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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/526

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〈テレースの用語例に從へば、已に認定されたる原因より推理して得るものの謂ひなり、其の a posteriori といふは結果より推知したるものの謂ひなり。其の後此の兩語は槪ね斯かる意味に用ゐられて近世に至れり。ライブニッツも亦猶ほ此の用法を繼承したりしがヺルフに至りては a priori を以て吾人の推理力即ち論理的作用を以て他の已に知られ居る知識より論じたるものとせり、即ちアリストテレースの云へる所を改めて單に論理上の關係となし、又 a posteriori といふ語をば從うて唯だ吾人の感官を以て知覺したるものにのみ用ゐたり。次いでバウムガルテン亦此のヺルフの用法に由りたりしが、カントは更に之れを改めて a priori は吾人の經驗によらず、吾人の心性に本具して其の効力の經驗によらずして確賈なるものを云ひ、a posteriori は經驗より來たりて其の効力は單に經驗に依るものをいふこととせり。かくの如く此の兩語の用法が彼れの知識論に於いて新義を附せらるゝこととなりて以後は此の新意義に用ゐらるゝが通常となるに至れり。〉ロックは單に經驗によりて吾人に與へられたるものを以て出立して吾人の心性に生得なる觀念の存在を許さざりき、即ちロックは知識の要素の一方にのみ其の淵源を求めむとしたる者也。但しロックの所說には實際は唯だ經驗によりて來たる觀念の外に知解力其の物の活動を說けるものあり、されど彼れが經驗說の立場よりの自然の結果として後にヒュームに至りては此の知解力と名づくる作用の抛棄せらるゝに至れり。ライブニッツはロックに反して吾人の知識を說くに可能的に吾人に具はれるものを以てし、本來吾人に具はれるものの外に吾人の知識となるものなしと云へり。カントは此の兩者の間に(寧ろ其の上に)立ちてこゝに一新見地を闢き出だせり。以爲へらく、經驗によりて與へらるゝものは唯だ知識の材となる感覺の外ならず、しかも吾人の知識は感覺のみを以て成ること能はず別に之れに形式を與へ之れを