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爾來交情益〻親密となり後に侯が家に師傅及び侍醫として招かれ又侯のためには常に或は書記、或は顧問として助力を與へたり。一千六百六十八年にはノルソムバーランド候に伴はれて佛蘭西及び伊太利に旅行せり。彼れは政治上に於いても宗敎上に於けるが如く自由主義を懷き盛んにホイッグ黨の政論を主張し後にシャフツベリー侯の政府に立つや彼れまた登用せられたりしが一千六百七十三年侯其の位地を失ひロック亦從ひて其の官を失へり。一千六百七十五年療養のため佛蘭西に行き、一千七百七十九年シャフツベリー侯再び朝に立つや彼れ亦召されて歸りしが侯久しからずして貶せられ一千六百八十三年には自ら身を以て英國を逃れざるを得ざることとなりしかばロック亦後を追うて和蘭に行き、其處に滯在せる間著作を事とし又當時の名士と交はることを得たりしが、又時には本國よりの嫌疑のために名を變へて潛伏せざるを得ざりしこともありき。一千六百八十八年オレンジ侯ヰルリアム英國の王位に即き翌年ロック英國に歸り、爾後重く王に用ゐられて當時の政策及び英國立憲政治の基礎を固くすることに與りて大に力ありき。