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吾人は是非の別を認むべき者なること、吾人は我が力に存するものに對してのみ責任を有すること、又吾人は自己が他よりせられむと願ふ如くに他に對しても爲すべき者なりといふが如き何人も承認すべき道德上の原理ありて而して此等の原理に基づきて常人と雖も亦よく其の行爲の褒貶を爲し得るなり。
《常識哲學者の所謂自明の眞理、常識哲學の隆盛は當時の學者の硏究心の倦み疲れたることを証す。》〔五〕リード等の率ゐたる常識哲學がヒュームに對して取れる位置は恰も先きにケムブリッヂ學派がホッブスに對せると相似たるものあり。但しケムブリッヂ學派がホッブスに反對して其の所謂永遠の眞理を說かむと力めたるとは異なりて常識學派は何處までも經驗を以て其の根據となしたりき。斯くの如く常識哲學者等は經驗主義を維持せむと志せる所より精細に吾人の心作用を觀察叙述することに力めたり、而して在來學者の注意を惹かざりし吾人の心的現象を說き出だし富膽なる心的生活の觀察を爲せる點に於いて此の學派の功績は決して輕んずべきものにあらず。而して此の學派が吾人の心作用を硏究するや專ら自觀(又は自省 introspection)によりて、生理の方面を揷入することを避けたり、故に此の學派に於いては哲學硏究は自觀によりてする(恰も物理的科學が外物の觀察によ