発声フィルム
発声フィルム
私は理学博士井川友一の犯罪を、彼の心理過程や、犯罪動機や、科学的な計画について、小説風に潤色せず、近頃流行の実話風に記述したいと思う。私にはよくは分らないのだけれども、小説は作者の把持する主張や、作者の意図或いは空想を、多少読者に強いようとする傾きがあるに反し、実話は事実以外に亘る事を出来るだけ極限し、読者に想像の自由を与え、判断を加える余他を残す所に特徴があると思う。
さて、理学博士井川友一は、彼の犯罪が発覚するまでには、多少偏執的な所はあるが、それは学者によくあり勝ちの事であり、一般からは謹厳温厚な少壮物理学者として尊敬せられ、彼の妻玉代を除く外は誰一人彼を変態性慾者だと知る者はなかった。即ち、彼の妻玉代は唯一人の、そうして最も深く彼の変態的な事を知っている婦人であった。この事が悲劇を起す大きな原因である事は、後に思い合せられたのだった。
井川博士を知る人達は誰でも彼の家庭を羨まぬ者はなかった。表面に現われる限りに於ては、妻の玉代は温良貞淑そのものであり、博士は品行方正そのものであり、殊に博士が玉代夫人を溺愛していた事は、反ってそれが、時に博士の唯一の非難となって現われる位であった。博士がいかに夫人を溺愛していたかと云う一例は、彼が勤務時間以外いついかなる所へも夫人を伴って行った事は有名な話で、未だに一つ噺にされる事は、某雑誌社の通俗科学座談会に出席した時にまで、夫人を同伴したと云う事だ。又、博士の犯罪が発覚した後、或る一人の門下生は、彼がかつて博士を訪ねた時に、夫人は風邪の気味で寝ていたが、博士が湯殿で何かしておられるので、何の気なしに覗いて見るに、博士は夫人の
私は博士とは研究上の事で、度々会って話した事があるが、玉代夫人とは殆ど言葉を交した事はない。只、非常な美人で、いつも淋しげにニッと微笑んでいる婦人である位の事しか知らない。それに夫人は現存中でもあるし、委しい事を述べるのを
さて、破錠は彼等が結婚後約十年、博士が三十八、玉代夫人が三十二の年にやって来た。(彼等には子供はなかった) 破綻の原因は玉代夫人が、彼女よりも二つ三つ年下の、北田京一郎と云う青年と親しくなったと云う事に始まる。
彼等がどの程度に親しくなったかと云う事は、現存中の玉代夫人の名誉にも係わるし、且つ彼女が口を
しかし、博士の受けた苦痛の大きさは、事実不貞行為があったか、又は単なる彼の邪推に過ぎなかったか、に係わらず、全く同一であった。と云うのは玉代夫人が真実を語っていると云う事を信じない限り、彼は全然両者を区別する事が出来ないからである。博士は夫人を溺愛していて、彼女をすっかり信頼していただけに、彼女が北田青年と少し親しくし過ぎると云う事を悟った時には、両者の関係は余程進んでいたのだった。
博士が両者の関係に気づき始めた時に、いかに焦慮したか、彼は獄中で次のような事を書いている。
「――余ハ有リ得べカラザル事ニ逢着シ、茫然自失セリ。余ハ余ノ神聖ナルべキ妻ヲ疑ウト云ウ事ソレ自身ニ絶大ノ苦痛ヲ覚エヌ。然レドモ、余ハ妻ノ不貞行為ニツキ疑惑ヲ生ジ始メタル日ヨリ、以前ニ溯リ、或イハ以後ノ出来事ニツキ考エ合スニ、事実ハ益々確定的トナレリ。余ハ澳悩焦慮日夜悶々ニ堪エズ。遂ニ病ト称シテ客ヲ避ケ、
博士はただ
問 被告ハ参考人ニソノ抱イテイル疑惑ニツキ、何カ質問ヲシナカッタカ。
答 ハッキリデハアリマセンガ、ソンナ事ヲ云イマシタ。私ハ無論打消シマシタガ、ドウシテモ信ジテクレマセンデシタ。
問 ソレハー度カ、ソレトモ度々カ。
答 度々アッタヨウニ記憶シテイマス。
さて、妻の行為に不貞の疑惑を抱いて、日夜煩悶していた博士は、どうかしてその実証を握ろうと肝胆を砕いた。そうして普通の手段では到底達しられないのを見ると、ここに彼はその科学的知識を利用して、一つの計画を立てた。この計画は検事の論告によると、殺人予備行為とせられている。しかし、博士は殺人を決心したのは、それよりずっと後であって、それはこの計画の成功から
博士の計画はどう云う事であるかと云うと、博士の邸内で行われるであろう所の、玉代夫人と北田青年の会見の有様を、二人に何等気づかれる事なしに、科学機械によって記録しようと云うのだった。最初、当然彼の頭に浮んだのは写真の撮影だった。二人が不貞行為をしている所が写真に撮影出来れば、これくらい厳然たる証拠はない。しかし、この事には非常に困難が伴った。写真機械はこっそり備えつける事は出来ない事はないが、自働〔ママ〕的にこっそり撮影すると云う事が難か〔ママ〕しいのだった。
秘密に備えつけた写真機は視野が非常に狭いから、撮影開始は後に述べるような方法で、彼等が室内に這入ると同時に行えるけれども、その時に果して彼等がレンズの範囲内に這入っているかどうか甚だ心許ない。又、只一枚の撮影では、果して欲している所のものが得られるかどうか疑わしいから、連続的の撮影、即ち、活動撮影機を使用する必要があるが、それには第一に困るのは光線の不足である。室内の光線では到底満足なものは得られない。事実、博士はこの方法を一二回試みたけれども、全然失敗に帰した。そこで彼は非常に感度の高いフィルムを作ろうと研究して見たけれども、これは一朝一夕に出来る仕事でなかったから、写真撮影は遂に断念するの他はなかった。
かくて博士が智力を傾けて考案したのは、そうして成功したのは、発声フィルム法であった。(読者は博士が何故に探偵を使用し、或いは自ら彼女を尾行し或いは室内を覗いて、事の実否を
ここで私はちょっと発声フィルムの事を説明したいと思う。元より私は専門家ではなし、充分満足な満足は説明は出来ないし、ことによると飛んでもない錯誤を述べるかも知れぬ、しかし、今私は執筆を急いでいるので、
発声フィルムに使用するフィルムは映画撮影に使用するフィルムと同一の性質のもので、セルロイドの薄い細長い板に、感光膜が塗布してあるもので、感光膜は光線に露出した後に、現像作用を行うと当てられた光線の強弱に比例して、明暗をその上に現わすものである。音響は諸君もよく御承知の如く空気の波動によって生ずるが、もし空気中に起る波の高低 (音波は所謂縦波と云って、海水の波とは少し性質を異にするが、分り易いために、横波の概念で説明する) が、そのま光線の強弱に変える事が出来たら、即ち音波の高い所は光が強く、音波の低い所は光が弱いと云う風に、つまり空気の波動の縞を、光線の縞に変える事が出来て、その光線を移動しているフィルムに当てたなら、現像の結果、フィルム上には、音響の強弱に全く対応して、明暗の縞が出来るに相違ない、これが発声フィルムである。音波の縞を光線の縞に変えるのには
逆にフィルムを発声させるためには、フィルムに人造光線を当てて移動せしめる。すると、フィルム上の明暗の縞に濾過されて、その度合に対応した明暗の光線が
井川友一が彼の妻の品行を探るために、苦心の結果考え出したのは、この発声フィルムを使って、彼女の情人と考えられる青年との会話を記録しようと云うのにあった。この方法によるとアクションは遺憾ながら記録出来ないが、彼等の交す会話は一言一句、洩れなく記録する事が出来る訳である。
井川博士は彼の留守中、二人が最も使用するであろう所の、彼の書斎を選んで、底に秘密の戸棚を作った。戸棚は暗室になっていて、そこに写声機 (映画撮影機と同一の機構を存するもの) 光電池その他一切の装置を置いた。
諸君はどうしてこの写声機が、適当な機会に於󠄁て自働〔ママ〕的に動き出して、恰度
書斎には大きな革張りの肘突椅子があった。それには堅牢な
即ち、書斎内の革張りの椅子に誰かが腰を下すと、忽ち電流が発声フィルム装置に伝わる。それと同時に暗室内にはパッと電燈がつき、同時にフィルムが廻転を始める。かくて装置は活動を開始し、暗室の外部に少しも目立たないように開いているマイクロホンから、書斎内で喋る言葉が内部に伝わり、音響は電流と化し、電流はその強弱に応じて、電燈を明滅せしめて、フィルム上に明喑を生ぜしめるのである。
こう云う風に述べると
最後に博士が完全に二人の会話の這入ったフィルムを得た時には、彼がどんなに喜悦したか
さてかくの如くして得たフィルムにはどんな会話が吹込まれていたか。このフィルムは後に井川博士が証拠隠滅の目的で焼棄してしまったので、正確な所は分らない。しかし、博士自身の記述した所と、博士に利用せられて、このフィルムの発声を聞いた人間の話を綜合して見ると、
――先生は相変らずうるさい事を云って迫りますか。
――ええ。
――でも、あなたは先生を愛しているんでしょう。
――いいえ、ちっとも。
――奥さん、近頃あなたも旨くなりましたね。そんな心にもない事を云って、私を喜ばそうとお思いになるのですか。
――そう云う風にお取りになるなら、お取り下すっても構いませんわ。あなたは私の心持をよく御存じの癖に。
――それが少しも分らないのですよ。例えばですね、あなたはもし私とこうやっている所を先生に見つかったら、どんな事になるとお思いですか。
――それは覚悟していますわ。
――それだけの覚悟があるなら、あなたは何故私の……(聴取れず)……しないんですか。
――(聴取れず)……男の方ってみんなそんなものなんでしょうかね。
――あたり前ですよ。それが男なんですから。
――(やや久しき間) あなた私を疑っていらっしゃるんですね。
――ええ、多少はね。
――まあ、(間)……私は馬鹿でした。あなた私を……(聴取れず)……しようとなさるんですね。
――いや、それは誤解です。私はね、あなたの云いなりになっているのが、少し堪え切れなくなって来たんですよ。
――私の云いなりに? いつあなたが私の云いなりになりました?
――云いなりになっているじゃありませんか。例えばですね、三年の長い間私は盗人のような屈辱を忍びながら、先生の留守を
――あなたは、あなは……
フィルムは未だ長々とあったにも係らず、彼等の会話はここで突然
さて、博士は何回となくこのフィルムに聴入っているうちに、ふと彼は第二の恐るべき計画を思いついた (この事が度々述べた通り、検事が異議を
博士の云う何人にも看破し得られざる科学的殺人方法と云うのは、彼は先ず北田を彼の書斎内で殺害し、これを室内に残して、彼はそっと外出して、友人或は門下生のうち、適当な人間を連れ来り、書斎の外に
博士は結果を一層効果的にするために、更に一、二の工夫をした。即ち博士は北田青年の
この方法を考案するのに、博士はかなり苦心したが、考えつくと、彼は非常に狂喜した。この考案が、博士をしてその犯罪を実行するのに、一層興味を持たしめたものと考えられる。その考案と云うのは、彼は先ず書斎の隣室に妻を幽閉する。そうして、書斎内に北田を
博士は着々として実行の準備を整えた。彼は殺害の方法を女性らしく見せるため、毒殺を選ぶ事にした。或日の午後、彼は予め妻を隣室に閉じ込めた。彼女は何気なく隣室に這入ったが、急にガラガラと扉が
「ハハハハ、北田君、君は恐るべき毒薬を飲んだのだよ。オイ、玉代、北田君は俺に毒薬を
北田は恐ろしさと、苦痛と、憤激とにじっと聴いていられないような、物凄い呻き声を立てたが、暫くしてパタリと斃れた。玉代は隣室で狂気のように荒れ狂った。
井川は北田がすっかり
………………
――あなたは私を疑っていらっしゃるんですね。
――ええ、多少はね。
――まあ、(間) ……私は馬鹿でした。あなたは私を……(聴取れず)……しようとなさるんですね。
………………
書斎の内から洩れ聞えて来た会話が、博士夫人と北田青年だと云う事が分ると、博士の平素を知っている高木夫婦は、サッと顔色を変えて、無言のまま互に顔を見合した。
内の会話はドンドン進行して行った。やがて、コツコツと、グラスの触れ合うやうな音がしたが、(無論これは博士がフィルムに吹き込んで置いたのである) 突然、北田の叫ぶ声がした。
――奥さん、あ、あなたは、わ、私に毒を
物凄い唸り声が
博士は仕切の扉を開けるボタンを押した後、血相を変えたように見せかけて、部屋の内に飛込んだ。高木夫婦も
玉代夫人は直ちに警察に同行された。ようやく気を落着けた彼女は極力否定して、夫の所為だと云い張ったが、無論取り上げられなかった。誰一人博士を疑う者はなかった。
犯行の翌日、博士は只一人書斎で
所へ、一人の刑事が訪ねて来た。無論彼は博士を疑って来たのではなかった。玉代が
「そう云う訳で、あれはとうとう北田を殺す気になったのでしようが――」
井川は
博士はハッと顔色を変えた。そうして
「畜生!
後で調べた所によると、室の外の壁に容易に分らないような場所に装置してあった隠し釦に触れたのは、玉代夫人の愛猫らしいと云う事だった。愛猫は別に何の考えもなく、壁に爪を立てたのだろうが、それが偶然釦に触れたのだった。かくして理学博士井川友一の巧妙極まる奸計を看破したのは一匹の猫であった。
(「文学時代」昭和四年七月号)
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