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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/582

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獨り善意のみは如何なる塲合に在りても夜光の珠の如く光を放つ、其の尊むべき所以は先天的に其れ自身の性質に於いて發見せらるゝなり。然らば善意とは何ぞや、曰はく善意は道德の法則に從ふ意志なり。然らば茲に問ふべきは謂ふ所道德の法則の何たるかなり。

《カントの謂はゆる道德法、其の三角式。》〔三三〕カントは意志以外の事柄を一切(遍通的道德法を立つるに堪へざるものとして)却けたるを以て意志の法則即ち道德法の內容を得るに當たり之れを吾人の意志する種々の事柄に求むること能はず、之れを求むべきところ唯だ意志活動の形式あるのみ、而して其の形式は何ぞやと問へば意志が法則に從ひて働くといふことの外に出でず、一言に云へば、カントに取りては法則てふ觀念の外に意志活動の形式となり得べきものなし。而して凡そ法則の法則たる所は其れが遍通に行はれて何人にも遵奉せらるといふ一事に外ならざれば法則的といふことは畢竟ずれば遍通的といふこととなる、此の故にカントが吾人の意志の法則として揭げ得べきは各人の則る所が遍通的法則たるべき樣に行へといふことにつづまらざる可からず。此の意を言ひ表はしたるもの是れカントの謂はゆる道德法なり。