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ニ考ヘ而シテ後始メテ是非得失ヲ論斷セハ大過ナキニ庶幾ランカ
大憲章ハ千二百十五年ジヨン王治世第十七年ニ發布セラレタリジヨン王卽位ノ後屢〻軍ヲ起シテ兵ヲ外ニ出シ常ニ敗ヲ取リ遂ニ其ノ故領ノーマンデー公國ヲ失フニ至レリ此ノ如ク軍旅常ニ起ルヲ以テ諸侯ハ奔命ニ疲レ困弊ヲ極メ從軍ヲ厭フヲ以テ王ハ外國ノ傭兵ヲ以テ軍隊ヲ組織シ以テ外征ニ用ヒ之ニ支給スル巨額ノ費ヲ要スルヲ以テ租稅ハ年々重キヲ加フルノミナラス或ハ强テ獻納金ヲナサシムル等古來ノ慣習法規ニ違フノ行爲アリ此ニ於テ千二百十三年カンタベリー大僧正ラングトン大法官フㇶツ、ピーター等主唱者トナリテ諸侯僧侶ノ集會ヲ開キ當時ノ弊政ヲ改革スルノ策ヲ議シヘンリー一世王ノ法典ヲ基礎トシ之ニ依リテ以テ當時ノ弊政改革ヲ要請スルニ決シ千二百十五年一月六日諸侯同盟シテ兵ヲ率ヰテロンドンニ集リ改革案ヲ奉呈シ王ノ決答ヲ要求セリ然ルニ王ハ熟考ノ爲メ數月ノ猶豫ヲ望マレ同盟諸侯モ之ニ從ヒタルニ其ノ間ニ王ハ種々ノ手段ヲ以テ此ノ改革案ヲ撤囘セシメント試ミラレタレトモ行ハレス旣ニ期限ニ達シタレハ同盟諸侯ハ僧侶ト連合シテ神威軍ヲ組織シ五