の吹かん時は、必ずすなはあるべきぞや。此上は如何やうにもせよ、命はかぎりある物ぞと、散々さん悪口あくこうしければ、それ物ないはせそとて、やがて首をねられける。其後中村式部少輔、田中兵部少輔参りて様々さまに制し奉れども、人をり給はねば、いよ御機嫌ごきげんあらくぞおはしける。さあらば罪科ざいくわ深き籠者共ろうしやどもを御手にかけ申せとて、毎日一人づつ引出し斬り給ふ間、きやう伏見ふしみ大阪おほさかさかひ籠者ろうしやをも斬尽きりつくし、其後は仮初かりそめ訴訟そしよううつたへに出づる者も、助かる者はなかりけり。されば狩場漁かりばすなどりの道すがらにても、肥りせめたるをのこ、懐妊くわいにんの女など見合みあはせ次第に捕はれける。又何よりも危かりしは、或時秀次天主てんしゆへ上り給ひて、四方をながめておはしけるに、懐妊くわいにんの女、如何にも苦しげにて、野辺のべ若菜わかなを摘みためて、其日のかてを求めんと、都をして歩み出で来るを御覧じて、是なる女のきはめて腹の大なるは、是ぞ二子などいふものなるらん。急ぎれて参れ、あけて見ばや

とぞ仰せける。御前の若殿原わかとのばら、承り候とて、我先にと走り出で、あへなく引立てまゐりける所に、益庵法印えきあんほういん何となく立伺ひ、持ちたる芹薺せりなづなを懐へ押入れさせ、扨御前ごぜんに参り、此女は懐妊にては候はず、年老としおいたる者にて候が、様々の若菜わかなを摘みて懐中くわいちうへ入れ、都へ売りに出づる者にて候と、打笑ひ申しけオープンアクセス NDLJP:16れば、それならんはよし、急ぎ返せと仰せける。此女、わにの口を遁れたる心地してこそ帰りけれ。扨も此益庵法印えきあんほういん智恵ちゑ深く、又なき慈悲心じひしんかなとて、諸人感ぜぬはなかりけり。

 
 
先帝せんてい正親町院おほぎまちゐんの御宇には、諸国の兵乱ひやうらん未だしづまらず。王城守護わうじやうしゆごの武士共も、一歳が中も在京ざいきやうせず。彼方此方へ移り変りければ、国々の貢物みつぎものも滞り、天下の政もかれにて、庭前ていぜんの花も色香いろか衰へ、雲井くもゐの秋の月影つきかげも、微になれる心地して、いとあさましき世の中にて、親王しんわう宣下せんげ儀式ぎしきもなく、御即位ごそくゐをなし給ふべき便もましまさねば、太子いたづらに、三十年四十年の春秋はるあきを送り給ふ事を、口惜くちをしくや思召おぼしめしけん、いつしか労気つかれきいたはり給ふ。太閤秀吉卿御痛おんいたはしく思召し、いかにもして御悩ごなう平愈へいゆなし奉り、御位みくらゐに立たせ給ふやうにと、様々さま御心を尽し、典薬大医てんやくたいゝに仰付けられ、医療を尽しけれども、御戒行ごかいぎやうや拙くおはしけん、天正十四年七月下旬げじゆんに、終にかくれさせ給ふ。太閤本意ほんいなく思召し、せめての御事に、此君の王子を、急ぎ御位に即け給ふべきとて、おなじく十一月二十五日に、御即位をすゝめ奉り、諸国しよこく鍛冶かぢ番匠ばんしやうを召し上せられ、禁中きんちうを四方へひろげ、数百の棟数むねかずを立列べ、金銀七宝をちりばめ、御殿へ移し奉り、御所領ごしよりやうを附け、様々の珍宝ちんぽうを捧げ奉り、諸卿しよきやうの絶えて久しき家々いへを改め立て給ひ、よろづすたれたる道を正し給ふ事こそありがたけれ。此君、常に学窓がくそうに御眼をさらし給ひて、時折々をりの政を怠り給はず、延喜えんぎ聖代せいだいを御心にめて行はせ給ふ。大閤は此由聞召し、御学びに御心を尽させ給ふ事をいたはり思召し、いかさまにも叡慮えいりよを慰め給はん為に、春は花見の御遊をなし、芸能げいのうすぐれたる者を召しあつめ、乱舞らんぶ延年えんねんを始め、共にけうじさせ給ふ。九の天には高楼かうろうを組み上げ、空吹く風を招き、庭前ていぜんに泉をたゝへ、船を浮べ、納涼なふりやう専らなり。秋は千草ちぐさの花の種をそろへ、夕の露の更け行けば、余多あまたの虫の音をえらび、月の前にはたるを抱き、詩歌管絃しいくわくわんげんをなし、厳冬げんとうの朝は、御焚火たきびの御殿を作り、諸木の薬味やくみあるを集め、林間りんかんに酒をあたゝめて、紅葉もみぢき給ふ、誠に有難かりし事共なり。五十代以前いぜんは知らず、それより此方は、君臣くんしんの礼儀、斯る目出度御代みよはよもあらじ。君君たれば、臣又臣とありて、いよ天下泰平たいへいなり。されども此君御身の楽みにもほこり給はず、御父陽光院やうくわうゐん十善じふぜんの御位にれ給ひし事を万々ばん本意なく思召し、折々をりは仰出されて御涙をもよほし給ふ。または先帝せんてい御齢おんよはひの傾き給ひて、玉体ぎよくたい衰へ給ふ事をいたはり思召す、叡慮えいりよの程こそありがたけれ。
 
 
文禄ぶんろく元年中冬の頃より、先帝せんてい正親町院御病気になり給ふ。当君たうくん此由聞召し、急ぎ行幸なされ、様々さま痛はり給ひて、今一年なりとも延びさせ給ふやうにとの勅定ちよくぢやうなれば、典薬てんやく医術いじゆつを尽し、諸寺しよじ諸山しよさんへ仰付け、祈り加持かぢし給へども、老後らうごの御事なれば、次第に御悩ごなうおもらせ給ひて、明け行く年の正月むつきの初の五日に終にかくれさせ給ふ。御門みかど深くなげかせ給へば、諸卿しよきやう諸共に憂をなし、御心をめてぞおはしける。まことに一天のあるじ万乗ばんじようの君の御物忌おんものいみに、月日の光も薄くなり、神慮も苦び給ふらん。王城守護わうじやうしゆごの神々、オープンアクセス NDLJP:17門戸もんこを閉ぢて、人の参詣さんけいをだに厭ひ給へば、して人間に於てをや。貴きも賤しきもともに憂ふる姿すがたなう。されば畿内きない近国は、浦々の猟漁れふすなどりをだになさず、されば洛中らくちうにて魚鳥ぎよてう売り買ふ事をだにいましめける。かやうに心なき者迄も、世をはゞかるは習ひなるに、当時たうじ関白くわんぱく秀次公ひでつぐこうは、伯父はくふ太閤たいかふの御威光にて、下郎げらうの身として又なき官位くわんゐけがしながら、天命てんめいをも恐れず、人のあざけりをも恥ぢ給はず、明暮あけくれ酒宴しゆえん乱舞らんぶをなし、あまつさへ北山西山辺にて、鷹狩たかゞり鹿狩しゝがりを初め、民のわづらひ諸人のくるしみをも厭はず、我意がいに任せて振舞ふるまひ給へば、京童共さゞめき寄つて、無道ぶだう至極しごくの事共かな、行末恐しき事やとて爪弾つまはじきし、くちびるをぞかへしける。又何者かしたりけん、一条のつじふだをたてゝ、

  先帝の手向のための狩なればこれや殺生関白といふ

秀次かやうに、様々悪逆あくぎやくを尽し給へどもおそれ奉り、太閤の御耳おんみゝに立つる者なかりければ、いよ我儘わがまゝに振舞ひ給ふを、中村式部少輔なかむらしきぶのせう田中兵部少輔なかひやうぶのせう、再三御諫め申上げけれども、更に御承引ごしよういんなくて、あまつさへ後々は両人御前遠おんまへどほになりて、若輩じやくはいの御小姓衆、又はすぢなき者共出頭して、直なる道を行ふ者は、孔子こうしふうをとこぞなんどとて、さゝやきあざ笑ひける間、おのづから人の心悪き方へぞ引かれける。

 
 
中にも木村常陸きむらひたちの守は、御気相ごきあひにて、何事も御内存ごないぞん推量おしはかり申しけるが、或時秀次ちと御所労ごしよらうにて奥の御殿ごてんにおはしけるに、常陸守まゐりて、隠密おんみつにて言上申したき事の候。恐れながら御前ごぜんの人々を退けられ、それへ召上めしあげられ候へかしと申上ぐる。関白聞召し、御前ごぜん女房達にようぼうたちをも退けられ、御側おそば近く召されける。常陸ひたちかしこまりて、かやうの御事申出すに付きても、恐入り候。若し御承引ごしよういんましまさずば、唯今たゞいま御手にかけられ候べし。太閤の御恩賞ごおんしやうを蒙り給ふ事は、海山うみやまにも譬へ難く候。然りとは申せども、先年せんねん若君わかぎみ出来させ給ひて後は、我等の存じなしにて候か、何とやらん御前ごぜんどほにならせ給ふやうに見えさせ給ひ候。貴きも賤きも、実子じつしのなき時にこそ、養子やうしをば寵愛ちようあい仕る物にて候へ。此若君五歳になり給はゞ、先づ関白くわんぱくを御譲りあれと仰せられ、西国か東国のはてにて御所領ごしよりやうを出され、後々のち流人るにんのやうになし給はん事は、まへにて候はん。さあらん時は、何事を思召し立ち給ふとも、みちき申す事は候はじ。今御威光ごゐくわう強き時に、大名共にも内々御情おなさけをかけられ候て、心底しんていを残さず御頼み候はゞ、何者かそむき奉るべき。夫れ弓取ゆみとりは、親を討ち子をがいしても、国を治め天下を保つは習ひにて候。此儀このぎ思召し立ち候はゞ、先づ異儀いぎなく御味方おんみかたに参り候はん者共を、指図さしづ仕り候べし。皆太閤御取立おとりたての侍の中にも、過分くわぶん勲功くんこうをなせし者共、少身せうしんにて罷在り、又さまでの忠なきともがらに、大分だいぶんの御所領下されたる者多く候へば、うらみを含みける者共多く候へども、其身人数ひとかずならねば力なし。若し君の思召し立つ御事あらば、うらみさんぜんと存ずる者共、かくといはぬ計にて候と、はゞかる所なく申上げける。関白御枕おんまくら押除おしのけ、起直おきなほり給ひて、汝が申す所もさる事なれども、莫大ばくだい御恩賞ごおんしやうを蒙り、いかにとしてさる事のあるべきや。其上大阪おほさか伏見ふしみの御城は、日本一の名城めいじやうぞかし。又たとひ我にくみするとも、諸大名の中、三分一オープンアクセス NDLJP:18はよもあらじ。さあらば、いかでかうんを開くべき。よしなき事な申しそ、かべに耳ありといふ事のあるぞとの給ひける。常陸ひたち守重ねて申すやう、御諚ごぢやうにて候へども、人数にんずそろへ、一戦に及び候はんだに、軍は人数にんず多少たせうによらぬ物にて候。其上それがし城中じやうちうへ忍び入り、大殿の御命おんいのちを奪ひ奉らん事は、何か仔細しさいの候べきと、事もなげに申しければ、関白聞召し、誠に汝はきこゆる忍びの名を得たると聞けども、それは時により、をりに従ひての事ぞかしとぞ仰せける。木村うけたまはりて、其儀にて候はゞ、三日の御暇おんいとまを下され候へ。大阪の御城へ忍び入り、何にても御天主ごてんしゆに御座候御道具ごだうぐを、一種取りてまゐり候べし。之を証拠しようこ御覧ごらんじて、御心を定められ候へとて、御前ごぜんを罷立つ。秀次はたゞ覚束たゞおぼつかなし、よしおほせけれども、それより所労しよらうとて出仕しゆつしをやめ、急ぎ罷下りけるが、其夜太閤は伏見へ御上洛ごじやうらくにておはしければ、取分とりわき門々のとのゐきびしかりつれども、いと易く忍び入り、事のやうをぞうかゞひけるに、女房達にようぼうたちの声にて、上様うへさまははや牧方ひらかとまで御上り候はんかなどいふを聞きて、扨は御運ごうん強き大将軍かな、此城に

今夜こよひましまさば、御命をうばひ奉らん物をといながら、此儘このまゝ帰りては悪かりなんと思ひ、天主てんしゆに忍び入り、太閤御秘蔵ごひざう御水差おんみづさしふたを取りて、急ぎ罷上り、秀次の御前にまゐり、くだんのやうを語り奉る。関白之を御覧ごらんじければ、先年せんねん秀次より御進上ごしんじやう水差みづさしの蓋なり。不思議ふしぎなる事かな。異なる物ならば、うたがはしくも思ふべきが、我手わがてれたる物なれば、いかで見損みそんずべきとて、斜ならず感じ給ふ。此水差は、昔さかひはまにて、数寄者すきしやの持ちたる道具だうぐなりしを、宗益そうえきと申す者求め出して、秀次ひでつぐへ捧げ奉るを、やがて太閤へ進上とぞ聞えし。其後大阪には、之を尋ねさせ給へども、見えざれば、何者かあやまちしてかくし捨てたるらんとて、金細工きんざいくの者に仰付けられ、黄金わうごんを以て打物うちものにさせ給ふ。後に聚楽じゆらくの御城欠所けつしよの時、此御道具ごだうぐ出でたるにより、此事思ひ合せて、くはしく尋ね給ひてぞあらはれける。常陸守ひたちのかみ、かやうに様々に計ひ申しければ、秀次も自ら御心をうつされ、内々に御支度ごしたくありて、大名小名によらず、御意に従ふべきと思召す者共には、御手前おてまへにて御茶おちやを下され、或は御太刀、刀、御茶湯おちやたう道具だうぐによらず、その程々に従ひ、金銀を遣されける間、何事もあらば一めいを奉らんと存ずる者共あまたなり。されども御家老ごからう中村田中をば、御はたへ入れさせ給はで、よろづ木村が差計さしはからひ申しけるが、つひに天罰てんばつのががたくして、君をもうしなひ奉り其身もあへなくほろびけり。

 
 
文禄ぶんろく四年二月中頃、聚楽より熊谷大膳くまがへだいぜんを遣され、伏見ふしみさとの秋の月は、古より歌人かじんの言の葉に詠み尽したる御事なれども、年毎としごとの御遊なり。又広沢ひろさはの月も他に異なれば、来らん秋の月をば、北山にて御覧ごらんぜられ候へかし。若君わかぎみ御慰めのために、八瀬小原やせをはらおくにて、かりくらを初め、御遊をなしたてまつるべしとぞ仰上げられける。太閤斜ならず御感にて、かくも関白の心にまかすべしと、心地こゝちよげに打み給ひて、汝心得て御返事ごへんじ申すべしとて、大膳たいぜんに御太刀一腰ひとこし呉服ごふく余多あまた下し給はつて帰し給ふ。大膳だいぜん罷帰り此由言上申しければ、夫れより御成おなりのために御殿を急ぎ申せとて、鍛冶かぢ番匠ばんしやうし集め、夜を日にオープンアクセス NDLJP:19で急がれける。
 
 
同五月二十五日の夜に入つて、石田いしだ治部少輔ぢぶのせう宿所しゆくしよ文箱ふみばこ持来り、是は聚楽じゆらくより参り候。浅野弾正殿あさのだんじやうどのへ急ぎ御状ごじやう参り候間、帰りて御返事へんじを給はるべしとて急ぎ帰りける。番所ばんじよさぶらひども、この状を石田に見せければ、文箱ふみばこの上に、石田治部殿いしだぢぶどのまゐると書きて、たれとも名をあらはさず。光成みつなり不思議に思ひひらき見れば、をさなき者の筆のやうにて、

近き頃太閤様たいかふさま聚楽へ御成おなりとて、御用意様々御座候。中にも北山にて鹿狩しゝがりのためとて、国々くにより弓鉄砲の者をえらびすぐり、数万に及び召しのぼせられ候。是は全くかりくらの御ためならず、御謀叛ごむほんとこそ見えて候へ。対面たいめんにて申したく候へども、返忠かへりちうの者といはれん事口惜くちをしく候。又申さぬ時は、重恩ぢうおんを蒙り候主君しゆくんへ弓を引くべし。此むねを存じ我が名をかくしてかくの如し。

と書きたり。石田おどろき、いそぎ御前に参り、此由このよし言上申しければ、太閤聞召きこしめして、関白何の意恨いこんにてさる事あるべきぞ。夫れはうとめる者の仕態しわざなるべしと仰せければ、光成みつなり承つて、いや存じ合せたる事ども候へば、先づ田中兵部たなかひやうぶを召し上せ、某いろすかして見候べしと申しければ、かくも先づ隠密おんみつにてうかゞへとのたまふ。

 
 
其頃そのころ田中は、の国河内の堤普請つゝみぶしん奉行ぶぎやうに仰付けられてたりけるを、夜通よどほしに召し上せ、先づ石田が宿所しゆくしよ呼寄よびよせ、おくちんしやうじ入れ、あたりに人一人も置かず、二人差寄さしよりて、いかに田中殿、御辺ごへんは千年も経させ給ふべきぞや。光成こそ御命を助け奉りて候へと申せば、兵部ひやうぶ聞いて大きに驚き、こはいかに、ゆめばかりも存じ審らぬ事をうけたまはり候ものかな。何事なれば事あらたしくは仰せ候ぞといひける。石田、さればとよ、光成ほどのしたしみをもち給はずば、今度こんどの御大事を、いかで遁れさせ給ふべき。御首おんくびを光成がぎ申して候といひければ、田中事の外気色きしよくを損じて、何と申すぞ、石田殿、当代だうだい日本のさふらひの中に、田中が事なんど、御前ごぜんにて悪様あしざまに申さん人は覚えず。たと讒言ざんげんしたりとも、上に用ひさせ給ふまじ。御辺ごへんなどが今時いまどき出頭しゆつとうして、御前近く参るとて、首をいだるは、いのち助けたるはなんどといふべき事やある。いざや只今たゞいまにても、御前ごぜんへ参らん。無用むようの事してたすけんよりは、罪あらば我がくび討つて参れとて、ひざなほし、刀のつかに手をけ、思切つたる有様なり。石田小声こゞゑになりて、しづまり給へ、田中殿、事の仔細しさいを申さで、御気おんきに当りたるはことわりにて候。されども御心をしづめて聞食きこしめせ。関白御謀叛ごむほんおぼしめし立ち給ふ御事のあらはれければ、中村は病気びやうきにて出でざれば、知らぬ事もあるべきが、兵部はかねて知らぬ事よもあらじ。たのむまじきは人の心ぞや。急ぎたばかり寄せて腹切はらきらせよと仰せられ、御憤おんいきどほり深く仰せ候ひしを、光成罷出まかりいで、御諚ごぢやうにて候へども、かはどの不覚ふかくなる事をおばしめし立つ程の御心様おこゝろざまにて、いかで彼等に御心をゆるし給ふべき。其上此両人このりやうにんの者共、度々御異見いけん申しけれども、更に御承引ごしよういんなくてオープンアクセス NDLJP:20常にまゐれども御機嫌ごきげんあしくし給ひて、御前遠ごぜんどほに罷成りたるとて、常々つね申候と、御身おんみに代りて申上候へば、夫れはさもあるらんが、されども彼程の事を支度したくせば、何に付けても不審ふしんの立つべきを、兎も角もいはざる事はいかにとの御諚ごぢやうにて候を、其儀にて候、内々ない某に申しつる事共候へども、かやうの御野心ごやしんあらんとは、努々ゆめぞんじも寄らで候ひしが、いまぞんじ合して候。いようかゞひ、御振舞おんふるまひを見計ひ候へとこそ申候はめとて罷立まかりたつて候。いさゝかもおぼしめし合せらるゝ事は候はずやと、言葉ことばを尽しいひければ、田中聞いて、是はぞんじの外にて候。一大事をうけたまはり候へば、某が身の上を、何者か讒言ざんげん申しつらんとこそ存じて候へ。仰の如く此頃は、某など外座間者とざまもののやうに罷成候へば、さやうの大事をば、いかで知らせ給ふべきなれども、上意じやういに、にくしと思召すは御理おんことわりなり。さりながら存ぜざるむねは、罷出でても申しひらくべし。此上はいかやうにも心を附けてうかゞひ申さんといふ。光成聞いて、さらば先づ御辺ごへん普請場ふしんばへ急ぎ御出で候へ。上意じやういとして、是より使者ししやにて申すべしとて、田中は河内へぞ帰しける。其後使者を以て、其許そのもと堤の御普請ごふしんは、たれにても仰付おほせつけらるべし。人こそ多く候はんに、御成前おなりさきにて候に、急ぎ帰京ききやうあつて、聚楽じゆらくの御殿など急がせ給へとの御諚にて候と申しつがひければ、兵部少輔夫れよりやが聚楽じゆらくへ参り、よろづに心を附けてうかゞひ見けれども、是ぞさだかなる事とてはあらざれども、いかさま不審ふしんなる事共多かりければ、昨日きのふありて、今日けふかくありてと、毎日まいにち石田がもとへ知らせける間、光成太閤の御前ごぜんに参り、御謀叛ごむほん早やうたがひなく候。兵部少輔方より、昨日は斯く申して参り候。今は又此儀このぎを申してつかはし候と、此事きふに申上げける間、太閤聞召きこしめし、其儀ならば、急ぎ踏潰ふみつぶすべしとの御諚なり。光成申しけるは、づいかやうにもたばかり給ひて、叶はぬ時は御馬を出さるべし。只今たゞいま洛中らくちゆう押寄おしよせ候はゞ悉く発火はつくわ仕るべし。さあらば、禁中きんちう火災くわさいいかでまぬかれ給ふべき。天子へのおそれ一つ。其上御命おんいのちに代り奉らんと存ずる程の大名共は、皆御暇おいとま給はり、国々へ罷下まかりくだり候。御馬廻おんうままはりの者共、僅に千にはよも過ぎ候はじ。いくさならひにて、人数にんずの多少にはるべからず候へども、定めて京都には、兼ての御支度ごしたくなれば洛中らくちう多勢たぜいてあるべく候。さあらば由々ゆゝしき御大事にて候。先づ徳善院とくぜんゐんを遣はされ、いかやうにもすかし出し奉り候はんこそ、武略ぶりやくの一つにてこそ候はんずれと申上げければ、御前ごぜんの人々、此儀然るべく存じ候と、一どうにぞ申しける。
 
 
さあらば先づ法印ほういん参り、いかやうにもはからひ申せとの御諚にて、七月八日に、徳善院とくぜんゐん聚楽へ参り、秀次ひでつぐの御前に参り、何とも申し出す事もなく、なみだむせびければ、関白あやしみ給ひて、いかにと仰せける。法印ほういん涙を押へて、其御事にて候。愚人ぐにんは勝るをねたむ習ひにて候へば、君の御事を讒言ざんげん申す者の候へばこそ、主なき文に様々さま言上申候を、一度二度は御用ひなくおはせしかども、度重たびかさなりければ、さて御野心ごやしんもましますか、何の御意恨ごいこんぞや。御齢おんよわひの傾くに付けても、杖柱つゑはしらとも頼み思召すに、頼みたる木の下に雨るとは是なるならん。かゝる不思議ふしぎこそ出で来れと、御朦気千万おんおぼろけせんばんにて、御涙きあへさせ給オープンアクセス NDLJP:21はず候と言葉ことばを尽し、誠にさるべきやうに申しければ、関白おどろき給ひて、こはそも何事ぞや、我まんまんの御恩賞ごおんしやうを蒙り、何の不足ふそくありてか野心やしんふくむべき。汝も能く思うて見よ、我れ幼少えうせうより御寵愛ある故に、日本国中の諸侍しよしにかしづかれ、七珍万宝しつちんばんぱう満ちて、心のまゝにある事、我力にあらず、ひとへに太閤の御恩賞ごおんしやうぞかし。夫れに何ぞ我れ逆心ぎやくしんあり共、何者か我にくみする者のあるべきぞ。斯程かほどの大事を一人して思ひ立たんは、ひとへ狂人きやうじんにてあるべし。其上何に付けても、此君に野心をかまへば、日本国中の諸神しよしんは申すに及ばず、上は梵天帝釈天ぼんてんたいしやくてん、下は四大天王しだいてんわう照覧せうらんあるべしと、御誓にてちんじ給ふ。法印うけたまはりて、御諚の如く、我等如きの者共存じ奉ればこそ、御前にても推量おしはかり申上げ候へ。さりながら常々つね御存じ候如くに、一たん御腹の立つ時は、矢楯やたてもたまらず仰せられ候へども、又いつもの如く、若君達わかぎみたち御先に立てられ、あれへ御参りあつて、御心底ごしんてん仰上おほせあげられ候はゞ、やが御機嫌ごきげんは直らせ給ふべしと申しけれども、さすが御身おんみに危き事やおはしけん、先々まづ汝罷帰りて、我が野心やしんなきむねを心得て申

上げよとて、法印ほういんを下し給ふ。徳善院罷帰りて、此由くはしく言上申しければ、いかやうにも計ひて、聚楽じゆらくを出し奉れとて、重ねて幸蔵主かうざうす差添さしそへられ遣さる。此幸蔵主と申すあまは、女なれども、智恵ちゑ深く弁舌達べんぜんたつしければ、御前ごぜんを去らず、よろづの事を推量おしはかりけれども、一も御心に反きたてまつらず。常に関白御参おんまゐりの時も、此あまならで御挨拶ごあいさつ申す者なし。されば此両人重ねて参り、御諚のとほりさし心得て申上候へば、幸蔵主かうざうすも罷出で、様々御取成おんとりなしにて、御機嫌ごきげん直らせ給ひて、越方こしかた行末ゆくすゑの事、誠に有難ありがたき御諚ども仰出され、御涙を流し給ひて、はじめより浮世うきよぜめと思召せばこそ、先づ法印めをばつかはされて候へ。されどもさやうに諸人にうとまれ給ひて、讒言ざんげん受けさせ給ふも、御心にわたくしのましませばこそ。天下を保ち給ふ人は、万民ばんみんを御子とあはれび給ひてこそ、御代はいよ長久ちやうきうなるべけれ。いさゝかも御心に私なく、天の道をそむき給はぬやうに、御計おんはからひあれかしとおぼしめし候。此むね能々よく申上げよとの御諚にて、かさねて幸蔵主を遣され候。いそぎあれへ御参りなされ、御対面ごたいめんにて、何事も仰上げられ候はゞ、事のついでに内々の御訴訟ごそしようも叶ひ候べしと、徳善院とくぜんゐん富婁那ふるな弁舌べんぜつりて申上げ、幸蔵主は舎利仏しやりぶつ智恵ちゑを取つて、さもありげに申上げければ、さらば汝等なんぢら御先おさきへ参れ、やがて御出あるべき由仰せられ、御輿おんこしを出せと仰せける。両人さあらば御先おんさきへ参り候べし。相構あひかまへていつもの如く君達きんだちをもし給ひて、御参おんまゐり候へと申してこそはかへりけれ。

 
 
かくて関白くわんぱく御装束おんしやうぞくあらた出御しゆつぎよなる所へ、木村罷出まかりいでて、君は斯程かほどまで、言甲斐いひがひなき御所存ごしよぞんにておはしける事こそ口惜くちをしけれ。唯今たゞいま伏見ふしみへ御参り候とも、御対面ごたいめんは思ひも寄らず、ふたゝび都へは返し給ふべからず。道にて雑兵ざふひやうの手にかゝり給ふか、さらずば遠国をんごくへ流され給ひて、遂には御介錯ごかいしやく申す者もなき御腹おんはら召され候はん。迚ものがれ給ふまじき御命を、いつまで惜み給ふぞや。いそ伏見ふしみへ押寄せ、戦場せんぢやうに御名をのこし給ふか、さらずば此城に楯籠たてこもり、京中を焼払やきはらひ、御門を是へ行幸ぎやうかうなし奉り給ひて、一さゝへ支オープンアクセス NDLJP:22へ給はゞ、いかで太閤も、天子へ御弓をき給ふべき。さあらば御扱おんあつかひと仰せ候はん時は、十分の利を得させ給ふべし。先づ京中きやうちう兵粮ひやうらうこと召寄めしよせられ候へと、威丈高ゐだけだかになつてぞ申しける。
 
 
かゝりける所に、阿波あは木工もくすけ進み出で申しけるは、常陸ひたちかみ申す所もさる事にて候へども、又退き愚案ぐあんめぐらし候に、伏見の大殿おほとのは、御心早き大将軍たいしやうぐんにてましませば、君の御謀叛ごむほん必定と思召し候はば、やはか斯様かやうに事び候まじ。即時に押寄おしよせ給ふべし。唯筋たゞすぢなき事を取持つて、石田が様々讒言ざんげん申すとも、太閤御底意おんそこいには御承引ごしよういんなきとこそ存じ候へ。さあらん時は、何心なにごころなく御参り候はば、いよ御心けさせ給ふべし。又只今伏見殿ふしみどのへ寄せられ候とも、甲斐々々かひしく利を得させ給ふ事は候はじ。あなたは譜第ふだい重恩ぢうおんの侍共なれば、十が百にも向ひ候べし。こなたは大勢たいぜいなりとも、諸国のかり武者むしやにて、伏見に親を持ち子を置きたる者、或は最愛さいあいに心かれ、何の御用ごようにも立ち難し。又此城廓じやうくわくこもり給ふとも、寄手よせてきびしく候はゞ、やが実否じつぷも極まり候べきか。遠攻とほぜめにして兵粮ひやうらうを尽し候はゞ、皆親類しんるゐ縁者えんじやに附いて降参かうさんし、敵には力を附くるとも、甲斐々々かひしく御用に立つ者は候はじ。斯様かやうに申す者共こそ、御内存ごないぞんは存じて候へ。何者なにもの白状はくじやう申すべきぞや。あやふき事は候はじ。たゞ此度は急ぎ御参おんまゐりあつて然るべく候と、めて申しければ、いづれも此儀然るべし。さあらばいかにも穏便をんびんくべからずとて、御輿おんこしちやうにて、御道具をも差置さしおき、徒立かちだちにて御供おんとも二三十人召連れられ、文禄ぶんろく四年七月八日に、聚楽の城を出で給ふは、御運ごうんすゑとぞ覚えける。
 
 
オープンアクセス NDLJP:23
 
巻之中
 
 
 
関白くわんぱく御輿おんこしを早め給へば、程なく五条ごでうの橋を打渡り、大仏殿だいぶつでんの前を過ぎさせ給ふに、何とやらん前後ぜんごさわがしくひしめきて、ふ人も、こゝかしこに立迷たちまよひければ、御供の人々、これは早や御討手おんうつての向ひたると覚え候。いやしき者共の手にかゝり給はん事、あまりに口惜くちをしく候へば、東福寺とうふくじへ御輿を入れられ、あれにて御心静に、御腹おんはら召され候へかしと申しければ、秀次聞召し、さては法印めにたばかられつる事の無念さよ。さらば是より引返ひきかへし、聚楽にてはら切らめと仰せける。かゝりける所に、あとより参りたる若党わかたうども、早や五条わたりのていを見候へば、敵まん入廻いりまはりて候と覚え候。還御くわんぎよは思ひもよらず候と申しければ、関白聞召きこしめし、さるにても弓矢取る者の、仮初かりそめにも乗るまじき物は輿車こしくるまぞかし。馬上ばじやうならば何者なりとも、やが蹴散けちらして通るべき物を、犬死いぬじにすべき事こそ口惜くちをしけれ。思ふ仔細しさいのある間、先づ藤の森まで御輿おんこしいそげとて、さらぬていにて過ぎさせ給ふ所へ、増田右衛門尉ますだうゑもんのじよう参り迎へ、馬より飛んでり、御輿の前にかしこまり、以の外の御機嫌ごきげんにて御座候。一先づ高野山かうやさんへ忍ばせ給ひて、連々れん以て御野心ごやしんなき通りを、おほせ開かれ候へと申しければ、関白御輿おんこしを立てゝ、是れ迄出づるよりして其覚悟かくごなれば、今更いまさら驚くべきにあらず。聚楽にありながら御ことわりを申せば、おほそれ多く思ひ、是れ迄出でたるなり。唯今たゞいまかくもならんずる命は、露塵つゆちりも惜しからねども、無実むじつにて果てん事こそ、何より口惜くちをしけれ。相構へて秀次程のものに、最後さいごを知らせざる事あるべからず、尋常じんじやうに腹切るべしと宣へば、右衛門尉うゑもんのじよう承つて、いかで御腹おんはらめさるゝまでは候べき。一たんかやうにおほせられ候とも、連々れん御自筆ごじひつの御書を捧げられ、御心底ごしんていおほせ上げられ候はゞ、やが御和睦おんわぼくあつて、讒言のともがらを、御心のまゝに仰付けらるべしと、やうに申しすゝめ奉り、夫れよりものゝふども、前後ぜんごかこみ、大和路やまとぢにかゝり伏見ふしみの城をよそに見て、急がせ給ふ御心の中、思ひやられていたはしさよ。仮初かりそめ出御しゆつぎよにも、馬上ばじやう御供おんとも数百人召連めしつれられつるに、此度このたびは僅に侍四五人ならでは御許しなければ、只夢路ゆめぢ辿たどる御心地にて、

南をして赴き給ふ事こそあはれなれ。聚楽じゆらくのこりたる人々は、伏見との御対面ごたいめんも叶はせ給はで、我君は高野かうやへ上らせ給ふ由きこえければ、皆あきれ果てゝ、こはそも何と成行なりゆく世の中ぞや。かくあるべきと思ひなば、などかいづく迄も御供おんとも申さであるべきぞ。たゞてん人の五衰ごすゐ、目の前にめぬる事こそあさましけれと、上下しやうか諸共もろともに泣き悲む声、しばしも止むことなし。中にも御恩深き人々は、順礼修行者じゆんれいしゆぎやうじやの姿に身をやつし、いづく迄も御跡おんあとしたひ参らんと志しぬれども、こゝかしこにてきびしくあらためければかなはずして、夫れより諸国しよこくだうまはるもあり、或は己々おのれれたる国々くにへ帰るも多かりけり。

 
 
関白くわんぱくは、いぶせき藁屋わらや軒端のきばも荒れたるに御輿をとゞめ、いとをかしき御膳ごぜんさゝげ奉りけれども、オープンアクセス NDLJP:24御箸おんはしをだに取り給はで、いざよふ月を御枕おんまくらにて、暫しかたふき給へども、まどろみたまはねば、御夢をも結びあへず、たゞうつかはれる御身の上をくわんじ給ひてかく、

  思ひきや雲井くもゐあきの空ならで竹あむまどの月を見んとは

かやうに口ずさみ、いとゞ長き夜をあかし兼ねておはしけるに、やう八声やこゑを告ぐるとりも、まだ東雲しののめの空暗きに、御輿おんこしき出し、と勧め奉れば、いそがぬ旅のみちながら、御心ならずうかれつゝ、井出ゐで玉水たまみづ行過ぎて、佐保さほ川隈かはくまうちけぶり、奈良坂ならざかや、春日かすがもりも程近くなる。日頃ひごろ御参詣ごさんけいには御輿車数を知らず、金銀をちりばめ、御末々おんすゑ迄も花やかにて、南都なんと衆徒達しゆとだちは出迎へ、みちを清め沙をき、こゝかしこにひれして、御目にかゝらん事をねがひつるに、今ひきかへたる御有様おんありさまいたはしさよ。ふものも恐れ奉らず、賤山しづやまがつに打交うちまじはり給ふ事こそあはれなれ。かくて般若寺はんにやじのあたりに、しばし御輿を立てゝ、春日かすが大明神だいみやうじん伏拝ふしをがみ給ひて、

  三笠山みかさやま雲井くもゐの月はすみながらかはり行く身のはてかなしき

かやうにうちながめ、御涙をながさせ給へば、御供おんともの人々、守護しゆごの輩まで、皆々袖をぬらさぬはなかりけり。それより行末ゆくすゑを見渡せば、柴屋の里のしばも、まゐらする人もなく、け行くつゆの草村の、むしの声だにおとろふる、身の行末ゆくすゑや歎くらん。岡野をかのの宿を過ぎ行けば、当摩たいまの寺のかねの声も、煩悩ぼんなうの眠やさますらんと思召おぼしめし続けて、

  転寝うたゝねの夢の浮世うきよを出でて行く身の入相いりあひかねをこそ聞け

かくてよもすがら、高野山へのぼり給ひ、木食上人もくじきしやうにんの方へ御案内ありければ、上人しやうにん驚き給ひ、いそしやうじ入れ奉り、さて唯今たゞいまの御登山、おぼしめしらざる御事かなとて、墨染すみぞめそでぬらし給へば、関白くわんぱく何と仰せ出す事もなく、御袖おんそでを顔に押当おしあて、御涙にむせび給ひ、やゝありて、れかゝる事のあるべきとは思ひもらで、世にありしとき、心をくる事もなくて、今更いまさらあさましうこそ候へ。みづからがつゆいのち、早やきはまり候へば、唯今たゞいまにも伏見ふしみより検使けんしあらば、自害じがいすべし。からんあとは、たれか頼み申すべきとおほせもあへず、又御涙をながし給へば、木食上人うけたまはり、御諚ごぢやうにて候へども、此山このやまへ御登りなされ候上は、いかで御命おんいのちさはり候べき。たと太閤たいかふ御憤おんいきどほり深くましますとも、当山の衆徒しゆと一同に申上げ候はば、よも聞食きこしめし分けざらんと、たのもしげにぞ申されける。

 
 
関白くわんぱくやがてぐしおろし給ひて、御戒名は道意禅門だういぜんもんとぞ申しける。御供の人々も、みなもとゞりつて、ひとへに御世菩提ぼだいの祈にて、上意じやういの御使を、
今やち給ふ所に、福島左衛門大夫ふくしまさゑもんのだいぶ福原右馬助ふくはらうまのすけ池田伊予守いけだいよのかみ、此人々を大将として、都合つがふ其勢五千余騎、文禄ぶんろく四年七月十三日のさるこくに、伏見ふしみを立ち、十四日の暮程くれほどに、高野山にぞ著きにける。木食上人もくじきしやうにんの御庵室にまゐりければ、折節をりふし秀次入道殿、大師の御廟所へ御参詣ごさんけいにて、おくゐんにおはしけるを、上人より此由申上まうしあげられければ、やがて御下向あつて、三人オープンアクセス NDLJP:25の御使に御対面ごたいめんある。左衛門大夫落縁おちえんかしこまり、御さまかはりたるを見奉り、なみだを流しければ、入道殿御覧ごらんじて、いかに汝等は、入道にふだう討手うつてに来りたるとな。此法師ほうし一人討たんとて、あまりにことしき振舞ふるまいかなと仰せければ、福原右馬助かしこまつて、さん候。御腹おんはらされ候はゞ、御介錯ごかいしやく申せとの御諚ごぢやうにて候と申せば、さては汝等、我首討つべきと思ふか。いかなる劔をやちたる。いで入道も腹切はらきらば、首討たせんために、かたの如くの太刀をちたるに、汝等に見せんとて、三尺五寸黄金こがねづくりの御佩刀はかせ、するりとき給ひて、是れ見よと仰せける。これは右馬助若輩じやくはいにて、推参すいさん申すと思召し、かさねて物申さば御手にかけられんと思召おぼしめ御所存ごしよぞんとぞ見えける。三人の御小性衆は、御気色みけしきを見奉り、少しもはたらくならば、中々なか御手にはかくまじき物をと思ひ、見合みあはせて、かたなつかに手をかけ居たる有様、いかなる天魔鬼神てんまきじんも退くべきとぞ思はれける。入道殿は如何いかゞ思召しけん、御佩刀おんはかせさやに納め給ひて、いかに汝等、入道が今までいのちながらへたるを、さこそおくしたりと思ふべし。伏見ふしみを出でし時、其夜如何にもなるべきと思ひつるが、上意じやういをも待たで腹を切るならば、すはや身にあやまりあればこそ、自害じがいをば急ぎつれと思召さば、ゆゑなき者共ものどもの、多くうしなはれん事も不便ふびんなる事とおもひ、今迄いまゝでながらへしぞ。今は最後さいごの用意すべし。相構あひかまへて面々たのむぞ。我につかへし者共を、きやうに申上げ、如何いかにもして申助けて入道が孝養けうやうにせよ。よしなき讒言にて、われこそかく成行なりゆくとも、一人もつみある者はあるまじきぞとのたまひしは、いとはかなき御志とぞ思はれける。やがて御座を立たせ給ひて、御ゆびかせ給ひて、御最後ごさいごの御用意なり。かゝりける所に、木食上人もくじきしやうにんを始め、一山の老僧出合ひ給ひて、三人の御使に向ひ、当山たうざん七百余年此方、此山へ上り給ふ人のいのちを、がいし給ふ事そのためしなし。いかに天下の武将ぶしやうにてましませばとて、此由このよし一旦言上申さでは候はじと、老若らうにやく一同に申されける。御使の人々、おほせはさる事にて候へども、兎ても角ても叶ふまじき御訴訟ごそしようにて候と、再三申しけれども、此山の名を下すにて候へば、如何様いかやうにも言上申すべきとの詮議せんぎなり。福島進み出でて、衆徒しゆとの仰せ尤さもあるべく候。さりながら此者共参りて、若し時刻じこく遷り候はゞ、とて勘気かんきを蒙り、腹切れと仰せらるべし。さ思召し候はゞ、づかく申す者を、衆徒達しゆとたちの御手にかけられ候て後、いかやうにも言上ごんじやう申され候へと、威丈高ゐたけだかになりて申しければ、さすがに長袖ちやうしうの事なれば、木食上人をはじめ、一山の衆徒達ちから及ばず立ち給ふ。かやうのひまに少しときうつり、其の夜は漸けて、こくに御腹召されける。御最後ごさいごの有様は、さも由々ゆゝしくぞ見え給ふ。御名残おんなごりの御盃取交とりかはし給ひて後、是迄これまで附随ひ参りたる人々を召して、いかに汝等、までの志こそ、返々かへす神妙しんべうなれ。多くの者の其中に、五人三人最後さいごの供するも、前世ぜんせの宿縁なるべし。一度所領しよりやうをも与へ、人となさんと
思ひつるに、いつとなく打過うちすぎて、一旦のたのしみもなく、今かゝるめをさすることのあさましさよとて、御涙を流したまひつゝ、いかに面々めんあとにこそ具すべきに、若き者共なれば、最後さいご有様ありさま心元こゝろもとなし。其上みづから腹切はらきると聞かば、雑兵共ざふひやうどもがみだれ入り、事騒ことさわがしく見苦みぐるしがるべし。是れにて腹切れとて、山本主殿に、国吉くによし御脇指おんわきざしを下されける。主殿とのも承りて、某は御介錯ごかいしやく仕り、御あとオープンアクセス NDLJP:26にこそと存じ候へ共、御先おさきへ参り、死出しで三途さんづして苛責かしやく其に中付け、みちきよめさせ用すべしと、につこと笑つて戯れしは、さも由々ゆゝしく見えたれ。誠に閻魔倶生神えんまぐしやうじんも、恐れぬべき振舞なり。彼御脇指をいたゞき、西に向ひ十ねんして、腹十文字に搔破かいやぶり、五ざうを繰出しけるを、御手おんてにかけて打ち給ふ。今年十九歳、初花のやゝほころぶる風情ふぜいなるを、時ならぬあらしの吹き落したる如くなり。其次に山本三十郎を召して、汝もこれにて切れとて、安川藤四郎の九寸八分ありけるをくださるゝ。うけたまはりて候とて、これも十九にて神妙しんべうに腹切り、御手にかゝる。三番に不破ふは満作まんさくには、しのぎ藤四郎を下され、おも仔細しさいのあれば、汝も我手わがてにかゝれと仰せければ、いかにも御諚ごぢやうに従ひ奉るべしとて、御脇指を頂戴ちやうだいして、生年十七歳、ゆきよりしろきよげなるはだを押開き、左手ゆんでの上に突立て、右手めて細腰ほそこしまで引下げたるを御覧ごらんじて、いしくも仕たりとて、御太刀を振上ふりあげ給ふかと思へば、くびは先へぞんだりける。彼等かれらは常に御情深き者共なれば、人手にかけじと思召おぼしめす、御契おんちぎりの程こそ浅からね。かくて入道殿は、御手水おんてうづ嗽ひしたまひてのち、りう西堂を召して、其身は出家の事なれば誰かとがむべき。いそぎ都へ上り、我が後世ごせ弔ひ候へと仰せければ、口惜くちをしき御諚ごぢやうにて候。是れ迄御供申し、唯今御暇給はり、みやこへ上り候とも、何のたのしみ候べき。其上恩ふかき者共は、出家とて、いかで許され候はん。わづかの命ながらへて、都まで上り、人手ひとでにかかり候はん事、思ひも寄らず候と申し切つて、これも御供おんともに極まりける。此僧このそう内典外典ないてんげてん暗からず弁舌人に勝れければ、御前を去らず仕へしが、いかなる事にや出家の身として、御最後ごさいごの御供申さるゝこそ不思議ふしぎなれ。かくて入道殿は、両眠りやうがんを塞ぎ観念して、本来無東西何所有南北と観じて後、篠部淡路守を召されて、汝此度あとを慕ひこれ迄参りたる志、生々しやう世々せゝ迄報じ難き忠ぞかし。とてもの事に我れ介錯かいしやくして供せよと仰せける。淡路承つて、此度御跡おんあとを慕ひ参らんと志し候者共、いかばかりあるべき中に、それがし武運に叶ひ、御最後ごさいごの御供申すのみならず、御介錯まで仰付けらるゝこと、今生こんじやうの望み、何事か是れに過ぎ候べきと申せば、御心地よげに打笑み給ひて、さらば御腰おんこしの物と仰せける時、四方様の供饗に、一尺三寸の正宗まさむねの御脇指の中巻なかまきしたるをまゐらせ上ぐるを、右の御手に取り給ひて、左の御手にて、御心元をげて、ゆんでのわきに突立て、めてへきつと引廻し給へは、御腰骨おんこしぼね少しかゝると見えしを、淡路御後へまはりければ、暫く待てとのたまひて、又取直し、胸先より押下げ給ふ所を、頓て御首討ち奉る。をしむべき御年かな、三十一を一として、嵐にもろき露の如く消え給ふ。りう西堂まゐりて御死骸をさめ奉り、これも御供おんとも申しける。淡路守、我郎等らうどうを近づけて、手水嗽ひして、秀次の御首を拝し奉りて後、検使けんしの人々に向ひ、某身不肖ふせうに候へども、此度御
跡を慕ひ参りたる御恩に、御介錯仰付けらるゝは弓矢取つての面目と存候。あはれ見給ふ方々は、念仏ねんぶつ申してたび候へといひもあへず、一尺三寸平作ひらづくりの脇指を、太腹ふとばらに二刀さしけるが、切先五寸計後へ突通して、又取直し、首に押当て、左右さうの手を掛けて、前へふつと押落しければ、首をひざに抱きて、むくろは上に重なりけり。見る人目を驚かし、あはれ大剛のたいがう者かな。腹切る者は世に多かるべきが、かゝるためしは伝へても聞かずとて、諸人オープンアクセス NDLJP:27一度にあつとぞ感じける。
 
 
さる程に、此関白殿は、御思おのもびと多き中にも、若君わかぎみ三人おはします。御嫡子ちやくしは仙千代丸と申して、五歳になり給ふ。次をば御百丸とて四歳、三男は御十丸。何れもたまみがきたる如くにて、父御の御寵愛ごちようあいあさからず、片時へんしも離れ給はでおはしける。常には伏見殿へ御参りの時も、同じ御車にて座しける。此度は、何とて我々をば召連れ給はぬぞ。父はいづくへ御渡り候ぞや。急ぎ父のおはします方へ、我を具して参れ。我先われさきに行かん、我も行かんと、声々こゑに泣き叫び給へば、母上達は落つる涙を押へつゝ、大殿おほとのは、西方浄土と申して、めでたき所へ渡らせ給ひ候。若君達をも、頓て御迎へ参り候べし。しばらく御待ちあれといひもあへず、涙に搔暮かきくれ給へば、中居なかゐ末々すゑの女房童に至る迄、伏転ふしまろびてぞ泣き叫びける。若君達は此由聞召きこしめして、さらば御迎へ参らずとも、いそぎ其西方浄土とやらんへ、我を具して行き給へ。唯今行かん。御車こしらへよ、御馬に鞍置くらおけよとてめ給へば、いとゞる方なき御身どもの、置き所なくて、たゞ伏沈ふしゝづみ泣沈み給ふ有様、あはれとも中々に、たとへていはん方もなし。むかし平治年中に、待賢門たいけんもんの軍に打負け給ふ義朝の思ひ人常磐御前ときはごぜんは、三人の若君を引具ひきぐして、大和路やまとぢ指して落ち給ふもかくやと思ひ知られたり。されども夫れは敵のかたきの手をも脱れつれば、少しはたのみもありぬべし。此人々はかごの中の鳥の如くにて、如何程いかほどあこがれ給ふとも、つゆたのみもあらばこそと、見る人聞く人、そでを湿らさぬはなかりけり。
 
 
同じき七月十七日に、入道殿御首おんくび并に御供申せしともがらの首共を、伏見へさしのぼせ、太閤たいかふの御目に懸け奉れば、さしも御いとほしみ深く思召しつる御養君おんやしなひぎみにておはしけるに、今引換ひきかへて、御憤おにきどほり深く思召し、さるにても天罰てんばつを受けたる者の、なれる果のあさましさよ。後代こうだいのためしなれば、急ぎ都へ上せ、三条のはしにて、七日さらすべしとの御諚にて、三条川原にかけ奉る。京中の貴賤きせん群集ぐんじゆして、御有様を見奉り、あはれ人のうへほど定めなきものはなし。今日此頃迄、諸国しよこく大名だいみやうにいつきかしづかれたまひて、何事なにごとも御心の儘に振舞ふるまひ給ひつるに、かやうに浅猿あさましく成行き給はんとは、誰か思ひ寄るべきぞ。らぬは人の行末ゆくすゑの空と、み置きしこそ誠なれといひ語らひ、諸人なみだを流しける所に、年の程八十に及びたるらんと見えて、色黒いろくろく脊高く荒々あらしき禅門ぜんもんゆがみたる杖を曳きずり、汗水あせみづになりて足早にあゆみより、余多の人を押分けてはゞり出でて、大の声にてから打笑うちわらひ、さても、人は現在のありさまにて、過去くわこ未来みらいを知るといへば、前生の戒力にて、一旦は栄華えいぐわほこるといへども、かやうに目の前にて、あさましき体に成り果てゝ、さこそ
来世らいせ修羅道しゆらだうに落ちて、長く浮むまじき人のなれる果や。われ八十になり、杖柱つゑはしら共頼みつる子を、故もなく失はれ、兎にも角にもるべきと思ひつれども、孫共の幼くて、世になしものとならんを不愍ふびんさに、つれなく命ながらへて、今又かゝるオープンアクセス NDLJP:28不思議ふしぎを見る事よ。あら面憎やと思ふ心地こゝちにて、歯切はぎしりしてぞ罵りける。諸人しよにん、こは如何なる物狂ひぞやと怪みけるに、此禅門ぜんもんは、都の方辺土にて、田畠多くちて富める民なるが、一とせ訴訟そしようありて、彼が嫡子ちやくし奉行所へ参りける。世に勝れて肥りせめて、大の男なるを、何者なにものか申上げたりけん、ゆゑなくからめ取り、訴訟うつたへの沙汰さたもなく、やがて其夜に切られけるとなり。これは如何なる事ぞといへば、其頃関東くわんとうより、鍛冶の上手を召上せられ、あまたの太刀を打たせ給ふ中にも、三尺五寸の太刀を打ちたてゝ参らせければ、此太刀たちのかねをためこゝろみ給はんとて、大の男の肥りたる者もがな、いづくにても見出みいだしたらば、ひそかに召し連れ参れと、内々仰せけるを、若殿原わかとのばら承り、折に幸と申上げけるとぞ聞えける。
 
 
木村常陸の守定光は、関白殿くわんぱくどの伏見へ御参りの時も、色々いろ申留め奉れども、阿波あはの木工之助が申すに附き給ひて出御なる。常陸力及ばで居たりけるが、猶御心許おんこゝろもとなく存じければ、御跡を慕ひ、五条の橋迄がくれに参りけるが、先々の様を見ばやと思ひ、夫れより道をかへて、竹田へすぐに打つて出でけるに、竹田の宿外れには、鞍置くらおきたる馬共、こゝかしこに引立てゝ、物具もののぐしたる兵並みゐたり。すはや危し。我君わがきみをはや道にて討ち奉るとおぼゆるなり。いつまで命をながらふべきぞ。いかに汝等、皆徒立かちだちにて叶ふまじけれども、我に命惜しからぬものは、むかふかたきを一さゝへ支へよ。我は其隙にけ通りて、石田いしだめがけ廻らんに、おとし、首取つて後腹切るべしとて、既にけ出でんとしける所に、野中清六とて、十九になるわつぱ、馬の口に取付とりつき、暫く待ち給へ。縦ひ鬼神のはたらきを致し候とも、此分にて、いかで駆抜け給ふべき。先々に人数を伏せて、待つ体とこそ見えて候へ。さあらば雑兵ざふひやうの手にかかり、犬死し給ふべし。先づ是より山崎やまざきに打越え給ひて、夜に入り忍び入り、いかさまにも計ひ給へかし。さらずば一度北国へ下り給ひて、城に楯籠たてこもり給はゞ、国々へ下りたる味方共みかたども、馳せ集まり候べし。其時一合戦かつせんして、主君の為に命をてさせ給はゞ、御名を残し給ふべしと、おとなしくいひければ、のこる者共、此儀然るべきとて、夫れより東寺を西へ、むかうの明神へかゝりあゆませ、山崎たから寺に、日頃よしみあるそうの許へ忍び入り、伏見のやうを聞き居たりしに、関白殿は高野かうやへ渡り給ふと聞きて、さては未だ御命にさかいなし。いかにもして御跡おんあとしたひ参らんと思ふ中に、下人共皆落失おちうせければ、唯羽抜鳥はぬけどりの如くにて、あきれ果てゝぞゐたりける。されば宿の者共此由を聞き、此人々ひとを隠し置きたりなどと聞食きこしめしては一大事とて、やがて伏見へ申上げければ、それより検使立つて、七月十五日に腹を切りける。子息木村志摩の助は、北山に忍びゐたるが、父の最後さいごの由聞きて、やがて其日寺町正行寺にて、自害してこそ果てたりけれ。
 
 
熊谷大膳は、嵯峨さが二尊院に居たりけるを、徳善院とくぜんゐん承りて、同七月十五日に、同七月十五日に、松田勝右衛門といふ家老からうオープンアクセス NDLJP:29の者を遣しける。松田は先づ釈迦堂迄来り、それより人を遣し、秀次今日高野にて御腹召され候。いそぎ御供あるべきとの上意じやういを、徳善院承りて、松田これ迄まゐりて候。日頃御懇志ごこんしに預り候へば、何事も思召し置かるゝ事の候はゞ、承り候へと申しつがひければ、大膳だいぜん使に出で合ひて、上意の御使にて候へば、れ迄罷出で対面申度候へども、御気遣ひもあるべければ、これへ御入り候へかし。最後さいごの御暇乞をも申し、又たのみ申度事の候由返事しければ、松田頓て内へ入る。大膳出で合ひ、これ迄御越し満足まんぞく申候。左候へば、我等召遣めしつかひ候者共、最後のとも仕るべき由申候を、色々申留め候。若し某果て申候後にて、一人なりとも此旨このむね背きたる者は、来世らいせまで勘当たるべく候。其上其者の一類を、五畿内近国を御払ひ候うてたび候へ。返々を、重海の勘当かんだうたるべして、様々のちかひにて、其後最後さいごの御盃持つて参れとて、松田と最後のさかづき取交しける隙に、大膳が郎等共、御最後の御供申さばこそ、勘当かんだうをも蒙り候はめ。御先へ参り候上はとて、三人一所にて腹切つてぞ死んだりける。のこる者共之を見て、尤是はことわりとて、我もと心ざしけるを、松田が郎等らうどうは寺中の僧達出合ひて、一人には五人三人づつ取付きて先づ太刀刀を奪ひ取る。大膳之を見て不覚なる者共哉。誠の志あらば、命長らへて、熊谷後世をとぶらひてくれよかし。却てよみぢのさはりとならんと思ふかや。此世にてこそ、主のために命を捨つべけれ。御助あらば、此大膳は、唯今にても出家して、主君の御菩提おんぼだいを弔ひ奉るべけれども、御許なければ、力なしとて、涙にむせびければ、此上は力なしとて、皆髪をり、あるじの御房の御弟子になり、後をば念頃ねんごろに弔ひ奉るべし。御心安く思召おぼしめして、御最後の御用意候へと申す。熊谷斜に喜び、頓て行水ぎやうずゐして、仏前ぶつぜんに向ひ礼し、客殿の前に畳裏返して重ね、其上にて水盃取交し、供饗に載せたる脇指わきざしを取り、西に向ひ、立ちながら腹十文字に切つて、首をべてぞ討たせける。松田も日頃深きちぎりなれば、涙にむせびつゝ、あるじ御房ごぼうに申合せ、百箇日迄の弔ひかたの如くに勤めける。さるにても熊谷は小身なれども、日頃の情や深かりけん。又は其身そのみ大功たいこうの者なれば、下々迄も心勝りつらん。誠に栴檀せんだんの林に生ふる木なりとて諸人感じける。
 
 
白井備後しらゐびんご阿波の木工は、鞍馬の奥迄立退たちのき、上意いかゞと待つ所に、徳善院の方より、小池清左衛門をつかはして、関白殿の御事、北の政所より仰せられ、御命おんいのちばかり申助け奉らんとて、様々さまに仰せ上げられけれども、いかにもかなふまじき由御返事ごへんじにて、検使の為に福島左衛門大輔、福原右馬助、池田伊予の守、此三人を遣され候。急ぎ最後さいごの御用意候べし。又思召し置く事候はゞ、此者に仰聞けられ候へ。あと御孝養ごけうやうは、懇に沙汰さたし申すべしといひ遣されける。両人清左衛門に対面たいめんして、法印ほういんの御心付過分くわぶんに候。とてもの御事に、日頃頼みつる上人の方へ召連めしつれくれ候事は、御辺ごへんの心得として、なるまじきかとたのまれければ、清左衛門聞いて、いと易き御事にて候。法印ほういんも其趣申付け候とて、ふる釣輿つりかごに載せ、白井は大雲院の御寺にて腹切る。木工の助は粟田口あはたぐちの鳥の小路こうぢといふ者の方にて、時をもオープンアクセス NDLJP:30ず果てたりけり。
 
 
白井が女房は、北山きたやま辺に忍びてありけるが、妻の最後さいごの有様を聞いて、少しもさわがず。夫れ弓取ゆみとりの妻は、むかしよりかゝるためしのあるぞかし。みづから十二歳にてまみえ初めてより此方このかた一日いしにち片時へんしはなれずして、此度後にのこるとも、幾程いくほどの齢を保ち、如何なる栄華に誇るべきぞや。其上此人々の妻や子は、如何いかに忍ぶとも、終には捜し出されて、失はれん事はうたがひなしと、思ひ定めければ、召遣ひつる女童めのわらはにも、夫々にかたみを遣し、ゆかり共の方へ返し遣し、二歳になる姫をめのとにいだかせ、大雲院貞庵上人の御寺へ参り、是は備後がつまにて候。たのむ方なき身となり候へば、つまの後を慕ひ参り候べし。なからん跡を御弔おんとぶらひ候てたび候へと申しければ、上人は聞召し、貞女両夫りやうふまみえずとは、かやうの人を申すらめ。かくれなき人の妻なれば、言上ごんじやう申さでは叶ふまじ。先づこれへ入らせ給へとて請じ入れ、頓て徳善院へ申されける。法印ほういん此由言上申されければ、太閤あはれにや思召しけん、をのこの子あらば害すべし。女は法印が計ひにて助けよとの御諚ごぢやうなり。法印方より、此由貞庵へ申されければ、上人しやうにん喜び、御命は申請まうしうけて候へば、御心やすく思召せと仰せけり。女房聞いて、有難ありがたき上人の御慈悲にて候へども、命長らへ候共、たれたのみ、いづくに身をかくし候はん。たゞつまの跡を慕ひ申すべし。又これに候ひめ、二歳にて候。上人の御慈悲には、いかなる者にもあづけたまひて、し人となり候はゞ、自らが跡とぶらはせてたび候へとて、正宗の守刀に、黄金三百両添へ、上人に渡し給ふ。貞庵聞召きこしめし、おほせはさる事にて候へども、づ御命を長らへ給ひて、つま後世ごせ菩提をもとひ給はんこそ、誠の道にて候はめと、いろに留め給へば、さらばさまへてたび候へとて、緑のかみりこぼし、墨染すみぞめの衣著て、よもすがら念仏ねんぶつ申しておはしけるが、暁方あけがたにめのとは姫をいだき、少しまどろみける隙に、守刀を取出し、心元にさし当て、うつぶしになりてむなしくなる。めのと驚き、上人へ此由申せば、貞庵も涙と共に、孝養けうやう念頃にし給ひて、彼姫をば五条あたりに、人あまた附けてそだてさせ、十五の年能き幸ありてさかえけり。
 
 
又何よりもあはれ深き事こそあれ。此姫このひめ幼なき時より、読み書く事に心をめ、あまたの双紙さうしを集め見るにも、是は誰人の御子、父はそのそれがし、母は誰人のむすめとあるに、我はいかなる身なれば、父とも母ともいふ人のなきこそ不思議ふしぎなれと、思ひ暮しけるが、或時めのとに向ひ、あの鳥類畜類てうるゐちくるゐも、親子の道はあると聞く。況して我は人間にて、父とも母とも知らざる事こそあさましけれと、搔口説きければ、めのと涙にむせびけるが、やゝありて、疾くにも斯くと申度は候ひつれども、幼き御心一つにて、なげき給はん事を痛はしく思ひ、打過うちすぐしつるぞや。此上は力なし。父御は白井備後の守殿と申して、天が下の大名だいみやう小名せうみやうに知られさせ給ひしが、前関白秀次御謀叛ごむほん思召し立ちし事あらはれ、高野山にて御腹めされ候。其御内にて人にも知られ〔〈此間三行不明〉〕れて人手にはかゝらじと思召し、此間三貞庵上人をたのみ給ひ、御オープンアクセス NDLJP:31ぐし下し、頓て御自害し給ひしぞかし。御身をばみづからに預け給ひしを、上人の御慈悲にて、年月をあかくらし候ぞや。しかも今年は十三年にもあたり候へば、猶々上人をたのみ給ひて、父母の菩提ぼだいをとひ給へといひもあへず、泣き沈みけり。姫は此由聞召し、あらつれなの人の心やな、はずばいつまで包むべきぞ。たとひ父こそ主君のために、果敢なくなり給ふとも、などか母上は我をて置き給ひて、今かかる憂目うきめを見せ給ふぞや。二歳の時、いかにも成るならば、今かゝる思ひはよもあらじ。うらめしの浮身うきみやとて、人目ひとめも恥ぢず泣き給ふ。めのとは涙を押へて、歎き給ふは、御ことわりにて候へども、れ女は五しやう三従とて、罪業ざいごふ深き事海山うみやまにも譬へ難し。其上劔の先にかゝり果て給へば、猶しも罪深つみふかく思召し、後の世とぶらはれ給はんとて、御身を浮世に残し給へば、いかやうにも父母の御孝養ごけうやうし給ひ、御身の後の世をも仏にいのり給はんこそは、孝行の道にておはしませ。斯く申す事を用ひ給はずば、今より後は、自らも捨てまゐらせて、何方いづかたへも参り候はんと、搔口説かきくどきければ、姫君聞きもあへず、うらめしのいひ事や、二歳にて父母におくれ、今又めのとに捨てられば、何を便たよりに浮草うきくさの、波にたゞよふ有様にて、寄辺よるべをいづくと定むべき。兎も角もはからひのなどあしかるべき。殊更ことさら親の菩提を弔はんに、いかで愚のあるべきぞとて、それより明暮あけくれ念仏申し経を読み、ひとへに後世菩提の外は、心にかくる事もなし。斯くて春も暮れ夏長けて、五月の末つ方より、大雲院にて四十八夜の別時念仏を初め、結願けちぐわんを命日にあたるやうに志して、様々にとぶらひけるが、七月十四日の夜あけ結願けちぐわんの日なれば、いと名残惜なごりをしく思ひ、仏の御前に通夜申し、殊更孟蘭盆うらぼんの事なれば、よろづの亡者も、娑婆世界しやばせかいに来るなれば、三界平等利益がいびやうどうりやく廻回ゑかうして、少しまどろみける夢に、其年四十余りと見えし人の、唐綾からあやの装束に、冠を著し、しやく取直し仏壇におはします。又三十路あまりと見えたるに、濃紫こいむらさき薄衣うすぎぬに、墨染の衣著て、右のに直り給ふ。夢心ゆめごゝろにも不思議に思ひ、あたりなる人に問ひければ、あれこそ白井備後守殿夫婦にて候へと語る。扨は我父母にてましますぞや、是れこそひめにて候へと、いはんと思ふ所に、俄に千万の雷わたり、天地もくつがへすかと恐しく思ふに、丈二丈計にて、眼は日月じつげつの光の如くなるおにの、五体にしゆりたるやうにて、口にはほのほを吹き出して、いかに罪人、片時へんしの暇と申しつるに、何とて遅きぞ、いそぎ帰れといかりをなしければ、こはそも斯る憂目うきめに会ひ給ふぞやと、心く思ひ居たるに、八旬に余り給ふと覚しき老僧、いづくともなく来り給ひて、仏の御前なる百味の飲食おんじきを取りて、此呵責かしやくに与へ給へば、其時鬼共いかりを止め、却て恐れをなして立去りければ、俄に紫雲しうんたなびき、空より音楽おんがく響きて、異香いきやうくんじ、二人の親と聞きし人は、忽ち金色こんじきの仏と顕れ、金の蓮に乗りて天生し給ふ。其時彼姫夢心に、有難き事なれども、余り名残惜しき事と思ひて、しばらくとて、裳裾もすそすがると思へば、夢は覚めて、仏前ぶつぜんにかゝりたる旗の脚に取附きてぞ居たりける。余りに有難く不思議に思ひ、あたりを見れば、めのとも障子しやうじに寄添ひ眠り居たるを驚かしければ、有難ありがたき夢を見つるに、驚かし給ふ物かなといふ。いとゞ不審ふしんに思ひ、いかなる夢ぞや、みづからも恐しく、又有難き夢の告ありとて、互にかたりけるに少しも違はず。夜明よあオープンアクセス NDLJP:32て後も、暫し紫雲しうんたなびき、虚空こくう異香いきやうくんじける。末世まつせとはいへども、誠の志あれば、かゝる奇特きどくもありけるとて、貴賤の輩皆歓喜くわんぎしてこそ帰りけれ。
 
 
又何よりもいたはしきは、常陸ひたちかみが妻や子の最後さいごの有様なり。十三になる娘のありしが、並びなき美人なれば、関白聞食し及び、度々召しけれども、常陸いかゞ思ひけん、ちといたはる事候とて、母に附けて越前に下し置きしが、最後さいごの時に、野中清六といふわらはを近付け、汝最後さいごに供せんと思ふ志はあさからねども、しばらく命長らへて、北国へ下り、我が老母妻子のあらんを、かくも計へかしといひふくめければ、野中、いかさまにも御諚ごぢやうに従ひ候べしとて、急ぎ越前に下り、木村が母女房に向ひ、殿とのは都にて御腹召され候。急ぎ何方へも忍ばせ給へと申しければ、女房聞いて、さりともいまもしえもして、兎も角もならばやとこそ願ひつるに、早や先立ち給ふ事の悲しさよ。心にまかせぬ憂世うきよとはいひながら、あさましき我身わがみかな。今は少しもいのち長らへてもせんなし。急ぎ害せよ。死出の山にて待ち給ふらんとかこちける。野中思ひけるやうは、三人の人々をがいせんとせば、おろかなる女童共、取付きすがり付き悲むならば、思ふやうにはなくて、わびしくあさましき事のあるべし。たゞ某腹切はらきつてせばやと思ひ、早や唯今たゞいま都より御迎ひ参り候べし。さあらばいやしき者の手にかゝり給ひて、一門の御名を下し給ふべし。いそがせ給へ。某は殿とのの御待ち候はんに、先づ御供に参り候といひも果てず、はら文字もんじ搔切かききつてぞ死にける。女房此由を見て、さてわらはが最後を急げと、常陸の守いひ含めつらん。いざや父の跡をしたへとて、十三になるひめを害せんとしければ、めのとの女房すがりつきて引退くる。ありあふ者は、皆女童めのわらはなれば、当座の憂目をじと思ふ計にて、我もいだき付き、縋り付きて引退くる。木村が女房は、力及ばで立退たちのき、浅猿あさましのめのとが心や、縦ひみづからが手にかけずとも、のがれ果つべき命かや。たかきもいやしきも、わりなく命ををしめば、必すはぢさらすものぞやとて、木村が老母に向ひ、いそぎ最後の御用意候へかし。みづからは御先へ参り候とて、守刀取出し、甲斐々々かひしく自害しててられたり。老母は日頃ひごろ頼みつる智識ちしきしやうじ奉り、身にれたる小袖共に金を取添へ参らせ、一門の後世ごせ弔ひてたび候へと、くはしくいひ置き、是も自害しててられける。其のちめのとは姫をいだき出でけれども、女心の果敢はかなさは、いづくをし、誰をたのむともなくうかれ出で、峯に上り谷へ下り、足にまかせてまよひけれども、いつならはしの事ならねば、足よりながるゝ血は、裳裾もすそも草木もめ渡す。たどり行き廻りて、さかしき巌石にみ迷ひ、一足行きてはたゝずみ、二足行きては休らひつゝ、もすがらなみだつゆにしをれつゝ、詮方せんかたなさの余りに、いかなる獣も出でて、我命を取りて行けよかし。あらうらめしのめのとや、母諸共もろともに行くならば、死出しでの山を越え、三途さんづの河を渡るとも、かほど憂目うきめはよもあらじ。いづくにもふかき淵河のあらん方へ出でて、身をしづめんとおもひ、谷について下りければ、やう

東雲しのゝめの空もけ渡り、山田守るしづが家路に帰るに行逢ひて、道にまよひたるぞ、みちしるべせよといオープンアクセス NDLJP:33へば、某参り候方へ出でさせ給へとて、さきに立ちて歩みける。いとうれしくて、此者を見離さじとまろたふれて、したひ出でられければ、本の在所ざいしよへ出来り、都より尋ね来りたる者共ものどもに行きあひ都に上り、三条河原にてがいせられて、後迄のちまで死骸をさらされける、因果いんぐわの程こそあさましけれ。

 
 
関白くわんぱくの御母上は、太閤たいかふ御姉おんあね御前ごぜんにておはしければ、諸国の大名にあふぎかしづかれてましけるに、此度不思議ふしぎ、御心をくだき給ふ所に、や高野にて御腹おんはらされたる由聞食し、これは夢かうつゝか、夢ならば、めての後はいかならんといひもあへず、御心地取失とりうしなひ給ふを、あまたの女房達にようぼうたち、御薬まゐらせ様々してけ奉れば、すこし心づき給ひて、さても世には、神も仏もましまさぬかや。我れ此程いのりつるは、いかにもして此度のなんを転じ給はゞ、伊勢太神宮をはじめ奉り、日本国中の大社を、造立ざうりふし奉るべし。其外の神々へも、奉幣ほうへいさゝげ、御神楽をそうし、神慮しんりよしづめ奉らん。神も仏も昔は凡夫ぼんぷにておはしませば、恩愛おんあいの哀れは知食しろしめさるべし。若し此願かなはずば、我命をり給へといのりつるに、せめて一方はなど叶へ給はぬぞと、搔口説かきくどなげき給ふはことわりなり。誠に人の親の習ひにて、いやしき者のあまたある子の中に、独り欠けたるをだに歎くぞかし。してや類なき一人の御子にて、天が下を御心みこゝろの儀にはからひ給ふ御身の、御心にまかせぬ世のならひこそ悲しけれ。見るもの聞くもの涙をながさぬはなかりけり。斯くては命ながらへじとおぼしめし、自害じがいを心がけ給へども、附随つきしたがふ人々まもければ、それも叶はずして、いつしか御心みこゝろ狂乱きやうらんし給ふ。太閤此由このよし聞食し、さすが連枝れんしの御事なれば、いたはしく思召し、幸蔵主かうざうすを遣はされ、御歎おんなげきはさる事にて侍れども、それは先世せんぜ業因ごふいんを知食されざる故にて候。たゞ何事もゆめの中と思召し、後世ごせとぶらひ給はんこそ、まことの道にて候はんずれ。しく心得給はゞ、共に又来世らいせ迄も、あさましくこそ覚え候へと、様々なぐさめ給ひ、やがて都の中に、村雲むらくも御所ごしよと申して、新造を立てられ、明暮あけくれ法華妙典を読誦どくじゆし、釈迦多宝の両尊に、秀次の御影みえいゑ、御供おんとも申せし人々の位牌ゐはいならべ給ひて、臨終正念南無妙法蓮華経と、一しんおこなまし、七十三にて、成仏じやうぶつ素懐そくわいげ給ふ。さればいままで其跡そのあとれ、うれひ深き方々は、此寺に入り給ひ、行住坐臥ぎやうぢうざぐわに、只妙法蓮華をふくみ、臨終りんじうゆふべち給ふこそ有難ありがたけれ。
 
 
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巻之下
 
 
 
秀次公ひでつぐこうかくれなき色好いろごのみにて、あまたの御思おのもびとおはしける。其頃遠国ゑんごく遠離ゑんりはて迄も、尋ね給ひて、みめかたちすぐれたるをば、大名だいみやう小名せうみやうの娘によらず召聚めしあつめられ、百千もゝちの人のなかよりも、えらすぐりし事なれば、三十余人の内は、いづれを如何いかにといはん方なき美人達にてぞおはしける。たま簾錦すだれにしきとばりの中に金銀きんちりばめ、色をつくしたるかさねのころもを身にまとひ、常は源氏伊勢物語の辞をもてあそび、古今万葉の歌を学び、或時は琵琶びわたんじ、或時はこと調しらべ、明暮あけくれ栄華えいぐわほこり、日のかげをだに見給はねば、して人の見奉る事もなかりつるに、なさけなくもいぶせき雑車ざふぐるまに、取載とりのせ参らする事のいたはしさよとて、いやしきしづをんなたけ武士ものゝふも、涙を流さぬはなかりけり。されば秀次公、五人の御子をまうけ給ひし。姫君は、摂津せつつくに小浜をはまの寺の御坊の娘、中納言のつぼねの御腹に出来給ひし。仙千代丸は、尾張の国住人日比野下野守ひゞのしもつけのかみが娘の腹、御百丸は、山口雲松やまぐちうんしようが娘の腹、御土丸と申せしは、お茶々ちや御方おんかた産み給ふ。御十丸の母上は、北野の別当松梅院しようばいゐんの娘なり。此人々は取分とりわき御寵愛にておはしければ、御ぐし下し給ふ。其外も皆もとゞりよりきりはらひ、日頃頼み給ひし寺々へつかはし、或は高野かうやの山へ上げらるゝもあり。思ひ最後さいごの出立にて、上下京を引廻ひきまはり、一条二条を引下げて、ひつじあゆみ近づき、三条の橋へ引渡す事のいたはしさよ。検使けんしには石田いしだ治部少輔増田ますだ右衛門尉抔を先として、橋より西の土手の傍に、敷皮しきがはきてみゐたりけるが、車の前後に立向ひ、先づ若君達を害し奉れと下知げぢしければ、承り候とて、若殿原わかとのばら雑色ざふしき抔走り寄り、玉をべたるやうに見えさせ給ふ若君達を、御車より抱きおろし奉り、御様のかはりたる父の御首を見せ参らすれば、仙千代丸はおとなしくて、しばらく御覧じて、こは何とならせ給ふ御事ぞやとて、わつと泣かせ給ひつゝ、走り寄らんとし給へば、母上達は申すに及ばず、貴賤きせん見物けんぶつ守護しゆご武士ぶし太刀取たちとりに至る迄、皆涙にれて、前後をわきまへざるが、心よわくてはかなふまじきと思ひ、まなこふさき、御心元おんむなもとを一刀づつに返し奉れば、母上達は、人目ひとめをもはぢも忘れ果てゝ、我をば何しに早く害せぬぞ、死出しでやま三途さんづかはたれかは御介錯ごかいしやく申すべきぞ。急ぎ我を殺せ、我を害せよとて、むなしき御死骸を抱きつゝ、伏転ふしまろび給ふ御有様は、焼野やけのきゞすの身を棄てゝ、けぶりむせぶにことならず。しばしもおくれ給はぬ御最後共ごさいごどもを、急がれけるこそあはれなれ。夫れより御目録にて次第々々に害し奉る。

一番には、上臈じやうらふの御方一の台の御局、前の大納言殿御娘、御年は三十路みそぢに余り給へども、御かたちすぐいうにやさしくおはしければ、未だ二十はたちばかりにを見え給ふ。父大納言殿御いとしみ深くおぼしめし、いかにもして御命計おんいのちばかりを申助け給はんとて、きた政所まんどころについて、様々に申させ給へども、世のうらみもありと思召おぼしめしければ、つひに叶はずして、失はれ給ふ。又御めのとの式部しきぶといふ女房、御最後ごさいご御供おんとも申さんとて、是迄附慕つきしたひ参りけるを召して、是迄の志こそ返々かへすもたのもしううれしけれ。我が身斯く成行オープンアクセス NDLJP:35く事も、先の世の宿緑しゆくえんぞかし、今更なげくべき事にあらず。只父御の御歎きと聞くこそ心苦しけれ。誠の志あらば急ぎ帰り、我が成行くやうを申すべし。親子おやこは一世のちぎりとは申せども、頼み奉りし仏の御慈悲おんじひにて、後の世は同じはちすの縁となるべければ、たのもしくこそ思ひはんべれ。此世はかり宿やどりなれば、何事も前世ぜんせむくいぞと思召し捨てさせ給ひて、御心を慰め給へと、能々よく申すべしとて、最後さいご御文おんふみはしに斯くえいじて書き付け給ふ。

  ながらへてありふる程を浮世うきよぞと思へばのここともなし

打詠うちながめて討たれ給ふ。めのとは是迄慕ひ参り候も、死出しで山路やまぢの道すがら、御手をも引き参らせんためにてこそ候へ。我をも害してたび候へとて、太刀取たちとりに手をりて申せども、御目録の外は、いかで叶ふべきとて、あらけなくいひて返しけれども、たゞ平伏ひれふして泣き口説くどきければ、たけき武士も泣く泣く手を取り引立てゝ、輿こしに助けせて、送り返しければ、心ならず帰り参り、御最後のありさま、細細こまごまと申上げ、夫れより物をも食はずして、七日に当る日むなしくなる。父大納言殿北の御方、此由を聞きもあへず、暫しえ入り給ひしを、御顔おんかほ水打注みづうちそゝぎ抔して、呼び活け奉り、公達きんだち御手に取付き給ひて、こはいかにならせ給ふぞや。此度の歎きに、誰かおとまさりのあるべき。されどもかなはぬ道は力なし。残る者共は、御子とは思召し候はずやとて、口説くどき悲み給へば、少し御心地おんこゝち取直とりなほし給ひて、さしも頼みをかけつる人々は、いかにいひなされけるぞや。てもかどても叶はぬ道と知るならば、最後さいごきはに今一度、見もし見えもせば、其面影そのおもかげを忘れ形見がたみとも慰むべきに、扨も言甲斐いひがひなき頼みをかけつる口惜くちをしさよと、伏沈み泣沈み、あこがれ給ふぞあはれなる。夫れより御飾おんかざりおろし、ひとへ後世菩提ごせぼだいを祈り給ひけるが、かたなき思ひ積りて、程なくかくれさせ給ひけり。

二番には、小上臈の御方御妻御前、是も三位中将にて、時めき給ふ人の御娘なり。御年は十六になり給ふ。何れも劣りはあらねども、ことすぐれてやさしき御かたちなり。冬木ふゆきうめにほひ深き心地こゝちにて、さこそ御盛りには、如何計たをやかに生ひ立ち給はんと、思ひられていたはしさよ。みどり黒髪くどがみを半切り棄て、かたの廻りにゆらゆらとかゝり、芙蓉ふよう眼尻まなじりにこぼるゝ涙は、たまつらぬくに異ならず。誠にに書くとも、いかで筆にも及ぶべき。むらさき柳色やなぎいろ薄衣重うすぎぬかさね、白きはかま引締め、練貫ねりぬき一重衣ひとへぎぬ打掛け、秀次入道の御首を、三度礼して斯く詠じ給ふ。

  朝顔あさがほ日蔭ひかげつ間の花にく露よりもろき身をばをしまじ

かやうに詠み給ひて、西に向ひ十念し給ふを、太刀取御後おんうしろへ廻るかと思へば、御首は前にまろびける。

三番には、中納言の局御亀御前と申せし。姫君の母上、の国小浜をはま御坊ごぼうの娘とぞ聞えし。御年は盛り過ぎけれども、心ざまやさしくおはしければ、取分き御寵愛浅からずおはしければ、ゆかりの末々すゑ迄もさかえしに、昨日の楽み今日の悲みとなる、天人てんにんの五すゐ目の前に見えて、あさましかりし事共なり。御辞世ごじせいに、

オープンアクセス NDLJP:36  頼みつる弥陀みだをしえたがはずばみちびき給へおろかなる身を

と打連ね、西に向ひ、南無西方極楽世界なむさいはうごくらくせかい教主けうしゆ阿弥陀仏あみだぶつと一心に念じ、三十三にて、露と等しく消え給ふ。

四番には、仙千代丸の母上日比野下野ひゞのしもつけかみが娘おわこの前、十八歳になり給ふ。練貫ねりぬき経帷子きやうかたびら重ね、白綾しろあやの袴著て、若君の御死骸を抱き、水晶の珠数じゆずを持ちて出で給ふ。此程の御歎きのつもりに、又若君の御最後ごさいごの有様、一方ならぬ御事なれば、村雨むらさめに打乱れたる糸萩いとはぎの、露置き余る風情ふぜいにて、中々目もあてられぬ有様なり。貞庵上人参り十念授け給ふ。心静に回向ゑかうして後、斯くぞ詠み給ふ。

  のちの世をかけしゆかりのさかりなくあとしたひゆく死出しで山道やまみち

五番には、御百丸の母上十九歳、尾張の国の住人山口松雲やまぐちしようゝんが娘、白き装束しやうぞく墨染すみぞめころも打掛け、若君の御死骸を懐に抱き、くれなゐふさつけたる珠数持ちて、是も貞庵の御前にて十念うけ、心静に囘向して、

  つまや子にさそはれて行く道なればなにをか後に思ひ残きん

みて西に向ひ、たなごゝろを合せ、両眼をふさぎ、観念くわんねんしておはしけるを、水もたまらず御首を打落す。

六番には、御土丸と申せし若君の母上なり。是も白き装束に、墨染すみぞめの衣著て、物軽々かろしく出で給ふ。此御方はぜん智識ちしき御縁おんゆかりありて、常々参学さんがくに心をかけて、散る花落つる木の葉につけても、憂世うきよあだ果敢はかなき事を観じ給ひしが、此時もいさゝかさわぎ給ふ気色けしきもなくて、

  うつゝとはさらに思はぬ世のなかを一夜の夢や今めぬらん

七番には、御十丸の母上、北野の松梅院の娘、おさこの前、是も御子の親なれば、御髪おぐしおろし給ひて、白綾しろあや練貫ねりぬき一重衣ひとへぎぬかさね、白き袴引締め、綟子もぢころも打掛け、左には畳紙たゝうがみに御経を持添へ、右には、思のたま繰返くりかへして、足たゆくあゆみいで、西に向ひ御経のひもを解き、法華経の普門品ふもんぼん読誦どくじゆして、入道殿并に若君我身の後生善所ごしやうぜんしよと、心静に回向し給ひて後、

  一すぢ大悲大慈だいひだいじかげたのむこゝろの月のいかでくもらん

八番には、近江の国の住人信楽しがらき多羅尾たらを彦七娘、おまん御ぜんとて、二十三になり給ふ。たけと等しき黒髪を、髻より切払ひ、練貫に同じく白き袴引締め、紫に秋の花尽しりたる小袖こそで打掛け出で給ふ。此頃童病わらはやみいたはり、折しも起り日なれば、たゞ芙蓉ふようの花の、よるの間の雨にいたく打たれたるやうにて、見る目もいと悲しく、心もえ入るやうに覚えけるが、是も上人の十念うけて、

  いづくとも知らぬ闇路やみぢに迷ふ身をみちびき給へ南無阿弥陀仏なむあみだぶつ

かやうに詠みて、たなごゝろを合せ給へば、つるぎの光輝くと見えて、首を抱きて伏し給ふ。

九番には、およめの御方とて、尾張の国の住人堀田ほつた次郎右衛門娘二十六、是も白き装束にて、白房しろぶさの珠数に、扇持添へ、めのとに手をかれ出でて、西に向ひ十念回向して後、

  ときおけるのりの教の道なれば独り行くともまよふべきかは

オープンアクセス NDLJP:37かやうに詠じて、又念仏申して、首を延べて討たれ給ふ。

十番に、おあこの御方と申せしは、美目容貌みめかたちに猶勝りたる心ばへにて、慈悲深く柔和にうわにおはせしが、毎日法華経読誦し給ふ。して此程は、少しもおこたり給ふ事なし。されば最後さいごの歌にも、妙法蓮華の心をめる。

  たへなれやのりはちすの花のえんにひかれ行く身はたのもしき哉

十一番に、おいま御前、出羽ではの国最上殿もがみどのの御娘、十五歳なり。いまつぼめる花の如し。此御方は、両国一の美人たる由聞召きこしめしし及び、様々に仰せ、去んぬる七月はじめかた召上めしのぼせられけるが、遥々はる旅疲たびづかれとて、未だ御見参ごけんざんもなかりつる中に、此事出来いできければ、いかにもして申受け参らせんとて、様々に心をくだき申させ給へども、更に御免なかりけるを、よど御方様おんかたさまより、去り難くおほせられ、度々御文を参らせられければ、太閤もだし難くや思召しけん、さらば命計を助くべし、鎌倉へ遣し、尼になせと仰出されける。夫れより早馬はやうまにて伏見より、みにうでうたせけれども、死の縁にてやおはしける。今一町計著かざる中に害しけるこそ、あはれも深くいたはしけれ。未だ幼かりつれども、最後さいごきはも、さすがにおとなしやかにて、辞世の歌に、

  罪をきる弥陀みだの劔にかゝる身のなにか五つの障あるべき

此歌を聞召して、太閤相国も痛はしく思召し、御涙を流させ給ふとぞ。

十二番は、あぜちの御方、これは上京の住人に秋羽あきはといふものゝ娘なり。年三十に余りければ、長月ながつきすゑの白菊の、まがきに余る迄咲き乱れたる如くにて、さすがに京童の子なれば物慣ものなれて、時折々の御心に随ひ宮仕ける。月の前花の下の御酒宴の折柄をりからも、此人参らざれば、御盃も数添はず。されば冥土めいどにて思召し出すらん。此程打続き、あぜち参れのたまふと、夢に見奉るとて、

  冥土にて君や待つらんうつゝ共夢ともわかす面影おもかげにたつ

かやうに詠みけるとぞ。されば最後の時も、前を争ひけれども、御目録にて十二番目なり。又の歌に、

  弥陀みだ頼む心の月をしるべにて行かば何地いづちに迷ひあるべき

十三番は、少将殿とて、備前の国本郷主膳ほんがうしゆぜん娘なり。此人は秀次御装束を受給はりし人なれば、取分とりわき御恩深く蒙りし人なり。これも辞世の歌に、

  ながらへば猶も憂目うきめ三津瀬川みつせがは渡りを急げ君やまつらん

十四番には、左衛門の督殿、三十になり給ふ。岡本をかもとといふ人の後室なり。父は河内の国高安たかやすの桜井といふ人なるが、世の常ならずやさしき心ざまなり。月のゆふべ雪のあしたなどは、琵琶を弾じ琴を調べ、又は源氏物語など読みて、幼き人々に教へし人なり。最後の時も思設もおもひまうけたる気色けしきにて、

  しば憂世うきよのゆめのてゝこれぞうつゝの仏とはなる

十五番は、右衛門の督殿とて、三十五になり給ふ。村井むらゐ善右衛門といふものゝ娘なるが、二十一にてオープンアクセス NDLJP:38村瀬の某といひし夫に離れて、宮仕へ申せしが、容顔すぐれければ、御寵愛にておはしける。此御方は、法華経一部読み覚えて、常に読誦して心をまし給ふが、最後の歌にも、

  火の家に何か心のとまるべきすゞしき道にいざやいそがん

かやうに詠みて後、一乗妙伝の功力くりきにて、女人成仏によにんじやうぶつ疑ひあるべからず。一切経王最位いつさいきやうわうさいゐ第一、南無妙法蓮華経ととなへ、たなごころを合せて討たれ給ふ。

十六番は、めうしんといふ老女らうぢよなり。秀次の御内に、いしん、ふしん、えきあんとて、三人の同朋どうほうなりしが、此乳母うぼふしんに離れし時も、自害せんとしたりつるを、様々仰せ留め給ひて、御前を去らず召仕はれける。男にも勝りて智慧ちゑ深きものとて、何事の御内談をも、此乳母に知らせ給はぬ事はなかりけり。されば最後の御供申す事を喜びて、

  先立さきだちし人をしるべにゆく道のまよひをてらせ山のの月

と打詠めて、是も貞庵上人ぢやうあんしやうにんの十ねんをうけ、心静に念仏を申し、奉行ぶぎやうの人々にも最後の暇乞いとまごひをして討たれける。

十七番は、おみや御前ごぜん、十三になり給ふ。是は一の台殿だいどのの御娘なりしを聞召し及び、わりなく仰せられて、召迎めしむかへ給ひしとなり。されば此由太閤相国聞食きこしめし、あるまじき事の振舞ふるまひかな、世に又人もなげに親子の人を召上げられたる事、たゞ畜類ちくるゐに異ならずとて、愈御憤り深く思召しければ、様々に頼みて、御様変へ、命計りをと申させ給へども、御許なきとぞ聞えし。此姫君の御辞世に、

  あきといへばまだいろならぬうらばまでさそゆくらんしでの山風やまかぜ

かくみ給ひて、おとなしやかに念仏ねんぶつ申し給ふ最後さいご有様ありさま、哀れをつくせし事共なり。

十八番に、お菊御前きくごぜん、是はくに伊丹いたみの某といふ人のむすめ、十四歳にておはしける。先立せんだたまふ人々のあへなき最後さいごの有様を見て、自らるやうに見え給ふを、貞庵上人近付ちかづきて、ねんすゝめ給へば、其時そのとき心を取直とりなほし、しづかに十念授かりてのち、かくみ給ふ。

  秋風あきかぜさそはれてつゆよりももろきいのちををしみやはせん

十九番に、喝食かつしきとて、尾張をはりの国の住人ぢうにん坪内市右衛門むすめ、十五歳、此御方はこゝろざまさえしくて男姿をのこすがたありて、さながらたをやかにして、いふばかりなくやさしきさまなればとて、をも喝食かつしきばせ給ふ。萌黄もえぎ練貫ねりぬき一重ひとへ衣重ね、しろはかま引締め、静々しづあゆみ出でて、入道殿にふだうどの御首のまへに向ひて、

  暗路やみぢをもまよはでゆかんしでのやまめるこゝろつきをしるべに

かやうにみて、のこり給ふ人々に向ひ、御先へこそまゐり候へ、いそがせ給へ。三瀬川みつせがはにて待ちつれまゐらせんとて、西にしむかひ手を合せ給ふありさま、まことたゞしき最後さいごかなと、ひとしばし涙をとゞめて感じける。

二十番には、お松御前まつごぜんとて十二歳、右衛門うゑもん督殿かみどのの娘、是はいまをさなくおはしければ、肌には唐紅からくれなゐオープンアクセス NDLJP:39あき花尽はなづくうたる薄衣うすぎぬに、練貫ねりぬき打掛うちかけ、はかますそをかいとりて、母上の死骸をれいしてかく詠める。

  残るとも長らへ果てん憂世うきよかはつひにはゆるしでの山道やまみち

二十一番は、おさいとて、別所豊後べつしよぶんごかみうちに、きやくじんといふものゝ娘なりしが、十五の夏の頃、初めてまゐり仕へしに、あだしなさけ手枕たまくらの、まどろほどなつの、明けてくやしき玉手箱たまてばこ、再びかくともの給はざれば、たゞつたなき身をうらみて、あかくらしけるに、或時雨夜あきよの御つれとて、御酒宴ありしに、御酌おんしやくに参られしを、それそれ何にても御肴おんさかなにとおほせければ、とりあへず、

  君やこし我やゆきけんおもほえずゆめうつゝてかめてか

といと細くたをやかなる声にて、今様いまやうにうたひければ、関白聞食きこしめして、彼在五中将かのざいごちうじやうがりの使つかひにて、伊勢の国にいませし時の様思召おぼしめしやらせ給ひて、いたはしくあはれにやしけん、御盃二たびほし給ひて、此女房に下されければ、おもはゆげに顔打赧かほうちあかめて、うちそばみければ、側なる人々、それ急ぎ御盃取り給へと責められて、給はりければ、関白御覧ごらんじて、みづからも御肴申さんとたはふれ給ひて、

  搔暮かきくらす心のやみに迷ひにきゆめうつゝとはこよひ定めよ

伽陵賓かりようびんの御声にて、歌はせ給へば、御前の女房達も、皆涙をぞもよほされける。かくて其夜は御寝所ごしんじよへ召して、様々さま御情おんなさけ深く仰せられ、後々のち度々たび召しけれども、いかゞは思ひけん、いたはる事候とて、其後は参らざりしが、御最後ごさいご御跡おんあとしたひ参るこそ不思議ふしぎなれ。

  すゑ露元つゆもとしづくも消えかへり同じながれの波のうたかた

車に乗りし時、此歌を短冊に書きて袂に入れ、最後の時は、妙法華経めうほけきやう読誦どくじゆの外は、物をもいはずてられけり。

二十二番には、おこぼの御方十九歳、近江の国の住人鯰江権之介なまづえごんのすけといふ人の娘なり。十五の年召出めしいだされ、れより此方御恩ごおん深くかうぶり、親類の末々すえまでも人となし、其身はさながら宮女の如くにて、四五年が程は、月に向ひ花に戯れてあかくらし、後の世のいとななどは、思ひも寄らでありつるが、此期このごに臨みて、大雲院貞庵上人の御教をうけ、十念囘向ゑかうしてかくぞ。

  さとれるも迷ひある身もへだてなき弥陀みだの教をふかたのまん

二十三番、おかな御前十七歳、越前の国より、木村常陸の守が上げたりし女房なり。此人はすぐれてこゝろさかしく、世の常の女房には変りたりければ、殊に御寵愛とぞ聞えし。辞世じせいうたにも、あだなりし世の中仇なりし世のなかくわんじてめる。

  夢とのみ思ふがなかまぼろしの身はえて行くあはれなか

二十四番にはおすて御前、是は一条のあたりにて、さる者の拾ひたる子なりしが、たぐひなきかたち生立おひたちければ、召上めしあげられて、いつきかしづき給ひけるが、三年余りが程楽みさかえ、今又かゝる憂目うきめに遭ふ事、皆先の世のむくいとはいひながら、あさましかりし事共なり。

オープンアクセス NDLJP:40  来りつるかたもなければ行末ゆくすゑも知らぬ心のほとけとぞなる

二十五番はおあい御前、二十三歳、古川主膳ふるかはしゆぜんといふ人の娘なり。此人は法華ほつけの信者にて八巻の御経を転読てんどくして、常々に人をも示しすゝめられしが、最後さいごの歌にも、草木成仏さうもくじやうぶつの心をめる。

  草も木もみな仏ぞと聞く時はおろかなる身もたのもしきかな

二十六番は、大屋三河守が娘、生年二十五歳、是も大雲院だいうんゐん御坊ごぼう仏前ぶつぜんにて十念をうけ、しばらく観念して、

  尋ね行く仏の御名みなをしるべなるみちの迷ひの晴れ渡るそら

二十七番は、おまきの御方、十六になり給ふ。斎藤さいとう平兵衛娘なり。是も貞庵上人を頼み奉り、御十念給はりて後、西に向ひ手を合せ、観念して、

  急げたゞ御法みのりの船の出でゐに乗りおくれなばたれたのまん

二十八番には、おくま御前ごぜん大島おほしま次郎左衛門娘、二十二歳、はだへには白き帷子かたびらに、山吹色やまぶきいろ薄衣うすぎぬかさね、練貫ねりぬき阿字あじ梵字ぼんじすゑたるを打掛けて、すそを取り足たゆく歩みより、入道殿御首若君達の御死骸を礼して、

  名ばかりをしばしこの世にのこしつゝ身はかへり行くもと雲水くもみづ

かやうにみて、秀次御首に向ひてなほり給ふを、太刀たちり参りて、西に向はせ給へといへば、本来無東西ほんらいむとうざいぞかし、急ぎ討てとて、其儘切られ給ふ。

二十九番は、おすぎ御前、十九歳になり給ふ。此方は取分とりわき御寵愛おはせしが、去んぬる年労気らうきいたはり給へば、夫れより御前遠ざかりければ、わかくましませども、ひとへのちの世を祈り、いかにもして御暇おんいとまたまはり、浮世うきよいとはゞやと願ひ給ひつるが、かなはずして、今最後さいごおん供し給ふこそ不思議なれ。

  すてられし身にもゆかりや残るらんあとしたひ行くしでの山越やまご

三十番はおあやとて、御すゑの人。

  一声ひとこゑにこゝろの月の雲はるゝほとけ御名みなをとなへてぞ行く

三十一番はひがしとて、六十一歳、中ゐ御すゑ女房をあづかりければ、人にかしづかれ、富み栄えつるに、おいなみ立返たちかり、寄辺よるべなき身となりて、夫は七十五にて、三日先に相国寺にて、自害し果てけるこそ哀れなれ。

三十二番におさん、是も御すゑの女房。

三十三番はつぼみ。

三十四番ちぼ。

かやうに心々の様をつらね給へば、見る人聞く人涙にむせび、さてもやさしの人々ひとかな、いやしき身ならば、いのちの惜しき事をこそ、なげき悲むべけれ。此期このごのぞみて歌詠ずべきとはよもおもはじ。哀れ上臈達じやうらふたちオープンアクセス NDLJP:41やとて、知るも知らぬも、袖を湿らしてかんじける。文禄四年八月二日午のこくばかりより、さるの終まで、くさぐやうに引出し引出し、御首ふつと打落し、大なる穴を掘りて、其中へ四つの手足を取り、投入なげいしたる有様、まこと冥土めいどにて閻魔王えんまわうの御前にて、倶生神阿放羅刹共ぐしやうじんあはうらせつどもが、罪人集めて呵責かしやくするらんも、中々なか是にはよもまさるべきとて、見る人きもし、たましひを失ふばかりなり。誠に罪ある者を害するは常の事なれども、かくまで情なく、いたはしき事のあるべきか。秀次入道殿こそ大悪逆の人なれば、悪しと思召すは御ことわりなれども、此人々のいかで夢計ゆめばかり知召しろしめさるべき。罪ある者はゆかりを改め、生害するも習ひなれども、男のほかは助かる習ひぞかし。たとひ命をこそ助け給はずとも、せめては此人々の死骸をば、日頃ひごろたのみ給ふ僧聖そうひじりをも召出めしいだして、いかさまにもとぶらはせ給ふか、さらずば此人々の親類縁しんるゐゆかりにも取らせ給はらで、かほどまであさましげに、いやしき者の手にかけさせ、死骸のはぢまでさらし給ふ事のいたはしさよとて、心あるものは、あら行末ゆくすゑおそろしとて小声こゞゑになり、したりてぞかへりける。
 
 
慶長16年(1611年)、京都の豪商角倉了以高瀬川を開く工事中に洪水で所在不明となっていた「秀次悪逆塚」の石櫃を発見し塚の跡地に慈舟山瑞泉寺を建立した。写真は境内にある豊臣秀次と連座者の墓所。
 
 

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。