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家宣は、白石の意見をいれて、宮家の御創立を奏上しましたし、やがて將軍吉宗は、幕府の建物に御所をまねたところがあつたので、これを取り除いて、つつしみの心をあらはしました。その後、天明年間には、京都の大火で、おそれ多くも御所が燒けましたので、時の老中松平定信は、將軍の命を受けて、りつぱにこれを御造營申し上げました。

しかし、その幕府も、自分の勢を張りたいために、朝廷に對し、ずゐぶん申しわけないこともしてゐるのです。京都所司代といふ役目を置き、こまごまと規則を作つて、朝廷の御政治や御日常に、さし出がましいふるまひに及びました。おそれ多くも朝廷では、寬永三年、後水尾天皇が二條城へお出ましになつて以來、二百三四十年の間、行幸の御事も、御心のままにはならない御有樣でありました。