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獻する所ありしものは「三十年戰爭」以來敎義上の爭ひに飽き他に精神上眞正の宗敎的生活を求めむとしたる需要に應じて起こりハルレ市を中心として廣く勢力を及ぼしたるピエティストの運動是れなり。此の運動はライブニッツと相知り相敬したるスペーネル(Spener 一六三五―一七〇五)によりて創始せられ次ぎにフランケ(Francke 一六六三―一七二七)の組織的才能によりて勢ひある運動となりしものにして其の趣意とせる所は敎會が其の敎權を以て敎ふる敎義に重きを置かずして專ら各自の直接に意識する敬神の念と其を發表する實行とを貴べることに在り。是を以て此の派は其の敎會的ならぬ點に於いておのづから啓蒙的思潮の宗敎上の方面に於けるものに左袒することとなれり。之れを要するに、獨逸に於ける啓蒙的思潮の傾向は其の哲學思想をも成るべく通俗ならしめむと力め、佛國に於けるが如く極端なる論理的結論に走ることを爲さざりしかども、其は猶ほ當時の社會に於ける諸方面に亘りて一代を葢ふ大潮流となれるなり。

《獨逸の啓蒙的思潮の先驅者クリスチアン、トマジウス。》〔四〕獨逸に於いて上に述べたる啓蒙的思潮の先驅者となりしはライブニッツと略〻其の時代を同じうし獨逸語もて始めて學術的雜誌を發行し且つハルレ及