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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/625

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て甚だ不十分なるものとなせり。盖しヤコービは知識上確實なりとは知るべからざれども唯だ吾人の道德心が之れを要求すといふのみにては未だ十分に吾人に確信を與ふるに足らずと考へたるなり。

ヤコービ自ら以爲へらく、吾人が感官上の事物を知るも、又感官以上の事物を知るも、其の知識の窮極する所は直接的のものならざるべからず。吾人は感官により直接に外物の存在を認めて疑ふことを爲さず、若し直接の知識を許さずして唯だ所依を追うて論證を用ゐることにのみ止まらば、凡べての哲學の正當の結論はスピノーザの萬有神說に歸著せざるを得ざるべしと。彼れは久しく世に忘られたるスピノーザを再び世に紹介するに與りて力ありたる者なり。尙ほ以爲へらく、若し一物の證據を其の所依に求めば終にもとより無所依なるものに達すべからず、世界以外に在りて世界の所依となる而して自らは他に其の所依を有せざる神の存在を證し得べくもあらず、唯だ世界の中に在りて其の全體が必然の關係によりて相保持さるゝことを說く外なし、即ち古來斯かる路を取りて硏究したる一切の哲學は正當にスピノーザの說に歸著すべきもの、而して其は取りも直さず唯心