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うとする悪意があるのではないらしく、悉く西村と同じやうに、自分が犠牲となつて沼倉を救はうとする決心が溢れて見えた。

「よし、それなら皆立たせてやる!」

貝島は癇癪と狼狽の余り、もう少しで前後の分別もなく斯う怒号するところであつた。若しも彼が年の若い、教師としての経験の浅い男だつたら、きつとさうしたに違ひないほど、彼は神経を苛立たせた。が、そこはさすがに老練を以て聞えて居るだけに、まさか尋常五年生の子供を相手にムキにならうとはしなかつた。それよりも彼は、沼倉と云ふ一少年が持つて居る不思議な威力に就いて、内心に深い驚愕の情を禁じ得なかつたのである。

「沼倉が悪いことをしたから、先生はそれを罰しようとして居るのに、どうしてそんなことを云ふのですか。一体お前たちはみんな考が間違つて居るのです」

貝島はさも当惑したやうに斯う云つて、仕方なく沼倉を懲罰するのを止めてしまつた。

その日は一同へ叱言を云つて済ませたやうなものゝ、以来貝島の頭には、沼倉の事が一つの研究材料として始終想ひ出されて居た。小学校の尋常五年生と云へば、十一二歳のがんない子供ばかりである。親の意見でも教師の命令でもなか云ふ事を聴かないで暴れ廻る年頃であるのに、それが揃つて沼倉を餓鬼大将と仰ぎ、全級の生徒が殆ど彼の手足のやうに動いて居る。沼倉が来る前に餓鬼大将として威張り散らして居た西村は勿論のこと、優等生の中村だの鈴木だのまでが、おそれて居るのか心服して居るのか、兎に角彼の命令を遵奉して、此の間のやうに沼倉の身に間違ひでもあれば、自ら進んで代りに体罰を受けようとする。沼倉にどれ程強い腕力や胆ツ玉があるにもせよ、彼とてもやつぱり同年配の鼻つたらしに過ぎないのに、「先生が斯う云つた」と云ふよりも、「沼倉さんが斯う云つた」と云ふ方が、彼等の胸には遥かに恐ろしくピリツと響くらしい。貝島は永年の間小学校の児童を扱つて、随分厄介な不良少年や、強情な子供にてこ擦つた覚えはあるが、此れ迄にまだ沼倉のやうな場合を一遍も見た事はなかつた。その子がどうして斯く迄も全級の人望を博したのか、どうして五十人の生徒をあれ程みごとに威服させたのか、それはたしかに多くの小学校に於いて、余り例のない出来ごとであつた。

全級の生徒をしようふくさせて手足の如く使ふと云ふこと、単にそれだけの事は、必ずしも悪い行ひではない。沼倉と云ふ子供にそれだけの徳望があり、威力があつてさうなつたのならば、彼を叱責する理由は毛頭もない。たゞ貝島が怖れたのは、彼が稀に見る不良少年、―――とても一と筋縄では行けないやうな世にも恐ろしい悪童であつて、その為めに級中の善良な分子までが、心ならずも圧迫されて居るのではないだらうか、追ひと自分の勢力を利用して、悪い行為や風俗を全級に流行させたり教唆したりしないだらうか、―――と云ふ事だつた。あれだけの人望と勢力とを以て、級中に悪い風儀をはやらせられたら其れこそ大事件であると思つた。しかし、貝島は、幸ひ自分の長男の啓太郎が同じ級の生徒なので、それとなく様子を聞いて見ると、だん彼の心配の杞憂に過ぎない事が明かになつた。

「沼倉ツて云ふ子は悪い子供ぢやないんだよ、お父さん」

啓太郎は父に尋ねられると、暫くモヂモヂして、それを云つていゝか悪いかと迷ひながら、ポツリポツリと答へるのであつた。

「さうかね、ほんたうにさうかね、お前の云付いつけ口を聞いたからと云つて、何もお父さんは沼倉を叱る訳ぢやないんだから、ほんたうの事を云ひなさい。此の間の修身の時間の事は、あれは一体どうしたんだ。沼倉は自分で悪い事をして置きながら、野田に罪をなすり付けたりしたぢやないか」

すると啓太郎は下のやうな弁解をした。―――あれは成る程悪い行ひには違ひない。けれども沼倉は格別