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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/90

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だ吾人の問ふべきは上述せる硏究法に從ひて彼れは實際吾人の明瞭に承認すべきものの外何物をも取り入れざりしか、また彼れが究理を進め行ける歷程に過誤なかりしかと云ふことなり。

《「我れ思ふ、故に我れ在り」。》〔三〕デカルトは上述せる趣意に從ひて先づ疑ひ得る限りを疑へり。以爲へらく、知覺は吾人を迷はすことあり故に知覺の示す所をも疑はざる可からず、又吾人が理性を以て思考したる事も疑訝を免れず。そは惡魔といふ如きものありて吾人を惑はさむが爲めに吾人に理性を賦與したるかも知る可からざればなりと。斯くデカルトは考へて竟に一切の事を疑へり。されど彼れの疑ひしは畢竟確實なる知識を得むことを目的としたるにて唯だ漫に疑ふがために疑へるにあらず。故に彼れは疑ひの中に更に疑ふべからざる根據を發見せむと力めたり而して彼れは遂に其の根據を疑念そのものの更に疑ふべからざる點に得たり。以爲へらく、吾人は凡べての事を疑ふを得、されど疑ふ以上は我れの疑ふといふことは疑ふべからず。而して疑ふといふことは吾人が思ふの一種なり、故にかくの如き思ひを我れが思ふと云ふことは如何にしても疑ふべからず。卽ち我れが思ふと云ふ