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ピノ一ザに勸むるに其の著『エティカ』をライブニッツに示さむことを以てしたりしが、スピノーザは尙ほ早しとて肯ぜざりき。後にライブニッツ旅行して和蘭を過ぎれる時スピノーザを訪うて懇談せることあり、遂に請うて『エティカ』を示さるゝを得たり。ライブニッツがスピノーザに對する關係の決して疎ならざりしは彼れが多くの書翰をスピノーザに送れるを以ても明らかなり。巴里府に滯在したりし時のことなり、一千六百七十六年に彼れは有名なるフルクシオンの發明を爲したり、是れはニュートンの創剏したる微分法と其の趣を同じうせるものにて互に獨立に發見せるものとして後世に傅へらる。千六百七十七年以後ライブニッツはハンノーフェルの宮廷に仕へて宮中顧問となり、又其の圖書舘を監督せりしが、ハンノーフェル公の女、ブランデンブルグ公即ち後の最初の普漏士王に嫁ぎてより、彼れは屢〻ベルリンに行けり。ハンノーフェル家の歷史の編纂を委囑せられ文藝穿鑿のため維納及び以太利に行き其處の宮廷に親密となる便を得、又歸りて後一千六百九十一年にはヺルフェンビュッテル公の圓書舘の監督を委託せられたり。ハンノーフェル公エルンスト、アウグストの歿後はライブニッツが普漏