コンテンツにスキップ

Page:Onishihakushizenshu04.djvu/318

提供:Wikisource
このページは校正済みです

然らば吾人は何によりて其の如きものを思ふに至れるか、曰はく是れただ印象の結合するによりて生じ來たれるのみ。例へば茲に一の机を見むに其の色、形及び其の他吾人の机に對して得る印象の內容として吾人の心に知覺するものは凡べて空間に共在す、故に聯想律に從ひて其の一を思へばおのづから他を思ふに至る、而して其等印象に於ける內容の共在し居ることが屢〻吾人に知覺さるゝほど其等の聯結はいよ强くなりて其の一を思へば他を思はざるを得ざるに至る、而して遂にかゝる主觀的感情を其の物に移して其處に本體の存在するが如くに思ふに至るなり。尙ほ語を換へて云へば、兹に一の机を見るに當たりて吾人の有する種々の印象の內容があるのみならず其等を一つに結合せしめて維持する本體あるが如くに考ふるは吾人の心に主觀的に生じたる觀念の結合を其の物に移して考ふるがゆゑのみ、約言すれば、吾人は其の印象の內容の一を思へば他を思はざるを得ざる主觀的傾向を生ずるがゆゑに之れを机に移して机其の物にも其等を結合する或一本體の存在するが如くに想像するのみ。

ヒュームは本體てふ觀念の批評をば唯だ物體の上に用ゐたるに止まらずして心