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を理想として學術の進步を圖るべきなり、但し吾人の實際經驗の範圍に在るは唯だ局部と局部との關係のみにして自然界全體にはあらず、故に其の全體を單に機械的關係に從うて說明し得べく見るは畢竟ずるに自然科學の理想たるに過ぎず。斯く見得ると共に又著眼の點を異にすれば自然界の諸物が目的によりて、即ち知慮ある主宰者によりて形づくられたるかの如くに見ることを得、此等は畢竟主觀的說明と名づけらるべきものなり。
かくの如くカントが其の『判定力批判』に於いて論ずる所は觀美的判定を言ふ所に於いても又目的上の判定を言ふ所に於いても常に全自然界の根據となりて其れに絕對的統一を與ふる感官以上の存在者あるべきことをほのめかすに終はれり。吾人はカントが斯くして其の二元論に止まることを得ずして終に一元論に進まむと力めたる跡を認むることを得。彼れの哲學は此等の點より見るも首尾貫徹したる一の完き組織を成せるものとは言ふべからざれども其の中には吾人を敎ふるに足る多くの思想を含み其の失敗若しくは矛盾の點すら猶ほ深き意味を吾人に知らしむる價値あり。要するに、彼れの哲學は兎も角も近世の歐洲哲學に於