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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/249

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を奈何にせむ。又或は辯じて曰はむ、其等の觀念の小兒及び無敎育者等に存せざるが如くなるは是れ唯だ彼等の心の未だ其れらの觀念を思ひ浮かぶるまでに發達せざればなり、野蠻人と雖も若し其の知力を充分に用ゐ得るまでに進步せば必ず其等の觀念を思ひ浮かべ來たるべきなりと。されど若し吾人の知力が進步したる時に及びて始めて思ひ浮かべ得る觀念を以て生得のものとなさば、如何なる觀念と雖も亦それと均しく生得のものなりと云はるべし。何となれば其等の觀念を思ひ浮かぶるに適當なる準備を其の心に具へたらむには其の觀念の何たるを問はず何人も之れを思ひ浮かべ來たることを得べければなり。故に尙ほ生得觀念の存在を主張せむと欲する者は唯だ吾人が其の觀念を意識せずして心に有せるなりと云ふより外に取るべき遁路なし。されど我が心に有しながら其の觀念を意識せずといふことのあるべき理なし、我が意識せざる觀念の吾が心に存すといふは其の何の意義たるを解すべからず、そは心に在りといふことは心に識るといふことに外ならざればなり。かくの如く論結してロックは終に吾人には全く生得の觀念てふものなしと斷じ、デカルトの哲學に於いて重要なる地位を占