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をも想ひ浮かぶること能はざるべし。而して此の再現に於いて又綜合作用あり、次ぎに斯く想像の上に再現したるものを認めて是れは彼れなり(例へば今見る是れは即ち曾て見たる花といふものなり)とすること(即ち一槪念に引き合はし是れは彼れなりと再認識する綜合作用加はりて茲に始めて知識を完成せるなり。〈『純粋理性批判』の第二版に於いてはカントは今謂ふ再現の綜合及び再認識の綜合を以て知識論上は言ふ必要なきものとして遺却せり。〉
右いふ統一作用によりて茲に始めて經驗上の判定を成す。カントは此の彼れが謂はゆる經驗上の判定(Erfahrungsurteil)と知覺上の判定(Wahrnehmungsurteil)と名づくるものとを區別せり。以爲へらく、統一作用が唯だ感官上の知覺に止まり居る判定は單に時空に於ける共在及び前後を云ふに外ならず、而して其れが空間に共在し時間に前後すといふ事は遍通的のものとして先天的に斷定し得れども其の前後し共在する事柄の間に必然の關係ありといふことは斷じ得べからず、之れを例すれば、知覺上の判定に止まり居る間は日が照りたり次ぎに蠟が融けたりといふ前後したる事實を言ひ表はし得るに過ぎずして日の照ることが(因となりて)蠟を融か(すといふ果を生)したりといふ判定には進むこと能はず、即ち眞に因果の關係を其