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承應遺事

後光明帝御諱紹仁後水尾帝第四皇子なり寬永癸酉三月十二日降誕し給ふ同壬午十一月十五日太子に立給ひ同癸未九月廿七日御元服同年十一月三日御受禪同十一月廿一日帝位に即給ふ翌年元を正保と改らる御年十二也御幼稚より御學問を好ませ給ひ御年十五にこへ給ひてハ學術の正邪のわいためをしろしめし純一に聖德をつとめさせたまへり聖經を解說するに漢唐の說ハ粗淺なり宋の程朱の說こそ理義精明にて至公至正を盡し萬世の模範ならむ自今以後君臣皆必程朱の說に從ひ學問を勵むへき旨みことのりありけり

和歌ハ吾邦の風なれハ其風の正しきを貴ふへし聖人の道を知て身の行ひ正しからハよめる和歌の風も正しくて人道のたすけとなるへし必聖人の道を本とすへしと仰ありけり此御言を上皇きこしめされ御稱美ありしとなん

源氏物語の姪媒なるをもてはやせることき人道に害ある書見るへからすとてしりそけ給へり

ある日上皇へ朝覲し給ひ詩の御製和歌の御製ありけり上皇ハ和歌に長しさせ給ひ御賞玩も深かりけれハ其後百首和歌上皇へ進られけり上皇御覽せられ天才のすくれさせ給ふを御感ありてよろこはせ給ひけるとなん

謝上蔡の語に克己須從性偏難克處克將去とあるを稱し給ひ常に御工夫を用させ給ひけり御生質雷をおそれ給ふにこれも性偏なる處よりかくハあるとて雷はけしかりける時御簾のも