発声フィルム

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発声フィルム


 私は理学博士井川友一の犯罪を、彼の心理過程や、犯罪動機や、科学的な計画について、小説風に潤色せず、近頃流行の実話風に記述したいと思う。私にはよくは分らないのだけれども、小説は作者の把持する主張や、作者の意図或いは空想を、多少読者に強いようとする傾きがあるに反し、実話は事実以外に亘る事を出来るだけ極限し、読者に想像の自由を与え、判断を加える余他を残す所に特徴があると思う。

 さて、理学博士井川友一は、彼の犯罪が発覚するまでには、多少偏執的な所はあるが、それは学者によくあり勝ちの事であり、一般からは謹厳温厚な少壮物理学者として尊敬せられ、彼の妻玉代を除く外は誰一人彼を変態性慾者だと知る者はなかった。即ち、彼の妻玉代は唯一人の、そうして最も深く彼の変態的な事を知っている婦人であった。この事が悲劇を起す大きな原因である事は、後に思い合せられたのだった。

 井川博士を知る人達は誰でも彼の家庭を羨まぬ者はなかった。表面に現われる限りに於ては、妻の玉代は温良貞淑そのものであり、博士は品行方正そのものであり、殊に博士が玉代夫人を溺愛していた事は、反ってそれが、時に博士の唯一の非難となって現われる位であった。博士がいかに夫人を溺愛していたかと云う一例は、彼が勤務時間以外いついかなる所へも夫人を伴って行った事は有名な話で、未だに一つ噺にされる事は、某雑誌社の通俗科学座談会に出席した時にまで、夫人を同伴したと云う事だ。又、博士の犯罪が発覚した後、或る一人の門下生は、彼がかつて博士を訪ねた時に、夫人は風邪の気味で寝ていたが、博士が湯殿で何かしておられるので、何の気なしに覗いて見るに、博士は夫人の下穿ウンターホーゼをしきりに洗濯していて、振り返りざま、あの女のような白い柔和な顔をパッとあかくせられたので、非常に困った事があったと云う事を、極く親しい者だけに話した。(これなどは博士が変態性であった事を証明する事になるかも知れない)

 私は博士とは研究上の事で、度々会って話した事があるが、玉代夫人とは殆ど言葉を交した事はない。只、非常な美人で、いつも淋しげにニッと微笑んでいる婦人である位の事しか知らない。それに夫人は現存中でもあるし、委しい事を述べるのをはばかるが、彼女をよく知っている者の話では、夫人は実に典型的の日本女性で、驚くべく忍従性に富んでいると云う事である。もし、夫人にこの驚くべき忍従性がなかったら、恐らく破綻はもっと早く起ったろうと云われている。とにかく、以上の事実で、変態性の井川友一がいかに変態的に妻の玉代を熱愛し、玉代がいかに甘んじてそれを受けて (或いは忍んで) いたかが、ほぼお分りの事と思う。

 さて、破錠は彼等が結婚後約十年、博士が三十八、玉代夫人が三十二の年にやって来た。(彼等には子供はなかった) 破綻の原因は玉代夫人が、彼女よりも二つ三つ年下の、北田京一郎と云う青年と親しくなったと云う事に始まる。

 彼等がどの程度に親しくなったかと云う事は、現存中の玉代夫人の名誉にも係わるし、且つ彼女が口をかんして語らず、相手の北田は井川に殺されてしまい、博士自身は妄想患者になってしまった今日、正確な判断を下す材料は全然得られない。多少真相に触れたような人達ですら、果して夫人に不貞行為があったか、それとも単なる博士の憶測に過ぎなかったか、はっきり分らないらしい。

 しかし、博士の受けた苦痛の大きさは、事実不貞行為があったか、又は単なる彼の邪推に過ぎなかったか、に係わらず、全く同一であった。と云うのは玉代夫人が真実を語っていると云う事を信じない限り、彼は全然両者を区別する事が出来ないからである。博士は夫人を溺愛していて、彼女をすっかり信頼していただけに、彼女が北田青年と少し親しくし過ぎると云う事を悟った時には、両者の関係は余程進んでいたのだった。

 博士が両者の関係に気づき始めた時に、いかに焦慮したか、彼は獄中で次のような事を書いている。

「――余ハ有リ得べカラザル事ニ逢着シ、茫然自失セリ。余ハ余ノ神聖ナルべキ妻ヲ疑ウト云ウ事ソレ自身ニ絶大ノ苦痛ヲ覚エヌ。然レドモ、余ハ妻ノ不貞行為ニツキ疑惑ヲ生ジ始メタル日ヨリ、以前ニ溯リ、或イハ以後ノ出来事ニツキ考エ合スニ、事実ハ益々確定的トナレリ。余ハ澳悩焦慮日夜悶々ニ堪エズ。遂ニ病ト称シテ客ヲ避ケ、臥床がしようノ人トナルニ至レリ――」

 博士はただいたずらに煩悩するのみで、玉代夫人に詰問を試み、或いは糾明をしなかったかと云う事は二人の間の秘密であるから、遺憾ながら第三者には分らない。ただ彼女が参考人として予審判事の取調べを受けた調書に次のような一節があるのみである。


 問 被告ハ参考人ニソノ抱イテイル疑惑ニツキ、何カ質問ヲシナカッタカ。

 答 ハッキリデハアリマセンガ、ソンナ事ヲ云イマシタ。私ハ無論打消シマシタガ、ドウシテモ信ジテクレマセンデシタ。

 問 ソレハー度カ、ソレトモ度々カ。

 答 度々アッタヨウニ記憶シテイマス。


 さて、妻の行為に不貞の疑惑を抱いて、日夜煩悶していた博士は、どうかしてその実証を握ろうと肝胆を砕いた。そうして普通の手段では到底達しられないのを見ると、ここに彼はその科学的知識を利用して、一つの計画を立てた。この計画は検事の論告によると、殺人予備行為とせられている。しかし、博士は殺人を決心したのは、それよりずっと後であって、それはこの計画の成功から暗示ヒントを得たには相違ないが、この時は単に妻に不貞行為ありや否やを知るつもりに過ぎなかったと抗弁している。

 博士の計画はどう云う事であるかと云うと、博士の邸内で行われるであろう所の、玉代夫人と北田青年の会見の有様を、二人に何等気づかれる事なしに、科学機械によって記録しようと云うのだった。最初、当然彼の頭に浮んだのは写真の撮影だった。二人が不貞行為をしている所が写真に撮影出来れば、これくらい厳然たる証拠はない。しかし、この事には非常に困難が伴った。写真機械はこっそり備えつける事は出来ない事はないが、自働ママ的にこっそり撮影すると云う事が難かママしいのだった。

 秘密に備えつけた写真機は視野が非常に狭いから、撮影開始は後に述べるような方法で、彼等が室内に這入ると同時に行えるけれども、その時に果して彼等がレンズの範囲内に這入っているかどうか甚だ心許ない。又、只一枚の撮影では、果して欲している所のものが得られるかどうか疑わしいから、連続的の撮影、即ち、活動撮影機を使用する必要があるが、それには第一に困るのは光線の不足である。室内の光線では到底満足なものは得られない。事実、博士はこの方法を一二回試みたけれども、全然失敗に帰した。そこで彼は非常に感度の高いフィルムを作ろうと研究して見たけれども、これは一朝一夕に出来る仕事でなかったから、写真撮影は遂に断念するの他はなかった。

 かくて博士が智力を傾けて考案したのは、そうして成功したのは、発声フィルム法であった。(読者は博士が何故に探偵を使用し、或いは自ら彼女を尾行し或いは室内を覗いて、事の実否をただそうとせず、かく迂遠な骨の折れる方法をったかと疑われるかも知れない。検事の指摘したのもそこで、その故を以て、彼は博士の発声フィルム法を殺人予備行為と論じたのである。しかし、探偵を使用する事は無論博士として出来なかった事であろうし、彼の如き偏執狂的科学者が、自己の科学的知識によって、機械を使用して確乎ママたる証拠を得ようと試みるのは、充分あり得る事であろうと思う。これは単なる私の想像であるが、彼は後には妻の不貞行為の実否を質す事よりも、その方法を考案する事それ自身に、より以上の興味を持ったのではないかと思う。彼はその方法の考案に実に二年間を費し、満三年の後ようやく成功したのであるから)

 ここで私はちょっと発声フィルムの事を説明したいと思う。元より私は専門家ではなし、充分満足な満足は説明は出来ないし、ことによると飛んでもない錯誤を述べるかも知れぬ、しかし、今私は執筆を急いでいるので、生憎あいにく専門家に問い質す余裕を持たないから、その点は予め御諒解を願う事とする。

 発声フィルムに使用するフィルムは映画撮影に使用するフィルムと同一の性質のもので、セルロイドの薄い細長い板に、感光膜が塗布してあるもので、感光膜は光線に露出した後に、現像作用を行うと当てられた光線の強弱に比例して、明暗をその上に現わすものである。音響は諸君もよく御承知の如く空気の波動によって生ずるが、もし空気中に起る波の高低 (音波は所謂縦波と云って、海水の波とは少し性質を異にするが、分り易いために、横波の概念で説明する) が、そのま光線の強弱に変える事が出来たら、即ち音波の高い所は光が強く、音波の低い所は光が弱いと云う風に、つまり空気の波動の縞を、光線の縞に変える事が出来て、その光線を移動しているフィルムに当てたなら、現像の結果、フィルム上には、音響の強弱に全く対応して、明暗の縞が出来るに相違ない、これが発声フィルムである。音波の縞を光線の縞に変えるのには光電池フオトセルというのが仲介する事になっている。

 逆にフィルムを発声させるためには、フィルムに人造光線を当てて移動せしめる。すると、フィルム上の明暗の縞に濾過されて、その度合に対応した明暗の光線が光電池フオトセルに当る。光電池に当った光線の強弱に全く対応して、電気抵抗を変え、通過する電流に対応した強弱を生ぜしめる。こうして出来た断続的な電流は、既に電話機に於󠄁てよく知られている作用で、両端遊離した極く薄い雲母うんも板を振り動かし、先にフィルム上に印せられた音と同一の音を再現するのである。

 井川友一が彼の妻の品行を探るために、苦心の結果考え出したのは、この発声フィルムを使って、彼女の情人と考えられる青年との会話を記録しようと云うのにあった。この方法によるとアクションは遺憾ながら記録出来ないが、彼等の交す会話は一言一句、洩れなく記録する事が出来る訳である。

 井川博士は彼の留守中、二人が最も使用するであろう所の、彼の書斎を選んで、底に秘密の戸棚を作った。戸棚は暗室になっていて、そこに写声機 (映画撮影機と同一の機構を存するもの) 光電池その他一切の装置を置いた。

 諸君はどうしてこの写声機が、適当な機会に於󠄁て自働ママ的に動き出して、恰度うまく玉代夫人と北田青年の会話を記録する事が出来るであろうかと、疑われるだろう。それには井川博士も非常に頭を悩ました。そうして結局次のような巧妙な方法を発明したのである。

 書斎には大きな革張りの肘突椅子があった。それには堅牢な弾機バネが這入っていて、腰を下すと共にフワリとくぼんで、快い接触を感じさせるようになっている。無論これは普通にある椅子と別に変りのない事である。井川博士の着眼したのは、その椅子の弾機バネである。彼はその弾機バネに少しも分らないように細い針金を連続して、誰かが椅子に腰を下して弾機バネへこむと、それは恰度電鈴のボタンを押した時と同じ作用で、電路が閉じ、電流が戸棚の中の装置に伝わる事にした。

 即ち、書斎内の革張りの椅子に誰かが腰を下すと、忽ち電流が発声フィルム装置に伝わる。それと同時に暗室内にはパッと電燈がつき、同時にフィルムが廻転を始める。かくて装置は活動を開始し、暗室の外部に少しも目立たないように開いているマイクロホンから、書斎内で喋る言葉が内部に伝わり、音響は電流と化し、電流はその強弱に応じて、電燈を明滅せしめて、フィルム上に明喑を生ぜしめるのである。

 こう云う風に述べるとすこぶる簡単であるが、前にも述べた通り博士は、これを完成せしめるのに二年の年月を費やし、フィルム上に完全に目ざす二人の会話を印するまで、更に満一年の忍耐を要したのである。それまでに、彼は何十本となくフィルムを現像しては、失望落胆を繰り返したか分らない。

 最後に博士が完全に二人の会話の這入ったフィルムを得た時には、彼がどんなに喜悦したかけだし想像に余りある。彼は深夜妻の寝静まるのを待って、苦心惨儋の結果得たフィルムを静かに廻転しながら、フィルムの発する音声に耳を傾けて、悪魔的なえみをニタニタと現わした事であろう。もし私に有名な怪奇小説家戸川とがわ嵐浦らんぽの筆があったなら、この一事を精細に描写するだけで、読者諸君を戦慄せしめる事が出来るだろうと思う。

 さてかくの如くして得たフィルムにはどんな会話が吹込まれていたか。このフィルムは後に井川博士が証拠隠滅の目的で焼棄してしまったので、正確な所は分らない。しかし、博士自身の記述した所と、博士に利用せられて、このフィルムの発声を聞いた人間の話を綜合して見ると、大凡おおよそ次の如きものである。


――先生は相変らずうるさい事を云って迫りますか。

――ええ。

――でも、あなたは先生を愛しているんでしょう。

――いいえ、ちっとも。

――奥さん、近頃あなたも旨くなりましたね。そんな心にもない事を云って、私を喜ばそうとお思いになるのですか。

――そう云う風にお取りになるなら、お取り下すっても構いませんわ。あなたは私の心持をよく御存じの癖に。

――それが少しも分らないのですよ。例えばですね、あなたはもし私とこうやっている所を先生に見つかったら、どんな事になるとお思いですか。

――それは覚悟していますわ。

――それだけの覚悟があるなら、あなたは何故私の……(聴取れず)……しないんですか。

――(聴取れず)……男の方ってみんなそんなものなんでしょうかね。

――あたり前ですよ。それが男なんですから。

――(やや久しき間) あなた私を疑っていらっしゃるんですね。

――ええ、多少はね。

――まあ、(間)……私は馬鹿でした。あなた私を……(聴取れず)……しようとなさるんですね。

――いや、それは誤解です。私はね、あなたの云いなりになっているのが、少し堪え切れなくなって来たんですよ。

――私の云いなりに? いつあなたが私の云いなりになりました?

――云いなりになっているじゃありませんか。例えばですね、三年の長い間私は盗人のような屈辱を忍びながら、先生の留守をねらっては、そっとあなたに会いに来ているじゃありませんか、三年ですよ。考えて見て下さい。私達には何故もっと自由が与えられないのですか。

――あなたは、あなは……


 フィルムは未だ長々とあったにも係らず、彼等の会話はここで突然杜絶とぎれて、以下何事も記録に止めていなかった。この会話は井川博士を十分満足せしめる内容を持っていなかったけれども、博士は三年の日子を費した事業が成功したのと、不貞なる妻及び憎むべき北田が、博士を欺き得たと信じ、彼等の会話が巧妙な方法で、かくまで精細に記録されていようとは、夢にも知っていない事を考えると、ぞくぞくと嬉しくてたまらなかった。彼は何回となく、この発声フィルムを廻転して、彼等の会話を再生して、ニタニタと聴入つたのだつた。

 さて、博士は何回となくこのフィルムに聴入っているうちに、ふと彼は第二の恐るべき計画を思いついた (この事が度々述べた通り、検事が異議をとなえる所である) その計画は、北田を殺害し、この発声フィルムを利用して、その罪を妻の玉代に完全に背負わしてしまおうと云うのだった。ここに奇異とすべき事は、博士が北田に対して殺意を生じたのは、嫉妬による怨恨で、彼を憎むの余り考えついた事と、誰しも信じて疑わないであろうに、博士自身は全然それを打消して、偶々たまたま発声フィルムの成功によって、それを利用して巧妙な殺人が可能な事に考えつき、それを遂行する事自体に、限りなき興味を覚えたのだと主張している。博士の獄中日記の一節に、「検事ハ余ガ殺意ヲ生ジ、然ル後ソノ予備行為トシテ、彼等ノ会話ヲ発声フィルムニ写シ取リタルナリト、度々法廷ニ於󠄁テ論ジタリ。然レドモソレハ全然誤リタル観察ニシテ、余ニシテモシ最初ヨリ、殺意アランカ、必ズヤ他ニ実行容易ニシテ且ツ適当ナル方法ヲ選ビシナラン。余ノ殺意ハ全ク彼ノフィルムヲ得タル後ニ生ゼシモノニシテ、シカモ、余自身甚ダ奇異ノ感ヲ抱キシ如ク、ごうモ激怒憎悪或ハ嫉妬ノ念ヨリ起リシモノニ非ズ、只何人ニモ看破シ得ラレザル科学的殺人方法ノ発明ニ狂喜シ、ソレヲ直チニ実行ニ移シ以テ余ガ智ママ的快感ヲ充タサントセシモノニアルノミ。ソノ証左トナスベキハ、余ハあたかモ科学者ガソノ研究ノ為メ、兎、モルモットノ如キ動物ヲ実験ニ供スル時ト、全ク同一ノ気持ニテ、頗ル冷静ニ、且ツ何等悔恨ノ情ヲのこス事ナク、完全ニ殺人ヲ遂行スルコトヲ得タル事これナリ」とあった。

 博士の云う何人にも看破し得られざる科学的殺人方法と云うのは、彼は先ず北田を彼の書斎内で殺害し、これを室内に残して、彼はそっと外出して、友人或は門下生のうち、適当な人間を連れ来り、書斎の外にたたずましめる。それと同時に書斎内に、ひそかに装置した発声フィルムを、自働ママ的に廻転せしめる。そうすると、書斎の外にいる人間は、あたかも室内で玉代夫人と北田青年が相対して会話をしているものと信ずるであろう。かくて博士は完全に疑いから逃れる事が出来る。

 博士は結果を一層効果的にするために、更に一、二の工夫をした。即ち博士は北田青年の声色こわいろを使って、あたかも彼を殺害したのは玉代であるような言葉をフィルムに吹込み、それを先に得たフィルムに継ぎ合せた。博士は声色には自信があったし、室外から最後の断末魔たる悲壮な断続的な言葉を洩れ聞くのであるから、決して気づかれる恐れはないと信じた。次に彼は北田青年の殺害されている場面に玉代夫人が恰度居合せる方法を考案した。即ち、発声フィルムが最後に近づき、北田が (即ち博士の声色) 玉代夫人に殺された事を叫ぶと同時に、室外に立聴いていた博士と博士の友人が、書斎内に駈け込むと、北田の死体を前にして、玉代夫人が茫然と突立っていると云う方法である。

 この方法を考案するのに、博士はかなり苦心したが、考えつくと、彼は非常に狂喜した。この考案が、博士をしてその犯罪を実行するのに、一層興味を持たしめたものと考えられる。その考案と云うのは、彼は先ず書斎の隣室に妻を幽閉する。そうして、書斎内に北田をおびき入れて殺害する。隣室の出来事であるから、無論彼女に博士が何をしているか分るに違いない。彼女は驚き悲しみ、歎き狂い、室内を暴れ廻るであろう。(この彼女に苦痛を与えるという事が博士を喜ばしたのだ) さて、北田の斃れたのを見すまして、博士は室外に出て、計画通り友人を連れ来り、適当な時に予め作った電気ボタンを押す事によって、発声フィルムを廻転させる。フィルムが終ると同時に、彼は再び別の釦を押して、妻の幽閉してある部屋と書斎との間の扉を開ける、(この装置は諸君はしばしば郊外電車の自働式開閉扉について見られる事と信ずる) 玉代は長い間隣りの部屋に出たいともがいていたのだから、扉が開くと同時に飛出して、北田の斃れている処に駈け寄るに違いない。恰度そこをねらって彼は友人と書斎内に這入る。これで玉代が北田を殺したのだと信じないものがあるだろうか。

 博士は着々として実行の準備を整えた。彼は殺害の方法を女性らしく見せるため、毒殺を選ぶ事にした。或日の午後、彼は予め妻を隣室に閉じ込めた。彼女は何気なく隣室に這入ったが、急にガラガラと扉がしまったので、ハッと顔色を変えたがもう遅かった。やがて博士は北田京一郎を書斎に伴って来た。そうして手ずからウイスキーソーダをコップに盛って、彼にすすめた。北川は何の予感もなく、博士の差出したコップを取ってグットママ一飲みに飲んだ。そうすると、博士はカラカラと笑って、北田及び隣室に閉じ込めてある妻に聞かせるために云った。

「ハハハハ、北田君、君は恐るべき毒薬を飲んだのだよ。オイ、玉代、北田君は俺に毒薬をまされたよ。お前達は俺を馬鹿だと思っていたろう。けれども、俺はお前達の考えているほど、お人好しではなかったよ。俺の云う事が本当だと云う事が、今ようやくお前達に分った訳なんだよ」

 北田は恐ろしさと、苦痛と、憤激とにじっと聴いていられないような、物凄い呻き声を立てたが、暫くしてパタリと斃れた。玉代は隣室で狂気のように荒れ狂った。

 井川は北田がすっかり縡切こときれたのを見済すと、直ぐに室外に出た。そうしてかねて計画して置いた通り、近所に住っていた友人の高木と云う男と、その細君を引張り出し、是非自分の家に来てくれと云った。高木夫妻は博士の異状ママに興奮した様子と、只ならぬ剣幕におそれて、取るものも取り敢ず博士邸に同道した。博士は二人を引張るようにして、書斎の前に連れて行った。書斎の中から男女の会話が洩れ聞えた。

 ………………

 ――あなたは私を疑っていらっしゃるんですね。

 ――ええ、多少はね。

 ――まあ、(間) ……私は馬鹿でした。あなたは私を……(聴取れず)……しようとなさるんですね。

 ………………

 書斎の内から洩れ聞えて来た会話が、博士夫人と北田青年だと云う事が分ると、博士の平素を知っている高木夫婦は、サッと顔色を変えて、無言のまま互に顔を見合した。

 内の会話はドンドン進行して行った。やがて、コツコツと、グラスの触れ合うやうな音がしたが、(無論これは博士がフィルムに吹き込んで置いたのである) 突然、北田の叫ぶ声がした。

 ――奥さん、あ、あなたは、わ、私に毒をませましたね。うむ、苦しい。うぬ、淫帰! き、貴様は俺を殺そうと云うのだな。うむ。苦しい、うむ。……


 物凄い唸り声が跡絶とだえると、忽ち部屋の中はし—んとした。高木夫婦は余りの惧ろしさに、ひしと抱き合ったまま、ブルブル顫えていた。博士は計画中の最弱点であった声色の難関を突破して、立聴いている二人が北田の声である事を少しも疑っていないのを見ると、思わずニヤリとした。(獄中記に依る) 残る問題は妻を幽閉した部屋の扉を開ける事だった。

 博士は仕切の扉を開けるボタンを押した後、血相を変えたように見せかけて、部屋の内に飛込んだ。高木夫婦もむなくその後に続いた。部屋の中では取乱した姿の玉代夫人が、床の上に斃れている北田の死骸を抱き上げて、何やら訳の分らぬ事を口走っていた。

 玉代夫人は直ちに警察に同行された。ようやく気を落着けた彼女は極力否定して、夫の所為だと云い張ったが、無論取り上げられなかった。誰一人博士を疑う者はなかった。

 犯行の翌日、博士は只一人書斎で北叟ほくそみながら、証拠になるべき発声フィルムを焼き棄てていた。彼は非常に得意だった。と同時に余りに事が易々と行われて、爪の垢ほどの疑いをも彼に懸けるものがないので、反って張合ないほどだった。彼は世間の人間がことごとく馬鹿に見えた。自分がこうこう云う巧妙な手段でやった事だぞと云う事を、大きな声で云って見たい気持だった。

 所へ、一人の刑事が訪ねて来た。無論彼は博士を疑って来たのではなかった。玉代が却々なかなか頑強で容易に自白しないので、当時の状況をも一度委しく調べに来たのだった。博士は彼を例の革張の椅子に腰を掛けさせ、ともすれば浮わついて来る調子を努めて押えて、妻と北田の関係や昨日の出来事を、出来るだけ暗い顔をしながら、刑事に話して聞かせた。刑事は謹聴した。

「そう云う訳で、あれはとうとう北田を殺す気になったのでしようが――」

 井川はよどみなく述べ立てたが、この時に今まで謹聴していた刑事が、突然眼を丸くして、口を大きく開き、まるで幽霊でも見た人のように、博士の肩越しに、じっと何物かを見据えた。博上は驚いて振り向いたが、見ると隣室との境の扉がソロリソロリと生物のように、独りで開き始めていた!

 博士はハッと顔色を変えた。そうして矢庭やにわに開きかけている扉に飛びついて、夢中になって引き戻そうとした。が、それは無駄な努力だと分ると、彼は泣笑いのような渋面を作りながら叫んだ。

「畜生!ボタンを押した奴は誰だッ!」

 後で調べた所によると、室の外の壁に容易に分らないような場所に装置してあった隠し釦に触れたのは、玉代夫人の愛猫らしいと云う事だった。愛猫は別に何の考えもなく、壁に爪を立てたのだろうが、それが偶然釦に触れたのだった。かくして理学博士井川友一の巧妙極まる奸計を看破したのは一匹の猫であった。

(「文学時代」昭和四年七月号)

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