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二百年の間、三十數回も使節を送つて來ました。その使節の一行は、今のポシエット灣または清津せいしん附近から、敦賀つるがへ向かふ航路を取り、日本海の荒波をしのいで來たのであります。朝廷では、いつも使節をあつくおもてなしになり、またわが國からも、答禮たふれいの使節をおつかはしになりました。

このやうに、奈良の御代御代には、東亞の國々がしたしく交つて、共榮きようえいの喜びを分つてゐました。しかし、わが國は、その間でも、決して國のまもりをおろそかにしなかつたのです。

喜び勇んで
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喜び勇んで

都や地方の役人たちは、御代の榮えをことほぎながらも、いつたん事があれば、いつさいを捨てて、大君のために死ぬ覺悟をきめてゐました。大伴氏・佐伯さへき氏のやうに「海行かばづくかばね、山行かば草むす屍、大君のへにこそ死なめ。」と、世々にいひ傳へいひ續けて來た武人の家もありました。かうした氣持は、ただに文武の役人だけでなく、國民全體の心でありました。

筑紫つくしの防備に當る兵卒の防人にも、忠義の心は滿ちあふれてゐました。かれらは、生まれ故鄕の東國から、父母に分れ妻や子を置いて、はるばる筑紫へくだつて行きました。二度と歸らぬ覺悟をきめ、大君のために、喜び勇んで旅立つたかれらは、來る日も來る日