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體即ち我といふ觀念の上にも用ゐ來たれり。以爲へらく、我と云ひ心體と稱して常に心の種々の觀念の基本となり其を統一して存在する一物あるかの如くに思ふは外物に於いて其が種々の性質を統合する基本あるが如く想像すると少しも異なることなし、外物と名づくるものに於ける本體が印象に於いて其の內容を示し得ざるが如く、心の本體も亦印象に於いて其の內容を示すこと能はざるものなり。我と云ひ心體といふも畢竟ずるに種々の觀念の常に相結合せることの結果として吾人の想像したるものに外ならず。

吾人の意識すると意識せざるとにかゝはらず外物の不斷絕に存在するが如く思ふも畢竟一種の信念にして其の信念は聯想の結果として吾人の想像に結び來たれるものに外ならず。例へば今眼を開けば机が印象の强さを以て活きと吾人に知覺され、又しばらくして眼を開けば同じ强さを以て知覺さる、而してかゝる事の幾たびも繰り回さるゝ所より吾人の眼のあたり知覺せざる時に於いても其の物を想像して其の想像に印象の活きとしたる感情的狀態即ち信念が伴ひ來たるなり。斯く外物と名づくるものも又我が心と名づくるものも畢竟ずるに