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紫野澤庵和尙鎌倉之記

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紫野澤庵和尙鎌倉之記

宮柱ふとしき立て、萬代に今そ榮えん、鎌倉の里と聞えしハ、昔年三浦一黨、賴朝に思ひ付申て、北條より此里へ迎入奉りてより、威光めてたうして、天下を掌のうちに治め玉ひけるとかや、鳩の峰遠く鶴か岡に移ります、神かきも宮柱いやましに立添◦(國ィ)萬代の祝ひ(歌ィ)成べし、本より神と佛ハ水波の隔、一體異名なれハ、本地をあらはせハ西方の化主、日の本に跡をたれ玉ふ、神佛如々ニヨなれハ、瑞垣もへだてなく、神の宮寺にハ、東方の化主醫王善逝を安置し、夕曉の鐘の響、無常の夢をおとろかし、四方のかためとて、里の四隅に四ケの律寺を創め、國泰民安の禱をつとめ、佛の威儀をあらはし、衆生を利益し玉ふ、我禪法流布の時やいたりけん、後鳥羽院の建久(仁ィ)二年に、明庵榮西禪師大宋より歸り土御門の建仁にハ洛陽河東に禪寺を立、顯密を兼をかる、順德院の建保三年に、鎌倉の實朝のとき壽福寺を立らる、是五山の其一也、惣して上をうやまひ下をめくみ、現當をかねつとめられけれ共、夙因のくィむ所やうすかりけん、現在の果報「家も无ィ」短くして、獅子身中の虫とかや、身の中に无ィて身をやふる事と成、實朝はやく、公曉の爲にうしなはれ玉ひて、家たじろきぬれと、萬代のちかひなィ(里ィ)に殘りけん、後の九代鎌倉殿とかしづかれ、天下ハ一人の天下にあらす、道有て代をしつめ玉ふ人の天下なれハ、家ハ平にかはれとも、洪基をひらき玉ハ源也、中垣の隔をいふハ人の情なり、然るに此家も數代重ぬれハ、上をうやまひ下をめくむ心もうすらき、侈に家かたふきて、其后尊氏公天下の武將として、一統の代と成て、都にハ長男義詮「皇閤」(國ィ)を守護し玉へば關東をハ二男基氏に預け玉ひて、此里ハとこしなへに榮へけらし、前代の形見とて、世に殘る物ハ神社佛閣なり、平時賴建長禪寺をはしむ、五山の第一也、大覺禪師を開山(祖ィ)とす、此禪師ハ字ハ蘭溪、諱ハ道隆、大宋より、後嵯峨の寬元四年に來朝し給ふ、蜀の人なり、昔年千光國師榮西、建保(仁ィ)年中に入滅し玉ふ、我世を去てのち三十ィ无年に來朝の僧あるべし、我三十三年の拈香の師に請すべし、これを布施しまひらせよとて、藕糸の袈裟を殘されけり、年月移て、三十三年の忌を、筑前國羽堅聖福寺にしていとなみけるに、來朝の僧もなし、識(讖ヵ)もありィぬ成といひける所に、半濟計の時分、太宰府に唐船入りぬ、いかなる人や渡りけると尋けれハ、大覺禪師この舟にて來朝なり、即拈香に請しける、拈香の語ハ建仁の錄に見えたり、

蜀地雲高 扶桑水快 前身後身 兩彩一賽◦(と云云ィ)

千光は扶桑の人なり、水快とハ千光をいへり、大覺ハ蜀の產也、雲光(高ィ)とハ大覺自らいへり、自賛の語也、前身とハ千光をいひ、後身とハ大覺の自いへるなり、合て一人也、然ハ兩彩一賽といへる也、藕糸の袈裟、今に大覺禪師の塔西來院に在、千光國師三十三年に、大覺齡三十三にして、寬元四年に來朝し給ふ、「昔」(其上ィ)千光の遺言、大覺の來朝、千光の寂三十三年、大覺の年三十三、誠に符を合るか如し、又本朝に三十三年有て、後宇多の弘安元年に、壽六十六にて入滅ありき、

瑞鹿山圓覺寺ハ時賴、弘長三年に薨玉ふ、その時大覺禪師、時賴遊山の次、禪師のいはく、この地ハ叢林相應の所也、建立有へしと、時賴時節をかへすへからすとて、折節田をかへし居たる耕夫の鋤をとりて、時賴一下し玉ひ、又同大覺鋤を取て一下し玉ひ、其處に草をむすびそめ玉ふ、其後弘安元年に大覺も入滅有て、同五年癸丑の年に、時宗公立おさめらる、時に詮藏主英典座の兩僧を使として、大宋へ渡され住持を請せらる、其狀に曰、

時宗留意宗乘、積有年序、建營梵苑、安止緇流、但時宗每憶、樹有其根、水在其源、是以欲宋朝名勝、助行此道、煩詮英二兄、大覺祖之弟子、莫鯨波險岨、誘引俊傑禪伯、皈來本國、爲望而已、不宣、

弘安元年〈戌寅(申ィ)十二月廿三日      時宗和南

詮藏司(主ィ)禪師 英典座禪師

兩僧ィ无に依て宋に入、同二年の夏、佛光禪師請を受て來朝し玉ふ、即圓覺寺の開山祖是也、圓滿常照國師と號す、諱ハ祖元字ハ子元、自無學と號せらる、第三龜谷山壽福寺ハ、實朝の時に建立し、時代も先なりけれとも、十刹の位にてありし、のちに五山に任せられけるゆゑに、鎌倉五山の第三に列なれり、千光國師開山祖たり、塔を道遙院(庵ィ)といふ、第四山淨智寺ハ、龜山院の文應元年に來朝ありし、經山無準の法嗣兀菴禪師開山祖たり、師檀の緣や淺かりけん、のち四年に時賴旣薨し玉ふ、其のち禪師ハ志有て宋に歸り玉ふ、附法の弟子心翁禪師南淵宏海和尙、年若きを以て、大宋經山石溪和尙の法嗣佛源禪師大正念和尙に言を殘し給ふ、故に心翁佛源兩師を開山に定置玉ふ、兀庵を開山とせさる事ハ故ありとぞ、第五山淨妙寺ハ、山を稻荷といふ、千光の法嗣退耕行勇禪師開山たり、塔を光明院といふ、此外十刹諸山の禪院、代々の新營數をしらず、來朝の法(諸ィ)の烈祖、ィ无此里に跡を殘し玉ふ、其昔延曆の頃、和州大安寺行表和尙示寂、其先神秀派の禪ナシィ師來朝有、即行表和尙大安寺に禪院を立、行表空海最澄ィ无參禪有之、其禪ハ宗派斷絕す、南宗の禪日本に傳りてより、此里にハ誠に禪師(河ィ)の源なり、おのれか十二世の先師圓通大應國師も、龜山院の文安三年の秋に皈朝有て、建長寺に住持し玉ふ、此間筑前の興德寺仝國橫岳ィ无崇福寺、京師の萬壽寺に住し玉ふ、相合て四會の緣有、後宇多院其道をしたひ玉ひて、國師遷化の後、城西の安井に龍翔寺を創草し玉ひて、師の遺像を安置し、跡猶今に殘れり、其外城南の薪の里妙勝寺、所々に跡を殘し、終に建長寺に入滅を示し玉へり、天源庵といふあり、天筆を染玉ひて、塔の額を普光と賜はる、一度かしこに行て、ィ无香を燒、報恩の志をとげ、其外諸祖の塔を燒香順禮せはやとて、寬永十年癸酉の仲冬の初に江府を出れハ、旅よりたひに立、衣手さむき曉、左ハ江水漫々として白く、右に向へハ富士の根白し、しのゝめも明行空に、村寺の鐘を聞て、

曉出江城士峰 路邊水白照衰容 征人馬上知繼夢 道者緩敲村寺鐘

旅人の朝立て行馬のうへに見つゝや宿に殘しつる夢

まださめぬ此世の夢に「ゆめの世を見ならはし共しらてはかなき」(夢をみていやはかなゝる身の行衛かなィ)

旅衣かたしく袖に入る夢ハふる里人のよるのこゝろ歟

ころもィかりねの夢ハ夢の世を見ならはしともしらではかなき

明行ば海道をふるに、袖も引ちきらず上り下りの人、しるしらす打過行人(衛ィ)、いつれか世に殘りとゝまるへき、夢に逢ひ夢に別れいつるゝいつれィをうつゝぞや、行とまるへき終のやとりを知る人や有、本覺の都とやらんも、名にハ聞つらん、覺束なし、

東往西還見幾人 人々相遇孰相親 親踈不問草頭露 露脆風前夢裡身

いつくよりいつくに通ふ道なれは此世を旅の宿といふらん〈西行法師〉とかゝる事を聞ても身の行衛思ふ人ハまれなる、

とまる身も行も此世の旅ならハつゐのやとりを人にしらせよ

と口の內につふやきなから行に、かしこの里のこなたより、左に付て行末こそ、金澤へ入道なれといふ、そィ无の鄕の名をとへハ、かたひらの里と聞て、

地白なる霜のあしたに肌寒くはいかならんィ夏そ來てみむかたひらの里

と誹諧して谷水(合ィ)の道をへて行、「やふ(瀨々ィ)にして高き所にのほれハ、古きてらなと見付て、山路のうれたき心もやぶれぬ、魂傷山峽深愁破崖寺古、と杜工部か作けん詩を思ひ出しぬ、又一坂をのほれハ一木の松あり、おひのほりたる正木のかつら「ハ、」(靑ィ)つゝらくる人もまれなるに、山男ひとり爪木取か、これにとへハ、能化堂の松これ也といふに、立よりて金澤を見おろせハ、詞もなくて、實や此入海ハ古へより、唐土の西湖ともてなしけるときくもいつはりならし、迫門の明神とて入海にさし出たる山あり、古木くろみ麓に橋あり、橋の下より鹽さしぬれハ、はるとィ遠き山のおくまて湖水となり、鹽引ぬれハ、水鳥も陸にまとィふにこそ、水陸の景色(氣ィ)もあした夕にかはり、金岡も筆に及はさりしと也、來て見る今ハ冬枯の、野島か崎とをしふるハ、秋の千草(種ィ)の色もなし、水むすひつゝすゝみとか、おりにふれてや名付けん、名ハ夏島になつもなし、島根に海士の小屋みえて、網をほしたる夕ヅク日、漁村のてらし是なりやィ、そめてかはかぬ筆の跡、硯の海のうるひかや、雨に來てまし笠島ハ、人の國なる瀟湘の、夜のこゝろもしられけり、目路遠けれと富士の根を、心によせてまたふらぬ、江天の雪と打なかむ、浪たちかへる市の聲、風まち出る沖つ舟、烟寺の鐘もひゝき來ぬ、洞庭とても餘所ならず、月の秋こそしのはるれ、水の底なる影を見て、臂をやのぶる猿島ハ、身のをろかなるなけき(木ィ)より、おとしてけりな烏帽子島、蜑の子供のかり殘す、冲のかィぢめか鎚の音、あら磯浪に釘(針ィ)うたせ、朝夕しほやさしぬらん、箱崎なりとをしふるハ、松さへしけりあひにあふ、しるしの箱をおさめつゝ、西を守と聞つるに、東の海の底ふかき、神の心ぞたうとかりける、

や幾浦かけて大和歌いかに詠めけィん三十一文字

かくて爰に日をくらしなんもいかならんとて、山を下り里に入ぬれば、朔日頃の山の端に、纎月かすかにして、鐘のひゝき海岸の底にこたへ、岡のやかたハ浪にうつり、龍の都に入ぬるやと覺つかなし、海士のいさりをたよィりに宿とひて、一夜をあかし、まづ寺に詣けるに、本堂一宇あり、諸堂みな跡はかり也、五重の塔も一重殘りぬ、此金澤山稱名寺は、いつの年にか龜山院の御願所と號せらる、此所は一切在家をましへす、今の在家ハ此當寺境內なり、殺生禁斷の浦なりし、漁村なとゝ申ものィ无一人もなし、時うつり國一度亂れ、寺廢亡して再ひいにしへにかへらず、庄園悉落て、武家押領の地と也、房跡ハ漁人の栖家となり、院ハ跡なく海士の小家數そひ、當寺界外の下郞ともハ、武家の手に付き、門外に有なから、かへりィてかれらか顏色を窺ふありさまおもひやるへし、佛前の燈もほそく、朝夕の煙もたえかち也と、老僧達三人かたられけるに、袖をうるほしつ、むかし船つかはして、一切經をも異國より取渡し、其外俗書外典とも、世にたぐひすくなき本とも、金澤文庫と書付あるハ、當寺より紛失したるなりとかたらる、經藏もこほれぬれハ、本堂に一切經をばこめおくと也、寺の致境を見めくらしぬれハ、山かこみ古木そひへたつて、松杉の𨻶「ことにィ」秋よりけなる紅葉のほのめきて靑地なる錦をはりたらんハ、かゝるへきかなといひあへり、

何とたゝ空に時雨のふりわけて染る楓に交る松杉

堂前の池にハ蓮のふる葉みたれ合、冬の水ひやゝかに、伽藍の跡ともハ野菜のうねとなり、一の室といへるハ、萱か軒端かたふきて、めくりの房もひゑわたりて、人の音なひもせず、おもへハ却て寂寞無人聲の扉をとぢ、坐禪觀法の床をしめたるに似たり、かく佛法零落の時節、いかなる人か世に出玉ひ、絕たるをつぎすたれたるを起し玉はんか、慈尊三會の曉をたのむばかりなり、世に生れて人のときめきさかへ、何事をなすも、こゝろにまかせ奉らずといふ事なく、いきおひなひきぬるにまかせぬィ事、幾世の因緣をつみてか、果報のかるゝ事ィ无ハいたるへきぞや、只人と生るゝのみさへかたき事也、たとへハ、天つそらより針をおろして、廣海原わだつみィの底なる一粟をさしてとらんとし、浮木をもとめる龜の如し、况やかゝるまれなる果報に生れあひて、三ツ葉四ツ葉の殿つくり、軒に軒をならへ、さき草のさき、いやましに榮へん世にィ、濱の眞砂の數々かそへても、なをたへぬ祈ハいつの世も、下より上をおしィ无なへて、うとからぬ心なからも、いにしへの跡を見れハ、淺茅がつゆにやとる月ハ、よなかはらす、何事もむかしハ蓬かそまに引かへたるを見る(思ふィ)にも、殘るハ名也、宮寺なとハいとなみしハ、かたはかりも世にとゞまりて、今の世まても、是ハたれ樣のはしめて草をむすひ置玉ふ、これハ誰「か絕」(人の立ィ)たるを重ねてとりおこし給て、今迄かくなんと、所の者の口に殘てつたへ申を、其代の人の形見とそ見る、是を思へハ自の栖居ィ无いかにもして、形見を神社佛閣に殘さまほしき事なり、此世にハあたなからも殘る名ハ朽すして傳へ、後の世は佛果の緣とならん、しかるを時の人ハかゝる事を、かりそめにも聞てィ无、かた腹いたき事にいひなせとも、かしこき世々の君、いかはかり智慮有人も、信し來りたる道なれハ、下りたる世の淺き智惠にてハ、此法をそしりやふりかたし、やふるハやすく立るハかたし、やすきハ道に遠し、道ハいたりかたきものなり、百日かゝりていとなみし家も、破るハ一日の中にあり、何事もかゝる理と思ふべき也、此寺に來て見しますィか笠の軒も落、時雨も露もふりそふ有樣なから、晨鐘夕梵の聲のみ、かつィ无たえぬはかりぞ、此法の今少し殘たるしるしとそ聞し、

山言金澤寺稱名 闇谷晨鐘夕梵聲 時去池連餘飯葉 院荒籬菊尙殘英

楓松竹留秋見 聆(於ィ)雨芭蕉入夜鳴 尾上峰宇廊下海 登臨終日隔人情

池のほとりに一木の楓手ありいにしへ爲相卿

いかにして此一もとにィ時雨らん山にさきたつ庭の紅葉ば

とよみ給ひしより此木時雨にも染ぬとて「靑葉の紅葉と習はすよし語りナシィ」むかしのぬしに手向とて、

世々にふるその言のはのしくれより染ぬそ色ハふかきもみちばィ无

二日にィも爰をさりかたくて、かなたこなた見めくりて、迫門の明神へ詣けるに、千歲の古木雲をしのき、回岩(四岸ィ)宮をつゝみ「て、たかたるィ」山のいきほひ、實に巨靈神の手を延て、いつくよりか此山をうつしけんと、あやしき計なり、いかなる御神そと尋ねけれハ、是ハ三島の大明神、本地ハ大通智勝佛、伊豆と御一体なりと、神職の答られける、

まふてつる昔を今に思ひ伊豆の三島も同し神垣の內

法身妙應本無方 三島不阻一封疆 山色涵波顯埀跡 朝陽出海是和光

社のまへハ、島をつき出して辨才天を勸請し、島へハ第一第二の橋あり、島のめくり、古木浦風になひき、よる波木末をあらふ、一根淸淨なる時、六根ともに淸し、我人のかうへに神やとらさらめや、賴もしうそ覺る、

波風も心もなきぬ大海をさなから神の廣前に見て

宿のあるし舟もよひして、自艫をゝして汀を出るに、秋も過行、野島こゝなれは、

身のあきを思ひ合せて哀也野島の草の冬枯のいろ

夏島ハ名のみなり時ハ冬のなかば

三冬にもふるしら雪のたまらぬハこれ夏島の名にや消らん

笠島に來て

笠島や來てとふ里の夕時雨ぬれぬ宿かす人し有るとややとィ

烏帽子島といへるハ、とはてもそれと知るへし、

朝夕に波よせ來ぬるゑほし島オキよりあらきかさおりィやこれ

箱崎といふあり

神の守る西と東ハ替れともこゝもしるしの箱崎の松

あくれハ三日、鎌倉へおもむくに、一坂をすくれハ里あり、ここなんむつらの浦かととへは、それとこたふ、海人の子ともの遊ふを見て、

四ツ五ツむつらの浦の蜑の子のあそふハ汐の遠干潟哉

あまのすみ家のあはれを見て、

浪あらすむつらの浦のあまの子やかこふとするもまハら也けり

山路十町はかり行て、山の高みをたゝちに切とほしたる道を入ぬれは、鎌倉山を見る、峰一そひ下たり、是にならひて松の重み、是を誠の千とせの松、萬代の鶴岡と覺ふ、行手の右に芝生のひろき所あり、是ハ右大將の御殿の跡也とて、民今にたなもの種物をまかぬとなり、德ほど尊き物ハなし、大將偏に威有て德ましまさすハ、爭か今の世まてかくあらんや、桀紂ハ古の人主なれ共、威有て德なけれハ今の世の人を桀紂にたとふれハいかゝ、夷齊ハ古の餓夫なれ共、賢にして道をそんすれハ、今の世の人を夷齊にたとふれハ悅ふ、德をハねかふへき事也と思ひつゝ過行ハ、漸く日も山のはに入相はかりに鎌倉の里につく、爰を雪の下といふ折からあひにあふ宿り也、

冬ざれに宿とひよれハ折にあふ雪の下てふ名さへ怪しき

やとりハ瑞垣ちかきところなり、くれ方より社頭にきやかなり、いかにと問へは、今日ハ霜月に入て卯日なり、神拜あるよし聞ゆ、幸也とて夜に入て社參す、拜殿にハ神樂始り、五人のおのこ八乙女、戶拍子の聲松にひゝき、笛皷の音肝にめいず、宮々の御燈のかげほのかにして、社參の人々の足音はかりハ聞えて、其人ハさたかに見えす、燈ちかくなれは、袖の行かひ色めくあり樣、よるの神事ほと殊にすくれたるハなし、石のきさはし高くのほりて、本社に詣けれハ、神主着座あり、伶人左右になみ居たり、御土器めくりて、三獻過て樂初り、左座より伶人出て舞ふ、はィ音の響き內陣も感動し、鶴岡の松の風、千とせの聲をそへ、鎌倉山も萬歲とよはふ、神事終り宿に歸り、明れハ四日なり、冬の日ハ賴かたし、木枯の風やしきりけん、時雨の雲やきほひけん、先いさとほき方をきはめて、我指所の寺に行へをしめんとて、五山の寺々をハおくにひめをき、江の島にをもむく、道すから浦山かけてけしきも所々にかわり、目をこらす所多し、金銅の大佛新長谷寺をも、歸るさを心に契りてたゝちに行に、濱邊ちかき山本の一村をハ坂の下といふ、名もくもりなく底すみたるに、星月夜の井にかけみれは、身のおとろへに、爰も老の坂上よと越行ハ、極樂寺といふ律寺あり、

たのしみをきはむる寺のうちとてもよのうきことやかはらさるらん

といひつゝ門に入てみれハ、極樂寺といふ名にも似ぬありさま、佛ハ臂をち、みくしかたぶき、堂ハいらかやふれむなきたれ、みかくへき寺僧の力もなく、あしき繩もてまとひ立たるハ、これや七寳正眞のまき柱ならん、極樂寺のかゝる零落を見て、地獄門のさかゆく事そらにしられたり、しかあれとさる人のいへるハ、地獄極樂の境も、さまてとほしとも聞えす、方寸の胸の中一心の上より、みつからつくり出す事なれハ、時の間に地獄も消て天堂と成へし、地獄天堂皆爲淨土ときく時ハ、此寺のめくりにしけき梢をは、七元(重ィ)の寳樹とも見、囀る鳥の聲々ハ、賓迦衆鳥の和雅とも聞、或ハ現大身滿虛空中と聞時ハ、佛ハまのあたりなり、億土も遠からす、去此◦(事ィ)遠ととけり、是に迷へる衆生に、かりの姿を方便して、己心の覺体を表すれハ、實に利益無邊なり、誰も心をはふらすべからす、法ハ機によつて修すへし、

極樂寺前地獄門 人々具足業障根 野曉幾回(夏ィ)春風艸 還死受生原上魂

濱邊の道もはると行て、腰越にて舟をかり、島へわたり、つゝらおりなる坂をのほり、一坂にて、海の面てを、木の間より見をろしたるけしきいふかたなし、丹靑も筆及ひかたくそ覺る、來て見る我も餘所のなかめとやならん、見盡瀟湘景、乘船入畵圖、ともかゝる事をやいひつらん、

詠めぬるわれをもこめてゑのしまを筆の跡にや人のとむへき

下從金際上登空 一島名高砂八東 驅景何知自成景 人乘舟入畵圖中

同島天祐和尙之韻

西湖易地是君山 江島眺望天水間 潮滿則舟潮落步 波心一路有人還

おのかへ「るきさィ」催して、島をはなれ、もと來し道に向ふ、流を片瀨川といふ、

思へとも思はぬ人のかたせ川わたらバすそやぬれ增りけん

星月夜の井を過るに、夕日もかたふけば、

雲晴て道ハ迷ハし星月夜かまくら山ハ名のみ也けり

新長谷寺に詣て

大和路やうつせハ爰も初瀨寺尾上の鐘の餘所ならぬ聲

あま小ふね泊瀨ナシィとよみしハ實にこゝなるへし、海山かけてなかめ、ひとかたならぬところなり、くれて雪の下のやとりにかへり、五山の樣体ともところのものにとふ、建長寺圓覺寺ハならひの山なり、淨知寺もむかふの山也、壽福寺淨妙寺ハ各別の所なりと、そこの道すからを委伺ひ、燒香順禮の爲なれハ、香の資なととりしたゝめ、威儀をとゝのへ、先建長寺にむかふ、左の偏門にハ東海(海東ィ)法窟と云額有、右の偏門にハ天下禪林と額あり、正門にハ巨福山といふ額あり、山門にハ西燭の筆にて、巨福山建長興國禪寺と二行に額あり、中央の爐ハ石也、閣ハ壞れて今ハなし、仰て見れハ、かりに板をしき、其上に觀音の像を安置す、たゝちに佛殿にむかふ、ゆくての右を嵩山といふ、古木雲をしのき、常盤の松に秋の色をましへ、折からの山のはへいはんかたなし、開山塔西來院ハ此山陰也、惣門に嵩山といふ額あり、佛光禪師の筆也、方丈あり庫院あり、照堂にハ圓鑑と云額あり、圓鑑と打たる額に故有、開山隨身の鑑有、入滅のきわに、是を志深き隨時の僧に授給ふ、開山入滅の後、時賴師をしたひ給ひ、愁歎なゝめならす、或夜師夢に時賴にむかひて宣ふ、我か在世隨身の鑑を、しかの僧に授ぬ、我をしたふ心あらハ此鑑を見給へ、其鑑に我姿を殘す也としめし給ふ、夜明て不思議の思ひをなし、しかの名付たる僧やあると尋給ひけれハ、さ候と申、鑑や持たるととひ給へハ、夢のうちに師のしめしに違はず、さらハ其かゝみをとて取あけ、時賴常に此鑑を見給ひ師をしたひ給ふ、鑑の金をみかきたるに、觀音の像と見えたる金の紋あり、是を我姿を鑑にのこすと、師のしめし玉へハ、實に師ハ大悲の示現有て、辟き无ィ佛の身をあらはし、世をすくひ給ふなるへし、時賴薨し給ひて後、開山塔に籠め給ふ、扨こそ圓鑑と額を書たると、寺僧語られし、鑑の体ハ爐形なるか、爐の丸みを鑑の面に見せて、みかきたる金の紋に大悲の姿ほのかにあり、遠目に見ることく也、開山香拜をとげ、みつからの先師大應國師の塔天源庵に入ぬる、道すからよのつねならす、其むかし我山の開山祖朝參普請して、此道を行還り給ふ事、しらぬむかしを今見るやうに覺えてあはれ也、爰ハ雲關の跡とて、石に切付たる柱の跡あり、遙(透ィ)雲關舊路と頌せられし、我祖の句裏の雲關を過て、普光の塔に入、香をたれて慈顏を仰拜す、諸師の塔をものこらす順禮し、次の日ハ圓覺寺に入、開山佛光禪師を拜するに、所からつねならす、仙境やかくあらんと覺ふ、塔樣殊に勝たり、慈眼うるはしく、いける人にむかふことく也、いかなる屈强の人も淚をもよほすはかりなり、野鳥來て肩になれ、白龍袈裟に現すと傳へしか、在世の有さまをうつし、倚子に白き鳩二とまり、袈娑に白龍をきざみたり、實や谷虛にして山おのつからこたへ、人無心にして物よく感す、芭蕉無耳雷を聞、磁石無心にして鐵をてんす、無心の力いくばくぞや、菩提心さへ胸に殘らハ、煩惱なるへし、まして煩惱を胸におかんや、煩惱即菩提といへるハ、一坂越たらん人の眼よりいへること葉なり、己眼明らかならすして、達人の言葉をとりもち來て、我物となしていへる倫世におほし、玉ハもと石なれ共、みかゝされハ光なし、みかゝさる石をさして玉なりといはんや、玉といはゝ玉成へし、ひかりなくハ何を玉のことくとせん、達人のいへる心ハ石皆玉也、なとみかきて光をえさる、人皆ほたい也、修して何そ菩提の光をはなさゝるとなり、又修もなく證もなしといへ共、修得證得の人の言葉也、祖師光德にハ花實そなはりたりと、今の世にハあた花のみ咲て實なし、言葉をとるはかり也、甘といふ文字をなめたりとも、口のあまかるへからす、火と唱へたりとて口あつかるへからす、口のほとりにある佛法賴もしからす、何事をも腹にあちはへん人こそ床しけれ、佛光の塔を出て、第四淨智寺に入て見れハ、三間四面の堂一宇、ふるき佛を安置して、いつくを開山堂といふへきやうもなく、末流邊土の僧一人來りて、かつて茅屋ちいさくいとなみかたはらに有り、其次に又一僧一宇をかまへてゐたり、佛殿の本尊もやふれくつれて、こもといふ物にてつゝみてありしを、われらみつから立負持來りて、膠付なとして、わひつゝも立置ぬとかたりける、あさましき有さま也、天下の五嶽なと、かくのごとくなり果ぬる事やあると、嘆息やみかたし、又次日ハ建長寺に入、佛國禪師を拜す、正統庵ハ夕に扉をも閉す、人住されば夜ハけだものゝ栖と成て見えたり、いかにしてかゝる「樣に」(故そィ)と問へハ、所領庄園いさゝかもなけれハ、兒孫末派ハありなからも、我私の庵をさへ守りかねたる事なれハ、本菴をいかにもしかたくてと語る、常寂の塔も風扉をひらき、さし入ものハ夜半の月より外ハあらし、禪師そのかみ、

月ハさし水鷄ハ叩く槇の戶をあるし顏にてあくる山風

と詠し給ひけるハ、今見れハ道を讖し給ふにこそとおほゆィ无さま色とり繪かきたる棟うつはりを雨にくたし、現容よくにん事を思ひ、志をきさみし尊像も、今ハ露雫にうるほふ、後門の方をみれハ、から樣にきさみなしたる曲る、くつれころびうつみィてあれとも、たれおさむる人もなし、かやうにもすたれはつるやとなけく外なし、いさゝか香の資を奉りしも、たれにかくいふへき人もなし、門派の人をたつねて授て歸りし、禪居庵ハ大鑑禪師淸拙ィ)和尙の塔也、香拜して歸りぬ、一老僧後に宿坊に尋られ、古今の物かたり共有し、次の日ハ龜谷山壽福寺に入、逍遙院も今ハなし、逍遙池ハあやにくに、水かれて草靑し、入定の石龕荆棘かこみ、藜藿にィせり、方丈も今ハなし、殘りたる一院に、いさゝか開山塔をかまへて、香燈を備ふ、千光國師の尊像儼然たり、佛殿も亦かた計の体也、天地只一僧寂寞の扉をとちて音もせす、開山塔をハ光明院ときけと、光りや地に落けんと思ふ計り也、爰を出てむかふの山に、報國寺といふあり、惣門に漸入境塔(佳境ィ)と云四字を題す、是より認入ハ、岩のめくりたるかけに佛殿方丈あり、さはかりの跡なり、爰をも出て又むかふ谷に入ぬ、左に深き谷あり、覺園寺といふ律家あり、實に古跡也、尊氏將軍の再興し給ふより此かたの寺也、むねの札にたしかに見えたり、今の世の工の造りたるに違ひ見所多し、長老坊の造りなと、外にハいまた見ぬさま也、月中行事の順簿有、叮嚀なり、むかしさて、今ハ定めて十か二三も勤ハあらしとおもふ、八十の老僧一兩人、うち眠て壁に寄りかゝりたる有さま、いつくにたとへんサヒシさとも覺えす、いさゝかも世中をハしらぬかほ也、心にまかせなハ、爰に留て生を送らまほしくそ思ふ、捨ぬる身さへ心の儘にならぬ事也、人のおもふに違はぬ、此寺庄園も少しハ殘り、山林もあれとも、人をかくより、境日々におとろへぬと見えたり、甲斐力の人有ハ、今少しハ軒をもかゝけ、庭の木のはをもはらひつへうそ覺えたる、いつくにも任(住ィ)にあたる人まれ也、境ハ人に依てあらはるゝといふ事實なり、五山なとの加樣まて淺ましく成ぬる事ハ、いつの時よりかと問へハ、伊豆の早雲關八州を領せられけれ共、そこの國郡をしる人達、みな北條に隨ふといふちきり計にて、國郡ハむかしのことく預り居るなれハ、八州の司(主計ィ)といふはかりにて、しる所やせはかりけん、事たらされば、力もいらすして、落しやすき寺社の領地を皆おとして、我ウテナをにきほされてより、かくのことく成ぬとなり、五山なといふ地をけつりて、わたすへきもいかゝとて、僧一二人朝け夕けをさゝけよとて、十貫つゝ殘し置て皆おとされ、建長圓覺ハ所ひろきとて、百貫殘されし、今もせめてむかしの地ならハ、物の數にも事たるへきに、しる所も此世にかはりぬれハ、もゝといふ名計にて、庫院のけふりも、賑ひうすきなと語るに付ても思ふ人ハ、世によき名をこそ殘さまほしき事なれ、早雲かゝる事をし置て、寺社皆はて我家さらハ、千代萬代も榮へば、其家に善人生れ合て、惡しき道をよきにあらためなハ、先祖の名も重てあかりなん、家はやく果ぬれハ、あしき名のあしき儘にて、世に殘れるハ、殘多き事なり、家をハ萬歲千秋と祈るへき事也、一度惡き事有とも、あらためてよきにかへせハ、惡敷時の名かくれて、よき名を殘すハめてたし、我身に事たらぬからに、外をむさほり、寺社をつひやす、われこそ心有て付けづとも、人のつけたるをおとすハ重罪也、され共無道なからも、なへて世の人の心也、事たらぬより心の外の事もあるへし、あまる財あらハ、外にほとこして、一ハ菩提の爲、一にハ名を後代に殘す、外の德何かあらん、此頃神社佛閣修造の御沙汰有と聞にこそ、御家も久しく傳はり、御名もよろつ代迄と知らるれ、世の安からん事を、上をおほすより下る下迄、人のいきほひかはりて、目出たうと見えける、此山陰の僧徒まて、末たのもしき哉といひあへり、

龜か江のやつと聞て

くちぬ名の跡ハかはらし己か身のふる萬代の龜か江のやつ

爰ハ梅か谷といへハ

が軒はに咲し梅がやつ忘れぬ宿の香に匂ふらん

梅谷梅開憶昔年 昔年榮達盡黃泉 紫羅帳程珊瑚枕 曾宿此花誰作

あふきかヤツに折居て見れハ、扇子アフギかたにほりたる石の井あり、名水といへとも、夏とてもむすひつべうも覺えす、山のかたにもみち色よく滿て、つまくれなひのあふきか谷とそ見し、

夕顏のしろきあふきのヤツなれやつまこがしたる山の紅葉は

花のヤツにて

さそな昔さきけん春の花の谷跡の名迄も猶匂ふ哉

いにしへ阿佛此里にくたり、月影の谷にかりのやとりして居玉ふ跡と聞て、

其身こそ露ときへてもなき玉や今もすむらん月影の谷

かくて爲相もくたり給ひて、もろともにこゝにてなく成給ひぬとか、爲相の石塔とて、慈恩寺の上の山にあり、名の手向に、

石のハたか後の世のためすけと問ふこそくちぬ其名成けれ

を見めくるに、爰ハたれそれかし、かしこハ其なにかしとかや、古き跡とも限もなし、

建久封疆多變寺 寺終廢壞又平蕪 千旋萬化不跡 昔日英雄骨亦無

九代のあとゝいふを見て、

見てぞけふおもひあはする麻ハなく心の儘のあとの蓬生

新勅撰に入とやらん歌に、

世の中にあさハ跡なく成にけり心の儘の蓬生ヨモギのみして

とあるを今思ひ出てなり、又

麻ハなく蓬とよみし言のはや我世の後をかねて言けん

同しき歌のこゝろはへなり、あれなる岡へこそハ、文學(覺ヵ)上人の遺跡なれと、あんない賴し人の申せハ、よそなから見て、

かくといかで住世に思ひ岡部なる一村スヽキ哀れとそ見る

文學遺跡 唯不其人 遮眼霜餘草 斷根水上蘋 懷今復懷古 觀世更觀(知ィ) 四百年前事 于時感慨新

幾度もとて、又々八幡宮にまふて、

十かへりの梢をならす風の音に聲を合する鶴か岡の松

千年緣(綠ィ)鶴岡松 永翼蔽源家後蹤 禱則感應如扣 神宮寺裏一聲鐘

巨福山建長寺、拜開山大覺禪師於西來院

經曰照于東方八千土云々、

從前大覺尊 照東方土群昏 嵩仰得力西來意 下載淸風月一痕

瑞鹿山圓覺寺佛光禪師

圓覺伽藍包大千 大千日月這中旋 展虛空手禮三拜 宇宙摸身老鉅禪

龜谷山壽福寺、拜千光國師於道遙院

暗千光本一光 逍遙大宋扶桑 請看黑漆崑崙耳 敬爲祖師燒作

金峰山淨智寺開山塔

門庭不(移ィ)祖師禪 淨智莊嚴松竹旋 見磨我宗直建立 草深一丈法堂前

稻荷山淨妙寺開山塔、曰光明院行勇禪師无ィ

月沈野水光明院 峰披靑雲祖塔婆 當昔决龍蛇陣所 看來今日一僧伽

報國寺開山佛乘禪師、題門曰、漸入佳境

門「空(字ィ)佳境 枯木圍古鐘 想見祖師行道日 其聲今開意中鐘

佛國禪師之塔、先問塔主、山風暗答常寂塔者、無香灯之備、雖法門之正統、菴欠提綱之任否、空房而老鼠白日行、野狐入夜宿、禪扉不閉、風霜飽侵慈影(顏ィ)吁時乎、命乎聞昔年之盛事、見今日之頽廢、感慨非一、卒賦俚語云、

土曠人稀一塔荒 禪扉不鎖飽風霜 可憐此法今墜地 佛國光輝有若

大鑑禪師淸拙和尙於建長寺禪居菴

結乾坤草盧 大唐日本一禪居 出無門矣入無戶 塔樣直看先劫初

覺園律寺尊氏將軍再興有棟銘

覺園律寺日苔生 木葉鳴風布薩聲 八十五僧不戒 唯依床壁睡爲


明治三十五年十一月以版本一校了

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