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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/520

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の自ら言へる如く其の第一版に論ぜむと欲したる所の趣意を更によく言ひ現はしたるものなるか、彼れが批評哲學の眞意を見むには第二版を以て優れりとすべきか將た第一版を以て優れりとすべきかといふことに就きてはカントを硏究する者の間に少なからざる議論あり。ハルテンシュタイン(Hartenstein)及びユィーベルエッヒ(Ueberweg)等はカントの自ら言へる所を善しとして其の第二版を取り、ローゼンクランツ(Rosenkranz)ミシェレー(Michelet)及びショペンハウェル等は第一版を優れりとし、其の第二版に於いて改めたる所は却つてカントが批評哲學の趣意を害ふに至れるものなりとせり。但しショペンハウェルが云へる如く、カントが世評を恐れて意氣地なくも其が前說を變更せりと云はむは其の實情を得たるものにはあらざらむが、兎に角カントが『純粹理性批判』の第二版に於いては彼れが其の第一版に於いて寧ろ十分明瞭に言ひ出だし居らざる實在論的方面の方に重きを置けり。而して此の實在論上の方面が第一版に於いては決して全く說かれざるにあらざれども其が他の方面の爲め壓せられたるが如き趣あること明らかなり、即ちカントは彼れが哲學に實在論的方面の存在することによりて世人の誤解