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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/93

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の標準に合ふものあるを發見せり。即ち無よりは何物も生ずべからずと云ふことの如きは亦吾人が之れを考ふるによりて明瞭に且つ判然と認めらるべきものなり。而して此の原理を一特殊の塲合に用ゐたるものとして原因は結果よりも少なき實在を有するものなる可からず、換言すれば、原因は其の完全なることに於いて結果よりも劣れるものなる可からずと云ふことを承認せざるを得ず、何となれば若し結果が原因よりも完全にして其れよりも多くの實在を有せば其の原因に優れる丈の實在は無より生じたりと見ざる可からざれば也。

《神の存在の論證。》〔六〕進みて此處に至りて後、デカルトは一層其の論步を急にしゆけり。彼れは意識(是れ即ち疑ふべからざる者)を顧みて其の中に種々の觀念あるを見たり。其の一は神(即ち無限者)てふ觀念也。今此の觀念の何處より來たれるかを尋究するに我れを以て其の如き觀念の原因となす可からず。原因の結果に對するや或は製作家が其の製作物に對するが如く前者の後者に優れるか、或は一物の形がそを印象せるものに於けるが如く全く相似たるかの關係を有す。而して我れは右の何れの意味に於いても完全無限なる者即ち神てふ觀念の原因たるを得ず、我れ