コンテンツにスキップ

甲陽軍鑑/品第四十三

 
オープンアクセス NDLJP:191甲陽軍鑑品第四十三
信玄公軍法之御挨拶人 

馬場美濃軍の被成様申上る  山県三郎兵衛御働きなされてよきとすゝめ申上る

内藤修理、何方へ御働きと指図申上る、其様子は北条家をかすめ給ふにも、伊豆か相摸かはちかたか、関東にては、新田足利か家康にては遠州か三河か、信長東美濃か扨は越後かと様子を積りて内藤申上る

高坂弾正者二ツなく敵国へふかく働き、或は御一戦、必ず御延引と計り申上、能く隠密するにより、働きまへにしれず但し侍大将衆は存候なり

文のいる事には、小山田弥三郎をめして、七書五経の古語をいはせて聞給ふ

何国先方衆にも疑ひ有るなしの、御用心の事は、土屋右衛門尉、三枝勘解由左衛門、真田喜兵衛、曽根内匠申上るに少しも私しなし

陣取或は他国にて陣場をみたつる事、原隼人佐次第に被成候也

他国より御客来の挨拶又は状文の取引は、跡部大炊介、長坂長閑是の両人なり右弓矢の御談合、馬場美濃、山県三郎兵衛、高坂弾正、内藤修理、原隼人土屋右衛門尉小山田弥三郎七人なり

足軽大将のことわざは、自身のはたらきしてはけがなり、脱躰の勝負を分別して足軽をあつかひ軍の先達をして味方の勝利を得るごとくに仕、後によき敵あらばうちても尤なり

侍大将は、我同心被官の貴つとむやうにして、御大将の被成まじきとある、合戦をも勝とみきはめて、勝利をえて味方をいさめ後軍を二重三重に考へあぶなげもなき様にする事肝要なり五度あらば一二度は敵をくづして後、敵に能武者あらば手にかけても可然但し小身より度々おぼへある人大将になり候へば自身の働き一切すべからず、若しわかき心出来候はば大きなるけがなり

若き衆は、御大将の使ひに先へ参り、はれなる高名をもして度々をかさねて足軽大将になり、或は侍大将にもなるべきなり、信玄公の御家中如此候

武者奉行、旗奉行、一切自身のはたらき、大きなるけがなり、付たり惣旗馬じるしと、分けて両奉行なり

鑓奉行もくづしてから後、はたらくべき也、さるに付、信玄公軍陣の役者におぼへなき、人はあるまじきなり如

    信玄公十六歳より五十三迄の間に、軍法工夫仕たる衆

荻原常陸守 是は譜代衆也相図の小旗相図の物見、がくのどう

原加賀守  同  方向の陣取

原美濃守  足軽りうごのり、二のかけ備たゝむ事

横田備中  備組結ぶ事

多田淡路  夜軍あつくうつてうすく出る事、ひかへ時までいつさくなり

加藤駿河  信玄公の弓矢の指南申たる武士なり

小幡山城  楼西櫓に数の刻敵の城へ取懸たる時、出る出ざるを見合す事、敵の働き様にて味方にあやうき事見合

山本勘介  城取或は敵をまはす事

米倉丹後守  甲州人衆也城をせむるに竹たばの事

馬場美濃守  同  押太皷の九字を表する也 同合戦にときの声さき手旗本別各べつかくの事

山県三郎兵衛  同  敵大物見の中に大将ありとみる 同川こすべき事みしる儀是れ遠州浜松にての事

内藤修理正  同  かくし是非の事将棊頭人数立の事一本ニハかくし是非の事ヲかへし勢乃事トアリ

高坂弾正  笧ひきやくの事備へみの手なりの事

オープンアクセス NDLJP:192旗本大陣取は、原隼人あひてに被成、信玄公御工夫なり同五人組にして、三万千五百一本ニ三万七千五百トスと組あはせなさるゝ縦へば卅七万五千迄もなるべき也、又大軍小軍大旗是れは馬場美濃御挨拶人にて是れも信玄公御工夫なり此外も信玄公御工夫多けれ共みな家老衆の分別とある上意は御遠慮おほくして如

    信玄公御旗

赤地に八幡大菩薩の旗二本  赤地に将軍地蔵大菩薩の旗二本  武田二十七代迄之御旗一本

其疾如風  其静如林  侵掠如火  不動如

是は黒地に、金を以て此四ツの語を書給ふ、旗は四方也、此旗共に以上六本なり、川中島合戦から此旗を被成又味方が原にて家康信長に勝て、殊に信長と手ぎれ有りて、東美濃発向の時此語を右のはたにいれ給ふ  天上天下  唯我独尊  右之古事を入てはたの仕やうは

其疾如風  其静如林  侵掠如火  不動如山  天上天下  唯我独尊

 如此御旗は、天正元年酉の三月もたせはじめられ、同四月十二日に御他界なり

此六本の御旗奉行一人、惣旗奉行一人それによりて二人也

右六本の御旗の内には、尊師尊師ハ孫子ナルベシの旗を肝要なり、口伝

     勘定奉行三人の衆、形義各別也

青沼助兵衛いかにも下輩成者をも、近付穿鑿する

市川宮内助は、いかにも此方の理窟をあらく云ふて大略の者は理を持ても申がたくしてかすめらるゝ様に云ふなり

跡部美作は、有時はあらく、有時はやわらかに、下す近き時もあり、勿論下手げす遠き時もあり、其品々によりて物を云ふ人なり、右之三人談合して、西は美濃岩村、同かんの大寺、三河野田足助、関東相摸武蔵境、新田足利境、越後境、飛弾越中、椎名が居舘迄通り筋に、ぬかわら出し置き、是れは御分国にて百貫の高に付糠二十俵藁二十把出させ、是れを置きて道通り町人百姓に十分一をくれて、やすくうらする故度々の陣にも諸侍糠藁にことかく事なし、殊に糠藁うつたる代物をば、本の百姓へ返へすなり、上意なれ共如件おしはかるは、是れ以て信玄公御自利能人を召つかひ給ふ故なり

信虎公の御代には、軍法も信玄公の十分一ならでなし、殊更信虎公二十八歳の御時、くしま合戦の砌りふだい衆大かた在所へ引籠り見所仕つる右のくしまに勝給ひて、其時より甲州一国の衆を八年の間に悉とくたへし給ふに付、二百三百或ひは五百、楯籠りたる城どもせめ取なさるによつて、矢疵鑓疵刀疵しげく手負たる衆多し、然れ共信虎公家中にて、譜代衆牢人衆の中にて、健なる武士を七十五人、ゑらひいだしなさるゝ侍衆、信玄公の御代に、大形討死して年寄までながらへたるは、横田備中、多田淡路、安満、鎌田織部、原美濃、小幡山城、是れ六人也、殊更六十ヶ年己来は鉄炮是れ有を以て、武篇持ぐ衆一入討死おほし鉄炮は大永六年に井上新左衛門といふ西国年人信虎公へ奉公申し此侍飯炮持来り謂たりと申伝さりながらまれなりと聞く、其後信玄公御わかき時は、かち路大膳梶路大膳、同又作と申す牢人親子あり、此待各々に訓候近年は佐藤一甫斎と申す牢人来りて訓める也、今は侍衆皆鉄炮よく上手にうたるゝ中に横田十郎兵衛日向藤九郎両人は鉄砲を用にたて候なり一本ニ横田十耶兵衛永禄六年上州和田の城にて鉄炮故敵退散也又北条氏康氏政父子にたのまれて松山の水の手を取る事日向藤九郎が鉄炮故なれば此両人の鉄炮をバ用に立て候トアリ

    五敵

強敵  大敵  小敵  弱敵  若敵

第一に強敵とは無類に、健やかにて人の目利よく上手にありて我れにおとらぬ家老の、然かも大将御ため不浅存奉り、侍大将あまたもち、工夫思案の分別すぐれて、せりあひ合戦城ぜめに、度々勝利を得たる名大将を、強敵と其名をとなふる、此強敵にも大身小身の両人あり小身の一郡計持たるをば名人と申す、名大将とはいはず、一国からして上の大身にほまれありて、かけみちなきを名大将と申也件の大将にも、破敵随敵の二あり、破敵とはやぶるゝ敵、随敵とはしたがふ敵、それをしる事、其国より来る、諸牢人に彼大将の万づ行政一切の仕形の中に、侍のせんさく、ひはんの様子をよく尋て、能くきいてたゝかふべき、もくさんのならし尤もの事

第二に大敵とは、国五ケ国十ケ国も持たる大将の事也、大敵にも二ツ有、一ツには弱敵、二ツに若敵、弱敵とは未練にして我持来る国計り長久と存知、他国へ心をかけざるは、よそより其まゝおかぬものなり、但し大軍の中には、なき様にても弓矢の功者、小身の家中よき侍の有と云ふより、大身の家中よき人のすくなきは、遥々上也、子細は国を三ツとも取ば、いづれに一代弓矢の手柄ありたると相心得べきなり、如件手オープンアクセス NDLJP:193柄の後末になりても、前代の弓矢少し残りて、其国を破るは必らず手間を取者也大将弱くとも、必らずあなどる事なかれ、扨又若敵とは年はいくつにもなり候へ、よはくもつよくも落つかず、一度もほまれなき大将は其わざ若き故、是若敵と云ふ勿論年若く、てがらなきは若敵也年寄て一度も誉れなき大将は、世間の、となへ口惜存ぜられ何様のはたらきこれ有べきもしらず必らずあなどる事なかれ、其国より来る者によく尋ねて後ち国へ取かけ戦かふべきならし尤之事

第三に小敵の強きは、能々弓矢強ければこそ、少身にて大軍と戦かはんと存るなれば是れもつてあなづるに及ばず

第四に弱敵の小身なるが、不随に何ぞあて処ありて如件と分別して是をもつてあなづる事なかれ

第五若敵のほまれなきは、卒爾のはたらきを仕懸られ、是れに勝たるといふても、味方のよき者を失なひていかゞと遠慮尤も成ときんば必らず謾る事なかれ、小敵若敵弱敵に負て敵方に名をとらする故、一入工夫思案の分別ある処也、こゝをもつて信玄公油断強敵とある事を専ら思し召し、関東越後美濃尾張三河諸国の武士をまねき、其国この武辺形義しつて戦ひ勝て後猶以て甲の緒をしむるとの儀にてすこしもそゝけたるはたらきこれなき、信玄公の軍法也、此儀を勝頼公非義と思し召し信玄公にましたる働き候御心懸け卒爾に分別あそばす故去々年三河国長篠においておくれを取給ふ也

    於陣所制札

火事は其陣之内にて、鬮をとらせ成敗の事

牛馬取はなし候者夫馬ふうまは、見出し候者とる、乗馬は過銭三百疋上様御厩衆とる事

喧嘩は両方共に成敗但し穿鑿のさた有て、道理非を分け坂をこさすべき事

不浄これあらば、縄を張り其陣の近き所より、過銭五十文是れも新衆とる事

高声、こうた、大酒、無用の事

右之札は、武者奉行よりかきいだすにより、加藤駿河守かねて是をたつる駿河守死去の後、大剛の衆も皆侍大将足軽大将なる故御旗奉行より是を立る、騎馬奉行はいたすも有といへども、それは武者とはいはず武者奉行とは御大将へ弓矢の助言申人成者なり、族本衆は武者奉行口をまほつて御大将と対々に存ずるにつき武者奉行少も人数を持てはならざる役也弓矢の功者少しも疑ひ有てはならざる事也信玄公流武道の御定め如

 是よりすへは高坂弾正私に申儀也

   雑人陣にて煩ひの時

虫には曹洞宗の百貫草、水一盃半分を一盃にせんじのまする、手に一ツもにぎり、口伝

おこりには、亀一ツ黒焼にす水にて是れをのます

熱気には拾五気の木、手一束に、右のせんじやう口伝

 敵と対陣之時、いや成人一対づゝ三対有

武辺覚へ有ても軽薄なる人  武辺覚有ても下手功者なる人

   是一対二人

忠節忠功のよき武士をそねみにくむ人  忠節忠功の武士を口にてあしういはず共、嫌ふ人は儀理を不知也

   是一対二人

公儀之法度背く人  法度軍法有事を少しもしらぬ人

   是一対二人都合六人

第一に功有て軽薄の侍は大将の分別違ひ給ひ後途負とゞまけに成ことをもほむる物なればこゝを以て軍に軽薄をきらふなり

第二に下手功者の侍は積り下手なるが故よき事をよきと見定め、かんがへ十が一ツもあはぬものなればこゝをもつて、いくさに下手功者の者、物云ふをきらふなり

第三に忠節忠功のよき武士をそねむ人は、我主君に忠節忠功の奉公なき故よき武士をそねみ倒したがるはいくさに大毒の人なりこゝをもつて陣の時此人をきらふなり

第四に忠節忠功の人を嫌ふ者は武士の家職を不存未練の侍故、其陣をいやがり敵の事計りを大にほめて味方のよわる様に申ものなり、ここをもつて此人をきらふなり

オープンアクセス NDLJP:194第五に法度背く人は軍法を破るはぶりをいたし先へゆきてかせぐふりを見すれば侍は我おとらじと思ふにより此人に付大勢法度を背きゆくといへども、敵つかゆれば迯散りそのうちに本の兵をも捨放なす子細は、恩を得奉る主君の法度を破る、智恵才覚はこたへべき所をも破つて、迯るは必定也こゝを以て軍に法度をそむく人をきらふなり

第六に法度よろづの善悪しらざる人は、貪りて武士道をわきへなし乱妨ばかりにふけり、人をうつべき心聊かもなくして不心懸なりこゝをもつて軍に此人を嫌ふ也、右三対六人の人、陣の時大に嫌ふ人也

   陣の時大将崇敬なさるゝ人、一対づゝ五対、合十人

才覚有りて勘定たけく、能き智恵深く、能く損徳の考して理非の二ツには理の方へ近く分別して、一本ニ才覚有て云々ノ前ニ武功有て工夫思案分別し武略智略計策其作法を知て一しほすくやかなる武士の事トアリ蔵よく賂ふ人の事   是一対二人也

心すくやかにてまなこきゝて分別才覚有て武道にさかしくよく物いふ人の事

縦ひ無才覚なり共、分別なく共、物いふ事速かになく共、口わろく共、無能なり共、ねてもさめても武道心がくる人ありて左様のものを、大将のみしり給ひ、念比なさるればことく諸傍輩武篇を心がくる也又縦無才覚云々ノ前ニ心すくやかにてまなこきゝて分則才覚ありて武道にさかしくにく物いふ人の事トアリ

   是一対二人之人也

他国へはたらきの時其国の案内能く知たる人の事  諸傍輩にすぐれわが主君をよくたつとぶの事

   是一対二人なり

物よくしつて、うわつらになく古人の理に徹して、唐日本にて侍手がらのうはさ、有様に申人の事

坊主町人百姓いづれ成共、計策能するものゝ事   是一対二人なり

忍よくする者の事  かねほり   是一対二人也

右一二人にて、すくなしといへども先如此外題をもつて書おかねば、其様子聞へかね候間如

信玄公於御陣手柄をなす者に褒美なさるゝその色々は

御証文上中下有、のし付の刀脇指  鑓長刀  のどわ  小袖  羽織  基石金  づきんまで長持に一ツ持たせ給ふなり、功により又は時のしほにより、是を下さるゝ事、御使にて給はり、又は家老衆をもつて給り、或は二十人衆の頭、御中間頭衆をもつても給る、さて又御前へめしよせられ給るもあり其様子あり

信玄公軍法之事、馬場美濃守、内藤修理、高坂弾正、山県三郎兵衛、四人のまゝになり給ふ事 口伝有

国三ケ国、五ケ国或は十ケ国共、手に入て三代と持来る家は必らず弓矢無穿鑿にて後は大形取失ひ、無案内になる者也、其無案内に二あり、大将能案内者にまして家老の武士道、取失ふもあり、又は大将の武道を取失ひ給ひ家老のよきも有、此様子色々なり

第一に大将よくして家老功もなく、武道無案内に、然かも無心がけにてこれある家中には、忠節忠功の侍を家老衆そねむ故、臆病にて軽薄なる者、おほく繁昌して、よき武士の繁昌、十人の中一二人ありて、其備へ違ふ物なり、然れ共大将よければ少身なる侍を取たて大身に被成、名をとらする儀は、悉皆唐国はよき大将衆の大公望諸葛孔明などゝ云ふ者を、在郷より引出すと同前也

第二に、家老よくして大将のぶあんないなるは、月見花見遊山芸能にふけり、結句鈍にかへるなれば、作法もしらず、置者あしき人を取たて、崇敬有てよき家老を殺し、追失なふ物なり、其ごとくなる大将は、人罰にて終に牢々して、他国の大将を頼み、おられぬ膝をおり、少身成る侍の様に機づかひ有は、忠節忠功の者をあしく被成たる罰なり

第三に、国持大将のつよ過たるも、色こそかはり候へ、右二ケ条の無案内に同前なる子細は、卒爾のはたらきをもつて、よき家老は尽くうしなひ其家生れかはりの、無案内者どもおほうして、よろづ僉議せんぎ区々なれば備へ違ひて、其大将終にはほろび給ふべきなり、いづれの道にても、勝利を失ひ国郡を敵にとられては、よはくして、かすめらるゝも、つようしてほろぶるも、ひとつ道理なり、それがし死後に、それがし死後に、此儀勝頼公へよくいさめ御申上なさるべきなり

        長坂長閑老  跡部大炊助殿参

武田信玄公、御家老軍法工夫之衆、侍大将に八人、足軽大将に七人此外七人

荻原常陸守、信虎公御幼少の時、弓矢の指南申し、信玄公御幼稚の時分も、弓矢の物語り申上られ候、信玄公十二三の御時分、常陸守七十余にて死去也

板垣信形   甘利備前守   飯富兵部

オープンアクセス NDLJP:195原加賀守甲州たか畠の人也、子息隼人佐に常々申しおしゆるは、侍たらん者は、何にても弓矢の儀に、一やう得物有様にとおしへおかるゝなり

諸角豊後   日向大和守   小宮山丹後守

   足軽衆には

横田備中守一代之内、手疵三十一ケ所かうふり、数度の走迴り故騎馬三十騎、足軽百、御陣の刻は、大形甘利備前に被指添是は信虎公の御代より信玄公へ被召使武辺いたす、御父子の御証文三十四取て持、知知行三千貫被下国は伊勢衆也

多田淡路一代数度の走り迴り、手疵をかうふる事、二十七ケ所、武篇いたす、御父子の御証文二十九取てもち御働きの刻は、大方板垣信形にさしそへらる、国は美濃衆也

原美濃守、父能登と、関東下総より、信虎公御若き時、甲州へ参り、原美濃十七歳より走り迴る、一代に手疵をかうふる事、五十三ケ所なり、武篇数度の走り迴り仕り御父子の御証文三十八取て持、小田原へ牢人いたす四年の間に武篇手柄の証文氏康より九ツ取て持知行三千貫、馬乗三十五騎、足軽百人預下さる御陣の刻は、飯富兵部後は山県にさしそへらる

小幡山城おさなくて父日城とつれ、信虎公十九歳の御時、甲府へ参り日城おぼへの者なる故、信虎公より則ち足軽を預けらるゝ、右山城八歳の年、甲州へ参り十四歳にて父にはなれ、十六歳より走り廻り、武篇数度の場数の中勝れたる儀卅六度有りて御父子の御証文三十六取て持、就中信玄公十八歳の御時にら崎合戦の刻、日の中に四度の合戦に四度ながらすぐれたる高名あり、一代手疵をかうふる事四十一ケ所也、如行千八百貫、馬乗十五騎、足軽七十五人被預下国は遠州かつまたの侍なり

山本勘介一代手疵をかうふる事六十三ケ所なり、此内信玄公御家にては廿ケ所の内也、子息も若く候へども二三度よき事候つる、去々年長篠にて討死なり

米倉丹後守   加藤駿河守

   右之外七人

馬場美濃守信虎公の御代に、十八歳より初陣仕り、其身廿五歳より、信玄公へめしつかはる、信虎公、信玄公勝頼公迄、三代召つかわれ、去々年長篠合戦六十二歳にて討先仕らる、信虎公信玄公二代の間に武篇数度の走り迴りいたす中に、我一備にすぐれたる事、二十一度仍而御父子之御証文、二十一取て持つ内に然かも諸軍に勝れたると云ふ儀九ツ有、是程の手がらをあらはし申され候へども、六十二歳まで手疵一ケ所もかうふらざる仁なり、三十歳余りより、信玄公取たて給ひて、人数を被下馬場になさる

内藤修理は、元来工藤なり、是も信玄公御代に、内藤になされ候、信虎公信玄公両代に頸数九ツあり人なみのしるし故御証文は一ツもなし、弓矢功者思案工夫の分別、馬場美濃におとらぬ人にて人数のあつかひよくする人なり

山県三郎兵衛は、元来奥の源四郎と申たる仁なり、源四郎の時信州猿が馬場と云ふ所にて、越後謙信衆と互ひに物見にいで然かもさいはい手にかけたる武者と、馬上よりくみて落ち其敵武者をうちての高名なれば、信玄公御証文一ツ、又飛弾国において、山道のせばき所故、我同心被官もすぐることならず、山県は一人、敵は両人鑓を合す、此時信玄公、御証文一ツ下さるゝ、合せて二ツ御感を取りて持右の外頸数五ツは、なみのしるしなり、兄の飯富兵部逆心の侍故、弟名字をかへさせなされ山県三郎兵衛になさる同心は板垣衆を被付下此三郎兵衛、人数あつかひよく仕る武者なり

土屋右衛門尉、元来は金丸筑前守と申仁、武田の家の中老也、此子息七人あり、一男金丸平三郎とて落合彦介に斬殺さるゝ、二男は平八郎とて、信玄公御座をなをし、其身十七歳にて、川中島合戦に、信玄公によく付奉り、しかも心ばせ能して土屋になさるゝ、二十二歳にて侍大将になり、二十八の年右衛門尉になさるゝ味方が原合戦に、家康内、鳥井四郎左衛門と云ふ、大剛の者と右衛門尉太刀をうち仕り、其後組討にする此四郎左衛門大剛の兵なるしるしに右衛門尉がかぶとをきりわる然れども明珍の星甲なる故、甲は損じて身にあたらず、終に四郎左衛門が頸をとる、諸人是をほむる子細は、その場大かたならぬ、せはしき所にて右衛門尉内の者も敵みかた入みだれ、することならざるに付て、右衛門はたらき、是れ高名なり、右土屋右衛門尉とは、金丸平八郎、信玄公御座をなをし候なり、三男は秋山源蔵と申て是れは、秋山伯耆守養子なり廿九歳にて煩ひ死す、四番は金丸助六郎と申て、信玄公奥の近寄なり、五番は金丸惣蔵と申て、今勝頼公御座をなをし候、駿河先方岡部忠兵衛、海賊衆なり此人忠節人にて候故、土屋備前守になされ右の金丸惣蔵オープンアクセス NDLJP:196を土屋備前守、養子にして同心被官をゆづり、土屋惣蔵と申是は勝頼公御座をなおし申なり、六番目も土屋惣八と名乗、御曹司竹王信勝公小姓頭なり、七番目は当年十一なり、右の土屋右衛門去々年長条に於て信長衆滝川が手の柵の木を自身破るとて鉄砲にあたり、三十一歳にて討死する、五番土屋惣蔵長篠をくれ口の時、勝頼公に付奉り、橋場よりあなたにて両度まで返し、心ばせ尋常なり、橋よりあなたにては土屋惣蔵と初鹿の伝右衛門と只両人付奉る、馬乗は勝頼公と伝右衛門と惣蔵と三騎なり、廿人衆御小人御中間衆、合歩者は三十計也、橋よりこなたからは大勢付奉るなり

土屋右衛門尉舎弟、土屋惣蔵長篠合戦の時分、二十歳なり、兄右衛門尉討死の後、侍大将となる此同心被官の内、  覚の者 帯監物  一の宮左太夫又若手にかせぐ者どもは  森屋  関甚八郎  脇又市   土屋次郎右衛門  なすの喜兵衛  辻弥宗

右の外養父土屋備前より、惣蔵に付衆の内にて大なる覚への者は、大石四方助、沢江左衛門、常葉万右衛門、入沢五右衛門、小塩六右衛門

甘利左衛門尉、信玄公御証文九ツ取て持、其上信玄公御先仕立てより、一二と申て三番とさがらず候

一条右衛門太夫殿信玄公御舎弟也武道を心がけ給ふ故、諸角同心を被遣其上にも若き者あつまり武篇場数三度を下にしてそれよりうへゝ、度九度までよく走り迴る若手の者ども

小野兵内  笠井勘兵衛  遠山五郎兵衛  加茂十兵衛  安沢彦介  辻勘内  水上勘兵衛  柴田次右衛門  一野沢儀左衛門  西郷  山下勘介  なごや  中村助太夫

    中間には

川崎  村