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若しデカルトの云ふ如くならば、啻だ思ふと云ふことのみならず、「我れ步む、故に我れ在り」とも云ひ得べきにあらずやてふ非難に對して彼れ自ら辯明して曰はく、是れ正當に我が論點を見得たるものにあらず、何となれば步むといふ如き動作の確實なることは吾人が意識の直接に知り得る所にあらず、此の如きは是れ硏究の當初に疑ひたる所のものなり、但し疑ふべからざるは我れの步むことにあらずして我れ步むと思ふことなり。步むといふことは縱令眞實には無しとするも我が步むと思ふ時のその思ひは疑ふべからず。思はるゝ事柄は誤れりとも、思ひ居ることは疑ふべからずと。是れデカルトの自ら說明したる論旨なり。
《眞理の標準立つ。》〔五〕此くの如く「我れ思ふ、故に我れ在り」といふことに於いて彼れは確實なる知識の第一步を得たり。彼れは尙ほこれに就きて考ふらく、「我れ思ふ、故に我れ在り」と云ふことの疑ふべからざるは畢竟それが明瞭にして且つ判然たればなり。吾人の以て眞理となすものは吾人が明瞭に且つ判然と思考したるものに外ならずと。是に於いて彼れは眞理の標準を立てゝ其の事の判明なることに在りとなせり。デカルトは此の標準に依り更に推究して我が存在の外に尙ほ同じく眞理