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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/330

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斯くの如く自然界に於ける現象の生起に關しては畢竟ずるに吾人は信念を有するに止まるものなれども、ヒュームは此の信念を以て吾人が實際世に處する上の需要に取りては十分のものなりと考へ、吾人は實際上不都合なき程に確實なるものとして自然界の法則に依賴し得べしとなせり。ヒュームは純理哲學上印象以外に吾人の知識を擴め得ることを否み、又本體及び因果といふ觀念をも只だ主觀的習慣に基ゐするものとして其が純理哲學上の價値を否み、自然界の法則に就きても吾人の知る所は畢竟信念にして確實なる知識に非ずと云へる所より、通常彼れの說を名づけて懷疑說と云ひ來たれり。然れどもヒュームの懷疑說は本より直接の印象と、彼れが其れと離れざるものと見たる印象の異同の關係及び其が時空に於ける隣接の關係に對しては些少の疑ひをも挾まず、數學に於いて言ふが如き觀念相互の關係に就きても亦もとより疑ふことをせず、且つ吾人が自然界に就きて有する信念も實際生活に必要なるほどは確實なるものといふことをも否まず。盖し彼れの學說の趣意は吾人が直接に印象として經驗することが知識の唯一の淵源にして其れより遠ざかるに從ひて事實を知る上の知識としては益〻確實なら