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立負持來りて、膠付なとして、わひつゝも立置ぬとかたりける、あさましき有さま也、天下の五嶽なと、かくのごとくなり果ぬる事やあると、嘆息やみかたし、又次日ハ建長寺に入、佛國禪師を拜す、正統庵ハ夕に扉をも閉す、人住されば夜ハけだものゝ栖と成て見えたり、いかにしてかゝる「樣に」(故そィ)と問へハ、所領庄園いさゝかもなけれハ、兒孫末派ハありなからも、我私の庵をさへ守りかねたる事なれハ、本菴をいかにもしかたくてと語る、常寂の塔も風扉をひらき、さし入ものハ夜半の月より外ハあらし、禪師そのかみ、
月ハさし水鷄ハ叩く槇の戶をあるし顏にてあくる山風
と詠し給ひけるハ、今見れハ道を讖し給ふにこそとおほゆィ)和尙の塔也、香拜して歸りぬ、一老僧後に宿坊に尋られ、古今の物かたり共有し、次の日ハ龜谷山壽福寺に入、逍遙院も今ハなし、逍遙池ハあやにくに、水かれて草靑し、入定の石龕荆棘かこみ、藜藿