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其の統一をして吾人の認識力に合ふ樣にしたるかの如くに思ふにあり。

目的に合ふといふことに二種あり、主觀的と客觀的と是れなり。目的に合ふことの主觀的なるは一事物が吾人自らの了解力に適合したるを云ひ目的に合ふことの客觀的なるは一事物が其の物の職分又は本性にかなへるをいふ。斯く一事物が客觀的に目的にかなへるを見るは目的上の判定teleologisches Urteil)、主觀的に目的にかなへるを見るは觀美上の判定aesthetisches Urteil)なり、而して此の二つの題目はカントの第三批判(即ち判定力)の問題となるものなり。

斯くの如く判定力によりて一事物の目的に合ひたることを知覺するや常に快感の伴ふなり。而してカントの心理說に從へば快不快の感情は智識力と意志力との中間に立つものなり、即ち心理上より云へば恰も情が知と意との中間に立つが如く彼れが哲學の組織より云へば判定力が悟性と理性との中間に位するものなり。

《カントの美論は主觀説、又形式説なり。美の快感と感官上の快感との別。》〔四三〕觀美的判定は客觀界なる事物の性質を表示するものに非ずして唯だ一物が吾人の想像力と悟性とを其の相和するやうに働かしむる所に下さるゝ判