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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/433

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ち啓蒙時代に於ける一の特殊なる信仰なきといふも不可なく此の信仰によりて當時種々の光彩ある運動は喚起せられき。

エルヹシユスが政治上の改良を主張するや其の言論に一種の光彩ありき。以爲へらく、道德の腐敗は個人の非行に存するよりも寧ろ社會一般の利益と個人の利益との相分離することに存す、謂はゆる道義學者等が社會一般の壓制と虐待とを排擊することを爲さずして專ら個人の私行に於ける不德を責むるは是れ寧ろ僞善といふべきものなり。道德、立法、敎育の三者は各自異別のものに非ずして皆同一の目的に向かへるもの、此等は畢竟唯だ社會一般の利益と各人の利益とを相合せしむる所以の道に外ならず。個人を善くすると共に社會をも善くする途は唯だ兩者の利益を相合せしむるに在り、品性の高尙なることと利益の觀念とは決して相離れたるものにあらず、志操の高き人とは唯だ社會一般を益する事柄と自己の利益とする事柄との相離れざる底の人物をいふのみ。

エルヹシユスはかくの如く大膽に利益生義の道德說を主張したりしが彼れは專ら其の眼を倫理の上にのみ注ぎたるにて唯物論を唱へたるにもあらねばまた神