コンテンツにスキップ

Page:Onishihakushizenshu04.djvu/575

提供:Wikisource
このページは校正済みです

はざること猶ほ一器物に就いて其を製造したる者ありといふも其の器物を成す物質を作れるものと云ふ意味にてはしかいふこと能はざるが如し。此の故にし人爲の製作物に準へて宇宙を視る論法を正當なりとすとも其は唯だ萬物に秩序を與へたる者の存在を證するのみにて造物者の存在を證するものに非ず。故に造物者の存在を證明せむとせば世界論上の論證に立ち返らざるべからず、而して世界論上の論證も實體學上の論證も共に根據を有せずと見れば從來の純理哲學に於ける神の存在の證據論は到底皆無効なるものと云はざるべからず。

《理性の觀念は無効なれども思考上に便利あり。》〔二九〕此くの如くにしてカントは現象界を超越せむとする形而上學を打破し去れりと考へたり。斯く超越的に吾人の悟性の槪念を用ゐることの正當ならぬことは以上論じたるが如く純理哲學としての心理學、世界論及び神學に於ける立論の誤謬に陷れることを以ても知り得べく、特に世界論に於ける理性の矛盾はよく其の如き槪念の超越的使用の正當ならざることを示すに足るものなり。

然れども理性の觀念を用ゐるといふことが(上にも已に云へる如く)全く不自然なることにはあらず、吾人が事物を考ふる上に於いては其の如き觀念を用ゐること