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ず、

○新上橋、高麗町橋、武之橋、 新上橋は、西田橋より上流にあり、西田村に屬す、高麗町橋は、西田橋の下流、武之橋は高麗町橋の下流に在りて、共に武村に屬す、此三橋も、皆神月川に架す、高麗町は、其橋南の地名なり、慶長の年、歸降の朝鮮人、鹿兒島の海岸に著せし者、當時此地に居る、故に今に高麗町の 名あり、伊集院苗代川の條を照して其詳を知るべし、

新橋府城の東北 坂本村に屬す、府下潮浸の壕に架す、扶欄橋にして、褐銅の護朽に、慶長十七年、壬子、六月吉日と銘す、此橋と西田橋、府下南北の要口なり、

孝行橋府城の東北 坂本村、府下濱町と向築地との間、運渠あり、凡そこれに四橋を架す、孝行橋其一なり、舊板橋なり、天保十一年石橋となし、下一圓洞を作る、此運渠、南は海に達し、北は棈木川の下流に通ず、潮出入して、舟船運漕せり、此孝行橋は、孝行正右衛門に由れる名なり、正右衛門母に事へて極めて孝状あり、懈らざること三十年、一日のごとし、名を州里に著はす、事遂に官に聞して、寶永四年、丁亥、十月二日、特に銭三万と向築地に宅地一區を賜て、褒賞せらる、そのころ此橋を起さる、逎ち孝行橋の名あり、正右衛門、享保四年、甲辰、四月死す、法名孝譽養元居士と號す、不斷光院母の瑩側に葬り、題して孝行正右衛門墓と云、明和七年、庚寅、十一月、市來政公、正右衛門 か遺行を記し、石に勒して其宅地に立つ、其後に及んて、山本正誼別に橋の記を作り、更めて是を共地に立つ、事は記に具はる、其碑橋南十歩許にあり、

重建孝行橋記

本府知學事、山本正誼撰、井書、


孝行橋在  府城之東北、寶永四年、 本府市人、號日孝行正右