Page:Onishihakushizenshu04.djvu/620

提供:Wikisource
このページは校正済みです

一元に歸せしむる所以の道遂に十分ならず。

第二にはカントが所謂物自體てふ觀念に結ばるゝ難點あり。彼れは物自體を以て唯だ界限的槪念となし吾人は現象を考ふるに於いて物自體といふ境遇をおかざるを得ず、而かも是れは唯だ吾人の思考上の事に止まり、其の思考上必須なりといふよりして其の實在を推定すること能はずと說けるが如く見ゆると共に又吾人の知識の素材となる感覺の由來を言ふ時に於いては物自體てふものの實在して吾人の感官が其れより影響を受けて感覺を起こすが如く說けり、前者は彼れが哲學の唯心論的方面にして後者は其の實在論的方面なり。さて吾人の唯だ心上の物にあらざる物自體を實在するものと見ることが彼れの知識論に於いて能く維持さるべきものなるか、若し其の實在を許容し得ずとせば知識の素材的要素なる感覺は何處より來たるべき、又若し其の實在を否まば啻だ知識の形式のみならず、其の素材も(隨うて一切諸物は皆)吾人の唯だ心上のものとなり了すべきにあらずや。要するに彼れの所說に於ける唯心論的要素と實在論的要素とは如何に處置せらるべきものなるか。是れ須らく後人の論究を待つべき點なり。