立負持來りて、膠付なとして、わひつゝも立置ぬとかたりける、あさましき有さま也、天下の五嶽なと、かくのごとくなり果ぬる事やあると、嘆息やみかたし、又次日ハ建長寺に入、佛國禪師を拜す、正統庵ハ夕に扉をも閉す、人住されば夜ハけだものゝ栖と成て見えたり、いかにしてかゝる「樣に」(故そィ)と問へハ、所領庄園いさゝかもなけれハ、兒孫末派ハありなからも、我私の庵をさへ守りかねたる事なれハ、本菴をいかにもしかたくてと語る、常寂の塔も風扉をひらき、さし入ものハ夜半の月より外ハあらし、禪師そのかみ、
と詠し給ひけるハ、今見れハ道を讖し給ふにこそとおほゆるさま〳〵色とり繪かきたる棟うつはりを雨にくたし、現容よくにん事を思ひ、志をきさみし尊像も、今ハ露雫にうるほふ、後門の方をみれハ、から樣にきさみなしたる曲る、くつれころびてあれとも、たれおさむる人もなし、かやうにもすたれはつるやとなけく外なし、いさゝか香の資を奉りしも、たれにかくいふへき人もなし、門派の人をたつねて授て歸りし、禪居庵ハ大鑑禪師淸拙(ィ)和尙の塔也、香拜して歸りぬ、一老僧後に宿坊に尋られ、古今の物かたり共有し、次の日ハ龜谷山壽福寺に入、逍遙院も今ハなし、逍遙池ハあやにくに、水かれて草靑し、入定の石龕荆棘かこみ、藜藿させり、方丈も今ハなし、殘りたる一院に、いさゝか開山塔をかまへて、香燈を備ふ、千光國師の尊像儼然たり、佛殿も亦かた計の体也、天地只一僧寂寞の扉をとちて音もせす、開山塔をハ光明院ときけと、光りや地に落けんと思ふ計り也、爰を出てむかふの山に、報國寺