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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/465

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かく彼れは世界の構造を以て神の存在を證し得と考へたれども彼れが信仰の眞實の理由は其の心情の求めに在りき。以爲へらく、如何にして吾人の意志は自由なるか、如何にして此の世界が神に形づくられたるか、又如何にして精神が物質に働くかといふが如きことは到底了解す可からざることなりとするも猶ほ其等の事の正確なる事實たることは我が感情によりて確めらると。彼れは其の著『エミル』の中に於いて其の自說を吐露せしめたりと思はるゝサヺアの牧師をして言はしめて曰はく、「予は哲學上論究することを爲さずして唯だ我が心情に感ずる所を描く、聞くものに向かひても亦其を自ら己が心情に實驗せむことを求む」と。彼れは眞情によりて感ずと云ひ、彼の蘇國學派は直識すと云へり。

ルソーの見る所に從へば、物質は神の活動に制限を與ふるものにして神は物質を造れるものに非ず、故に物質は創造せられたるにあらずして唯だ神が之れを取りて之れに與ふるに秩序を以てし之れを形づくり之れを支配するのみなり。彼れは此の世に於ける凡べてのものが善美なるの故を以て神を信じたりといはむよりも寧ろ神を信ずるがゆゑに此の世界に於ける凡べての事物を善なりと認めた