Page:Onishihakushizenshu04.djvu/626

提供:Wikisource
このページは校正済みです

論にして又宿命論なり。若し其の如き說を以て滿足する者あらば論理上之れを說破すべくもあらず、されど斯かる說を唱ふる人は是れ吾人に於ける最も高等なる心念及び向上心を缺如し居る者なりと云はざるべからず。是に於いてかヤコービは斯かる高等なる心念及び向上心の據處として吾人に直接に神及び其れに關する事柄を觀ずる力あることを唱へ、之れを名づけて信仰と云へり(彼れは初めには信仰を受納的のものとして之れと悟性及び理性とを相對せしめしが後には悟性と理性とを相對せしめ而して理性を信仰と同一視せり)。以爲へらく、吾人は窮まり無く論證を運ばすこと能はず、何處にか更に證明を用ゐること能はざる而して又其れ自身に必然に吾人の承認せざるべからざる感情なかるべからず、然らずば凡べての知識は其の根據を失ふべし。而して斯く吾人が其れを承認せざるべからずと感ずる是れ即ち信仰といふものにして是れは感官を以て外物を認識する所に存するが如くに亦感官以上のものなる神及び彼れに關する事柄を直觀する所にも存すと。之れを要するに、ヤコービは謂はゆる信仰哲學の一好代表者なるが其の所說は彼れ自らも言へる如く組織的に開發したるものにはあらざれ