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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/391

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ずして其の他に均しく窮極的なる若干の道德上の原理ありと。彼れに取りては正しといひ、爲すに適すといひ、又爲すべき事といふは凡べて同意義のものにして而して此等は其が若干の窮極的判定に於いて直覺さるべきものとせられたりき。而してかく窮極的のものとして直覺さるべき道德的觀念の如何なるものなるかを示すや彼れは主として常識に訴へたり。また彼れは道德上眞實に正しと云はるべき行爲は利己的動機より發すべきものにあらざることを固く主張せり。

《直覺說と功利說との論爭の點、アブラハム、タッカー及びペーレーの道德說。》〔一〇〕直覺說と功利說との論爭の點を總括すれば、第一行爲の善惡正邪の標準に關すると、第二吾人をして德行を爲さしむる所以のものに關するとの二點に歸す。功利論者は德行の標準は一に社會一般の幸福を來たすといふことに在りとし而して吾人をして其の德行を爲さしむる所以のもの(sanction)は各個人の利益なりと唱へ、直覺論者は之れに反對して德行の標準には唯だ一般の幸福を來たすといふことの外に尙ほ等しく窮極的のものにして各〻直覺さるべき原則ありと云ひ、而して德行に於いて吾人を動かすものは其の事が正しといふ觀念にして其が自己に利益を與ふといふ觀念にあらずと唱へたり。功利說の論旨はアブラハム、タ