Page:Onishihakushizenshu04.djvu/403

提供:Wikisource
このページは校正済みです

即ち判定を組織する要素は唯だ後に吾人が分析を用ゐて假りに分かち出だすに過ぎざるものなり。此等吾人の心の成り立ちに具はりて原始より存在する諸〻の判定の總體是れ即ち常識と名づくるものにしてこれらの判定即ち原理は特に吾人の構設することを要するものにあらず又說明するを要するものにもあらずして唯〻發見すべきものなり。又此等は必ずしも皆一最高原理に歸入せしめ了すべきものにもあらず、しかせむとするは是れ却つて事實を餘りに單一なるものと爲す嫌ひあり。

《吾人の良識に具はれる原理。事實上、道理上及び行爲上の原理。》〔四〕然らば如何なる原理が吾人の常識に具はり居るか。先づ究理の方面に屬するものを言はむに、吾人が事物を感覺するや其の感覺は每に其の對境即ち外物を在りとする信仰を自然に思ひ起こさしむ、但し其の外物を其の感覺の原因として知らしむるにはあらずして唯だおのづから其の感覺につけて思ひ起こさしむるなり(by natural suggestion)。斯くの如く吾人は感覺を意識する時に於いて必ず外物の存在を信ずると共にまた其の感覺を有する我れの存在を信ず、これは凡べて吾人の直覺する所にして推理作用に待つ所あらず。又感覺及び記憶と想像と