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武力戰ではかなはないと見たか、明は、ふたたび行長を通して、たくみに講和を申し出ました。秀吉は、これを許し、ひとまづ全軍に引きあげを命じました。ところが、明の使節が持つて來た國書の中には「特に爾を封じて日本國王と爲す」といふ、無禮きはまる文句がありました。秀吉は大いに怒つて、その使ひを追ひかへし、再征の命令をくだしました。

慶長二年、ふたたび行長・淸正らが先手となつて朝鮮へ渡り、たちまち南部の各地を從へました。そのうち、秀吉は病にかかり、慶長三年八月、つひに六十三歳でなくなりました。遺言によつて、出征の諸將は、それぞれ兵をまとめて歸還しました。この時、島津義弘は、泗川の戰で、數十倍の明軍を擊ち破り、前後七年にわたる朝鮮の役の最後をかざりました。