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五月日本の韻律

余の友人たちを呪詛する母親のこえに余は午
 前十一時の宿酔。
脳裡に様々の豪奢な悪徳の蜃気楼が咲痴れる。
「純粋の鶯」も、もう歌わなくなった五月、
雲霞があんなに惑わしく変化するのは確か
崎清一郎君の趣味だろう。
西脇順三郎君の今日の喪に
北川冬彦君・竹中郁君・萩原朔太郎君なども
 雲霞のなかからはるばる帰ってきたから、
余らの感情も新たに飛躍していよいよ詩作に
 縣る。
嗟呼!交叉する明滅する智と情の時間と空間
 の不可思議なるアラベスクよ。

瞼の裏には、いろいろな愛情の言葉が書いて
 あるのだろうか。
だから瞳をとじると昏々と湧いてくる倫理の
 泪………

まこと叡智えいちこそは常識となって
君たち世界の感情もさらに一段と飛躍するの
 だが。
それぞれの視点が流動して愛情の倫理の音数
 律、そうら見事なる哉
五月日本のホリゾントに透明の裸像を彫りあ
 げてゆくではないか。

〈昭和一〇年、ばく〉

三百年以後

昔、儂は 甘酒売りの老婆となって、
三百年、大江戸の群集のなかに棲息した。

夜更けの街の 柳の下闇などで
ひょっくりこの儂の 老婆の貌を見たものは、
流行病はやりやまいのように 三日経たぬまに黒死した。

人々の伝説に 儂は 汚濁の街の呪縛の疫神
 だった。

   ×     ×

いまも 儂は 都会の群衆のなかに棲息して
 いる。
いまはもう 儂は 甘酒売りの老婆ではない。

蓬蓬と頭髪を逆巻いて、燗々と眼光を鋭尖とが
 せて、
飢えて 血走って 儂は 搾取の街の赤き痩
 狼だ。

学者は顕微鏡を覗いて細菌たちと戯れた。
 (空間を漸次時間に換算し
政府は侵略の戦死者に名誉ある一片の勲章を
 與えた。(声明を漸次領土に換算し)

   ×     ×

やがて、街に 儂ら赤き痩狼は充満するだろ
 う。
やがて、あの幕末の安政の大獄のごとき裁断
 が頭上に下るだろう。

かくて暴風あらしは地上の万象を破壊し破壊し、
盡して
見よ!その後にきたるもの。営々と建設の黎
 明が――

その日こそ 儂は痩狼の假面を棄てて
春の街の群衆の円座に、ただひとり
しかも終焉の予言者のごとく寥然と入滅する
 のだ。

〈昭和一〇年、ばく〉